小暗い悪意うずまくインヤンガイ。しかしそんな世界にも、活気ある人々の暮らしは存在する。生きている以上、人は食事をする。実は、インヤンガイは豊かな食文化の花咲く世界であることを、旅人たちは知っていただろうか――? インヤンガイのどの街区にも、貧富を問わず美食を求める人々が多くいる。そこには多種多様な食材と、料理人たちとが集まり、香ばしい油の匂いが街中を覆っているのだ。いつしか、インヤンガイを冒険旅行で訪れた旅人たちも、帰りの列車までの時間にインヤンガイで食事をしていくことが多くなっていた。 今日もまた、ひとりの旅人がインヤンガイの美味を求めて街区を歩いている。 厄介な事件を終えて、すっかり空腹だ。 通りの両側には屋台が立ち並び、蒸し物の湯気と、焼き物の煙がもうもうと立ち上っている。 インヤンガイの住人たちでごったがえしているのは安い食堂。建物の上階には、瀟洒な茶店。路地の奥にはいささかあやしげな珍味を扱う店。さらに上層、街区を見下ろす階層には贅を尽くした高級店が営業している。 さて、何を食べようか。●ご案内このソロシナリオでは「インヤンガイで食事をする場面」が描写されます。あなたは冒険旅行の合間などにすこしだけ時間を見つけて好味路で食事をすることにしました。このソロシナリオに参加する方は、プレイングで、・あなたが食べたいもの・食べてみた反応や感想を必ず書いて下さい。!注意!インヤンガイではさまざまな危険がありますが、このシナリオでは特に危険な事件などは起こらないものとします。
いくつもの屋台と建物が並んだ通り。 あっちこっちから物売りの朗々とした声と、空腹を刺激する白い湯気が立ち昇る。 建物の端っこでコレット・ネロは灰色の空を見上げていると、ふっと冷たい風が吹いた。 とたんに、体がぶるりっと震えた。 十分にあたたかくしてきたつもりだが、かじかむ両手をあわせて息を吐きかける。 ――まだかな 澄んだ緑色の瞳が絶え間なくきょろきょろと周囲を伺うと、待ち人の姿が見えた。 「こんにちは、情報屋さん」 コレットが微笑むと、情報屋も笑って駆けよってきた。 「お待たせしました。すいません、寒かったでしょう? お時間は平気ですか?」 「はい。大丈夫です」 「よかった。それで、俺にお願いっていうのは?」 「今日は、あの、よかったら、これから、ごはん、食べませんか?」 「……食事ですか?」 勢い込んでコレットは大きく頷いた。 「はい。前に連れていってくれたところ、子犬が大きくなっているのか、一緒に見てほしくて」 控えめに見上げると、情報屋は鷹揚に頷いた。 「構いませんよ。犬も、あそこの店の主人もコレット嬢に会いでしょうし。ああ、もちろん、俺もあなたに会いたかったですよ。実は食事に誘おうと思っていたので、先手を打たれましたね。では、お手をどうぞ、可愛い人」 恭しく差し出された手にコレットは白い手をそっと重ねた。 以前訪れた店の前では子犬がちょこんと腰かけて番犬をしていた。 子犬はコレットを見ると引きちぎれんばかり尻尾をふって歓迎してくれたが、情報屋にたいしては白い牙をむき出しに唸って威嚇をしてきた。 その姿に情報屋は肩を竦めて、店の中へとコレットを導いた。 カウンターのなかでは熊のような巨大な体格の主人が一人で忙しげに働いていた。 昼をだいぶ過ぎて客はひけて、ちらほらと空いた席があったのに、情報屋はコレットを以前座った席に案内して、椅子までひいて座らせてくれた。 至れり尽くせりな態度に少しだけ恐縮しながら腰かけてコレットはメニューを熱心に見つめる。向かいの席に座った情報屋はその様子を楽しげに見つめた。 「情報屋さんは見なくていいんですか?」 「ええ。それで、なにを食べます?」 「前食べられなかった、チャーハンや水ギョウザ、春巻……あ、あと、この前のスープも」 思いつくままに食べたいものをあげるコレットに情報屋は笑って先を促した。 「あとデザートは?」 「もちろん、食べます。あ、いちじくのケーキがある……あと月餅も食べてみたい」 「全部食べれますか?」 「えっと……大丈夫です。情報屋さんもいるから」 「協力しましょう」 料理を待つ間に茶が運ばれてきたのに、それで寒さに凍えた体を温める。 コレットは両手で持つ丸い陶器の湯のみから視線をそっとあげて、情報屋を見た。 確かにあったのに無くなった。 無残に喪われた場所には埋めあわせのように、コレットには読みとれない難しい文字の書かれた札が貼られて、ひらひらと先がなびいている。 じっと眺めるのは失礼かと視線をテーブルに落すと、すぐにこうばしい香りが鼻孔をくすぐった。 出来たての春巻、水ギョウザ、チャーハンと頼んだ品が次々にテーブルを埋め尽して行くのにコレットは心のなかにある不安にも似た感情を奥へと追いやった。 おいしい食事は、出来るだけ笑顔で食べたい。 そうしたら、すこしは…… 春巻を食べようと箸を伸ばすと、情報屋の箸とぶつかった。 「あ」 「……すいません。コレット嬢」 すすっと情報屋が箸をさげるのにコレットは目を瞬かせた。 情報屋は困ったように笑って肩を竦めると、箸を置いて水ギョウザをスプーンで小皿に移して食べ始めた。 ――狭まった視界は 本来はあったものが、突然と、それも乱暴に奪われた痛みはどれほどだろう? ――いまのは、距離感がつかめなかったのかな。……片目だけだと、すぐに目が疲れたりするのかな? とくとくと胸が騒ぎだした。 焦燥感が押し寄せてくるのに、コレットはそっと片目を塞いでみた。とたんに今まで見えていた半分が消えた視界に戸惑い、持っていた箸がテーブルに落ちて、からんと音をたてた。 「あっ、ごめんなさい。私」 「……利き目を探しているんですか?」 「利き目?」 「両目で見ているものは、片目で見るとぶれるんです。けど、両目でみていたとき同じように見える目があるんです、それが利き目です。ほら、俺の指をみて、試してごらんなさい」 情報屋が人差し指をたてるのに、言われたとおりはじめは両目で見たあと、そっと右目を閉じ、今度は左目を閉じてみて、驚いた。 「左目だと、ぶれた」 「コレット嬢の利き目は右ですね。もし、片目で食事をするなら、利き目のほうがラクですよ。俺は利き目がなくなくってずいぶんと不自由しましたから。未だに、少し慣れないんですよね、こちらの目は」 「……情報屋さん」 コレットが言葉を紡ごうとしたとき、情報屋は笑ってそれを遮った。何も言わないでほしいという目が、コレットの唇を封じこむ。 同情や優しさなんてつもりはない。ましてや好奇心のつもりも。 何故と、といわれたら少しでも真実を知りたかった。 料理はおいしいはずなのに、口のなかで急速に味をなくし、ぱさぱさとした異物は喉を通るのにひどい苦労を必要とした。 「ねぇ情報屋さん。私、あなたに言いたいことがあるの」 「なんですか?」 「子犬さんをここに連れてきてくれてありがとう。今日、ここに一緒に来てくれてありがとう。一緒にご飯を食べてくれてありがとう」 翡翠色の瞳が真っ直ぐに黒曜石の瞳を見つめた。 「あのね、今日、一緒に子犬さんを見に行くついでに、ごはんを食べるっていったでしょ? あれ、嘘だったの。情報屋さんにおいしいものを食べてもらって……元気出してもらえないかなって思ったの……だから元気出して。情報屋さんの味方だっていう人、たくさんいるからね」 「じゃあ、コレット、あなたは俺の味方ですか?」 黒曜石の輝きが、はじめて揺らいだ。 「私は」 「シィー」 情報屋は人差し指をそっとコレットの唇にあてて黙らせた。そして悪戯が成功した子供のような顔をした。 「私はあなたの味方です、とはじめに言わないのがあなたのいいところですよね。ただ少しだけ自分がすごく価値があると思ったほうがいい。ね?」 言葉を封じた指は、今度は優しくコレットの頭を愛しむように撫でた。 「大勢がいても、たった一人の人間がないのではまったく意味がないっていうのもあるんです。あなたはそんなたった一人の人間ですよ」 「情報屋さん……」 「あ、来ましたよ。ここの月餅はでかいことで有名ですからがんばって食べてくださいね」 「え? ……あっ!」 見ると、コレットの顔ほどの大きさのある月餅がテーブルに真ん中にどんと置かれた。 コレットは眼玉が落ちてしまうほどに目を大きく見開いて月餅を見たあと、情報屋に視線を向けた。 「大丈夫、俺はコレット嬢の味方ですよ。絶対に見捨てませんから。力の限り、協力します。さ、二人で食べましょう」
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