――大好きよ ――大好きよ アニモフたちと彼女は手をとって楽しげに笑い、踊る。 けれど、 少女の足元は黒く穢れ、――腐敗していた。 むっとした熱気を孕んだ甘い香りの風がマフ・タークスの墨を垂らしたような艶やかな黒い毛並みを撫でた。 片手はコートのポケットに、もう片方の手には小さなクワを大量に持って。 濡れた鼻をくんっと動かすと、温泉特有の臭みがした。 月色の瞳を細めて、マフは一歩、また一歩と大地を踏みしめて歩いていく。 モフトピアは平和な地だった――旅団が現れてからは争いが何度か持ち込まれて、その大地は踏みにじられた。 人を憎悪することを知らない輝く太陽のように無垢なアニモフたちが危険に晒されることに一部のロストナンバーたちは胸を痛めていた。 マフも心を痛めている者の一人だが、彼のなかで決定的だったのは――好きよ、大好きよ、だから――華奈子が大地を腐敗された一件が大きい。 アニモフと仲間を助ける依頼で、現場に駆けつけたマフが見たのは色豊かな緑の大地を黒く穢しながらへらへらと笑っている少女だった。 あのときの怒りと憎悪を言葉にしろ、というとうまくいかない。 胸のなかにどんっと重石がのしかかり、激しい吐き気と嫌悪がこみあげてくる。 仲間たちと華奈子を退けたが、それでも彼女の残した腐敗の爪痕は大地と巻きこまれたアニモフに深く残された。 不思議な効果のある温泉地を素通りして、向かったのはさらに奥。 大きな樹がまるで慈愛深い聖母のように根を張り、周囲には幼い子供たちのような花たちが広がる美しい緑の大地。 本来なら遊ぶことが大好きなアニモフたちの笑い声や走り回る姿が見えるはずだが、今はまどろみのような静寂が流れる。 優しい香りのかわりに鼻につくのは花たちの涙のような死臭。 赤、青、紫、黄……宝石箱をひっくり返したような色とりどりの花たちの、その中心部は誰かの悪意が吐き出されたように黒く、染まっている。まるで花たちの死体のようだ。 少女は腐敗させた。ただいるだけで。 マフの金色の瞳に痛みを我慢するような翳りが落ちる。実際、花たちの無残な光景は見たくない。覚悟していたが、どうしても胸の奥が鈍く痛む。 美しい花たちを枯らすのは一瞬だったというのに、戻るのには長い時間がかかる。 理不尽な怒りにまた胸が燃える。だが、いまはそのときではない。 「やらねェとな」 マフはコートのポケットから手を出すと、掌に握りしめていた種を見つめた。 他の浮遊島にある植物の種を、ここに生えている花たちと同じ種類のものを探して持ってきたのだ。 仲間やアニモフたちを助けたが、物言えず、逃げ出すことすら出来ない花を守ってはやれなかった。 荒れ果てた大地を去るとき、マフはもう一度ここへ、それもなるべく早く来ようと決めた。どれだけ時間がかかっても、この腐敗した大地を戻してやりたい。そのためにも種を撒くことからはじめよう。と。 また、アニモフたちも数名だが、かなりの大怪我を負った者がいた。腐敗させられた部分は治癒魔法を施したが、そもそもその腐敗の力がどれだけのものなのかは未知数なため、継続的に様子を見る必要があった。 好きよ、大好きよ、……少女は唄うように囁いた。そして、すべてを腐敗させていった。笑顔で。 マフがきょろきょろと首を動かしてアニモフを探していると、がさっと草むらから白色の真ん丸い羊が飛び出してきた。 よぉと片手をあげた。 「あー、まふだー」 「元気してるか?」 「げんきー」 ひょこんと羊のアニモフは飛び上がったが、微妙によろけた。 「おっとと~、んー、足がふわふわするー」 「痛むのか?」 羊の小さな足は微妙に、その長さが違っていた。 「んーんー、いたくなーい。けど、ときどきこけるのー」 「そうか。ちょっと見せてみろよ」 「んー? なになに?」 「こけないよーにするおまじないだ。いたいのいたいの、とんでいけーっ!」 荷物を一度、地面に置いたマフは屈みこんで羊の足に手をあてる。そこからきらきらと輝く銀の雨が降るのを羊は黒い目をぱちぱちと瞬かせ、嬉しげに笑ってはじゃぎまわった。 「すごーい、マフ! ぴょんぴょんしてもこけなーい!」 元気そうだな。よし。 「お前みたいな友達いるか?」 「んー、いるーよー。しゃうは片腕あげられないのー。るるはよくこけてるの」 「そうか。そういう友達、みぃんなに声をかけてくれないか? オレが、なおしてやるからよォ。あと、花の種を撒くから、それ、手伝ってくれないか?」 「わかったー! 種まき? 地面に? いっぱい?」 「おう」 「たのしそー! よんでくるねー!」 嬉しげに笑って走り出そうする羊を慌ててマフは呼びとめた。 「待て。そのなかで黒猫のアニモフと白熊のアニモフ、いるか? そいつらは怪我してなくても呼んできてほしいんだ」 マフの言葉に羊はきょとんとした顔をしたあと、こくんと頷いた。 「わかったー! あ、けど、にゃんちゃんたち、いつも、樹の近くにいるよー?」 「あそこに?」 「うん。樹の上で、とーおくをみてるの」 「そっか。わかった。じゃ、頼むな」 「うん!」 駆けだしていく羊を見送り、マフはちらりと腐敗した大地を一望できるだろう、その樹を見つめた。 「あの二匹は、華奈子と仲が良かったんだよな」 この大地を腐敗させた原因であり、アニモフたちを傷つけた少女の歪んだ愛情はとくに黒猫と白熊の二匹に強く向けられた。二匹もまた彼女のことを好いていた。 マフは確かに見た。華奈子が危険なとき二匹は我が身も顧みずに駆けすのを。 少女は、花も、大地も、他人も、全てを傷つけ続けてきたが、たった二人の友達を守るために我が身を犠牲した。 少女は――声にならぬ慟哭をあげて、泣いた。 「おう、お前らー」 樹の下から見上げると、少し上にある枝に二匹のアニモフの姿があった。 「木登りかー? 落ちるなよー!」 マフが声をあげると、二匹が嬉しげに笑って手をふる。 「まふの親分だー」 「どうしたのー」 「花を植えようと思ってよォ、お前ら、暇なら手伝わないか?」 「うえるー!」 「手伝うー!」 二匹は元気のいい返事をすると、幹にしがみついてするすると降りてきた。マフの前にくると、黒猫は尻尾をふり、白熊は首を傾げて 「種、もってきたの?」 「どんなの植えるの?」 と、無邪気な笑顔とともにマフを質問攻めにした。その様子に樹の枝にいたときのアニモフらしくない翳りが見えないことに安心したせいで、油断してしまった。 「マフの親分のなかにとつげきー」 「う、おっ! あー、まてまて。って、こら、ポケットのなかに顔をつっこむなっての!」 にゃー。黒猫は好奇心旺盛にマフのポケットに忍び込もうとするし、白熊は地面を耕すためにもってきたクワを両手でもちあげてしきりに首を傾げている。 「これ、ふりおろすの?」 「わー、ばか! あぶねーだろうがァ! 使い方教えるから、大人しくしやがれ。って、うおっ」 「まふー、ともだちつれてきたー」 「え、あっ!」 ちょうどいいタイミングで羊が仲間をつれてやってきた。 ふもふもの雪崩がマフに突撃した。 クワなんかは危ないんだと叱ったら全員がしょんぼりとした顔をして 「マフの親分、ごめんなさい」 と、謝ってきた。 親分かよ。――マフは神妙な顔をしてしまった。 どうもマフはその見た目から自分たちの仲間? と黒猫は思っているらしく、「マフの親分」と呼ぶ。叱ったせいか他のアニモフたちにも呼び方が伝染したらしい。 ま、言うこと聞きやすくなったからいいけどな。 アニモフたちにクワと種まきの方法を教えると、さっそく作業にとりかかった。 みんなが楽しげななかマフは腐敗が最もひどい地面に直接手を置くと早口に呪文を唱えて再生の魔力を注ぎこんだ。それ以外のところは、クワで耕しながら地面に注げばいいだろう。 きゃー、わー、たのしーときゃきゃと遊ぶアニモフたちがクワで危ないことをしてないかとハラハラしながら監視しつつ、黒猫と白熊の様子を見守った。 ときどき、ふっと動きを止めて、なにかを考えているような顔をする。 アニモフってのは細かけェことを気にしないのがいいトコだが、今回ばかりはどうだろうな。 大地の腐敗を、 仲間の腐敗を、 とくに仲がよかった二匹はどう感じているのだろうか。英雄の魂を持つといわれている星獣でも見通すことはできない。 そうだ、オレらだって万能じゃねェんだよ。 黒い大地を見て胸が痛むように、アニモフたちの傷を見て喉が苦しくなるように。 しかし、手をひと振りすればそれらすべて治せるわけではない。 すべてをわかったふりは出来ない。達観するなんてこともマフは出来ない。あがいて、あがきつづける。たとえ無力でも。今、出来ることが、こうして気を紛らわしてやることくらいでも。 「おい、お前ら二人とも、なにしてんだよ」 二匹の顔を見てマフはむぅと渋面を作ると、がしがしと頭をかいた。どうもこういう遠まわしなことは苦手だ。 「……華奈子のことを考えてたのか」 自分でもこんなことを聞いていいのか迷いながらもストレートに尋ねた。 「え?」 「はなこ?」 二匹がきょとんとした顔をするのにマフのほうが驚いた。 「おい、ここで……お前らは女の子と遊んだだろう? すごく楽しそうに」 腐敗させながらも心から楽しそうに。 「あそんだ? うん。遊んだ、遊んだ! ずこく、すごくたのしかった! けど、その子のこと、よくおぼえてないの」 「うん。覚えてない。顔とか……たのしかった。けど、おんなのこ、消えちゃった。ばいばいしたの。とっても悲しいかおしてたの……好きだっていってくれたのと、ばいばいしたときのことだけ覚えてる」 二匹はしょんぼりと俯いて、ぽつぽつと語る言葉にマフは一瞬、言葉を紡ごうとして声の出し方を忘れたように何も言えなかった。 記憶には残らない。 ただ、忘れ去られてゆく。 なにも残せない、なにも残らない、それでも、ここには傷跡がある。 「……」 風がマフの毛を弄ぶ。 その前で二匹はアニモフらしくない難しい顔をして首を傾げている。 「だれだったんだろう、あのこ……すごくすきっていってくれた。それでね、にゃーたちもすきだったの」 「けど、泣いてた」 「いなくなっちゃった、ぼくら傷つけたの?」 二匹はマフを見つめて尋ねた。 「あのこは、だぁれ?」 「ばいばいしたの、ぼくたちのこと、きらいになったの?」 肺いっぱいに甘い香りを吸い込んで、マフは笑った。 「さぁな。オレもちゃんとは知らないんだ。けどな、お前らのこと嫌ってはねぇよ……アイツはな、はなちゃんってやらはお前達が好きだったんだ、本当に、本当にだ」 二匹の頭をぽんぽんと撫でると、マフは黒い大地を見つめた。 「オレは、気持ちは否定しねェ……だからゆずれねェんだよ」 まるで誰かが泣いたような黒いシミのついた大地をマフは優しく撫でた。 来年の今頃には、この大地が前以上の緑豊かになるように祈りをこめて。
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