シェルノワルを、夜の帳が包む。固く閉ざされた黒真珠貝を、むりやりこじ開けてえぐり出したような、濡れたブラックパールの艶めく闇夜。 ある客船で、仮面舞踏会が開催されていた。シャンデリアが徒花のごとく瞬き、銀の燭台がゆらめく。流れるワルツ。さまざまな扮装で人々は踊り興じる。 今宵の主催者は、客船の所有者、バーソロミュー・モーガンである。シェルノワルでは名の知れた、有力な元海賊だ。広い肩幅、引き締まった体躯、陽に焼け過ぎて灰褐色になった髪と顎髭、ふるびた大理石の彫像のような顔立ちは、ある種の女たちのこころをとらえ、彼と一夜の恋をしたがる女はあとを絶たない。 しかし、彼はいっぷう変わった男としても名を馳せている。現役時代から初老の域の現在にいたるまで、女性という女性をいっさい寄せつけてこなかったのだ。当然ながら妻というものもおらず、独身をとおしている。 バーソロミューの容姿と裕福さに惹かれた美女たちが、寝台にもぐりこもうとしては叩きだされた、とか、もしや美しい青年や少年を好む性癖では、などと勘ぐったものたちが違う手段を試みてみたが、やはり無理だった、とか、そういった逸話には事欠かぬ。 そんな彼にも、執着の対象はあった。それは生きた人間などではなかった。 ――美術品である。 バーソロミューは、いわれのある美術品の収集家としても、名を馳せていた。 それも、忌まわしい――、血塗られた――、呪われた――、そういった形容を冠する美術品をこそ、好むのだった。 彼の最近のお気に入りは、白大理石製と思われる、剣を持った人魚の像だという。 サイレスタの好事家から購入したというが、作者や年代はおろか、その由来さえよくわからない。 ただ、その好事家の弁によれば、「この人魚像の所有者は次々に変死を遂げる」「前の所有者も、その前の所有者も、像を所有していられたのは、わずかな間だった」らしい。 素晴らしい芸術品であることは間違いない。 白大理石を刻んだだけに見えるのに、つまり、彩色は施されていないのにもかかわらず、モデルとなったであろう少女の、さらさらとしなやかな黒髪、さびしげに翳るひとみ、すべらかな肌の弾力、小ぶりの乳房のやわらかさ、かすかに甘い髪のにおいまでもが伝わってくる、と、人々は口々に言う。 とはいえ、人魚像を見たことがあるものは、ほんのひとにぎりだった。 なんとなればバーソロミューは、収集品を見せびらかすことが大好きな男にしては非常に異例なことに、この人魚像を公開はせず、船室内の自室に、カーテンを閉め切ったまま設置していたからである。 誰かが、ぽつりと言った。 あの人魚こそ、バーソロミューが寝台に引き入れた、最初の女だと。 バーソロミューは魔性の人魚に、魅入られているのだと。 ほら、今も。 仮面舞踏会のさなか、バーソロミューは自室へ向かうではないか。 マスクの下に、素性と欲望と後ろ暗い秘密を抱えて集う客たちが、一夜の夢をもとめて踊り明かす輪から、そっと抜け出して。 † † † 長身の男がふたり、壁の花になっている。 艶かしい女たちがワルツに誘っても、失礼にならない程度に受け流しながら。 顔半分を覆うハーフマスクは、片方の男は艶消しのパールホワイトを、もう片方はブラックシルバーのものをつけていた。舞踏会にふさわしい古典的な衣装を覆うそれぞれのマントは、紅天鵞絨と黒天鵞絨。 ――並び立つ、赤と黒の、ファントム・オブ・ジ・オペラ。 このささやかな趣向に気づくものはいなかったが、その素晴らしい仕立ては人々の目を惹き、おそらくはお忍びの貴族であろうと囁き交わす。 ムジカ・アンジェロと由良久秀は、バーソロミューの動きだけを目で追っている。 彼らの目的は、舞踏会そのものではなく、ここで起きるはずの「何か」であったので。(……あれは) そして彼らは、仮装もせずに素顔をさらした赤毛の魔女が、バーソロミューの部屋へ向かう姿を目撃する。 † † † 話は少し、遡る。 ターミナル中に、チョコの匂いがたちこめ、甘いやりとりがそこここで展開され始めていた時期のこと。 壱番世界のバレンタインはもう少し先なのだが、イベントを先取りするロストナンバーも多かったのだ。思えばいつ何どき、どんな事件が起きて、誰の命が危険になるかもわからない。だから渡せるときに渡さなければ、という気持ちになるのかもしれない。 だがそれは、由良には無関係な話だ。辟易し、図書館ホールに避難したのだが。「いたいたー! ゆーらーさーーん!」 たたたっと無名の司書が走ってきた。右手にハート型のチョコをふたつ抱えている。 なんとなく嫌な予感がしてさっと避けたら、勢いあまって壁にぶつかった。本人は鼻の頭をすりむいたが、チョコは無事のようである。「それなりに愛してます! あたしのチョコ、受け取ってくださいっ!」 チョコには大きく「義理★」と書かれていた。ついでに小文字で「ホワイトデーの三倍返し、期待してます♪」とも。「……断る」「クリパレ製だから、味は保証つきですよ?」「いらん」「むぅー。いいもんねー。ムジカさんから渡してもらうもんねー。ところでムジカさんはどこですか?」「しらん」「え!? え??? えええええっ???? ムジカさんの居場所を由良さんが知らないなんてそんなありえない!」 司書は大げさに驚いた。「どうしたんですか何があったんですか喧嘩ですか? おふたりは素敵バディとして常に一緒に行動してるんじゃないんですか?」「……違う」「あ、そだ」 一計を案じたらしき無名の司書は、片手を拡声器のように口に当てた。「ムジカ・アンジェロに告ぐ。ムジカ・アンジェロに告ぐ。由良久秀をこれ以上弄ばれたくなければ、すみやかに図書館ホールに出頭し、無名の司書のチョコレートを受領せよ」 ちらりと、珊瑚色の髪の長身が、入口付近に見えた。「あ、ムジカさんみっけ」 が、彼は事情を把握するなり、すぐにきびすを返し、何ごともなかったように大股で遠ざかっていく。「ちょーーー!? 由良さんを見捨てるんですかぁぁー?」 無名の司書は大急ぎで追いかけながら、【ムジカさん攻略用メモ:その13】と黒マジックで書かれた手帳を広げる。「こんなときは……と、そうだ、あたしと契約しません?」「――契約か。面白そうだね」 ようやくムジカは立ち止まった。この司書にしては珍しい言いように、興味を惹かれたらしい。「はい。あたしのチョコをおふたりが受け取ってくれたら、導きの書に浮かんだ、とっておきの案件をお教えしますよ? ここにブルーインブルー行きのチケットが2枚、あります」 シェルノワルで行われる、バーソロミュー・モーガン主催の仮面舞踏会に参加してください。 衣装についてはご心配なく。リリイさんに発注した渾身の逸品がここに! その夜、「何か」が、起きます。 ……もしかしたら、意外な女性に、会えるかもしれません。 † † † 舞踏会のさなか、絶叫は、響いた。 駆けつけたものたちは、血まみれのバーソロミューを発見する。 彼は、自室で、人魚像が斜めに掲げ持つ細剣に倒れ込み、 胸を突き刺され、死んでいた。 まるで人魚に抱き締められるように。 † † †「魔女だ」「赤毛の魔女のしわざだ」「俺は見たぞ。あの女が『人魚像を拝見したいわ』と燭台を手に、船主の部屋へ行ったのを」「私も見たわ」「フランチェスカだけだ。船主の部屋に行ったのは」「部屋から出て来たのも、彼女だけよ」 人々は異口同音に、ただひとりの容疑者の名を叫ぶ。 フランチェスカは、いつの間にか、赤と黒のファントムの間に立っていた。 逃げるでもなく焦るでもなく、妖艶に微笑む。 「そんなに大声を出さなくても、聞こえているわ。……拘束はしないでね? この足で《海賊法廷》へ臨む準備はできているのだから」 せめて弁護人は、私に選ばせて。 このふたりを指名したいの。 目を焼くほどに赤い血のいろをしたその髪を、フランチェスカは掻きあげた。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>ムジカ・アンジェロ(cfbd6806)由良久秀(cfvw5302)=========
†† ファントムは謎と踊る (弁護人だと……? 馬鹿馬鹿しい) (《海賊法廷》に海賊以外のものが関与するなど、聞いたこともない) フランチェスカの申し出に、ひとびとは一斉にざわめいた。 ――突如。 「赤と黒のふたり連れよ。何者だ、おまえたちは」 戦場で指揮を取る将軍特有の、殺気を帯びた低音が響き渡った。騒ぎ立てていたひとびとは、水を打ったように静まり、ふたつに分かれて道を開ける。 ブルーインブルー産の貴重な花梨材が敷かれた床板を、重々しく打ち据えて歩みよってくる鋼鉄の蹄。 そう、その男は、腰から下を鉄の馬と化していたのだ。狷介な面差しに刻まれた深い皺。鋭利な視線を放つ藍の眸は、その片方が義眼。 かつて、ジェロームポリスにて《刃金のケンタウロス》と呼ばれていた鋼鉄将軍、アスラ・アムリタだった。彼もまたフランチェスカ同様に、仮装などはしていない。にも関わらず、幻獣めいたその姿は、不思議に仮面舞踏会にふさわしかった。 「ごきげんよう、アスラ卿。血の香漂う、よい夜ですこと」 フランチェスカが、スカートの裾を優雅につまみあげる。 「先だってからの、ネヴィル卿の熱心なご推薦をようやく受諾なさり、《海賊法廷》の13名の判事のひとりにご就任されたそうですわね。お祝いが遅れ、失礼いたしました」 「……魔女が。おまえごときに祝われる筋合いなどない」 苦々しげにアスラは吐き捨てる。《海賊法》にもとづいてジェロームは反逆者とみなされた。しかしそれは、フランチェスカの画策によるものであったことを、武人でありながら情報収集力に長けていたアスラは知っているらしかった。 「舞踏会にいらっしゃるなんて、お珍しい。どなたかと踊られまして?」 「遊びにきたわけではない。このような場は素性の知れぬものが暗躍しやすいゆえに」 じろりと、アスラは、ムジカと由良をねめつける。 「ジェロームポリスばかりか、黒真珠の砦までも、ジャンクヘブンの傭兵どもに踏みにじられてはかなわぬ」 暗に、おまえたちの正体くらいわかっているぞ、と、匂わせながらも、それ以上は言わないのが、いかにも武と義の将らしい。だからこそネヴィル卿も、反逆者の配下にして惨敗した鋼鉄将軍という汚名を負った彼を、しかしその潔癖な気性を惜しみ、判事に抜擢したのだろう。 「初めまして、アスラ卿。お目にかかれて光栄です。我々は、顔も判らぬ幻影――ファントムと思し召しください」 ムジカ・アンジェロを象徴する珊瑚いろの髪は、ふだんよりも濃い紅に染められていた。フランチェスカの赤毛と似通ったビジョン・ブラッド――最高級のルビーの赤に。 そして、彼の衣装は黒。パールホワイトのハーフマスクに手を添えて、ゆっくりとアスラに一礼する。黒天鵞絨のマントが、静かに波を打った。 「今宵は仮面舞踏会にございます。魔女の操る、取るに足らぬ影なれば、素顔を見せぬのも趣向のひとつ」 「名を聞こうぞ」 「名前もまた無意味。ですが、強いていうならルージュ(紅)と」 「………………ノアール(黒)だ」 うっそりと黙り込んでいた由良は、ようよう、重い口を開いた。ムジカ考案のこの偽名を名乗るのが面映く、嫌で嫌で仕方ないのだ。ムジカがこの状況を楽しんでいるらしいのも癪にさわる。 由良は赤の衣装を身につけていた。良く似合っている、これは写真を残しておきたいね、カメラマンじゃないのが非常に残念だ、と、からかわれたのもまた憂鬱であった。 「黒の男がルージュで、赤の男がノアールか。よかろう。戯れごとにしては気が利いている」 「弁護人としての出廷を、承認いただけますか?」 「それは我が決めることではない。しかし、おそらく、法廷長官たるネヴィル卿は拒みはせぬだろうな。なにしろ」 アスラは、厳しい目でフランチェスカを見た。 「ネヴィル卿は、この魔女に甘い」 海賊法廷は、13人の判事と、法廷長官ネヴィル卿によって構成されるのだと、アスラは言う。 海賊をなりわいとするものにとって、海賊法廷の権威と審判は絶大だ。いわば"大法廷"の様相を持っているのだが、それは、堅実な社会を維持せんがための市井の民に馴染み深い「法廷」とは大きく異なる。 「奪う」相手がいなければ、海賊は成り立たない。それゆえに――そこで運用されているのは、独自の《海賊法》となる。 かつて、海賊王グランアズーロが、《四天王》と呼ばれた配下のひとりに裏切られ、命を落とし、その後、ブルーインブルーが、群雄割拠とは名ばかりの、有象無象の横暴な海賊たちが残酷な略奪と背反を行う無法地帯に成り下がったとき。 それを憂いたネヴェル卿が、有志を募って《海賊法》を定め、自らが法廷長官として最高責任者の任についたのだった。 海賊の手による法廷は、13人の判事の《合議》だけではなされない。 最終的な判決は、ただひとり、ネヴィル卿により下されるのだ。 「では」 仮面の奥から、ムジカが問う。 「関係者への事情聴取と、現場の検証をお許しいただきたいのですが」 「無論。居合わせたものとして、我も立ち会うとしよう」 「何?」 由良が、ぴくりと眉を上げる。もっとも、その表情は黒銀の仮面に阻まれていたけれども。 「我は最初からこの場に居た」 「……本当か? どこにも見えなかったが?」 アスラのすがたは目立つ。しかし由良は、今の今まで、刃金のケンタウロスを舞踏会場で視認してはいなかった。 「このすがたで立ち回っては皆の舞踏の興がそがれよう。それくらいは心得ている。ゆえに、そこに」 カーテンと柱の間にある死角に、アスラはずっといたという。 「それゆえ、我も証人のひとりだ。この魔女だけがバーソロミューの部屋に行き、そして、出て来た」 ――無罪を証明できるものなら、してみるが良い。 †† ファントムは現場と踊る 「判事殿にお立ち会いいただけるとは、何とも心強い」 ムジカは悠然と頷き、アスラの正面に立つ。 「では、まず、卿ご本人にお聞きしたい。舞踏会が開催されている間、被害者の様子に異変は感じませんでしたか?」 「我に、それを問うか」 「そして、死体が発見されたとき、お気づきになったことは?」 アスラの両眼が見開かれる。義眼さえ、驚愕の表情をたたえる。 「何と」 「ご自身も証人であると仰いました。ならば、目撃者として事情聴取に応じられるは当然のこと」 「真っ向から勝負をすると申すか。……ほう。ほほう。その意気や良し。よろしい、グランアズーロの鸚鵡にかけて、応じるとしようぞ」 皆の者、と、アスラは、会場のひとびとを見回した。 「ルージュに何か問われたならば、《海賊法》に則り、可能な限り答えるように」 † † † ムジカは由良に耳打ちをする。 (現場検証に行ってくれ。単独で) (言われなくてもそのつもりだ。判事の立ち会いつきで死体写真の撮影なんて冗談じゃない) (舌打ちは控えめにね。どちらにしてもアスラ卿は、後で現場を確認はするだろうけど) (うるさがたが来る前に、さっさと済ませたい) (人魚像を、上から覗き込んだ写真を頼む) (……?) (そこに真実がある――かも知れない) † † † ――暗い。 バーソロミューの自室へ足早に向かい、樫の扉を開けた由良が、最初に感じたことはそれだった。 (そういえば) バーソロミューは人魚像を「カーテンを閉め切ったまま」設置していたという。 (何か、理由があるのか) ライティングデスクと本棚、クロゼットと寝台があるだけの、思ったよりも簡素な部屋である。一瞬カーテンを開けようかと思ったが、思いとどまる。室内の暗さにすぐに目は慣れた。 窓や扉、壁を叩いて確かめる。クロゼットを開ける。カーテンの後ろを探る。隠し扉や隠し通路などはないようだ。ふと思いついて、太陽と月の天秤の紋章を探してみたが、それは見当たらなかった。 マントの下に隠し持っていた一眼レフとデジカメは、この環境でも十分撮影が可能だった。由良は、人魚像と、彼女の持つ剣に貫かれたままの死体にカメラを向ける。 人魚の像に欠損等はない。死体の状態、その傷口、血痕の様子などもごく自然だ。 バーソロミューは、人魚に抱かれているようにも見えるが、人魚を抱きしめようとして抵抗され、身を守るために刺されたようにも見える。これが彫像でさえなければ、気に入った女を幽閉し手ごめにしようとして返り討ちにされた、そんな俗っぽい様式さえあてはまりそうだ。 死体を降ろし、争いの痕跡をさぐる。 (……!) 死体の頬に爪のあとがあった。見れば人魚の指先にも何かを引っ掻いたような血が、うっすらとついているではないか。 ムジカに言われたとおり、ライティングデスクの椅子を引き出して、その上に乗る。人魚像を覗き込むように、カメラを構える。ムジカが何を意図して由良を唆したのか、見当はついているつもりだったが―― だが、そこに《秘密》はなかった。 ふと、人魚を見る。 彼女は、泣いているように見えた。 確かめるため、カーテンを引き開ける。月光が人魚を浸す。 ――そして。 ノワールは、真相を知った。 † † † 「バーソロミューの動向については、特に不審なことがらは関知できなかった。犯行時のことは、すでに聞き及んでいるであろう?」 絶叫を聞いた。 駆けつけた。 そのときにはすでに、彼はこと切れていた。 「絶叫が上がる直前、船が大きく揺れた事実はありましたか?」 「おまえはそれを、感じたか?」 「――多少」 「ならば、そういうことになろうて」 「質問を変えましょう。アスラ卿は、人魚像にまつわる呪いについてご存知でしたか?」 「さて、我は酔狂なことがらには疎いのでな」 アスラが見回すも、しかし、ひとびとは首を捻るばかり。 「あ、あのう……」 おずおずと歩みでたのは、バーソロミューに仕えて間もない、若いメイドのひとりだった。 彼女はリリアナと名乗った。貧しい生まれで身寄りもなく、もとはロトパレスの娼館にいたという。男と話すことも接することも苦手で、身を売るくらしを苦痛に感じていたところ、紹介するものがいて、ここに勤めることになったらしい。 男嫌いで口数の少ないリリアナをバーソロミューは大層気に入り、メイドというよりは娘分として扱ってくれた。今夜も、舞踏会への参加を特別に許されたのだが、やはり気後れがして……、と、他愛もないことをおどおど語ってから、ようやく、本題に入った。 「あの人魚像は、石にされた本物の人魚姫だと、御主人さまが……」 ――だがね、私が愛しているのはこの彫像だ。生きた人魚姫になど興味はないのだよ。何かの拍子に動き出さないように注意しなくては。 「ふむ、興味深い。石となった人魚が元に戻ったなら、所有者を殺すやもしれぬな」 メイドの世迷いごとと一笑に付すこともなく、アスラは、ひどく穏やかに言った。 「運命の巡り合わせにより誰かの死を招いたとしても、それは、その娘の業ではあるが罪ではない。もし我が、死んだ者と関わり深ければその娘を憎むであろうし、許しはせぬ。しかし――それとて娘の罪ではないのだ」 その響きは、ジェロームポリス陥落時の光景に時を巻き戻す。 今は判事となった鋼鉄将軍のことばは、憎んでいたはずの《赤い少女》に向けられたものであることに、気づいたものはいなかったにしても。 †† ファントムは法廷と踊る 由良はげっそりして、会場に戻ってきた。 (やあノアール。現場検証の首尾はどうだい?) (必要以上に偽名で呼ぶな。おまえが推理を外したせいで、とんでもない目に遭った) 現場で何が起こったか、手短かに伝える。 (成る程――筋は通るね。それで人魚姫は?) (クロゼットの中に放り込んだ) (上出来だ) † † † 「ねえ。さっきからアスラ卿や相棒さんとばかり、熱心に話してるのね? わたしに聞きたいことはないの?」 フランチェスカが、つれない男を責めるかのように、艶な目でムジカを難じる。 「悪かった。たくさんありすぎて、後回しになってしまった」 ムジカは笑いながら、赤毛の魔女に向き直る。 「バーソロミューとの交友は、以前からあったのかな?」 「海賊同士ですもの。獲物を奪い合うのは普通のことよ。それを交友と表現できるかどうか、わからないけれど」 「彼と、個人的に親しくはなかった?」 「生身の女の色香が通じない男と、相性がいいわけないでしょう」 「なら、おれとも相性が悪いことになる」 「それはどうかしら。あなたがわたしに求めているものは、色香ではないのだし」 魔女は誘うように微笑む。その腕を掴んで引き寄せ、寝台での睦言のように囁く。 (人魚像を入手した情報を聞いて、リリアナをバーソロミューに紹介したのは貴女だね?) (あら) (貴女は人魚像の正体を推測し、確認するためにこの舞踏会に来た。最初は仮面をつけ、踊りの輪に混ざるつもりだったが、気が変わった。カーテンと柱の死角にアスラを、そして、壁の花になっていたおれたちをみとめたからだ。だから仮面を外し素顔を曝して、燭台を手に勝負に出た。あえてバーソロミュー殺しの嫌疑を受け、海賊法廷に持ち込み――そのうえで無罪となるために) (どうしてわたしは、そんなややこしいことを?) (人魚姫を手に入れたかったんだろう? 綺麗な言い方をすれば「保護」したかった) 何か言いかけたフランチェスカを目線で制し、ルージュは人差し指を唇に当てる。 「残念だな。貴女が居ると知ってたら、ダンスに誘ったのに」 † † † ものものしい大法廷に会するは13名の判事。 開廷の合図とともに中央に着席するは、シェルノワル領主、法廷長官ネヴィル卿。 被告人席に立つ赤毛の魔女の両隣で、赤と黒のファントムは、飄々と弁舌を繰り広げる。 とはいえ、芝居がかった仕草で弁護をたのしんでいるのはルージュのみで、ノワールのほうは苦虫を噛み潰している様相ではあった。 「被害者の断末魔が響いた時間と、赤毛の魔女が退室した時間の順番を証言により精査したところ、断末魔は彼女の退室後であったと比定できます。現場検証の結果、彫像に欠けなどは無く、周囲に不審な痕跡は見当たりませんでした。つまり犯行の瞬間、魔女は室内に居なかった。よって犯行は不可能。現場不在証明が成立します」 「だが」 言葉を放ったのは、ネヴィル卿自身だ。 「目撃証言を聞いた限りでは、他に容疑者は存在しないのだろう?」 「仰るとおりです」 ルージュは、ゆるやかに頭を下げる。 被告はただ、人魚像を見たいがため、被害者の部屋を訪ねました。 人魚像を前に歓談ののち、満足した被告を送り出してから、被害者は改めて人魚像の正面に立ったのです。 それは、あらためて、ひとりで鑑賞したかったからかもしれないし、愛してやまない人魚像の冷たい唇にキスを贈るつもりだったのかもしれません。 ――その瞬間、船が揺れたのです。 被害者は倒れ込み、突き刺さってしまった。 人魚の持つ、剣に。 「人魚に魅入られた男の、不幸な事故だったのですよ、全て」 ━†† そして、ファントムは ネヴィル卿の判決は、バーソロミューの死を「事故死」とするものだった。 判決に至るまでの合議では反対意見も多かったものの、アスラ卿が事故死の見解を支持したため、結論は、法廷長官と一致した。 閉廷後、アスラ卿は弁護人を見やり、 「ファントムめに翻弄されるとはな」 と言い残し、退出した。 なお、妻子も係累もいないバーソロミューの資産は、暫定的に、娘分のリリアナが管理することになった。 † † † 夜が、白々と明ける。 舞踏会の華やぎが嘘のように、ひとのいなくなった船内にいるのは、フランチェスカと、ムジカと由良、そしてリリアナの4名だ。 彼らは無言で、バーソロミューの部屋に向かう。 ムジカがおもむろにクロゼットを開けるやいなや――人魚像が、倒れこんで来た。 ……いや。 カーテンが引き開けられ、朝の光が射し込んだ室内において、それはすでに、石の彫像のすがたを保ってはいなかった。 だからムジカは、生身の人魚を抱きしめることになった。 サイレスタで海魔に遭遇し、特殊な毒液を浴びてしまい、光の射さぬ場所では石となる受難を背負ってしまった12番目の人魚姫を。 好事家たちは薄々真相に気づきながら、彼女の嘆きに耳を貸さず、ただ「呪われた彫像」として扱い、高値で取引を続けて来た。 だから彼らは、殺された。 その髪は黒(ノワール)。その瞳は紅(ルージュ)。見るものを破滅に追い込んでしまいそうな、圧倒的な美貌。 「わたし、は」 薔薇いろの唇を、人魚姫は震わせる。 「ひとを、殺めてきました。何人も何人も……。なんて、なんてことを……」 ムジカは、黒天鵞絨のマントで、包み込んだ。 「名前を教えてくれないか、人魚姫」 「……アンジェリカ」 「いい名前だ」 そして、赤毛の魔女を振り返る。 「彼女の保護を頼みたい。もとより、そのつもりで起こした事件なんだろう? 光の有無が鍵だと思ったから、燭台を持ってバーソロミューの部屋に行った」 「さあ? だったらやはり真犯人はわたしなのかしら」 「――殺される男のほうが悪い」 不愉快そうに由良は吐き捨て、ムジカは透明な笑みを見せる。 「そのとおりだ。誰も彼女を裁けない」 ――Fin.
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