窓の外はどこまでもつづく虚無の空間「ディラックの空」。 ロストレイルは今日も幾多の世界群の間を走行している。 世界司書が指ししめす予言にもとづき、今日はヴォロス、明日はブルーインブルー……。大勢のコンダクターが暮らす壱番世界には定期便も運行される。冒険旅行の依頼がなくとも、私費で旅するものもいるようだ。「本日は、ロストレイルにご乗車いただき、ありがとうございます」 車内販売のワゴンが通路を行く。 乗り合わせた乗客たちは、しばしの旅の時間を、思い思いの方法で過ごしているようだった。●ご案内このソロシナリオでは「ロストレイル車中の場面」が描写されます。便宜上、0世界のシナリオとなっていますが、舞台はディラックの空を走行中のロストレイル車内です。冒険旅行の行き帰りなど、走行中のロストレイル内のワンシーンをお楽しみ下さい。このソロシナリオに参加する方は、プレイングで、・ロストレイル車内でどんなふうに過ごすかなどを書いて下さい。どこへ行く途中・行った帰りなのか、考えてみるのもいいかもしれません。!注意!このソロシナリオでは、ディラックの落とし子に遭遇するなど、ロストレイルの走行に支障をきたすような特殊な事件は起こりません。
――嘘かまことか、夢かうつつか。 ――とおい異世界に。 ――その桜はたしかに、花ひらいていた。 異世界の駅を出立して以降、ロストレイルは心地良い低震動を刻みながら虚無の空を進んでいる。 灰燕はひとり窓際の座席に腰かけ、果てのない空を眺め続けていた。 その窓に、見慣れぬ影が映る。 「なにかお困りの点はありませんか?」 声をかけたのはロストレイル車内に勤める女性乗務員だった。 見栄えのする桃色の髪は、一度目にすれば忘れようもない。 さきほど車内販売のワゴンを押して通りすぎたはずだが、今度は車内の見回りに訪れたらしい。 特に不自由はしていないと返そうとし、灰燕は発しかけた言葉を飲みこんだ。 思い直し、告げる。 「……少し、話をさせてくれんかのォ」 「話、ですか?」 最初はいぶかっていた乗務員だったが、 「好いものを手に入れたんじゃ」 灰燕が乗務員の前に拳を掲げる。 その指を開くにつれ、てのひらから白銀の花雪がこぼれおちた。 「わあ……!」 あふれ出る花雪をすくうように、女は夢中で両の手をかざした。 音もなく舞う白焔の花弁は静謐で美しく、吐息を零すことさえはばかられる。 「これは、先の異世界の花ですか?」 花弁を手のひらに包み込むようにして見つめ、乗務員が声を殺しながらひそやかに問いかけた。 「桜だ」と灰燕が続ける。 「白待歌がどこぞから拾ってきおってな。美しかろう?」 乗務員は黙ってうなづき返す。 言葉はなくとも、女が感じ入っているのはその様子からすぐにわかった。 彼らはロストメモリーとなった際に異世界への旅を禁じられている。 それは、世界間鉄道への乗車を許された乗務員も例外ではない。 ロストレイルに乗車することはできても、異世界の地に降り立つことはできない。 「花びらだけでこの美しさですもの。満開の木は、もっと素晴らしいんでしょうね」 旅先の感動を共有できることが、なにより嬉しいのだろう。 乗務員は目を細め、乗客の土産に魅入っている。 「他愛ない異世界旅行と軽んじて行ったが、思いのほか満足できた」 口ではそう告げつつも、刀匠の表情はどこか浮かない。 「……旅は、良いものだったんですよね?」 問いかける乗務員に、灰燕は返さない。 旅の道中、何か至らない点がありましたかと問いかける乗務員に、そうではないと片手をあげる。 「旅先に、ひとつ気がかりを残してしまってのォ」 そう言われては、乗務員もそれ以上は言葉を継げない。 「あそこには、もうひとつ桜があった」 つぶやいた声は、ふたたび花雪に眼を落とした乗務員には届いていない。 ――嘘かまことか、夢かうつつか。 夢幻のように美しい情景が、彼の地に存在していた。 その桜吹雪が、今もなお灰燕を眩惑する。 窓の外にはディラックの空が果てまでも続いている。 異世界の地は虚無の果てに消え、もうどこにも見えない。 だがまぶたを閉ざせば、今も目の前にあるかのように思いだせるものがある。 ――狂気に彩られた鋼の桜。 それが、刀匠の表情を曇らせていた。 出立の朝、今一度目に焼きつけようとしたそれは、すでに焼失したあとだった。 鎌鼬を宿すと噂された桜。 刃の如き鋼の色を持つ。 宵闇に浮かぶ白銀。 何者をも寄せつけぬ、気高き姿。 ――しかしもう、この世のどこにも存在しない。 胸の内にぽっかりと浮かぶ喪失感。 灰燕は手首についた傷痕に触れ、記憶の内に残る桜を見つめる。 (あの鋼は、もう見れんのじゃろうなァ) 桜によって斬り裂かれた傷は、いまだ癒えていない。 いっそこのまま、永遠に癒えなければいいとさえ思う。 傷があれば、その痕を確かめることで彼の地の旅を思い出すことができる。 痛みを通じて、彼の地のできごと、桜との出会いを、何度でも振り返ることができるのだから。 いたましいほどの憎悪と、くるおしいほどの悲痛とをともなう花は、今までに見たどの刃よりも哀しく、また美しかった。 今更いくら言葉を重ねたところで、彼の地で目の当たりにした感動を再現することはできない。 だから傷痕が残れば良いと願う。 その身に刻んで、いつまでも忘れることがないように――。 しばしの沈黙の後、灰燕が立ちあがって車窓を開けた。 「走行中は、あぶないですから……!」 制止しかけた乗務員の目をくらますように、突風が巻きおこる。 「あっ!」 白焔の欠片が――先ほどまで二人の目を楽しませていた花弁が、ディラックの空に吸い込まれていく。 その白銀を見送りながら、灰燕は手のひらを窓の外へ差しだした。 ロストレイルは虚空を裂くように進んでいく。 あふれ出た花弁は、ひとすじの線を描くように流れていった。 「あれに、届けばええんじゃが」 広大な闇に散る雪は、すぐに溶けて見えなくなる。 あとにはただ、全てを飲み込む虚無が広がるばかりだ。 ロストレイルはなおも、低震動を刻みながら進んでいく。 灰燕は窓を閉め、果てのないの空を見送った。 その窓に、女の影が映る。 「あの、なにかお持ちしましょうか……?」 刀匠の傍らで虚無に投げだされた花弁を見送る乗務員だったが、黙って去るのも気まずく、声をかけたらしい。 話はこれで終わりだと返そうとし、灰燕は口をつぐんだ。 ふと思いついたように、女を振りかえる。 「何ぞ、甘いモンはあるか?」 「……はい! 色々とご用意しています!」 手のひらの上。わずかに残った花弁を見つめていた乗務員が、ぱっと顔を輝かせる。 自分の得意な仕事ができると思ったのだろう。 すぐにワゴンを取ってきますと駆けだし、慌てて灰燕の元へ戻ってくる。 「あの。この花びら、いただいても良いですか?」 おずおずと問いかける乗務員に、灰燕は目を細める。 「仕事の手を止めさせてしまったんじゃ。礼を尽くそうにも、花弁と甘味だけでは、足りんくらいじゃろォ」 無用にひとを寄せつけぬであろう、物静かな居ずまいの男だ。 それが彼なりの謝意の言葉であると気付くのに、少し時間がかかった。 「すぐ、車内でも指折りの甘味をお持ちしますね……!」 乗務員は言葉を喜んで受け取り、今度こそ車内販売のワゴンを取りに行くべく駆けていく。 灰燕はその背を見送り、ふたたび車窓の外を見つめた。 喪われた桜は戻らず、胸中の虚無を塞ぐことは叶わない。 しかし。 傷痕が癒え、彼の地を訪れた証があとかたもなく消え去っても。 狂気の桜は記憶に咲く。 桜吹雪は胸の内に渦巻き、なおも心の洞を切り刻むだろう。 彼の地に足を運んだことを事実とし、彼の地のできごと、桜との出会いを、何度でも何度でも、振り返ることができるように。 記憶の鋼が朽ち果てて。 その、最期の時を愛でるまで。 了
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