一一 一は怖気づいていた。それは一にとっては珍しいことで、当世風の言い方をすれば「アリエナイ」かも知れない。例えば春、新しいクラスの扉を開ける時だって胸には期待が詰まっている。要は考え方ひとつなのだ。新しいクラスには未知の友達や先生が待っているのだから。 未知は不安や恐れをも呼ぶが、ネガティブな感情は表に出すべきではない。いつだってポジティブに、ポジティブに。 「うん。怖気づいてなんかない」 喝を入れるように自らの頬を叩く。 「自分ちじゃん。堂々と入っていいんだってば」 もっとも、両親に心配はかけてしまっただろう。連絡ひとつ入れられぬまま今に至っている。 「ちゃんと謝ろう。うん」 いつもの玄関、懐かしいノブ、独りきりで幾度も夢想したドアから家の匂いが這い出してきた。 “ただいま”。ありふれた一言はどういうわけか喉につかえる。そろそろと歩を進めるたび廊下がぎしぎしと軋む。 見慣れた居間では見知らぬ老夫婦が待っていた。 「え? え……?」 視界に無音の砂嵐が走る。ここは一の家だ。そうである筈だ。 「あの……どちら様ですか?」 問うてもいらえはない。老人は一など見えていないかのように朝刊を凝視している。 「駄目だ。ない」 やがて老人は老眼鏡を外してかぶりを振った。 「そう。じゃあ、明日かな」 傍らの老婆が嘆息する。老人は新聞を畳んでとんとんと床に打ちつけた。 「希望が繋がったってことだな」 しわがれた声の笑い方に聞き覚えがあって、一は怖気に貫かれた。 「ね、ねえ!」 反射的に、幼子のように老人に飛びつく。しかし一の手は老人の腕をすり抜けてしまった。蜘蛛の巣のような白髪を戴いた老婆も一に気付かず、いそいそと台所に立っていく。 「ねえ。私。私だってば」 一は後追いをする幼児のように台所に飛び込んだ。 「なんで無視するの? 怒ってる? ごめんなさい、ごめんなさい! どうしても連絡できなかったの!」 老婆は答えず、電気ポットを傾けた。急須目がけて熱湯の滝が滑り落ち、濃密な湯気が一と老婆を隔てていく。 「そう落ち込むな。死亡のニュースを見るよりいいじゃないか」 「死んだなんて言わないで」 老人の声が飛んできて老婆が顔をしかめる。一など存在しないかのように二人のやり取りが続いていく。 「……一目でいいの」 老婆が茶を運びながらぽつりと呟いた。 「もう一度、あの子に会いたかった」 それは老いた母の顔で―― 一は絶叫した。同時にベッドから転げ落ち、鈍い衝撃音がうわんうわんと反響する。 「……は」 痛みで歪む視界の中、独りぼっちの部屋の景色がぐるぐると回った。 現在の一はターミナルでの独り暮らしだ。珍しい話ではない。一より幼いのに独り暮らしをしている者とている。 そう、皆が自分で生計を立てている。一もアルバイトに向かわねばならない。擦り切れかけた白い夏服――故郷の学生服だ――をさっと掴み、腕を通す。するするとボタンをかけて自分の体を閉じ込めていく。洋服ならターミナルでも売っているが、この制服は一と故郷を繋ぐ証だ。 髪をとかすために鏡を覗き込み、ぎくりとする。 「めっ」 鏡の中の自分を叱り、口角を持ち上げるように両頬をつねり上げた。 無言で玄関を開け、外に出る。しっかりと鍵をかけてから歩き出す。辿る道も景色も変わらぬのに、どうして足が重いのだろう。 原因は分かってはいた。 いいや、考え方ひとつだ。あの夢は教訓をくれた。正夢になる前に帰郷せねばならないと気付かせてくれたではないか。 ポジティブに、ポジティブに。ネガティブな面を人に見せてはいけない。一は皆を助けるヒーローでなければならぬのだから。 「大丈夫?」 だが、バイト先の先輩は一を気遣ってくれるのだった。 「顔色悪いよ。帰ったら?」 「だ、大丈夫です」 ぎごちなく笑み返すしかない。優しい酸で焼かれる思いがする。 「次、これですよね。運んどきますから」 金属のワゴンを押した途端、ずるりと足が滑った。けたたましい悲鳴を上げてワゴンがひっくり返る。一は辛うじて踏みとどまったが、先輩の嘆息が降ってきた。 「帰って」 「す、すみません。気を付けます」 「怒ってるんじゃないの。心配なんだってば」 先輩は一の肩を抱き、帰るようにと繰り返した。 情けないヒーローだ。 いいや、たまにはこんなこともある。ピンチはチャンス、不調の時こそ学ぶことは多い。ポジティブに、ポジティブに。 (何それ) 不意にいやらしい声に背中を打たれた。 (ポジポジって、ウザい。キモい。ジコケイハツのセミナー?) 弾かれたように振り返る。見知った顔はない。 「気のせい気のせい」 頭を掻きむしる。茶色い髪がもつれた釣り糸のように乱れていく。時間を持て余しているからいけないのだ。友人に会いに行こう。この時間なら図書館で事務作業をしている筈である。 「彼女ならお休みですよ」 応対したのは司書だった。 「依頼が入って、シフトが変わったので。何か用でしたか?」 「い、いえ」 そそくさと退散し、吹き寄せられるように依頼掲示板へ向かう。あいにくどの案件も埋まっている。 一はおずおずと司書の所に戻った。 「あの……世界計って使えるようになったんですよね?」 「ええ、どうにか。ロストレイルもちゃんと動いていますよ」 「ですよね。未知の異世界がまた見つかっちゃったりなんかしますか?」 雑談のふりをしながら懸命に言葉を探す。 「例えば、ほら。ツーリストの人の故郷とか」 「ああ……どうでしょうね」 司書の答えは歯切れが悪い。一はじれったくなって「あの」と切り出した。 「今まで、無事に故郷に帰れたツーリストはどれくらい居るんですか?」 その瞬間、司書の呼吸が止まった気がした。 はい受付はこちらです、書類の記入を、すみませーん、お待ちください……。図書館の業務が続いている。 「あ、あ! ナシナシ、取り消します」 一は耳を真っ赤にしながら顔の前で手を振る。 「ちょっと気になっただけって言うか、へへ。い、意味ないですよねこんな質問。あはは。すみません」 すべてを笑顔でうやむやにし、踵を返した。 帰り着く先は一つだけ。ただいまもおかえりも行ってきますも不要の部屋。真っ先に冷水で顔を洗った。せめて気分だけでもしゃっきりさせねばならない。 「……大丈夫」 鏡の前でタオルに顔を埋める。 「大丈夫」 タオルから視線を持ち上げる。 「ウッザい。大丈夫大丈夫って何があ?」 鏡の中の一の目がぐにゃりと笑った。 「アンタさあ、それなんて言うか知ってる? ポリアンナしょーこーぐん。ビョーキビョーキ、きゃはは!」 一はひゅっと息を詰まらせた。呼吸ができない。胸が苦しい。 「肝心なことから目え背けて、深く考えようとしないでー?」 一と同じ形の目が三日月形の嘲笑を浮かべている。 「ポジなふりしてげんじつとーひ。なんにも解決しないしなーい。分かんないかなー分かんないよねー。分かんないからビョーキなんだもんねー?」 「違う。違う!」 敢然と鏡の中を睨み返す。 「私は大丈夫。大丈夫なんだってば」 「何が大丈夫なの?」 「だって……だって……みんな同じように苦しんでる」 問題はそこだったのだろうか。 「みんな悩んでるの、助けを求めてるの! 私はそういう人たちを助けなきゃ!」 「なーんでー?」 「だって、ヒーローだから――」 「バッカじゃん?」 鏡の中の一が醜悪なあかんべえをした。 「ヒーローヒーローって、何なの? アンタ、一般人のガキじゃん。未成年じゃん。社会的弱者。庇護される側」 「そうかも知れないけど! 気持ちのありようっていうか――」 「ヒーローって特別じゃん? アンタ自分が特別だとでも思ってんの? おっさんアイドルがガラガラ声で歌うオンリーワンとか信仰しちゃってるクチ? え、パパとママが特別って言ってくれた? ハイハイ良かったでちゅね~愛されてまちゅね~、でも社会の九割ってウゾームゾーなんだよー。自意識過剰ー、チョー思春期ー!」 何だこれは。息ができない。胸が苦しい。 いいや、考え方ひとつだ。これは試練に違いない。きちんと向き合って打ち倒す、ヒーローならきっとそうする。 「嫌な夢見たんでしょー?」 鏡の中の一はねちねちと一を追い詰める。 「帰りたいよね? いくらヒーローでもこんなのヤだよね?」 「ちが」 「どう違うの? ん? 言ってみなよ、ねえ、ねえ、ねえ」 ぐるぐるどろどろと視界が回る。 『もう一度、あの子に会いたかった』。しわがれ、ひび割れた母の声。 会いたかったって? 会えなかったってこと? どうして会えないの。どうして私は帰れないの。どうして私はここにいるの。どうして私達は覚醒したんだろう? (覚醒なんてしたくなかった) 違う違うだっていつかは親離れしなきゃいけないんだし覚醒しなきゃ出会えなかった仲間とか得られなかった出来事とかそうだよ考え方ひとつじゃん先を考えて落ち込むより目の前の今をエンジョイするっていうか、 (さみしい) 違う違うネガティブは駄目私はヒーロー皆を助けなきゃ、 (くるしい) 違う違う駄目駄目駄目駄目駄目駄目駄目駄目! 嫌。嫌。嫌だ。ネガティブはポジティブで塗り潰せ。多少歪んだって構うもんか。 でも。 「……たすけて」 壁に亀裂が入るように唇が決壊した。 「おねがい、たすけて。たすけて、ヒーロー」 言葉が涙のようにこぼれ落ちる。鏡の中の一が「ほーらね」と笑った。 「やっぱそれが本心ー」 ようやく静寂が訪れた。 一の顔は汗びっしょりだ。 勢い良く蛇口をひねる。水がぐるぐると渦を巻いて真っ暗な排水口に呑み込まれていく。 「私はヒーロー」 呪文のように繰り返す言葉は呪詛のように全身にしみ込む。 「ヒーローは泣かない。泣いちゃ駄目」 ひたすら己に冷水を浴びせる。俯いたままタオルを引き寄せ、顔を拭いた。鏡には一瞥もくれずに背を向ける。鏡像の哄笑がうわんうわんと脳裏を揺さぶり続ける。どうしても胸が苦しくて、一はとうとう膝をついた。ほんの少し、ほんのちょっと休むだけだ。 「……あの時、決めたんだから」 己が胸を締め上げるように掴む。鬱血した心臓(ハート)が暴れ、狭く未発達な胸郭を軋ませている。 特別なんかじゃなくていい。ただ皆を助けたい。大丈夫、大丈夫だ。幼い自分をすくい上げてくれた警官の姿を思い出せ。 (頼れるものが過去しかないんだもんねー?) 「うるさい!」 甲高い怒声。あるいは悲鳴。独りぼっちの部屋にうわんうわんと反響し、消えていく。 胸が痛い。大丈夫。ちょっと目を閉じてしまえばいい。ほら、真っ暗で何も分からなくなる。考え込んでも仕方ない、都合の悪いものは見なければいい。逃げてなんかいない、いま落ち着くために必要なこと。 深呼吸し、ゆっくりと目を開く。 現状は何も変わっていない。一は十五歳にすぎないし、胸だって痛む。 「……私は助ける側」 口にした途端、眉尻が下がっていく。慌てて口角を上げる。笑う時は目尻と口角を近付ければいいと誰かが言っていた。その通りにさえすれば笑顔ができる筈だ。ヒーローは笑わねばならぬ、あの警官だって笑っていた。 「ねえ、ヒーロー」 己が胸を抱き締めたまま、壊れかけの玩具のように笑う。 「笑えてるかな、私」 滅茶苦茶な泣き笑いを床だけが見ている。 「今、うまく笑えてる?」 答える者はない。鏡を見に行く勇気もない。 隣で誰かが笑った気がした。 (了)
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