イラスト/ぷみさ (iabh9357)
春を喜ぶかのように、桜が目覚めた。 やわらかな風に優しく撫でられ、目覚めを促された蕾はほのかに頬を染めて。 静かにそのからだをひらく。 「今年もまた、花の季節が参りましたね……」 花といえば桜、そう連想される世界で生きてきた夢幻の宮は、香房【夢現鏡】の裏手の庭で一本の桜の木を見上げていた。 今朝方、花の咲き具合を見て樹の下に緋毛氈を敷いておいた。ぽかぽかと暖かくなってくる昼近くになると、緋毛氈の上に桜色の花びらがいくつか舞い落ちていて、まるで桜の褥のようだ、なんて思ったりもして。 つい、心が揺れた。 今日だけは、今日だけは――誘惑に抗えずに、店の扉を開くのをやめた。今日は一日休業だ。 緋毛氈に腰を下ろし、シャランと音を立てる飾り天冠を取り外して丁寧に置く。そして。 ころん、と緋毛氈の上に仰向けに寝転んだ。 はしたないとはわかっていたけれど、どうしても桜の褥の誘惑には勝てなかった。 裏庭は外とは高めの塀で遮られているため、余程のことがない限りはこの姿が見られることはないと思うが……いや、ここはターミナル。多種多様の人種が存在するのだから、塀の上を通過する者がいても不思議はない。今は、深くは考えないことにする。 さらっ…… 風に髪が流され、花びらが舞う。(ああ――……) 心に染み入るこの風景。 桜が、降る――。 思いを馳せるは過去か、未来か。 しばし、目を閉じて、桜の歌に耳を傾ける。 そうだ――。「独り占めは、よくありませんよね……」 感じたのは追憶か寂寥か。 夢幻の宮はぽつり、呟いて微笑んだ。「この美しい風景を、皆様におすそ分けいたしましょう――」 そして、貴方は招かれた。 静かな、桜の下に。======「桜音茶話」とタイトルのつくものは同じ内容となっております。個別タイトルは区別のためであり、内容に違いはありません。 同一PCさんでの複数ご参加はご遠慮くださいますようお願いいたします。 一つの抽選に漏れてしまったので、別のへエントリー、は大丈夫です。 去年ご参加くださった方も、大丈夫です。======
トラムを降りたジュリエッタ・凛・アヴェルリーノは、何度も訪問した店を目指していた。 その姿は普段のセーラーにハーフパンツとは違い、稽古着を兼ねた袴姿だった。ぴんと背筋を伸ばしたその姿、とても似合っている。 彼女が一歩一歩足を進めて目指すのは、香房【夢現鏡】。何度か通ったので道は覚えている。が、店の並んでいる通りに入るといつもと様子が違っていた。女店主、夢幻の宮が店の前にでていて、御簾を巻き上げているのである。 「なんじゃ、今日はもう店じまいかのう?」 「! ジュリエッタ様」 少し残念そうに声をかけると、振り向いた夢幻の宮は表情を明るくしてジュリエッタの名を呼んだ。そして続けるのは、ジュリエッタも予想外の言葉。 「桜が美しいので、今日はお花見にしようと思っていたところなのです。よろしければジュリエッタ様もいかがでしょうか? もちろん、ご都合もおありでしょうから無理強いはいたしません」 わたくしと一緒でお嫌でなければですが、と付け加える夢幻の宮。彼女の方から何かに誘うことなど珍しく思って、ジュリエッタはすこし目を見開いた。 「ほう、桜、のう」 「はい。この建物の裏庭に立派な桜の木があるのです」 だれでもかれでもお通しするわけではないのですよ、彼女は微笑んで告げた。そう言われると自分が特別のような気がして、悪い気はしない。彼女によれば「桜が招待客を選んでいる」そうだが、不思議とそれが納得できてしまうのは0世界だからか、それともジュリエッタの物書きゆえの感性からか。 「それではお呼ばれしようかのう」 当初の目的とはだいぶ違う。けれども夢幻の宮の誘いは魅力的であったし、めったに人を入れない場所と聞けば興味も湧いた。 「はい、それでは店内へどうぞ」 夢幻の宮に招き入れられ、ジュリエッタは店内に足を進めた。今日焚いていた香りなのだろう、スッキリとした樹木の香りが鼻孔をくすぐる。御簾を上げて戸を閉めた夢幻の宮がお待たせいたしましたとやってきて、ジュリエッタを店舗奥へと案内してくれる。 店舗奥から住居部分へ入る所で靴を脱ぎ、板張りの廊下を歩いて行く。廊下も時折覗ける部屋も、きちりと整えられていた。 その、キチリと整えられた廊下に何かが落ちている。これだけ綺麗にしているのにおかしくはないか、そう思ったジュリエッタは次の瞬間、その意味を理解した。 ふわぁぁぁぁぁっ……。 恐らくその部屋の窓は開かれているのだろう。室内から廊下へと吹き出してきた風が乗せてきたのは花びら。部屋を覗いてみれば窓から廊下にかけて花びらが尾のように長く伸びている。辿れば開け放たれた窓に行き付き、その先は――。 「これは……」 ジュリエッタは自然、息を呑んだ。 庭の空へ腕を伸ばしている大きな桜の木がそこにはあった。その腕には見事に花が咲き乱れており、ジュリエッタを歓迎するかのようにさわりと風に揺れた。 「素晴らしいのう……」 絞りだすように告げて見惚れているジュリエッタを邪魔しないように、夢幻の宮は彼女の少し後ろで微笑んでいた。 *-*-* ジュリエッタが夢現鏡を訪れた本来の目的は、これから赴く戦いの前に良い香りを焚いて貰いたい、その思いからだった。戦いの前に昂ぶる気持ちを、迷いを、緊張を、無駄なものを払拭し、解きほぐしてしまうようなそんな癒しを求めていた。けれども桜の下で花びらとともに緋毛氈に座ってみると、これはこれで心が洗われるようだった。 「どうぞ、お好きなだけお召し上がり下さいませ」 夢幻の宮が並べたお重には、美味しそうな料理が並べられていた。しかしジュリエッタがつい目を引かれたのは色鮮やかな和菓子がところ狭しと並んだ重だった。 桜餅は長命寺と道明寺の二種類あり、違いを楽しめるようになっている。お団子は定番の白いものだけでなく、イチゴ風味のピンク、抹茶風味の緑、かぼちゃ風味のオレンジ、バナナ風味の黄色などバラエティに富んでいて、これは何味じゃろうか? と考えながら食べるのが楽しくてついつい手が出てしまった。元々決闘に向けて広場で稽古していたため、お腹が空いていたのだ。 「ほう、これは桜の形をしておる」 次に手にとったのは、桜の花の形をしたピンク色のもなか。中の餡は桜あんでふわり、桜の香りがが口の中に広がる。つづいて芋ようかん、抹茶ようかんなど重めの和菓子を中心にいただく。 「ふう……」 見目も楽しくて、ついつい食べ過ぎてしまって。甘いものだけでお腹いっぱいになってしまった。ぱたり、と緋毛氈の上に寝転んだジュリエッタ。くすくすと夢幻の宮の笑い声が聞こえた。 「つい、食べ過ぎてしもうた」 「お気に召していただけたようで、うれしゅうございます」 カタ……カタ……となるべく音を立てないようにしながら重箱を片付けている音が聞こえた。仰向けになったジュリエッタの視線は、自然と桜の枝に向く。ふわりふうわりと花びらが自分めがけて落ちてくる様子は、なんとも表現しがたい贅沢のように感じた。 「故郷のイタリアにも桜はあったのじゃが、ここの桜はどこか儚げかつ雅やかな雰囲気があるのう。この情景を確か古語では……『にほふ』というのじゃったろうか?」 「よくご存知でございますね。さようでございます」 さらさらさら……さらさらさら……耳を澄ませば花びらの散る音が聞こえるよう。暫くの間、場は沈黙に包まれた。ジュリエッタはあえて言葉を発せず、夢幻の宮も自分から口を開こうとはしなかった。 「宮殿、少しわたくしの話を聞いてはくれぬか」 「わたくしでよろしければ」 しばしの沈黙の後、ジュリエッタは思い切って口を開いた。心の中に絡まるようにして溜まっている思いを、ほどきながら口にする。 「わたくしはこれから決闘に向かうのじゃ」 「決闘……でございますか?」 その単語の示す過激さから、夢幻の宮は驚いたように目を見開いた。寝転んでいるジュリエッタからはその光景が見えなかったが、言葉の色からなんとなく想像ができた。 「といっても憎い相手と戦うわけではないのじゃ。数年前のクリスマスプレゼント交換などで縁深くなった者がおってな、気持ちに区切りをつけるためにも相手を願ったのじゃ」 「なにかご不安がおありですか?」 「……」 穏やかに問うてくる夢幻の宮の言葉に、ジュリエッタは一瞬言葉に詰まった。不安はある、そのとおりだった。宮殿には敵わぬな、小さく笑みを浮かべ、ジュリエッタは言葉を紡ぐ。 「先立ってはインヤンガイに帰属する少年を送り出し、親友殿には0世界に帰属すると打ち明けられたのじゃ」 「帰属、でございますか」 夢幻の宮の周りにも最近その手の話は多かった。実際に故郷が見つかった彼女に意見を聞きに来た者もいる。そして彼女自身も帰属問題に悩んでいる一人であるからして。 「わたくしはまだ覚醒して間もない方。今まで忙しいことを理由に考えないようにしておったが、最近は強く意識するようになってきたのじゃ」 「……複雑な心中、お察し申し上げます」 帰属というのは大きな区切り。大きな別れが訪れる可能性が高い。親しい者が区切りの先に歩みだしてしまうというのは複雑で、そして悲しみや寂しさを伴うものである。ジュリエッタが今までわざと考えないようにしてきたように、決心した者もとてもとても悩みに悩みを重ねて結論を出したのだろう。帰属を考える、という事自体とても大変なことで、心身ともに悲しみに似た痛みを伴うことがあるものなのかもしれなかった。 「迷っていらっしゃるのですか?」 「迷っている……そうじゃな、帰属について考える、という事自体に迷っているのかもしれぬ」 だがいつかその時は来る。嫌でも考えなければならない時が。 「わたくしも……迷っておりまする。ですから、ジュリエッタ様のお気持ちはお察しいたします」 「そうか、宮殿も……」 自分だけじゃない、そう思うと少し心が軽くなって。ジュリエッタは桜の木に向かって手を伸ばし、はらはらと舞い来る花びらをはしっとその手につかみとった。ゆっくりと手を開けば、掌の中には二枚の花弁がはいっていた。偶然にも二枚、その手につかみとったようだった。それはとても珍しいことのように感じて、なんとなく、嬉しくなった。 「――こたびの決闘で何かが見えるかもしれぬ」 この花びらはその予兆であるかに思えて。もう一度花びらを握りしめ、ジュリエッタは笑みを浮かべた。 「わたくしも、何かが見えるようにお祈りしておりますね」 「感謝する。自分の話だけになってすまなかったのう、宮殿。よければ良き香を焚いてはくれぬか?」 「もちろんでございます、しばしお待ちを」 快諾した夢幻の宮の衣擦れの音が聞こえる。香を取りに戻ったのだろう。ひとりになった庭で、ジュリエッタは大きく息を吸い込んだ。桜の薄い香りと風の香りが彼女の胸の中を満たす。 「お待たせいたしました」 夢幻の宮の一声とともに漂ってきたのは、ウッディーな香り中にフレッシュさと極上の蜂蜜のような香りを抱いたもの。すうっとジュリエッタの身体中を包み込む。まるで蜂蜜の湖の上に広げられたハンモックに横になっているような心地だ。 「ふたつの精油をブレンドいたしました。浮き足立った心落ち着かせ、気持ちと身体を引き締め冷静にする効果があります」 「さすが宮殿。いまのわたくしにぴったりじゃな」 広がりゆく香りに合わせるようにして、夢幻の宮が緋毛氈の上に降りる。彼女が奏でるのは上品な音色。その音色は桜の花とよく似合っていて、花の美しさが一層際立つようだった。 (とても贅沢なひとときじゃのう……) ジュリエッタは寝転んだまま手を上にあげて背伸びをする。いたずらな花びらが唇の先に降りたのに気がついて、小さく笑みを浮かべた。 目を閉じれば色々なことが思い出される。考えるべきこと、考えたくないこと、ついこの間体験したこと。 香りのおかげか音色のおかげか、考えたくないことを思い出しても今までほど気が滅入りそうになることはない。安らかに、落ち着いて考えられる。 (落ち着いた、安らかな心で向かえば、きっと――) 決闘で、何かが見えるかもしれない。 ジュリエッタは今一度、大きく香りを吸い込んだ。 【了】
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