イラスト/火口圭介(ivxr5490)
昭和初頭、欲望の渦巻く魔都・上海。 闇を斬り裂くように、リエ・フーは夜の路地裏を駆けていた。 いつもはさして気にも留めない石畳の足音が、今はやけに高く響いて耳に障る。 しかし立ち止まることは許されない。 遠方からいくつもの破裂音が響き渡る。 「追えェ! なんとしてでも引っ捕らえろ!」 静寂を踏みにじる多数の足音。 揃いの制服に身を包んだ男たち。 再び響く破裂音は、彼らの持つ拳銃の音だ。 リエは月明かりを避け、暗い方へ、暗い方へとひた走る。 繁華街の傍路でありながら誰の姿も見えない。 官憲とごろつき集団の衝突は日常茶飯事だ。人々は関わり合いになるのを恐れ、固く扉を閉めて家に閉じこもる。それはこの街を生きる者にとって、あたりまえの処世術なのだ。 リエはさらなる闇を求めて路を折れる。 その瞬間、 ――ボンッ! つま先が何かをはじき飛ばした。 あっと思った時にはもう遅い。 けたたましい音が路地裏に響き渡る。 周囲にたちこめた腐臭で、己が屑籠を蹴倒してしまったことに思い至った。 音を聞いてか、腐臭を嗅ぎとってか、あちこちで野犬が声高に吠えはじめた。 「あっちだ!」 「撃てェ! 足を狙え!」 声に続き、すぐ近くで破裂音が聞こえる。 はじけ飛んだ石壁の破片が髪をかすめた。 「くそッ」 腐臭が鼻につく。 すえた匂いと、異物を踏みつける感触に辟易しながら、リエは身をかがめるように路の先を目指した。 幸い、蹴り倒した屑籠は官憲の足止めになったらしい。先走ってやってきた官憲は明かりを持っておらず、転がっていた屑籠に蹴躓いたようだ。 ぎゃあという悲鳴といくつかの罵声が背後から降りそそぐ。 後方を確かめて走りながら、リエは唇を噛みしめていた。 先ほど弾丸がかすり、右上腕と脇腹を負傷していた。 今すぐ命を落とすような傷ではないが、尋常ならざる痛みに体力を奪われていく。 (こんなところで倒れてやるもんか) 走れ。走れ。 今うまく身を隠すことができれば、しばらくやりすごすことができるだろう。 その時だ。 ――リリ……ン 突然、脳裏に鈴の音が響いた。 かつて聞いたその音は、愛憎抱く女の声をも呼びさます。 ――その名前は、あの人にもらったの。 あの女。 楊貴妃の名を欲しいままにしていた女。 後方から迫る銃声が、過ぎ去った日の喧騒に重なる。 かつて身を置いていたあの街は、ここよりもずっと騒がしいところだった。 眠らない紅朱の楼閣。 その楼の上には、傾国の美女とうたわれたリエの母親がいた。 歓楽街に建つ娼館。 それは、今思い返しても趣味の悪い建物だった。 贅の限りを尽くした装飾に縁取られ、扇情的な紅朱塗りで統一された楼閣。 女に溺れた男たちが夜ごと足を運び、愉悦と快楽に浸る場所。 全体は方形をしており、中心をくり抜いて上層階までを吹き抜けにしていた。 部屋の入り口はすべて吹き抜けに面するよう設計されている。 楼を仕切る大母が、金勘定の合間に娼婦や客の出入りを監視するためだだ。 薄暗い部屋の入り口。 むせかえるような香の薫り。 顔を寄せあい、交わされる囁き声。 ひるがえる紗のうす布。 物心ついたころから、リエは快楽に尽くす大人たちに囲まれて育った。 そのリエを産んだ実母は、楼にあって極上の娼婦と名高い女だった。 異性を虜にするたぐいまれなる美貌。 苛烈と称されるほどの気位の高さ。 『母親』としてはロクでもない女だったが、『女』としての存在感は娼婦の中でも群を抜いていた。 己の境遇に呑まれず、人生を謳歌しようという生命力に充ち満ちているとでも言うべきか。 ――『楊貴妃』を名乗るにたる女は、この街にはそう何人もいやしない。 楊貴妃目当てで訪れる客たちは手放しで母親を賞賛したものだ。 そうして群がる男たちを前に、貴妃は己の心の赴くままにひとを愛した。 数多くの男と浮名を流し、振られるたびに酒に溺れた。 泥酔した母親を寝床まで運び、毛布をかけてやったことなど一度や二度では済まない。 艶やかな母と客のなれそめを身近に感じ、リエはいつしか男を籠絡するための手管を学んでいた。 だから己が男娼になると告げた時も、貴妃は「さすが私の子ね」と言って笑って迎えたものだ。 見目麗しい少年男娼の存在は誰にとっても興味深いもの。 楊貴妃の息子という噂もあいまって、その手の客がこぞってリエを指名しにやってくる。 賢しい少年が楼の中でも有数の稼ぎ頭になるのに、そう時間はかからなかった。 「きみの顔立ちは、楊貴妃に似ているね」 いつだったか、そう称した男がいた。 母の客だった。 母の愛した男と知りながら、リエはその指名を受けた。 その時受けた罵声を今でも覚えている。息子に客を取られたと知った時、貴妃は楼中に響くのではないかという声で怒ったものだ。 「クソ餓鬼の分際で、あたしの客を寝取るんじゃないよ!」 「うるせぇ! オレを選んだんだからオレの客だ!」 もっとも、母子の言い合いは楼では日常茶飯事だったので、誰も止めに入りはしなかったのだが。 ある日のことだった。 「楊貴妃が降りてこないんだよ。リエ、あんたちょっと行って見てきておくれ」 客を送り出したばかりのリエに、楼閣の大母が声をかけた。 いつもは自室から出ず金勘定ばかりしている老婆だ。好きにはなれない人物だが、仕事さえすれば相応の金を払う雇い主でもある。 申し出を無下にして機嫌を損ねるのは得策ではない。 「部屋は?」 「上層階。あの子の『お気に入り』の所だよ」 リエは部屋にはこだわらなかったが、母親は好んで上層階を選んだ。 そもそも色を売る楼閣では常に客とのいざこざが絶えない。楊貴妃は喧騒を嫌い、下級娼婦が使うことのできない楼の上層階の部屋を使うと決めていたのだ。 ――それが命運を分けた。 リエがたどりついた時、部屋からは怒声の応酬が扉の外まで聞こえてきていた。 ひとつは母の声。もうひとつは、リエを母親似と称したあの男の声だ。 男は成り上がりの実業家だった。この数年で随分と稼いだらしく、知り合いを連れては楼へ足を運んでいた常連客だ。 楼でのお気に入りは楊貴妃だったが、時折リエや他の女を指名することもある。気位の高い母は、そのたびに男をなじったものだ。 (ああ、またいつもの罵りあいか) 接客の時間はとうに過ぎている。男には後味が悪いだろうが、今日はお引き取り願おう。 そう、扉を開こうとした時だ。 「……――!」 壮絶な『音』が空を割いた。 声は扉の奥からだ。 はじめ、それがひとの声と気付かなかった。 ひどい声。 ひどい女の悲鳴だった。 あまりにも異質な響きにリエの肌が粟だつ。 部屋の中にいる女は、楊貴妃ひとりのはずだ。 ――だが、これが、あの女から発せられた声か? 耳を覆いたくなるほどの喧騒は、その悲鳴を境にぴたりと止んでいた。 乾いた舌が口裏にはりつき、知らず手が震えていた。 リエはまとまらない思考をそのままに扉を開けはなつ。 中は薄暗かった。 眼前に背広姿の男が立っている。 「ひぃっ……!」 リエに気付くなり間の抜けた悲鳴をあげ、そのまま力任せに少年を突き飛ばし、階下へと駆けていく。 「くそッ!」 舌打ちし、立ちあがろうとする。 だがその時、床についた手が濡れていることに気付いた。 見ると手が赤く濡れている。 その紅の先を辿ると、楼で一番上等と名高い絨毯に埋もれて楊貴妃が横たわっていた。 傾城の血が、純白の絨毯を紅く染めあげていく。 這うようにして母の傍らに膝をついた。 「貴妃」と呼びかけようとし、脇腹に短刀が深く突き刺さっていることに気付く。 おもむろに引き抜いたそこから鮮烈な赤があふれ、リエの膝先をも染めていく。 未だ温もりの残る母の体を仰向けに整えてやる。 覗きこんだ瞳がもはや光を喪っていることを確かめ、リエは口を引き結んだ。 『母親』としてはロクでもない女だった。 『女』としての存在感は娼婦の中でも群を抜いていた。 己の境遇に呑まれず、人生を謳歌しようという生命力に充ち満ちていた。 そうして、今。 女は花火のように、鮮烈に命を散らした。 「最期まで、馬鹿な女だ――」 震える指先でそっとまぶたを閉ざしてやる。 下層階であれば、貴妃と男の応酬がはじまった時点で誰かが止めに入っていたかもしれない。 だが、上層階では出入りする人間が限られていた。 おそらくリエが訪れた時には、両者とも冷静さを失っていた。 母を見送ってすぐ、逃げた男も命を落とした。 楼の人間に追われて錯乱し、吹き抜けの手すりを飛び越えて階下に落ちたのだ。 上層階から見る男の赤は、母のそれとは比べものにならないほどどす黒く、醜悪だった。 過去を想う時、ふと蘇る母の姿がある。 接客を終え、酒に酔った母親の介抱をしていた時だ。 「あんたのその名前は、あの人にもらったの」 ふいに、母親がリエの名前について語りだす。 酔っているのだとわかっていたが、問い返さずにはいられなかった。 「……あの人?」 「虎鋭(フールイ)。――虎の王の如く鋭くあれ、ってね」 幼いリエの問いかけには応えず、楊貴妃は艶やかに微笑む。 そうして間を置き、問いかけの答えを続ける。 「ひどい雨だった。客を引く前に、ちょっと買い物に行きたくてね。出かけた先で、あの人と出会ったんだよ」 貴妃は上機嫌で杯を重ねる。 リエは止めずに、母の声に耳を傾けた。 「ひどい雨だっていうのに、あの人、傘を持っていないからってズブ濡れで歩いてたんだ」 それがあまりにも哀れに見えたので、思わず自室に連れ戻ったらしい。 本来、娼館に関係ない人間を居住区に入れることは御法度とされている。 だがそんな約束事で、母の想いを縛ることなどできようはずもない。 翌日も雨が続いたので、母は傘を持たせて父親を帰したという。 そうして天気が回復したある日。 リエの父親が、今度は娼館に現れた。 「信じられるかい。たかが傘一本のために店に来るなんて」 楊貴妃にしても、傘の一本などそのままくれてやって良かった。出会った日に親切心を起こしたのは、気まぐれに近い好奇心があったからだ。 「それを居住区には入れてもらえなかったからって、お金を払って店の正面から乗り込んでくるんだからね」 やがて惹かれあった二人が授かった子ども。 それがリエなのだ。 「これは、あんたが生まれた時にもらったものよ」 母親はリエが生まれた際に、父親から贈られたという鈴を見せてくれた。 ――リリ……ン 虎の毛皮を思わせるこがねの鈴の音は、今も懐かしく想い出すことができる。 「あんたは日に日にあの人に似てくる。まったく。憎たらしいったらありゃしない」 話を聞くリエからすれば、未知の父親はどうしようもない男に思える。 だが、どこか皮肉げに、そして愉快そうに笑う母を見るのは悪い気分ではなかった。 母を想う時、いくつもの記憶が蘇る。 やわらかな手の上で転がる鈴の音が耳の奥で響く。そうすると、部屋を灯していた蝋燭の炎の色までもが昨日のことのように蘇ってくる。 母のあおぐ酒の香り。 呼びかける声。 そのすべてが、とうの昔に喪われてしまった。 そして今、己はあの時の母と同じように脇腹に傷を抱え、逃げ回っている。 ――その名前は、あの人にもらったの。 脳裏に蘇った母の言葉が、胸の内で疼いている。 なぜ今、それを想い出したのか。 「ハハハ……!」 石畳に膝をつきそうになりながら、リエは顔を覆って笑った。 笑いながら走り続けた。 仲間の姿はどこにも見えない。 逃げたにせよ捕まったにせよ、彼らと自身に運があれば再びまみえることができるだろう。 そう、お互いに逃げ延びることができたなら――。 「オレはあの女とは違う。あんな無様な死に方はしない」 父親は悲劇を招かぬよう願って名付けたのではないのか。 そのために牙もつ四肢獣の名を与えたのではないのか。 「走れ」 楊貴妃と呼ばれた女がいた。 貴妃を愛した男がいた。 「走れ……!」 そうして今、闇を駆ける少年の姿がある。 地を駆けろと唱えるごとに、リエの体に底知れぬ力がわいてくる。 ――虎の王のように在れ。 歯を食いしばり、両の手を握りしめる。 リエはささやきかける傾城の声を振り払い、闇の向こうへと駆け抜けた。 了
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