コップ酒からは油の臭いがした。 カウンターの向こうで酒瓶が輝き、炎が上がる。黒光りする鍋の中で食材が乱舞する。 「お待ち」 村山静夫の前にどんと大皿が置かれた。香ばしく炒められたナッツと青菜がもうもうと湯気を立てている。村山が手をつけるより早く隣席の男が箸を伸ばしてきた。 「美味え!」 男はナッツの熱に目を白黒させながら舌鼓を打った。 安い飲み屋で人と熱気がひしめいている。入り口は開け放たれ、店の外でも内でも飲んだくれの濁声が渦巻いている。村山が腰掛けたカウンターには酒の大瓶と料理の大皿がふんぞり返っていた。客同士で勝手に分けろということなのか。もっとも、大半は隣の男が平らげてしまったのだが。 「ちったあ落ち着きな。ご馳走は逃げやしねえぜ」 ほろ酔いの村山は上機嫌で男を冷やかす。男もまた酒飲みの気安さで応じた。 「すんません。二日食ってなかったもんで」 先刻ようやく収入があったのだと頭を掻く。村山は目を細めた。男の首筋は垢で黒ずみ、シャツの襟は擦り切れかけている。袖から覗く腕には龍の刺青が這っていた。 「シノギかい?」 「下っ端ですけどね」 男は笑いながら認めた。マフィア、ギャング、あるいは麻薬か密売か。何にしろ、インヤンガイではよくある話だ。 行きずりでも何かの縁である。互いのコップに酒を注ぎ合い、与太話に花が咲く。快活な喋り口とは裏腹に、男の目尻には消し難い皺が刻まれている。 「帰んなくていいのか? 彼女、また心配するぜ」 店主が男に声をかける。男は威勢良く鼻を鳴らしてコップを持ち上げた。 「女が怖くて酒が飲めるか!」 「呼んだらどうだい。紹介してくれや」 村山がからかう。男は「勘弁して下さいよ」と相好を崩した。彼の話はさっきから彼女のことばかりなのだ。ぼろの長屋で同棲し、金が貯まり次第一緒になるつもりだという。 「結婚ですよ? カスのくせにね、可笑しいったらないですわ。こんな町で、貧乏で、おまけにこの歳で使いっ走り」 「ま、飲めや」 男のコップを安酒で満たしてやる。厨房で短い怒号が上がった。ネズミでも出たらしい。 「陰の町にも陽なたはあらあな。妬けるねえ」 「持ち上げたって何も出ませんぜ。おおい、ムラヤマさんにもう一本!」 急に店の外が騒がしくなる。酔っ払いの喧嘩かと振り向いた村山は目を丸くした。髪を振り乱した女が金切り声と共に飛び込んできたのだ。男は酔いが醒めたように腰を浮かせた。 「げ、お前!」 「無事!? 無事なの!?」 女はまろぶように男に縋り、体中をべたべたと撫で回す。無傷だと知ると膝から崩れ落ちた。 「何ともないね。良かった」 「あ、当たり前だろうが」 「だって帰って来ないから! 危ない仕事はもうやめてって――」 「落ち着きな」 村山は笑いを噛み殺しながら二人を制した。女が初めて村山を振り返る。化粧っ気のない顔だが造作は整っていた。 「俺がこの兄さんを引き止めたんだ。こんないい女と知ってりゃ早くに帰したんだが」 「あ、え、あの」 無教養な女は口をぱくぱくとさせるばかりだ。男が慌てて割って入った。 「引き止めただなんて。こっちも楽しかったですし」 「いいから帰んな」 村山はしっしっと男を追い払った。 「俺はしばらくここに通う。そのうちまた相手してくれや」 厨房で再び怒号が轟く。村山たちに向かって薄汚いネズミが駆けてくる。男は酔いに任せて足を振り上げた。 ぶちゅっ。ネズミがせんべいと化す。男は「ひっ」と足をどけ、女は両手で顔を覆った。 「殺すこたあないのに!」 「あ、当たるとは思わなかったんだ」 踏み潰されたネズミが痙攣している。ひしゃげた腹部から赤黒いはらわたがはみ出ている。やがて、びちびちとくねっていた尾が緩慢に動きを止めた。 店主が箒と塵取りで死骸を片付ける。男は女に支えられ、ばつが悪そうに頭を掻いた。 「じゃ、これで」 二つの背中はたちまちネオンの闇に呑み込まれていく。村山は目を細めて見送り、コップを乾した。 「また話せるかねえ」 飲み屋でよくある一幕だ。 店内は何食わぬ顔で喧騒を取り戻している。 翌々日、村山は同じ店で男と再会した。しかし男は虚ろな目で相槌を打つばかりで、全く会話にならなかった。 「気にしねえほうがいい。いつものことさ」 店主はあっけらかんと笑う。不安定な稼ぎが情緒に影響するのだと。 五日経ち、一週間が過ぎても男は姿を現さない。 「静かなこった」 村山はカウンターでコップ酒をあおっている。ここ数日ですっかり馴染みになった店主がコップの空きを満たしてくれた。 「鉄砲玉にでもなったかね」 店主は天候の話でもするようにこぼす。村山は黙って酒を舐めた。よくある話だ。 「龍の刺青の兄ちゃんのことかい?」 隣席の客が首を突っ込んできた。 「あの男の組織、最近揉め事があったらしいぜ」 「内紛か何かか」 「そこまで大袈裟なもんじゃねえさ。部下が暴発してアタマが殺されたって話だ」 「部下が?」 村山の声が尖る。客は多くを知らないらしく、軽く肩をすくめてみせた。 「寄せ集めの新興組織だったらしいからな。犯人狩りも始まってる。誰の仕業か知らねえが、長くねえだろうよ」 「さては巻き込まれたか」 店主が呟き、テレビをつけた。 ざざ、ばりばり。ノイズが縦横に走る。像が歪みながら焦点を結んでいく。 「……男が……銃……現金……」 ざざざ、ばりばりばり。像が乱れ、身をよじった。ぐねぐねとくねるノイズの狭間に男性の顔写真が見え隠れする。 「よく見えねえなあ」 客がぼやく。村山はソフト帽をかぶって代金を出した。 「ごっそさん」 足元にはネズミの血と肉片がこびりついている。 雨が降り出した。どら声。悲鳴。町の喧騒は輪郭を失い、油っぽい湿気と共に地面を這いずっている。骸骨じみた老人が地べたに座り込んでいた。尻の下が濡れているのは雨か、糞尿か。 湿気た煙草を携帯灰皿に押し付け、村山は廃ビルの軒下を後にした。 「よう、兄さん」 ソフト帽をそのままに口許を歪め上げる。泥水を跳ね上げて走っていた男が振り返った。 「……ムラヤマさん」 龍の刺青に彩られた腕は古い皮鞄を抱えている。 「なんてザマだ、ああ? まるでドブネズミじゃねえか」 「元からそうですよ」 ずぶ濡れの男は薄汚れ、くたびれ切っていた。 「テレビ見たぜ。一躍有名人だな。その金持って彼女んとこに帰んのか」 「もういません」 「あんだって?」 「俺が殺しました」 組織の頭領が女に目を付けたのだ。 よこせと言われ、男は拒んだ。頭領が妻を娶る筈はない。せいぜい愛妾、でなくば気まぐれで呼ばれるだけだ。そんな女を何人も見てきた。しかし頭領は下卑た顔で笑った。 「対価として地位をやろう。貧乏から抜け出したいんだろう?」 女は恋人のために頭領の元へ行った。男は女を止められず、けれど追った。だが、甘く美しい逃避行などフィクションの中だけでの話。 「どうしようもなくて、気が狂いそうになって、撃ったんです。二人とも」 村山の前で男の頬が濡れていく。顎から服から滴り落ちて、虹色の油膜と混ざり合いながら流れていく。 「そしたら呆気なく命中して。当たるとは思わなかった。はは。いつもはろくすっぽ当たりゃしねえのによ」 「テメェで銃向けたんだろうが」 村山は唾棄した。そして呻いた。 「気に入らねえな」 何が悪い、誰のせいと断じることはできない。行きずりの身であれば尚更だ。 「気に入らねえ。殺すこたあなかったんだ」 代わりにゆっくりと銃を抜く。男もつられるように右手で銃を構えた。左手は縋りつくように鞄を抱きかかえている。 「兄さんが欲しかったのはそれかよ」 村山はゆっくりと撃鉄を起こす。 「貧しいのも惨めなのもうんざりだったから」 男の銃口が真っ直ぐに村山を見据える。 「は」 村山の指が引き金にかかった。 「抜け出したかったのは誰のためでえ」 筒先――どちらの物であったのか――が震えた。 銃声。刹那遅れて、もう一発。 一人が倒れ、地べたに突っ伏す。 「……なァにやってんだよ」 こびりつく硝煙をそのままにもう一人が呻いた。 「俺に無ぇもん、無理だと諦めたもんを持ってたくせに」 刺青の龍に雨が降る。龍は天を翔けることなく鞄を手放した。鞄の大口からは金のはらわたがはみ出していた。 薄いカーテンは遮光の用をなさない。 水っぽいネオンが差し込む暗闇で安い寝台がぎしりと軋んだ。 「組織が一つ潰れたんだってさ」 酒焼けした声の娼婦がけだるく髪を結い上げる。衰えた背中が露わになった。 「頭が下っ端に撃たれたらしいよ。下っ端の女を所望したから。でも、ほんとに女が欲しかったんだかね」 ベッドに半身を起こした村山は答えない。細く立ち上る紫煙を目で追うばかりだ。娼婦は構わずに立ち上がり、ぺらぺらのガウンを羽織った。 「しょぼくたって頭は頭。金も地位もそこそこあるのに貧乏女抱いてどうする。部下の葛藤を肴にしたかったんじゃないのかい?」 「知らねえよ」 「だろうさ。行きずりだもの」 無愛想な村山に娼婦はくたびれた笑みを振り向けた。 「別に感傷的になっちゃいないよ。ほんとによくあることだから」 「何がでえ」 「組織とか揉め事とか男女とか――」 娼婦は蓮っ葉な手つきで煙草に火をつけた。 「人間の命が安くて軽い町さ。いちいち気に留めてたら生きてけやしない」 熟れたしぐさで紫煙を吐く。次いで目を閉じ、頭を垂れる。黙祷のしぐさに似ていなくもなかった。 村山は黙って煙草をふかし続けた。二人分の紫煙が蛇のように這い上がって溶けていく。 「お相手ありがとよ」 村山は服を着込んで代金を置いた。振り返った娼婦が紙幣の厚みに目を丸くする。 「美味えもんでも食いな。体が資本だろ」 ソフト帽の下に表情を隠し、古びたモーテルを後にした。 雨は止まない。 村山の足は男が死んだ現場へと向いた。死体は既になく、泥のような黒ずみばかりが残されている。誰かが片付けたのだろう。ドブネズミの死骸を掃くように撤去したのだろう。 骸骨じみた老人が地べたに座り込んでいる。前を通ると便所の臭いが鼻をついた。 痩せぎすのネズミが老人の陰で雨宿りをしている。 「あばよ」 村山はソフト帽のつばを引いて去った。 暗がりの町に雨がのしかかっている。いつまで続くのか、村山の与り知るところではない。 (了)
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