窓の外はどこまでもつづく虚無の空間「ディラックの空」。 ロストレイルは今日も幾多の世界群の間を走行している。 世界司書が指ししめす予言にもとづき、今日はヴォロス、明日はブルーインブルー……。大勢のコンダクターが暮らす壱番世界には定期便も運行される。冒険旅行の依頼がなくとも、私費で旅するものもいるようだ。「本日は、ロストレイルにご乗車いただき、ありがとうございます」 車内販売のワゴンが通路を行く。 乗り合わせた乗客たちは、しばしの旅の時間を、思い思いの方法で過ごしているようだった。●ご案内このソロシナリオでは「ロストレイル車中の場面」が描写されます。便宜上、0世界のシナリオとなっていますが、舞台はディラックの空を走行中のロストレイル車内です。冒険旅行の行き帰りなど、走行中のロストレイル内のワンシーンをお楽しみ下さい。このソロシナリオに参加する方は、プレイングで、・ロストレイル車内でどんなふうに過ごすかなどを書いて下さい。どこへ行く途中・行った帰りなのか、考えてみるのもいいかもしれません。!注意!このソロシナリオでは、ディラックの落とし子に遭遇するなど、ロストレイルの走行に支障をきたすような特殊な事件は起こりません。
朱霧の立ちこめる都からの帰還中、フェイ リアンはひとりロストレイル車中の座席に腰かけ、旅の記録を書きつづっていた。 ずり落ちる眼鏡を元の位置に戻しながら、無心に手を動かし続ける。 世界司書からの依頼を受けて旅立った以上、帰還するからには多少なりとも情報を持ち帰り、伝えなければならない。 記憶が薄れないうちにと、手持ちの紙に子細を書き留めていく。 旅の記憶を思いかえすうちに、フェイは知らず手を止め、ぼんやりと紙面を見つめていた。 朱い霧の立ちこめる都。 故郷とも、0世界とも違う理によって成りたつ世界。 これまでにも何度かロストレイルに乗車したが、世界司書の誘う世界はどれもが興味深いものだった。 (ロストレイルは日に何本も走ると聞く。行く先も数多あるという。旅を重ねれば、いずれは――) 窓の外にはディラックの空。 虚無の空は、異世界に通じるという。 ロストレイルさえあれば、故郷への帰還の希望はゼロではないのだ。 (けれど……) 世界図書館に通い、ありとあらゆる世界の資料を漁った。 世界司書に会い、故郷に似た世界を見聞きしたことはないかとたずねてまわった。 世界を見失った者たち、あるいは0世界に留まることを選んだ者たちは、そのつど、幼い彼にこう告げたのだった。 「旅をするうちに、故郷を見出して戻った者も在る。だが元の世界へたどり着けぬまま、命を落とす者や、別の世界へ帰属する者も在る」 それを忘れてはならない、と。 この世は大きな理の上に成り立ち、世界図書館でさえそれを覆すことはできない。 虚無の空は広大だ。 世界図書館による探索にしても、数多ある異世界のうちのほんの一握りに過ぎないのではないかという声を何度も聞いた。 それでも、フェイは悲観しすぎることを良しとしなかった。 希望も、絶望も。 旅を続けていれば、生きていれば、どちらも幾度となく降りかかることだろう。 それらは賽を振るうように不確かで、幼い少年のあずかり知らぬところで采配されるものだ。 だから望みが薄いと知っても、絶望しすぎる必要はない。 いずれ、故郷への道が通じる。 (きっと、大丈夫) 朱霧の都で用いた刃を胸に抱く。 王のために振るってきた武具。 王と己を繋ぐ、数少ないよすが。 その手触りを確かめながら、フェイはのしかかる疲労に意識を引かれ、静かにまぶたを閉ざした。 朱い霧の都。 石畳を跳躍したあの時、標的を捉えることしか考えていなかった。 判断を過つことはない。 どの瞬間に筋を伸ばし。 どの間合いで暗器を繰りだし。 どの角度に刃を引けば、ひと裂きで獲物を絶命させることができるのか。 それは、フェイの身体が最も良く記憶している。 ――逃してはならないと思ったから、駆けたのだ。 故郷を放逐されてしばらくたつというのに、身体は呼吸をするように自然に動く。 身につけた戦闘術。 手にした武具。 歩く町並み。 笑み交わす人々。 眼に映る異世界と故郷を比較するたび、郷愁が胸を穿った。 思い出の片鱗に触れるたび、見知らぬ世界に降り立ったあの日を思いだす。 見ず知らずの世界に独り、たたずんでいた。 なにかの間違いと信じ、帰り道を探した。 途方に暮れたとき、世界図書館にたどりついた。 そこで、世界司書に出会った。 ――あなたは『ツーリスト』になったの。 今も忘れたことはない。 まるで崖に突き落とされたような。 うち捨てられたような、あの孤独を。 ただひとことに、ひどく打ちのめされて。 ――王の傍にあることが絶対だと思っていた。 ――この先も変わらず、ずっとそう在るのだと。 ――なのに、今は、王の姿も声も届かない場所へ来てしまった。 世界の理は決して覆ることはない。 けれど、ひとの運命はこうも簡単に覆る。 それを思うたび、フェイは胸の内で繰りかえす。 手の内によすがの重みがある限り。 胸の内に故郷を抱く限り。 (きっと、……) まどろみの淵をただよっていると、やわらかな感覚が身をつつんだ。 温かさとあいまって、フェイはふたたび夢のなかへ沈みそうになる。 続いて、カタカタと音。 (なんだろう) 不思議に思って眼をあける。 見れば、座席の横に車内販売のワゴンと女性乗務員がたたずんでいた。 「すいません。起こしてしまいましたか」 フェイが覚醒したことに気付き、乗務員が笑顔を向ける。 「よく眠っていたので」と、乗務員がブランケットを掛けてくれたらしい。 身を包むようにかけられた紺のブランケットを見下ろし、フェイは元来の礼儀正しさで丁寧に礼を告げた。 「……ありがとうございます」 「よろしければ、これもどうぞ」 続いて差しだされたコップを、じっと見つめる。 「白湯ですから。さあ、遠慮せず」 強い口調に、フェイは思わずコップを手にとった。 紙のコップからは、じわりと指先にぬくもりが伝わる。 口をつければ、疲れを帯びた身体に湯はすっと染み入るようだった。 「お帰りも、良い旅を」 乗務員はそう告げ、次の車両へと去っていく。 改めて礼をと思った時には、すでに姿が見えなくなっていた。 フェイはその場で深く頭を垂れ、胸の内で感謝の言葉をつぶやく。 (こうしてひとり車中に身を置いていることさえも、まるで夢のことのように思える) 思えば、故郷をひとりで旅したことなどなかった。 なぜもっとあの世界を良く見ておかなかったのだろう。 まどろみのなかで見た過去の情景が、ひたすら懐かしく思えてならない。 あれから、どんなに願っても故郷が目の前に現れることはなかった。 0世界へたどりつき、その不可思議な列車の存在を知っても。 その列車が、故郷と己を繋ぐ唯一の蜘蛛の糸だと知っても。 0世界を寄る辺とするしかできない少年は、旅を続ける以上の選択肢を見出すことはできなかった。 王の元に戻れぬまま果てる無念を思えば、0世界を拠点とし、動き回ることのできる今を嘆く己を不甲斐ないとも思う。 しかしどんなに己を鼓舞したとしても、胸の内にはぽっかりと虚ろがひろがり、底なしの孤独を叫ぶのだ。 ――王。おゆるしください。 現在の境遇を受け入れつつも、恩義を果たせぬまま王の元を離れていることに罪悪感を覚えずにはいらない。 なんの取り柄も見出すことのできなかった己にとって、『王に仕えること』こそが全てだった。 (その生き甲斐を奪われた僕には、いったいどんな価値が残っているというのだろう) フェイは己の手を眼前に広げ、手のひらを見つめる。 王のために。 王のためだけに。 ただそれだけを思って身につけた能力が、今は旅の仲間とともに、世界司書の依頼の役に立っている。 (……『役に立つ』と、思ってもらえている、はず) 開いていた手を、強く握りしめる。 希望も、絶望も。 生きていれば、どちらも幾度となく降りかかる。 往く道を見失ったとしても。 手の内によすがの重みがある限り。 胸の内に故郷を抱く限り。 王の国が存在することは、確かな事実であることに変わりはない。 (だから、大丈夫) ブランケットの温もりが、再び意識をまどろみの淵へ誘う。 次に眼を覚ました時にはターミナルに到着しているだろうか。 フェイは石畳の街を思い浮かべながら、ゆっくりとまぶたを閉ざした。 了
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