オープニング

 長手道もがもが魚彦岬を訪れた時、日はすでに高かった。だがむき出しの山肌が襲いかかってくるような形でせり出しているせいか、それとも土壁の間を這いずる獣道から吹き降ろす海風のためか、春の空気はこれでもかと冷たい。
 うへっと間の抜けた声を上げて、もがもは先行の同行者達のかかとを見ながら歩き出す。背後からロストレイルの車輪の下、ひき潰される草木の音が聞こえた。

 ***

「お前らにゃあ、壱番世界に転移したロストナンバーの保護を頼みたかった」
「お、オレは頼りないから頼まないって意味?」
「それならまだマシだったろうがな」
 シドは髪だか羽飾りだかを乱雑に掻きむしってから、いぶかしげな顔つきのロストナンバー達を見回す。
「そのロストナンバーってなぁ、そうだな。人魚って言やわかりやすいか? そいつが覚醒したのを俺の『導きの書』が察知して、世界計で階層位置を特定して、さあお前らに声かけるか……と『導きの書』を見たらな。驚くなよ? 情報が上書きされていた」
「……悪戯されたってこと?」
「違うな。状況が変わった。件のロストナンバーは現在、何者かの手により捕らえられているらしい」
 ざわめきが波のように広場に広がる。どういうことなんだと詰め寄る彼らに手を振って静止を促し、シドは静かな声で続けた。
「そういう訳で、お前らに頼みたいのは保護だけじゃなくなった。誰が、何の目的でそのロストナンバーを捕らえているのか、その調査。及びロストナンバーの奪還。以上だ」
「……シドさん」
「何だ、もがも」
「……そのロストナンバーさん、無事?」
 もがもの脳裏に浮かぶのは、幼いころに見たSF映画で解剖される銀色の宇宙人の姿だ。
 壱番世界は多重階層の世界郡の中からしたら、平凡な世界だろうと思う。人を食らう邪悪な竜もいなければ魔法使いも存在しない。そんな世界で異世界からの来訪者がどのような扱いを受けるのか、考えずにはいられない。
「……とりあえず、死んではいない」
 低く囁くように言って、導きの書に指を這わせる。
「何分、不透明なことが多い事態だ。壱番世界だからと慢心せず、警戒して任務に当たってほしい。目的地は日本の伊豆、ウオヒコミサキだ」

***

 細い山道を上り詰めたとたん、凍えた風が顔中に叩きつけられる。足の裏を押し返すのはぬめった土ではなく、ひび割れたコンクリートだ。視界の右から左に、古びた道路が横たわっていた。だが車の影も排気ガスの臭いもしない。むしろ魚の焼けるいい匂いが傾斜の下方から漂ってきた。
 山の斜面の段々畑のさらに先、寄り添いあう赤錆びた屋根の群れ……おそらくあれが魚彦岬なのだろう。三方は切り立った山、もう一方は三日月状の砂浜と入り江に囲まれた、日本のどこにでもある静かな漁村だ。ロストナンバーが監禁などされていなければそう思えた。
 道端でぽてぽてと丸まった猫に進行を妨害されつつ十数分、山と海の境目に出る。刑事ドラマの犯人なら思わず自白してしまいそうな、見晴らしの良い吹きさらしの崖だ。
 ただ、岩の先端に突き刺さった木の杭は邪魔かもしれない。元々は何か書き付けてあったようだが、風雨に文字はかすれ、かろうじて「魚」「社」「下」の三文字だけが判別できた。
 崖から見下ろす波間には、飛び石のように平たい、黒々と濡れた岩が見え隠れしている。砂浜からこの崖下まで続いているように見えるが、本当のところはどうなのだろう?
「あんたら、そんなとこで何してるね?」
 威勢のいい女性の声が、杭の周囲にたむろしていたもがも達を振り返らせる。背負った籠に鎌やら手ぬぐいやらを突っ込んだ少女は、もがもと同じかそれより下くらいの歳に見える。まるで体型にあっていない、ぶかぶかのもんぺを穿いていた。
「この辺の者じゃねぇな。一体こんな村に何しに来たね?」
 なんだかおばあちゃんみたいな話し方だなあと思いつつ、用意していた言葉を並べる。
「あーいや、オレ達あっちのほうで民俗学勉強してる学生なんですけど。ちょっと人魚の伝承についてフィールドワークしに来たっていうか、お話聞かせてもらえないかなー、みたいな?」
 シドから教えられた言い訳は、目立った産業もない田舎村に人が訪れる理由として、上手く出来ていたと思う。少なくとももがもなら信じた。だが人魚の単語を出した途端、少女はまなじりを吊り上げてしまう。
「人魚なんかおる訳ないやろが! 帰れ、余所者!」
「え、でも」
「帰れ!」
 もがもが鞄の中から本を取り出すより早く、少女はこちらもぶかぶかのサンダルを引きずって、元来た道を駆け出してしまう。
 なんできちんとサイズの合ったものを身につけないのだろうと、頭の隅で思いつつ。ぽかん、そんな擬音が似合う空気の中、もがも達は互いに顔を見合わせた。
「……あれってさ?」
 流石に不自然過ぎるだろう、と言外に含められた意思に共感を示して、仲間たちが頷く。
「……シドさん、魚彦岬には人魚の伝承があるって言ってたよね?」

 ***

 足元に置いた鞄をごそごそやりながら、シドは話を続ける。
「ロストナンバーが捕まっちまうなんて、そうそうある話でもねえ。だから俺も色々調べてみたんだがな……ああ、あったあった」
 取り出されたのはハードカバーの本だ。布張りの表紙の間からは、かびた埃の匂いがした。
「これは壱番世界の郷土資料なんだが、魚彦岬について気になる記述があってな……」

 ――魚彦岬がただの岬と呼ばれていた頃、一匹の人魚が怪我をして浜に流れ着いた。漁師と海女は人魚を洞窟に横たえ、献身的に世話をした。傷を癒した人魚は二人に報いるため、自身の肉を切り分けると、別れを告げて海に帰っていた。その人魚が「魚彦」と言ったので、以来岬は「魚彦岬」と呼ばれるようになったということだ――

「……つまり、どういうこと?」
「……以前にもロストナンバーが転移した可能性がある、ということだ。確証はないがな。何分抽象的だし、伝承なんて途中でいくらでも変化してくるもんだ。一応こっちの資料も漁ってみたが、どうも世界図書館設立以前のことらしく、記録は一切残ってねえ。だが、話としちゃあ筋が通っているだろう?」
 かつて人魚から恩恵を受けた村に、再び人魚が現れ、そして行方を隠された。
「……壱番世界に暮らす人間は、基本的に俺達よりか弱くできている。荒事になれば手加減も必要かもしれん。だがいざとなれば容赦はするな。あなどるな。目的を忘れるな。俺から伝えられることは、これが全てだ」
 静かに、本が閉じられる。かび臭い紙の匂いはとじられた勢いで舞い上がり、ロストナンバー達の鼻腔に忍び込んだ。

品目シナリオ 管理番号292
クリエイター錦木(wznf9181)
クリエイターコメント京極夏彦を目指したはずが八つ墓村風味になっていました。どうもこんにちは、錦木です。わかる人には大分ネタバレですね。

保護対象は人魚の姿をしたロストナンバーです。尻尾と鱗で山道を歩くのは難しいと思うので、帰還の際は手助けしてあげて下さい。
帰還以外でも色々助けてあげて下さい。

・なぜ人魚は捕らえられているのか?
・どこを調査するのか?
・予測される障害にどのように対処していくか?

依頼を成功するにはこの辺がポイントじゃないかなと思います。
今回の依頼には、NPCの長手道もがもがご同行いたします。何かありましたらお申し付け下さい。
それでは、皆様のご参加をお待ちしております。

参加者
ルゼ・ハーベルソン(cxcy7217)ツーリスト 男 28歳 船医
坂上 健(czzp3547)コンダクター 男 18歳 覚醒時:武器ヲタク高校生、現在:警察官
コレット・ネロ(cput4934)コンダクター 女 16歳 学生

ノベル

「待って下さい!」
 不意を突いて投げられた言葉のショックから、真っ先に立ち直ったのはコレット・ネロだった。坂の影に消える少女の背を追って駆け出し、ルゼ・ハーベルソンと坂上健も呪縛を解かれたようにその後に続く。日ごろ鍛えているためだろう、すぐに健が隣に並ぶ。
「コレット、どうする気だ?」
「私、あの子とお話がしたいの! 沢山お話して打ち解けたら、少しは人魚のこと、話してくれるかもっ!」
「……そう簡単にゃいかねぇと思うけどな」
 走りながら喋っているせいで、コレットの言葉は途切れ途切れだ。耳元でうなる潮風が聞き取りづらさに拍車をかけて、健の冷静な呟きは彼女の耳には届かなかった。
 坂はいつしか平らな地面となり、赤錆びた家々の合間に続いていた。人一人通るのがやっとの細道は、どれも塩害避けのコンクリートで挟まれていて、その上ぐねぐねと不規則に曲がりくねっているものだから、追跡しづらいことこの上ない。
 だが幸いなことに、少女の背負っている藤籠は大きすぎた。コンクリート壁の向こうで上下する籠のおかげで、位置だけは見失わずにすんでいる。
「あのっ、いきなりっ、声かけちゃってごめんなさい!」
「ついて来るな!」
「ど、どうして、怒っちゃったんですかぁっ」
「やかましい! 帰れ、帰れ!」
 曲がり角でかち合った村人たちが、何事かと言う目で健達を見る。
 小学校に通っていそうな年代の少年達、枯れ木のような老人、就学前の幼女、性別もわからないほど老いた人影……。
「わたっ、私たち、ただっ……」
 続きは言葉にならなかった。コレットは苦しげに眉根を寄せ、酸素を求めてひゅーひゅーと喉を鳴らす。
 あのサンダルでどうしてあれだけ走れるのか、少女はとにかく速かった。その上疲れ知らずで、速度は一向に衰える気配を見せない。
「ここは俺に任せとけ」
 ふらつき始めたコレットをルゼに預けて、健が踵に力を込める。すでに少女の籠は見えないが追いつける自信はある。コンクリートの壁に手をかけ、勢いを殺さず曲がり角へ突入。靴底が磨り減る音。塀の上の猫が驚いたように身を隠す。砂のせいか、ざらついたアスファルトを踏みしめてさらに加速。差し掛かった十字路で顔をめぐらせ――見つけた。
 少女は驚愕を顔中に貼り付けている。撒いたと思ったのだろう。健は勝利の予感に口角が吊り上がるのを感じた。少女が泡を食って逃げ出そうとする。でも遅い。揺れる籠の端を掴んで、これにて捕獲完了。
「離せ、離せ!」
「その前に、ちょっと俺の仲間とお喋りしねぇか?」
 健の呼吸が静かになる頃、ルゼに付き添われたコレットが追いついた。親指を立ててやると、コレットも少し恥ずかしそうに親指を持ち上げる。
 少女はまなじりを吊り上げたままだ。その目には明らかな敵意が浮かんでいて、コレットは少し尻込みしてしまう。だが、それでは何のために追って来たのか。覚悟を決めて深く息を吸う。
「あの、いきなり声かけちゃってごめんなさい。それで……良かったら、料理のおいしいお店、教えてください。私達、お腹すいていて」
 優しく、できる限りの誠意を込めたつもりだった。だが彼女の意思に反して、少女は忌々しげに……もとからきつい光を宿していたそれに、殺気じみたものまで混じらせて、コレットを睨み返してくる。
 その眼光の鋭さに、コレットは思わず一歩、後ろに下がる。ルゼが肩を支えていてくれなかったらもっと後退していたかもしれない。
 どうしてこんな目をするんだろう。よく観察すると少女の拳はきつく握り締められていて、彼女の反応はコレットの予想を裏切ってばかりだ。
「……そんな上等なもん、こん村にある訳なかろうが」
 ややあって吐き出された言葉は、低く濁っていた。
「外人さん、あんたうちの村を馬鹿にしに来たんか?」
「ち、違います! 私、私そんなつもりじゃ……」
「人魚だとか! そんなおる訳もないもん探すなんざ時間のむだや! もう帰れ、あんたら全員帰れ!」
 コレットに言葉を叩きつけ、少女は籠を引っつかむ。止めようと伸ばした健の腕は宙をかいた。少女は振り返らず、今度こそ曲がり角の向こうに姿を消す。
「……コレット、大丈夫かい?」
「……うん」
 ルゼの静かな問いかけに、コレットはわずかに顎を引いて答える。服の裾を握り締める手をそっと解くと驚くほど冷たかった。
「……ねえ健、一端ロストレイルに帰らないか? ……夜のほうが、調査もしやすいだろう?」
 ルゼは何かを訴えかけるように健を見た。その目に隠された真意に、一つ頷いて同意を示し。
「そうだな。こう騒がれちゃあ、村人も警戒してるだろうしな」
 ルゼはコレットを落ち着かせたいから、とは言わなかった。それを言葉にしてしまえば、繊細な少女が責任を感じることをわかっていたのだ。わかっていたから、健も指摘などしない。ただパスホルダーからセクタンのポッポを呼び出して、あたりの偵察を頼んだ。

 ***

「網元、そりゃ本当ですか」
 薄暗がりの中で誰かが言った。声はうわんと不規則にこだまして、吹き抜ける風に乗る。
「ああ、あいつらきっと魚彦様を奪いに来よったに違いねぇ」
 答えたのはあの少女だった。憎々しげに唇をかみ締め、握られた刃物に力がこもる。
「一体どこからこんことを知ったんじゃろうか……」
「誰かがばらしたんじゃ、都会に息子がおる者が」
 ろうそくの明かりに、しわの刻まれた横顔が照らされる。つぶやかれた言葉に、
「そうじゃ」
「そうじゃ」
 と悪意あるかすれた響きが重なる。
「やめんかジジイども。今はそんなことゆうとる場合じゃない」
 少女が声を張り、男たちはそろって口を噤んだ。
「ここを見張るんじゃ。そいつらをここに近づけちゃならん」
 足元を濡らす水が不意に水かさを増す。声にならないか細い悲鳴が洞窟の底を漂う。
「『魚彦様』を渡してはならん」
 水は黒く濁っていた。

 ***

「ウチのばあちゃん家、西伊豆」
 ふいに投げられた言葉に、コレットとルゼが振り返る。健は目を閉じ、車窓に肘を突いたままの姿勢だった。ポッポと視界を共有しているから、目の前の景色は邪魔になる。傾き始めた日差しに、横顔が橙色に染まっていた。
「伊豆で一番美味い饅頭屋がある場所でさ、雨の日においちゃんが傘差してポンポンバイクに乗ったり、ばあちゃんが畑に菜切りに行くのに、平然と肉切り包丁抜き身で持って歩いてたりする」
「……凄いとこだね、そこ」
「変だろ?」
 くっと喉の奥で笑って、「けど」と健はふいに真面目な表情になる。
「それでもこことは違う。ここは異界だよ。あいつら……服に見合う程年寄りなんだろうさ」
「え……どういうこと?」
 コレットが不思議そうに首を傾げる。手のひらには湯気を立てるティーカップが収まっていた。
「壱番世界……つーか日本だと、人魚の肉を食べると『不老不死になる』って伝承があるんだ」
「あ、俺の世界でもそういうのあったよ。共通のイメージなのかね、人魚と不老不死って」
「そっか……わたし、年をとらなくなるだけかと思ってた……」
「こういうのは地域によって細かく違ってくるからね。でも……人魚を得ることが出来た村人達は、その肉を得ることまで、考えたんだろうね」
「ああ、あの女の格好見る限り、不死はともかく確実に若返りの効果があるんだろうな……」
 サイズの合っていない服は、もともとかなりふっくらした年寄りだったから。靴が大きかったのは、発育途中の時代まで若返ったせいだろう。
「そっか……だからあの女の子、人魚のことを聞いただけで怒っちゃったんだね」
「たぶん俺達、不老長寿の妙薬を奪いに来た盗賊だとしか思われてねぇんだろうなあ……お、」
 あきれ半分に笑っていた健の口元が引き締められる。やがてその目がゆるゆると開かれた。
「ビンゴ。さっきの崖下の洞窟から、あいつらがぞろぞろ出てきやがったぜ」
「ってことは……」
「ああ、きっとそこに例のロストナンバーが隠されてるに違いねぇ」
「……無事かな、その人」
 コレットがぎゅっと眉根を寄せる。肉を食らったということは、そのロストナンバーの身体を削り取ったということだ。その痛みを想像してか、コレットは身を震わせて体を描き抱く。
 不意に髪に何かが触れた。見上げると、ルゼが優しげな笑みを浮かべている。
「例え怪我してたって、俺が全部治してみせるさ。だからそんなに心配することはないよ?」
「ルゼさん……」
「ね?」
 もう一度にっこり笑うと、今度こそコレットは身体から力を抜いた。その様子をニコニコしながら見守っていたもがもの肩に、健の手がかかる。
「先に言っとく、もがも。死ぬな……そして躊躇うな」
「え?」
「死にたくない奴の必死さ、甘く見るな。話は通じないし、殺されて終わるぞ?」
「……どういう意味?」
「単なる確認だよ。さ、行こうぜ、皆」
 戻ってきたポッポを肩に止まらせ、健が三人を振り返る。山際に隠れ出した太陽に、肩に引っかけたトランクが四角く影を伸ばしていた。

 ***

 洞窟を見張っていた男は、何かの気配を感じて振り返った。
 海鳥だろうと思った。何しろここは一方を断崖絶壁の崖、残りの三方を海に囲まれた海際の土地。そして自分はその崖を背にしていて、ここにくる唯一の道をずっと見張っていたのだ。誰もここに来るはずがない。
「しばらく眠っててくれよ」
 だから、眠りに落ちる間際に聞こえた声は幻聴に違いない。
 むにゃむにゃと意識を失った男を脇に避けて、健は岩場に降り立った。その手には催眠スプレー、そして背中には黒く縁取られた翼――コレットが描いたものだ。それは役目を終えたことを知ってかさらさらと塵になって消えてしまう。
 肩に乗せたポッポのおかげで視界は良好だ。照明係のもがもが降りてくるのを待って、コレットとルゼが到着。
「よし、……もがも、照らし出せ!」
「あいあいさ!」
 もがものトラベルギアから放たれるまばゆい光が、洞窟の中を照らし出す。洞窟の床には大量の船虫がはいずっていた。突然向けられた強い光に、いっせいに壁の隙間へと姿をくらましていく。
「…………」
「コレット、大丈夫?」
「……は、はい」
 コレットは固まっていた。かさかさと動く昆虫がよほど気持ち悪かったらしい。ぎくしゃくとした動きは見ていて大変危なっかしかく、ルゼが差し出した手は命綱のようにきつく握り締められた。
 洞窟はゆるやかな傾斜でもって地下に向かっている。垂れ下がった鍾乳石からは、波が引いたときに取り残された藻が絡んで、吹き込む湿っぽい風に不規則に揺れていた。
 ぬるつく床と海に戻り損ねた海水に足をとられつつしばらく進むと、目の前に岩壁が現れた。高さはおおよそ数メートル。行き止まりではなく、坂のようになっているだけだが、傾斜が急過ぎて登るのは危険そうだ。
「俺の包帯をロープ代わりにするかい」
「あの上の出っ張ってる部分に結べるか?」
「余裕」
「サンキュ。じゃ、俺が最初に登るな」
 包帯を何度か手のひらに巻きつけ、ぐっと力を込めた。びっしりと生えたフジツボのおかげで足場には困らず、そのままてっぺんの岩に手をかける。じりじりと身体を引き上げる、その途中。
 横っ面を衝撃が襲った。
「健さんっ!?」
「健!?」
「ぷぎゃっ」
 コレットとルゼ、何かよくわからない声は最初は遠く、すぐに間近で聞こえた。背中に衝撃と水音。落ちたのだ、とようやく気づく。岩に掠った指先がひりひり痛んだ。
「大丈夫かい、健?」
「い、今、何が起きた?」
「さ、魚の尻尾が出てきて、健君の頬を……」
「魚? 例のロストナンバーか?」
 見上げた天井は、暗い。二つの丸い照明はあらぬ方向を射していた。
「……健君、重い……」
「うわっ、悪い!」
 さっきの不明瞭な叫び声はもがものものだったか。よろよろ起き上がったもがもが、トラベルギアで岩壁の姿を闇に浮かび上がらせる。そこにはすでに尾びれはなく、ごつごつした表面をさらしているだけだった。
「……もしかして私達、警戒されてるのかな……?」
「かもしれないね……ここに来てたの、あの村人達だけだったろうし。勘違いされちゃったかねえ」
 ルゼの予想が正しいければ、人魚のロストナンバーは肉を切り取られ続けていたはずだ。身を守るため、反射的な行動だったのだろう。
「……おい、聞こえるか!? 俺達は、アンタが食われる前に助けに来ただけだ! 今からそっちに行くけど、攻撃するなよ! 絶対攻撃するなよ?」
「健君、それ死亡フラグ……」
 もがもが何か言ったようだが、健は気にせず岩壁を登り始めた。気合を込めて崖の上に手をつき、一気に身体を引き上げる。
 今度は攻撃されなかった。
 ポッポの目を通して、横たわるロストナンバーの姿を捉える。
「…………」
 彼、いや彼女だろうか? 海草のようにうねる長い髪が全身に張り付いているせいか、男にも女にも見える。青磁色の肌は網で何重にも包まれ、岩のとがった部分に引っかけられていた。壁の上は大きくくぼんでいて、海に戻れなかった塩水がプールのように溜まっている。瞼のない目はじっとこちらを伺っていたが、どこかどんよりと虚ろで力がない。その原因はすぐに知れた。
 肌と同色の鱗で覆われていた下半身は、赤黒い断面を晒していた。骨に沿って、身が切り取られてる。まるで魚のように。ぞっとしない想像に顔が引きつるのを感じた。
 岩壁を登ってきたコレットが、息を呑んで目を背ける。ルゼは少し眉をひそめたが、元船医の経験があるからだろう、すぐに傷の検分に入る。
「救急セット使うか? 消毒液と脱脂綿くらいならあるぞ」
「……それ、どこから出したの?」
 トランクは海水溜まりの底に沈んでいた。
「企業秘密」
 健の手にはこちらもいつの間にやらソーイングセットのはさみが握られていて、人魚の身体を拘束する網を手際よく切断していく。捕まった時にひどく暴れたせいだろうか、肌のあちこちにひも状の擦り傷が生まれていた。
「……俺の声は聞こえるかい? 少ししみると思うけど、我慢してくれ」
 人魚は応えない。消毒液がたらされる瞬間、びくりと魚の部分が跳ね上がるが、細いパイプを空気が通り抜けるようなか細い音が漏れ出るだけで、決して声を立てようとはしなかった。
「コレット、樽とか……水槽描けるか? ターミナルに戻るまでに干上がっちゃ大変だからな。こんなこともあろうかと、背負子を持ってきたんだ」
「うん、任せて」
「……応急処置、終わったよ」
 ルゼが詰めていた息を吐く。ロストナンバーの下半身はルゼのトラベルギアで丁寧に保護されていた。だがその顔は暗い。肉を切られて、こんな湿っぽい場所に放置されていたのだ。容態が悪くても……いや、人魚なら問題ないのかもしれないが、とにかく本格的な治療が必要なのだろう。
 コレットがさらさらとトラベルギアのペンを走らせる。現れた単色の樽に半分ほど海水を汲み取り、ルゼの包帯でしっかりと身体を固定。ルゼの持つ能力――物体を手元に引き寄せる力もフル活用して、なんとか彼(彼女)を崖から下ろして、今度は背負子と樽を包帯で結び付ける。このまままっすぐロストレイルに帰れたら――四人全員が抱いた期待は、最悪の形で砕かれた。

 ***

「置いていけ」
 少女の手には銛が握られていた。掲げられた松明と懐中電灯に、小さな金属が光を反射して凶悪に光る。その向こうには、村人。日焼けし、腰の曲がった老人達が砂浜に集結し、洞窟とロストナンバー達を取り囲んでいた。その中には、幼い少年や物心つく前だろう少女の顔も見える。
「魚彦様を、置いていけ」
「……欲望のために他人を犠牲にするのは、良くないよ?」
 少女には応えず、ルゼはコレットの視界を隠すように一歩前へ踏み出す。トラベルギアの包帯がしゅるり、引き伸ばされた。健も、人魚の乗った背負子を下ろして両手でトンファーを構え、いつでも攻撃に打って出れるよう腰を落とす。もがもはその陰に隠れた。
「皆さん、聞いて下さい!」
「コレット」
「お願い、言わせて。……人魚の肉は、不老不老になれるって話があります。でも、そのお肉を食べて、不老不老になったら……昔だったら分からなかったですけど、現代の日本じゃ、不審がられるだけです。こんなこと、止めてください。みなさんの家族は、みなさんが誰かを害することを、決して望んでないと思います」
 少女の顔から表情が消える。銛を握る手に力が込められたのが、ここからでも見て取れた。震える唇が、呪詛のごとき言葉を吐き出した。
「外人さん、あんた本当に、人を馬鹿にしよる」
「え……」
「父ちゃんは死んだ。息子ももうおらん。孫はどっか都会に住んどって、もうこっちにゃ帰ってこん」
「……!」
「皆そうじゃ。皆、みんな……」
 かつて老婆だった少女の言葉は、寄せる波に掠れていた。海はどこまでも行っても黒一色で塗りつぶされ、細い月光ではこの村を照らしきれない。入り江は影絵のように暗く、どの家にも光は灯っていなかった。
「……わしらにとって家族っちゅうんは、こん村におる皆じゃ」
 コレットは洞窟を取り囲む村人達を見た。彼らもコレットを見ていた。五十人には足らない。四十が良いところか。老人と幼子の二極しかいないということは、つまり彼らは元々……。
「……ご家族の皆様も揃って解体ショーに大賛成、って感じなのかな?」
 冷や汗を垂らしたルゼの問いかけに、無言の肯定が返る。包囲網が一歩狭まる。
「何人かは若返った。わしもその一人よ。だが村人……いや、家族全員が食らうには足りん。お肉が戻るまで、魚彦様にゃあ生きて貰わねば困る」
「随分自分勝手な理論だな、ああ?」
 健が吐き捨てる。
「好きに言え。わしは家族を殺しとうない」
 少女は――老婆は、動じなかった。
 いよいよ包囲網が狭まる。狂気じみた光を宿した八十の瞳の群れが、ロストナンバーをその手にかけるべく、各々の武器を構えた。なみなみと水を注がれたコップに似たこの状況は、わずかな指先の動きひとつで簡単に均衡を崩すだろう。
「……もがも」
 ほとんど唇を動かさず、健が背後へ呼びかける。
「あんた、この人魚背負え。コレット、背負子に翼描いてここから逃げろ。もがもと一緒にロストレイルへ戻るんだ。……できるか?」
「……うん。大丈夫。私、やれるよ」
「頼んだ。あ、ついでに催眠スプレーも持ってけ」スプレー缶が転げ出る。健の両手はトンファーを握ったままだ。「もがもは弱いから、万が一追いつかれたらそれでコレット守れよな」
「……それ今、どこから出したの?」
「企業秘密だよッ!」
 健が跳躍。海から浜辺へ続く飛び石を軽やかに伝い、浜へ降り立つ。
 ついに水が溢れた。堰を切ったように、老若の村人たちがいっせいに健めがけて殺到する。その足元を何かがすくった。ルゼの操る包帯だ。薄く編まれた繊維は柔らかくこすり合いながら人々の中へもぐりこみ、足首を捕らえて引きずり倒す。
「早く行って、コレット!」
 こんな荒っぽい場面は彼女にはあまり見せたくない。幸いというか、コレットは背負子に翼を描く作業に集中していて、こちらを見る余裕はなさそうだ。もがもと人魚とコレット、三人分の体重を支えるための翼はかなりの大きさが必要らしく、不安定な足場を行ったり来たりしている。
(……時間稼ぎが必要だね)
 激昂する村人の銛を絡め取りながら、ルゼは冷静にそう結論付けた。今が夜で助かった。多少流血沙汰が起きても、見られる心配はぐっと減る。
 狼に追いかけられる羊のように、懐中電灯の光は落ち着きなく揺れていた。トンファーが骨を折る音が聞こえる。単純骨折。健がどちらを攻撃しているのかまではわからなかったが、老人のほうなら致命傷といって良いだろう。命が、ではなく生活の。どちらにしろ同じ意味かもしれない。
 包帯を伸ばし、探り当てた箇所を締め上げる。爪で布を引っかくような遠い手ごたえに、目当ての部位を狙えていたと安堵。健のようにオウルフォームセクタンを連れているわけではないから、今ひとつ安定性に欠けていた。
 背後で風が舞い上がる。何十メートルもありそうな翼が、透明な羽を広げて夜空を危なっかしく滑空していた。耳を澄ますと喧騒と潮騒に混じって「う、腕がちぎれる、根元から千切れる!」「もがもさん頑張って!」必死そうな声が聞こえた。
 締め上げていた身体に力が抜けた手ごたえを感じ、包帯を解く。次の獲物を探してさ迷っていた包帯を、何かが跳ね除けた。
「なぜ邪魔をする。なぜ、なぜ」
 あの少女だ。振りぬかれた銛が包帯を押しのけ、絡め取る。そのまま銛に回転運動が加わり、包帯がするすると解かれていく。
 老婆の両の目は憎々しげに人魚の姿を睨み付けていた。彼らの影はすでに頭上へ、岸壁の上にと消えようとしている。
「……さっきも言ったけど、もう一度言うよ。欲望のために他人を犠牲にするのは、良くない。必ず、」
 話の途中で突き出された銛の先端を、たるんだ包帯を幾重にも重ねた盾で受け止める。そのまま銛の先に引っかけて蹴り上げると、華奢な手からは簡単にすっぽ抜ける。船虫を数匹、巻き込んで海中へ自殺していく銛を横目に捕らえた。
「必ず報いを受けることになる」
「死なせとうない。死にとうない」
「あの人魚も、そう思ってたんじゃないかな」
 老婆はむせび泣いていた。若々しい外見に似合わないしわがれた、潮騒に似た泣き声だった。
 その声も近づいてきた波打ち際に交じり合って、最後には波の音しか聞こえなくなった。

クリエイターコメントうおーお待たせいたしました。

>コレットさん
説得ことごとく失敗で申し訳ありません。
魚彦岬の人々に、コレットさんの語られた内容は眩しかったんでしょうねえ。

>健さん
隠匿能力をフル活用していただきました。
ただ、アレはさすがにトランクに入らないよな、隠せるレベルじゃないよなと思ったので……なかったことに! ごめんなさい!

>ルゼさん
あふれ出るジェントルマンぶりがさすがです。
その分、敵への対処が容赦ないのが妙に強調されてしまいましたが……大丈夫ですかね?

以前にも、それぞれどこかで面識のある皆様だからでしょうか? こちらのプレイングの足りないところを別の方のプレイングが補完していて、その方の抜けている部分を今度はこちらの――と見事なコンビネーションが組まれていました。めずらしい。

このたびはご参加いただきありがとうございます。
公開日時2010-05-19(水) 18:00

 

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螺旋特急ロストレイル

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