世界と彼とを秤にかけたら、皿がどちらに傾くのかなど考える必要のないことだ。 そもそも秤など存在しない。彼と比べるものなどあるはずもない。世界のすべては彼で出来ている。 彼が呼んでくれるからこそ存在する名前。彼が触れてくれるからこそ存在する身体。彼の声を聴くためだけにある耳。彼を見るためだけにある目。 彼――虎部隆はインヤンガイまで行ってくることをいつもの調子で言い置いて、それから何の報せをよこすこともなく失踪した。 千千に砕け散りそうな心をどうにか抑えつつ確認した報告書。何度も何度も、何度も何度も何度も読んだ。読みながら知らず知らずに呻き、ついには意味を成さないことを叫んでいたことは、フラン・ショコラ自身も自覚はしていない。 けれど、無意識の下で混乱する心を吐き散らしたのが幸をなしたのか。報告書を確認し終えたとき、フランの心は次なる行動の指針をはっきりと理解していた。 解答などシンプルなものだったのだ。彼がとらわれ戻って来れずにいるのなら、自分が彼を助けに行けばいい。 先ほど出立の妨げを試みて来た白い女神のことなど、今はもう脳裏の片隅にすらない。 裸体のままの身体をシートに身を預けながら、フランの思考は虎部との過去の回想に巡る。彼の声も指先のあたたかさも、目を伏せるまでもなくありありと思い出せた。 トラベさん はやく、一瞬でもはやく。 状況を知らせるモニターに目をやって、少女は唇を噛みしめた。 ◇ 自身が生まれ持った能力と、整い秀でた容貌も相まって、ウィーロウはこれまで性別年齢の差異など障壁にすることもなく、比較的に思うがままこなしてきた。 しかし、大半の者を思うがままに従わせることが出来るのは、それはそれで退屈なもの。 インヤンガイを代表する五大マフィアの一郭を担う位置に立ち、莫大な資金や人足を繰ることが可能な立場になれば、それはなおさらだった。 ――けれど ある日、マフィア間の小さな衝突の中で、愛する女があっさりと命を奪われてしまった。 ただひとり、自分を愛称で呼ぶことを許した女だった。それが、ろくに確認出来なくなるほどのひどい損壊に見舞われた骸となってしまった。 探し当てた部位は焼け焦げた腕だった。ウィーロウが贈った指輪をはめた指がかろうじて残されていた。 抱きかかえ、絶望に落ち、骸の指先にくちづけながら、ウィーロウは思ったのだ。 濁り淀むインヤンガイの天に神などあろうはずもない。仮にいたとしても、それはろくな神ではないのだろう。祈りなど無意味だ。反面で、こうして愛する者を悪戯に奪いもする。 因果は巡り来るものだと謳った者もいただろうか。笑いながら、生真面目にそう説く者のその眉間を撃ち抜いたような気もする。 因果など、罪過など、神など、祈りなど。 自身が生まれ持ったものの使途を初めて理解したような気がした。財を、人足を、立場を。そのすべての使途が、初めて明瞭としたかたちを得て理解できたような気がしたのだ。 奪われたのならば奪い返せばいいだけだ、何度でも。 もう一度――否や、何度でも。 神が創造と破壊とを行うのならば、それと同じことをすればいいだけのこと。 永遠に、何度でも。 ◇ ウィーロウの部下が息を切らせ駆け込んで来た。「お、御面屋からの急ぎの報せがありました」 よほど走って来たのだろう。男の声はかすれ、ひゅうひゅうと空気が漏れる音を混じえたものとなっている。 ウィーロウは部下の男に目を向けて、それからやらわかな笑みを浮かべてうなずいた。「た、たび、旅人としてのなんちゃらって言う道具に、し、知り合いからのメールが届いたとかなんとか」「内容は?」「お、女が、そいつを取り戻しに来ると」 言って、部下は指をさす。 示された先に立つ者が誰であるのか、確認するまでもない。ウィーロウは「そうか」と返し、首肯する。「虎部」 ウィーロウに名を呼ばれた男は主のもとに走り寄る。その虎部の腰を抱き寄せて、再び少年の目を覗き込み、ウィーロウは笑った。 走る衝撃。足もとが大きくぐらつき、視界が塵芥に塞がれる。 ウィーロウは天を仰ぎ見た。何かが一瞬の内に一帯を灰塵と成したのだ。息絶え絶えに伝達に来た部下の姿も失せている。 濁り淀むインヤンガイの天が広がっていた。部屋どころかビルや周囲の建物のすべてが消えている。 仰ぎ見た重々しい灰色の雲の中、そこに留まる黒点がひとつあるのがかろうじて視認できた。果たしてその黒点こそがそうであるのかは知れない。が、どこかでそれを確信出来た。 ウィーロウは虎部の腰を引き寄せ、抱き包むようにしながらやわらかな笑みを浮かべる。 天より舞い降りてきたものが神や神の使者であるならば、それはやはりろくでもない存在だ。 ウィーロウは抱き寄せた虎部の耳にささやきを与える。 腕の中にいる男を”取り戻す”ため、”女”がわざわざ足を運んできたのだ。しかもインヤンガイの街の一郭を一瞬にして灰塵と化すだけの力を有したものと共に。 街区のいくつかなど。そこに住む者たちの生命など知るところではない。けれど、この力を逆に利用すれば、マフィア組織の壊滅も一瞬の内に終わらせることが出来るだろう。 変わらず微笑みを浮かべたまま、ウィーロウは虎部を抱き寄せる腕に力をこめた。 ◇ ロストレイル蟹座号の探索に酷似した機能を搭載した兵器は、ただひとり、虎部の居場所のみをサーチする。 瞬時にしてインヤンガイへの転移を完了し、間を置かずにサーチも完了するはずだった。少なくとも、フランの予定では。想定よりも時間を要したのは世界樹が機能していないからか。理由など知れない。どうでもいい。 苛立つ少女はモニターを睨む。 お願い、パパ。早く、早く――! 祈りは既に狂気の底に沈んでいた。 白い女神が事態の報告に駆け込むよりも先に、司書ヒルガブは四枚のチケットを用意していた。 日頃は安穏とした笑みを浮かべているばかりのその顔も、今は緊迫した色によって染められている。「インヤンガイで大規模な破壊が起こる予言が出ました」 チケットを配りながら、ヒルガブは手早く状況の説明をした。 フランが取り付いたロストレイル蟹座号を停止させることはできるが、そうなるとディラックの空上で交戦が発生してしまうだろう。それよりは、いったん、彼女の思惑どおりインヤンガイまで彼女を運び、現地において身柄を確保したほうが致命的な事態は避けることができる。ヒルガブのチケットを受け取ったものたちは、速度にまさる他の列車でインヤンガイに先まわりする格好になる。「マフィアに関する状況はさておき、今はフランさんを抑止しなくてはなりません。……なんとしても」 言いよどむその言葉が含む言外の声は、ドアを開け走り去って行ったロストナンバーたちの耳に届いただろうか。
フラン・ショコラの行動が結びつく最悪な結末は、世界司書ヒルガブの書に予言された通りのものだ。 けれど、未来は不確定なもの。安定感に欠けるものでもある。 つまるところ、フランよりも先にインヤンガイに到着し、フランよりも先に虎部隆を発見・保護してしまえば良いだけの事。 「皆さんにお願いしますぅ……」 フランにとっては無二の友である存在――川原撫子は震える両手を懸命に押し隠しながら、同行者たちの顔を見つめた。 「フランちゃんは寂しいだけなんですぅ。殺さないで、傷つけないで……お願い」 声はかすれ、聞き取りにくい。 撫子の他、三人の同行者たちはそれぞれに離れた席に座っていた。ジャック・ハートは一番奥の席で足を組み、窓枠に肘をついてほおづえをとり、常よりも速く流れていくディラックの海を見つめたままだった。 アコル・エツケート・サルマは撫子の顔を見てこそいたが、その目は撫子を見てはいない。 世界司書からの依頼を請け、それからロストレイルに乗り込みターミナルを出立するまでの間は、一分をも争うものだった。 列車に乗り込む直前、アコルはフランとの対峙を迎えるにあたって、事前仕込みとも言うべき行為を試していた。 マキシマムトレインウォー。あの大きな戦いの終盤。 アコルは密かに、ドクタークランチの霊を捕らえていた。霊魂や精神に干渉し、これを使役する事を可能とする妖術師たるアコルであればこそ可能となるものだった。 アコルの傀儡と成したクランチの霊魂に干渉し、実体化させる。その上でクランチの邸宅や、フランが持ち出した書類の類いを探し出して焼失させる。 クランチを父と呼び慕う少女に、父が自らの手で残留物を消滅させていく。その映像を思念波と変え、直接フランの頭の中に叩き込むのだ。 ――けれど アコルは席の上、吐き出しそうになる暴言を無理やりに飲み下す。 クランチの魂など、もはや一抹も残されてなどいなかった。彼は完全なる消滅を迎えたのだ。完全なる無の状態だ。無となってしまった者の霊魂を喚び起こす事など出来ようはずもない。 ゆえに、フランに向けた贈り物の用意は出来ないまま。――向けた嫌悪は憎悪へと変じる。 撫子から比較的に近い位置に座っていたマスカダイン・F・ 羽空は、ただ一人、撫子の気持ちを案じるような表情で静かにうなずいた。 「大丈夫、大丈夫なのね。きっとうまくいくのねー」 言いながら瞬きさせる眼光は銀にひらめく。泣き出すのを懸命にこらえているがために赤く腫れた目が、まっすぐにマスカダインを見つめた。 マスカダインは微笑む。うなずき、撫子をなだめるような口ぶりで、それから何度か「大丈夫」を繰り返した。 ロストレイルはインヤンガイのターミナルに滑り込んでいく。 司書の書にあらわされた予言にあった場所は、幸いにも、インヤンガイで使用している地下の駅からさほど離れてはいない。 ロストレイルのドアが開く。 初めに飛び出したジャックが訝しげに眉をしかめる。しかし、肩ごしにわずかに振り向き、続いて出てきたアコルの姿を見とめると、ほんのわずか口角をつり上げて笑った。 列車内においてはその身を3Mほどのものに縮めていたアコルも、今はもう少し大きな――それでも本来の姿よりは小さく縮めたものではあるのだが、蛇竜神本来の威を感じさせるには充分たるものとなっている。 アコルもまたジャックを見据える。その金色の眼光がゆらりと細められ、挑発的な笑みを浮かべているジャックを送るかのように瞬いた。 次の瞬間。 ジャックの眼光は緑から紫へと変じ、その姿は刹那の後に消失する。 マスカダインに支えられ、撫子がロストレイルを降車した時にはすでに、そこにジャックの姿は無くなっていた。そうして、アコルもまた撫子とマスカダインを待つ事をせず、振り向きもせずに地上へと向かっていった。 「インヤンガイは、ボクの大切な人が住んでいた世界なのね」 誰に向けたものとも知れない言葉。撫子はマスカダインの横顔を仰ぐ。 「だから、守るんだ」 マスカダインの表情からは平時常に浮かんでいる笑顔は消えていた。 「私も、フランちゃんは……フランちゃんは絶対に守ってみせます」 腫らした目をきつく拭うと、撫子は大きく息を吸った。 「早く行きましょうぅ」 言うが早いか、マスカダインの手を離れ、アコルの後を追うようにして走り出す。その撫子の背を追って、マスカダインもまた走り出す。 ――浮かぶのは、このインヤンガイで出会った女・シロガネ。 生きる意味を思い出させてくれた大切な、唯一無二のひとの姿だった。 ◇ 仄暗い部屋の中、ウィーロウは虎部隆に一枚の写真を差し出していた。 自らの瞳に宿る呪力を用いれば、誰かを支配下に置く事など他愛無い事。虎部隆という青年は一見何という事のない平凡な人間にしか見えない。だがこの青年もまた旅人のひとり。何か大きな力により特異な道を歩む事を余儀なくされた青年なのだ。 写真にあるのは別マフィア組織である美龍会の長エバの姿だ。 インヤンガイで力を誇っていたマフィア組織は五つ。五つはそれぞれに敵対しながらもそれぞれに均一な立場を保つ事を重んじるようにもしていた。 が、その内の一角である黒曜重工の長が殺され、黒曜重工は実質の壊滅を迎える事となった。黒曜重工の長を殺したのは旅人だという。 ならば、美龍会の長エバもまた、どさくさの内に殺害されてしまえば良いのではないか。 とはいえ、隆は決して暗殺等に向いているような人材ではない。相当する能力を保有しているわけでもない。なんという変哲のない青年にすぎない隆が、マフィアの、それも尋常ならざる能力を保持するエバに向かったところで、返り討ちにあい無駄な死を迎えるであろう事は目に見えている事だ。 けれど、ウィーロウが買ったのは隆が保有している人間性だった。寄せられている信望はあつい。それは隆という人間がもつ魅力のゆえなのだろう。 その性格を用いてエバに近付き、距離を縮め、信頼を勝ち得る。そうして隙を見て、その上でエバを討つ。 気の長い計画だ。けれどもウィーロウの魅了の元に動くであろう隆は、ほとんどオートで動いてくれるに違いないのだ。これほどに使い勝手の良い駒はない。 しかし、隆はウィーロウの声に反し、大きくかぶりを振って呼気を深く整えた後、笑みさえ浮かべて応えたのだ。 それを受け取る事は出来ない、と。 忌眼の効力から自制の元に脱した者など、かつてただのひとりもいなかった。 ウィーロウは驚きに目を見張る。隆の名を呼ばわって、再び忌眼の能力を使役しようと試みるため、隆の腕に手を伸べた。 ◇ アコルは街区の上空で本来の大きさをもった姿態をとる。 インヤンガイは霊力によって成り立っている。他の世界では出来ない行為だが、こと、インヤンガイという世界においては、アコルの能力は全開といって過言ではないほどに使用する事が出来る。 あらゆる霊力を回収し、己の身の内に集約させ、世界とも対抗しうるだけの力を蓄えるのだ。そうすれば、仮にフラン・ショコラが所持してくる兵器とやらが如何なるものであれ、それにも対抗しうるだけの力を担う事も可能になるはず。 ――むろん、今件を解決し、ターミナルに帰着した後も、その力はアコルの身の内に残るだろう。 「さぁて、お主らもそのまま無為に漂っているだけでおるのもつまらぬじゃろう。ワシの下に来るが良い。ワシの力となるが良いわ。よっぽど有意義で楽しい思いを味わわせてやろうて」 眼光が薄い三日月のかたちに歪む。漏れ出たのは情というものの一糸も感じられない、乾いた嗤い声だった。 ややの間を置き、眼下に広がる街区が小さな揺らぎを見せる。そこかしこから赤黒い、糸の束のようなものが湧きだした。それは幾筋もの煙のようなものへと変じ、引き攣れたような嗤いを漏らすアコルの口中へと吸い込まれ、咀嚼される。 初めは幾筋かの線でしかなかったそれは、地の揺らぎが大きなものとなるたびに数を増していく。その総てが渦を描き、苦悶と怨声を吐き出していた。アコルはその言葉も総てを飲み下す。 「カカ、カカッ……甘露よのう、……童どもが」 金色の三日月がひらめく。 その三日月の端が、曇天の中に現出した黒点を捉えるのは、それからややの間を置いた後。 ◇ 幾度かの瞬間移動を繰り返した後にたどり着いたそのビルを、ジャックはわずかの間だけ仰ぎ見る。 ――ろくに接した事もない、名前もよく知らないあの司書が言っていた予言が成るならば、目指すべき対象者は二人ともにこのビルの中にいるはずだ。 生温い風が吹く。足もとがわずかに揺れている。伝わる震動を気にとめるでもなく、ジャックは再び能力を行使した。 ◇ ノートがエアメールの着信を報せる。 マスカダインは、けれど、その報せをすでに二度ほど無視し、流した。その内容がいかなるものであるのかは知れないが、今は眼前にある事案を優先させるべきなのだから。 撫子と共に無人の街区を駆けて来たマスカダインの前で、撫子が不意に足を止める。その視線が弾かれたように上空に向けられたのを知って、マスカダインもまた上空に視線を投げた。 「フランちゃん!!」 撫子が叫んだ。けれどその視界の先にあるのは重々しく広がる曇天ばかり。マスカダインは撫子の横に走り寄って撫子の名を呼んだ。 けれど、撫子はマスカダインの言葉に大きくかぶりを振る。 「フランちゃん! ごめんなさい! 私、フランちゃんをひとりにしないって約束したのに……!」 喉が枯れてしまいそうなほどの声で撫子は叫ぶ。 「遅くなって本当にごめんなさい! 手伝いますぅ、絶対フランちゃんの望みを叶えますからぁ!」 曇天の一点を仰ぎ見ながら叫ぶ撫子に、マスカダインは再び視線を持ち上げた。そうして、そこにあるものを見つけたのだ。 「あれは」 マスカダインの目が捉えたのは曇天の中に浮かぶ黒点だった。 ロストレイル号にも似たそれは、今この瞬間まで明瞭たる姿を見せていなかったはずだ。けれど撫子は間違いなくそれを察していた。まっすぐに、間違う事もなく、そこにいるであろうフランに向けた想いを叫んでいたのだ。 ――撫子ちゃん そして、降ってきたその声は、まごう事なくフラン・ショコラのものだった。 撫子がこらえきれずに嗚咽を落とす。 「フランちゃん!」 モニターに映る撫子の姿を、フランはそれでもどこかまだ茫洋とした頭を抱えたままに見つめていた。 動作の不調を訴えていた兵器がインヤンガイへの侵入を成功させ、サーチ能力が虎部隆の居場所を見出した、その直後。数値データばかりを表示させていたモニターが捉え流したのは、フランが隆の次に心を開いている相手――川原撫子の声だったのだ。 「なんでここに……」 「だってフランちゃんと約束しましたぁ! ひとりにしないって! 今度コタロさんが帰ってきたらWデートでピクニックに行こうって! コタロさんは帰って来ました、だから今度は虎部さんとフランちゃんが無事に帰ってくる番ですぅ!」 撫子が返す。 「フランちゃん」 撫子の横で、マスカダインもまたフランを呼ぶ。 マスカダインのノートが再びメールの着信を報せた。短かな時間の間で、これで三度目の通知となる。あるいは緊急のものであるのだろうか。――わずかな胸騒ぎがした。 けれど、マスカダインは沸き起こるその胸騒ぎを打ち消すように強く拳を握った。そうして笑顔を作り、上空にいるフランに向けて手を振る。 「やっほー。君の博士と君を殺そうとした道化師だよ!」 軽い口調で言いながら、マスカダインは笑った。撫子が肩を震わせ、弾かれたようにしてマスカダインに顔を向ける。 その刹那。 「ああ、そうじゃ。神に楯突く愚か者の末路、貴様とて見ていたのじゃろう?」 落ちてきたのはアコルの声。 次いで、何かが何かに叩きつけられたような音が街区の上に落ちてきた。撫子が悲鳴をあげる。 街区のビルの上、フランを乗せたままの兵器が上空から一気に叩き落とされたのだ。むろん、アコルによって。 兵器は、けれども仮にも対イグシスト用に試験開発されたものだ。防壁を作り、そのまま叩きつけられ破壊される事はない。 落下したフランを見下ろし、アコルは吐きだした。 「その愚か者の残し物を使う貴様は阿呆か」 「フランちゃん!!」 絶叫し、兵器に駆け寄っていく撫子を、マスカダインはしばし呆然としたままに見送った。 ◇ そこにいたのは確かに虎部隆だった。 薄暗い部屋の中、顔色はひどく悪いようだ。しかしその眼光を検めて、ジャックはわずかに口角をつり上げた。 「ヨォ、虎部」 声をかける。 隆はウィーロウから半歩ほど離れた距離にいる。何の前触れもなく部屋の中に現れたジャックが不意に声をかけた事で、隆はギョッとしたような面持ちを浮かべ、こちらを見た。 「えっ ジ、ジャックさん?」 驚嘆。青年は目を見張り、ジャックを頭からつま先まで検める。その傍らで、ウィーロウは紫色の双眸にわずかな警戒色を浮かべ、ジャックを見据えていた。 ジャックは喉を鳴らし、笑う。 「楽しんでるとこ悪いけどヨ、ちょっと面貸せヨ」 対するジャックは悠然とした笑みのまま、常と変わらない歩調で一歩、二歩と進む。 「フランが待ってんだヨ」 かけた言葉は慧竜祭において交わしたそれと似たものだ。 「フラン」 隆はジャックの言葉を反芻する。 あの日、フランは隆の後ろにいて、隆の袖を引いていた。懐かしく思い出しながら、ジャックもまた相対するように双眸を紫色に染める。 精神感応と透視能力とを併用し、ウィーロウと隆が”入れ違い”ではないかの確認を済ませる。 ウィーロウは、恐らく、暗房という地下に出現する変飛や影魂と称される存在を創り出すための実験を重ねてきた張本人だろう。 報告書によれば、一つ目と称されるモノが契約主の欲望に実体を与え、引き渡してくれるという事例もいくつか生じているようだ。 ウィーロウが何のためにそんな実験を重ねてきたのかは知らない。そもそもそんな理由など、ジャックには関わりのない事だ。 ただ、その技術や力を用い、隆とウィーロウとが入れ替わっている可能性も否めなくはなかった。むろん、眼前にいるウィーロウが間違いなく本人であるという保証もない。 ――けれど、今はまず、隆を保護する事が優先だ。 「行こうゼ、虎部」 言って、ジャックは一度だけつま先で床を叩く。次の瞬間、ジャックの姿は再び消えていた。 ウィーロウの手が隆の腕に伸び、捉えようとした。が、隆は自身のギアであるシャーペンを取り出し、構える。 それは、まさに刹那の出来事だった。 ウィーロウのすぐ目の前に出現したジャックがウィーロウの首を捉える。満面に浮かぶ喜色の笑み。 「マァ、おまえはとりあえず死んどけヨ。ヒャハハハハ!!」 ウィーロウの首を掴んだまま、ジャックは薄闇を揺らすような狂喜の声をあげた。次いで放たれたのは青白く爆ぜる電撃。ただしそれは眼前にいるウィーロウの体内のみに限定した効力をもたらすもの。さらに言えば、首から下のみを崩壊させるための。 ウィーロウの表情が崩れ、力を失くす。開かれたままの口蓋から、内臓が焼け焦げた異臭が沸き立った。その臭気に眉をしかめ、ジャックはウィーロウの屍を床に叩きつけるようにして放りやる。 振り向き、隆の姿を見る。 ジャックがウィーロウの首を捉えるのと機を同じくして、隆はギアで自らの首を突こうとしていた。それが隆自身で考え判断した、逃走あるいはウィーロウに対抗するための手段であったのか。あるいはウィーロウの魅了の効果がもたらした影響によるものであるのか。それは知れない。 が、いずれにせよ、ジャックは隆にも電撃を放っていたのだ。むろん、軽く痺れる程度のものではあるが。 ジャックは隆を見下ろし、喉を鳴らすようにして笑った。それから再びウィーロウの屍に向き直り、片手でウィーロウの頭部を支える。焼かずに残した頭部だ。眼球もまた、今はまだ腐敗もせずにかたちを残したまま。 ウィーロウの眼孔に指をつきたて、眼球をえぐる。ゼラチンの塊のような感触が指先に伝わった。 ほどなくしてウィーロウの屍は双方の両眼を失う。空洞となった昏い穴ばかりが、まるで黄泉路に通じる風穴のようにぽっかりと開いていた。 インヤンガイにおいて、紫色の眼球というものは極めて珍しく、また、忌避されがちなものであるともいう。 魅了の効果をもたらすそれを見つめた後、ジャックは、今度は躊躇する事なく、自らの眼孔に指を突っ込んだ。 「ヨォ、虎部」 わずかな間を置いた後、隆は自らの上体を抱え引き起こすジャックの声を聞いた。目を開き、まだわずかに麻痺の残る頭を震わせる。 ジャックは目を伏せたまま、隆の口中に持参してきたタオルを突っ込み入れた。万が一の自殺防止策だった。 隆の目がゆっくりと瞬きをする。 ジャックは薄く笑い、それからゆっくりと瞼を持ち上げた。 今、ジャックの眼孔にあるのは、ウィーロウの屍から奪ったウィーロウの眼球だ。隆はこの眼球がもたらす呪力のせいで、なんの罪もないままに、長くインヤンガイに留まるところとなってしまったのだ。 「俺の目を見ろヨ、虎部」 屍から奪取した眼球がジャックに視力をもたらすわけもない。自らの眼球をえぐり捨てたジャックが、己の目玉で視力を得る事など、今後ニ度と無いのだ。 だが、ジャックには隆の姿が”視える”。透視能力を代用すれば済むだけの話なのだから。 ウィーロウの眼球で隆の目を覗きこみながら、同時に、精神感応をも併用し、隆の思考に干渉する。 「ウィーロウ、ウィーの言葉を全て忘れろ。フランを絶対傷付けるな、優しく抱きしめてやれ」 ゆっくりと、言い聞かせるような口ぶりでそう落とす。 隆が小さくうなずいたのが視えた。 ◇ 幾度目かとなる着信音が鳴って、マスカダインは再びメールの到来を知った。 視界の先、アコルが執拗にフランを――兵器を攻撃しているのが見える。インヤンガイのそこかしこから集められた霊力は、アコルの身に常よりも強靭な力を蓄えていく。 「世界図書館がクランチを殺した? はぁ? 貴様、クランチがどれだけ世界図書館員を虐殺したか知らぬと申すか? のう?」 言いながら、アコルは何度も何度も兵器をビルに叩きつけている。だが兵器は絶対的な守備力をもって拮抗していた。撫子の泣き叫ぶ声ばかりが空気を裂いている。 舌打ちをした後、アコルは深く息を吸う。筋のようになった霊の塊が吸い込まれていく。 ――今は、眼前にある問題に気持ちを収束させる事のほうが大切だ。 理解はしている。だが、沸き起こる胸騒ぎを払拭する事が出来ない。 舌打ちをして、マスカダインはようやくエアメールの内容を確認した。 ――そうして、彼は刹那の間、全ての動きを止める。 そこには親しくしているルンから届けられたメールがあった。 マスカダインが、自身よりも大切に想う女――シロガネ。 インヤンガイに姿を消した御面屋が、シロガネの魂を収めた壺を奪うため、美龍会の元へなだれこもうと騒ぎを引き起こしているのだという。 「シロガネさん」 愛する女の名を口にする。その瞬間、彼の思考が向かう先は方向を定めたのだ。 撫子の絶叫。アコルの怒号。次第に大きくなっていく大地の鳴動。 それらの全てに背を向けて、マスカダインは美龍会のアジトがある街区を目指し、走り出した。 「貴様自身も身に覚えがあろう? なのにそれらの事を棚上げしてまだ慕うとは、正真正銘の愚か者じゃな」 言いながら、アコルは視界の端に走り去っていくマスカダインの背を送る。それから再びフランへと目をやって、舌打ちともとれるものを落とした。 ――クズが 吐きだしたそれは、誰に向けたものだったのか。 しかし、どうだっていい事だ。 アコルは吸い込んだ霊力を練り上げ、ひと振りの矢のようなかたちに硬質化させたそれを、まっすぐにフランに定める。 「やめてくださいぃ! フランちゃんをそれ以上傷つけないでくださいぃ!」 叫ぶ撫子の声はもうとうに枯れている。けれど、フランを庇おうにも、守ろうにも、盾になりたくとも、フランがあの恐ろしい兵器の中にいるままでは、撫子にはどうする事も出来ない。 けれど、アコルが放った嚆矢はすでに抑止もきかず。 吸い集めた霊力によって力の幅が強靱化している今のアコルのそれならば、言ってしまえば所詮は試作兵器にすぎないフランのそれでは、相対する事は出来ないかもしれない。 去来する悪寒に苛まれ、撫子は走る。 盾になる事も届かないのならば、せめてフランの代わりに、自分が。 無二の親友の無事を祈り、叫ぶ撫子のその想いは、わずかほどの揺らぎも歪みもない、真っ当たる真実のものだ。精神を司るアコルであればこそ、その想いを理解する事は出来る。 フランが兵器が搭載している力を揮おうとしないのも、ひとえに、撫子がここにいるからにほかならない。フランもまた撫子の身を案じているのだ。 アコルは再び表情を歪める。次いで、威力を増した鬼火を生み出し、それを嚆矢にぶつけた。 放たれた矢は鬼火によってフランを射抜く前に爆破されたが、生じた風刃がビルの壁をえぐり、地を深く削る。風刃は撫子の身をも削り、その身を地面に縫い付けていた。 「悪いのはウィーロウなんですぅ! 危なくなればあの人は虎部さんに自分を庇わせますぅ。……だってあの人私達に何度も力が欲しいって言いましたぁ!」 全身至るところに深い傷を負いながら、それでも己の無力に膝をつき泣き叫ぶ撫子に、アコルはため息まじりに声をかける。 「……そのために虎部を支配した、と?」 「わかりません……でもぉ、私の望みはフランちゃんと虎部さんがふたり一緒に無事に帰る事ですぅ! 虎部さんだけじゃないんですぅ!」 返された応えはアコルが投じた問いかけに対するものとして、まるで正しいものではない。だが、アコルは再び深いため息を吐く。 「聞いたかの?」 言いながらフランを見る。 フランは兵器の中、うつむき、くちびるを噛みしめていた。 「愚か者のことなど忘れ、捜し人の望む彼女にならぬか。ワシは精神を司るものじゃて、その腐った精神、浄化しつくしてくれる事も可能じゃ」 「……忘れるなんて」 フランの声が漏れる。 兵器の傍まで駆け寄った撫子が兵器の外殻を叩く。一心にフランの名を呼ばわりながら、何度も何度も。 ――その時だった。 「よっフラン、迎えに来てくれたのか?」 不意に届いたその声に、兵器の中に座ったままのフランが弾かれたように顔を上げた。 隆の姿がそこにある。いつもと何ら変わらない様相で、いつもと変わらず軽い調子で片手をあげていた。 「トラベさん」 フランが息を飲む。 隆はジャックの支えを離れ、ゆっくりとフランのもとに近寄っていく。足もとはまだいくぶんフラついていた。だが自分の足が、身体が、頭が。なぜこうもフラついているのかは分からないままだ。 外殻が開かれ、裸体のフランが飛び出してくる。 錯乱の中にあったフランには隆の事以外考える余地などなかったのだ。自らの身体を包む衣服の事など、どうでもいい事だった。 「うわあ、フラン!」 文字通り飛びついてきたフランが全裸だったのに驚愕したのは隆のほうだ。けれど驚きながらフランを抱き返し、それから初めて、そこに撫子やアコルの姿があるのを知る。 撫子は全身の力を失くし、膝をついて泣き崩れていた。上空には巨躯を誇るアコルがいて、退屈そうにあくびをしている。 ただひとり、ジャックだけは、眼前で繰り広げられている大団円な光景を手放しで喜ぶ事もなく、ひたすらに辺りを警戒していた。 手にかけたあのウィーロウが本物だとは思い難い。仮にジャックの想定通りであるならば、この街区のどこかに本物や本物が遣わしよこした者が潜んでいるかもしれない。 万が一に狙撃などの対象にされていた場合の事も考えたが、それは杞憂に済んだらしい。 ――あるいは、もっとさらに別の何かが、どこか違う街区で生じているのかもしれない。 失われた視力に代わる透視を駆使し、周囲にいる者の気配を探る。――マスカダインの姿がなくなっていた。 マスカダインがここしばらく関わっている事案の内容も、ジャックはむろんの事把握している。 「ヨォ、フラン」 笑いかけながらフランに歩み寄る。フランは隆の上着を着せられていた。隆の腕にしがみついたまま、フランは泣き腫らした目でジャックを仰ぐ。 「ジャックさん」 「ずいぶんとカッコいいモンに乗ってきたじゃねえかヨ。俺にも貸してくれヨ」 「え、でも」 ジャックの言に逡巡を見せたフランだが、ジャックはフランの髪を優しく撫でて、やわらかな笑みを浮かべたままに言葉を続けた。 「俺サマが乗りこなせネェモンなんざないんだヨ」 女も、兵器もな。そう言って笑いながら、ジャックはフランが乗ってきた兵器の中に乗り込む。 アコルがジャックを見つめていた。その視線にこめられている意図を察しながら、ジャックはわずかに喉を鳴らす。 「じゃア、後でターミナルで合流しようゼ」 ジャックの言葉と共に、兵器の外殻は再びかたく閉ざされた。 街区を揺るがす鳴動は少しずつ、確かに大きさを増している。 ジャックが乗った兵器がわずかな間の後に消えたのを確かめて、撫子はようやくふらふらと立ち上がり、笑みを浮かべた。 「フランちゃん、帰りましょうぅ」 目を拭いながら撫子が言えば、フランは隆にしがみついたまま、気恥かしそうに小さくうなずき、口を開ける。 「……ごめんね、撫子ちゃん。……ありがとう」 その言葉に撫子の涙腺が再び決壊した。フランに抱きつき、撫子は声をあげて泣いた。 隆を離れ、撫子に抱きついたまま、フランはふと視線をあげて上空にいるアコルを仰ぐ。 「アコルさんも……すみませんでした」 「むお?」 アコルは先ほどまでとはうってかわった表情で、ともすれば消え入りそうに小さなフランのその声に、わずかに驚き――それから困ったような笑みを浮かべた。 足もとが鳴動する。 「シロガネさん……」 いくつもの街区を駆け抜けるマスカダインの顔にあるのは、何かをかたく決したような、覚悟の表情だけだった。
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