ターミナルに『夜』の帳がおりるころ。 リエ・フーは薄闇のなか、雪に埋もれたターミナルの路地をひとり、歩いていた。 壱番世界の祝祭の日にあわせて演出された雪で、天候が意図的に設定される0世界ではめったにお目にかかれない光景だ。 「クリスマスねえ……。中国じゃ≪聖誕節≫っていうんだが」 ターミナルの住人たちもどこか浮き足立った様子で、周囲はパーティームードに包まれている。 あちこちでさまざまな催しがひらかれ、まばゆい光や音楽、そしてひとびとの談笑が飛び交っていた。 正面からは、じゃれあいながら駆けてくる子どもたちの姿。 ツリーに飾るのだろう。 ひとりの少年が手にしていた鈴が、すれ違いざまに軽やかな音を響かせた。 ――リリ……ン 思わず、足を止める。 鈴の音とともに、いくつかの記憶が去来する。 リエはしばし彼らの後姿を見送るように佇んでいたが、やがてふーっと息を吐きだした。 寒さのせいで吐息が白く染まり、視界を淡く覆う。 「……どっちみち、俺にゃ関係ねえ」 冷えた手をフライトジャケットのポケットに押しこみ、かたく指先を握りしめる。 立ち止まると、ろくでもないことばかり考えてしまう。 つま先で雪を蹴り、こんな日は暖をとるためにさっさと帰宅しようと家路に向かう。 その時だ。 リエの眼前で、まばゆい金の色が踊った。 ふわりとなびく白金の髪。 (この髪色、どこかで) 記憶をたどり、思いだす。 そう古い記憶ではない。 比較的新しい。 そう、あれは去年。 前触れもなく、眼前に飛び込んできた少女がいて。 「――っと、てめえは」 リエの声に、小柄な少女が振りかえる。 白いファーの耳あてに、マフラー。 ドレスを思わせるすそ広がりのポンチョコートがひるがえる。 ――この髪と背格好。 瞳は忘れようもない、光の加減で金にも見える印象的な琥珀色で。 ――間違いない。 「一年前、仮面舞踏会で踊らなかったか?」 声をかけられ、少女もリエに気づいたようだ。 いぶかしんでいた表情をぱっと輝かせ、「こんにちは」と会釈する。 改めて向き合い、リエを見つめて「ふふ」と、やわらかく微笑む。 「貴方、一緒に踊ったひとね」 少女の言葉に、リエは口笛を吹いた。 「果然是……! こんなところで会えるなんて、すげー偶然」 まさかとは思ったが、本当に当人だったらしい。 かつての舞踏会の記憶は、少女にとっても忘れがたいものだったのだろう。 「私も驚いたわ。こんなところで声をかけられるなんて」と告げ、 「あの時は一緒に踊ってくれてありがとう。とっても楽しかったわ」 白金の髪をなびかせ、軽く膝を折って謝意を示す。 「そういえば、俺はあんたに引っ張られて踊ったんだったな」 橙のランタンを手にしていたリエを、少女が見初めた。 当日はお互いろくに挨拶もせずに別れてしまい、それきりになっていたのだ。 それだけに、今日、再び出会えたことが奇跡のように思える。 「あんた、今からなにか予定はあるか?」 「いいえ。用事が済んだから、クリスマス気分を堪能して帰ろうと思っていたところよ」 それならちょうど良い、とリエが笑う。 「広場にゃツリーもある事だし、思い出話がてら歩かねえか」 少女は手袋で包んだ手を、胸元でぽんと打ち合わせた。 「素敵! 私、ちょうど広場まで行こうと思ってたの!」 そうして歩き出そうとしたところで、 「貴方、ええと……。ちょっとだけ待っていて」 少女はすぐそばの出店に駆けよると、コップ売りの温かいスープを二つ買い求めて戻ってきた。 片方を掲げるようにして、リエに差しだす。 「はい。これ、貴方の分」 「オレの?」 唐突に告げられ、手にして良いものか迷っていると、 「ずっとポケットに手を入れてたでしょ? 持っているだけでも、指先が温まるわよ」 他愛ない会話のかたわら、少女はつぶさにリエの様子をうかがっていたらしい。 そう言われては、受け取るしかない。 「……どうも」 ポケットから手を引き抜き、コップを包むように両手で受けとる。 じんと伝わる熱が、凍りついた指先をゆっくりと融かしていく。 少女は先に口をつけ、「あったかくて美味しい!」と、絶賛している。 リエはたちのぼる湯気をふうっと吹き散らし、スープに口をつけた。 そういえば雪合戦のあとにも、こうやって汁物をすすっていた気がする。 隣に立っていた男がしみじみとつぶやいた言葉を、今になって思い出していた。 「たしかに、暖まる」 リエはフッと笑い、少女を伴って歩きだした。 「あんた、クリスマスの思い出ってあるか?」 きらびやかに飾りつけられたショーウィンドーや百貨店を巡りながら、リエは少女に話しかける。 「オレは――」 と話題を探して、とくに語るべき出来事がなかったことに、いまさら気づかされる。 「男娼だったころは普通に客とってたし、飛び出てからはその日暮らしで思い出らしいもんは何もねえな……」 その過ごし方の詳細にしても、クリスマスの街角で、目の前の少女に語るには少々気がひけるきな臭いものばかりだ。 うながすように少女を見やると、視線を受けてぽつり、ぽつりと口を開きはじめる。 「私の故郷には、『クリスマス』って、ないのよね」 ガラスの向こうに据えられた豪奢なドレスを見つめながら、少女はかつて己が属していた世界について語る。 神々の厚い加護をいただく世界で、生まれながらに加護を有した者達がいたこと。 婚約者たる王太子とともに、国の守護を担っていたこと。 純白の神殿にたち並ぶ柱は巨人のようで、自分はそこで、白くて長いスカートをひきずって歩いていたこと。 「信じられる? 国の守護をつかさどる巫女姫だったのに、パニエさえも許されなかったのよ!」 だから舞踏会のあの日、ドレスを着られたことが嬉しくて、とにかく誰かと踊りたかったのだとリエを見て笑った。 「私の世界は一年中暖かい気候だったの。だからクリスマスの思い出は、ここに来てからかしら。去年のクリスマスは、とっても楽しかったわ」 パーティーに行ってフローズン・ヨーグルトを堪能し、サンタの格好をしてプレゼントの配達を手伝った。 そしていまはもう居ない、前任の世界図書館館長を見舞うために、シュトーレン作りを手伝ったことも思い出す。 「ここでの友だちもできたし、初めて雪も触ったのよ」 故郷を見失ってから、そう多くの時間を0世界で過ごしたわけではない。 けれど、故郷では成しえなかった体験の数々は、まちがいなく己にとって尊いものばかりだったと少女は感じている。 リエは少女の視線の先を追い、舞踏会の日の仮面の少女を思い起こしながら、静かに話を聞いていた。 「ふふ。私ね、雪うさぎを作れるの」 「こんっなに大きな雪うさぎよ!」と、全身を使って表現してみせる様子に、リエはぷっと吹きだした。 「雪うさぎってのは、こう、手のひらに乗るサイズなんじゃねえのか」 問うと、少女は「わかってないわね」と言う。 「そんなありふれたのじゃダメよ。いいわ、貴方にも教えてあげる!」 準備するものはまず、徹底的な防寒具。 長時間の作業に耐えるためにも、寒さ対策が完璧であることが重要だ。 そしてバケツに、シャベル。 うさぎの目用に赤いボール二つも忘れてはいけない。 少女は切々と巨大雪うさぎ作りについて語り、リエはそのあいだ始終、笑っていた。 娼館で大人たちを相手に、酒を片手に語らっていた時とは違う。 愚連隊の仲間と悪だくみをしていた時とも違う。 旅の仲間と依頼について相談する時とも違う。 (他愛のない、話だ) だが今のリエには、少女の語る話が心地良かった。 少女に出会うことがなければ、今ごろは寝床に戻り、酒を飲んで夢の中だっただろう。 「あんたみたいに過ごせたら、そりゃ楽しそうだ」 この寒い夜をひとりで過ごさずに済んだことを、どこか、安堵していた。 闇の深まる時刻となっても、0世界は明かりに満ちていた。 やがて華やかに飾り付けられたツリーのある広場にたどりつくと、どこからか軽快な音楽が聞こえてくる。 イベント好きなターミナルの住人のことだ。 だれかが広場を会場に見立て、パーティーをはじめる気なのだろう。 楽器を手にしていた者たちが自然と集まり、アドリブで演奏をはじめる。 ゆるやかなワルツ。 やがて居合わせたカップルが踊りだし、通りかかった少女たちが手に手を取ってスカートをひるがえした。 ツーリストも、コンダクターも、ロストメモリーも。 音楽にあわせて思い思いにステップを踏んでいる。 「こりゃあいい」 リエは少女の顔をのぞきこみ、手をさしのべた。 昨年はわけもわからないうちにリエが手を引かれていた。 一年ぶりに再会してみれば、スープまでごちそうになるありさまだ。 「エスコートされっぱなしじゃ、男がすたるしな」 この奇跡のような、出会いの記念に。 「踊ろうぜ。ダンスは得意なんだろ、巫女姫サン?」 少女にとっても、願ってもない申し出だ。 かつて嫌というほど練習をさせられた舞踏。 以前はその腕前を披露する場など限られていたが、今はそうではない。 「ええ、ダンスは得意よ!」 少女の重ねた手をとり、リエが誘うように踊りの輪の中へ導く。 目線を交わして、一歩。 そして次の一歩。 最初は一年前。 二回目は、今日。 それでも、二人の足運びはぴったりとそろっている。 みごとな踊りをみせる少年少女のペアに、周囲からも声援が飛んだ。 「すごいわ! こんなに踊りやすいのははじめて!」 そう言われて、リエも悪い気はしない。 通りすぎる他のペアと会釈を交わしながら、入れかわり、たちかわり、輪の中を進んでいく。 寒さにこわばっていた身体が、ステップを踏むごとに解きほぐされていく。 「今夜だけ、俺を許婚だと思っていいぜ」 冗談めかして告げたリエを、少女はいたずらっぽく見あげた。 「ふふ、貴方にそんな大役が務まるかしら!」 白金の髪がふわりと揺れる。 昨年は仮面を付けていた少女も、今は素顔のまま。 印象的な瞳が、次々に色を変えていく。 ドレスやシャンデリアがなくとも、少女はきらきらと輝いてみえた。 「そういえば、貴方の名前を教えてもらってないわ」 軽やかにターンしながら、少女は自らの名を明かす。 「私はティリクティア。ティアよ」 「あなたは?」と視線で問いかけられ、苦笑する。 また先をこされてしまったようだ。 華奢な少女の身体を支えながら、リエは短く告げた。 「リエ・フー」 ぶっきらぼうに、続ける。 「リエでいい」 ティリクティアが「リエ」と繰りかえす。 そしてあの日、二人を繋いだ言葉を、リエはもう一度聞いたのだった。 まばゆい光や音楽、飛び交うひとびとの談笑。 きらびやかな世界。 そのどこを探しても、かつての知り合いや仲間たちの姿はない。 ――クリスマスなんて、良いもんじゃねえと思ってたんだが。 白く塗りこめられたこの町のどこかに、居場所を求めていたわけではない。 それでも、目の前の少女との出会いに。 この奇跡のような出会いに。 たまには、感謝なんてものを捧げてみてもいいんじゃないか、なんて。 思ったのだ。 「さあ、一緒に楽しみましょう!」 了
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