軽やかな春風のような足取りでジュリエッタ・凛・アヴェルリーノはその部屋の前まできた。 ドアをこんこんとノックすると、すぐに「入れ」と鞭のような鋭い返事が飛んできた。 ジュリエッタは右肩にちょこんとのっかっている相棒であるセクタンのマルゲリータを両手でそっと抱っこする。 「すまぬのう、マルゲリータ、ちょっと外で待っててくれまいか?」 青い羽のフクロウに似たマルゲリータは可愛らしい瞳を瞬かせ、首を傾げて抗議する。 「以前のこともあるからのお、すぐに済ませる」 マルゲリータを廊下の窓にそっと座らせるとジュリエッタはドアノブに手を伸ばす。 「失礼するぞ。おお、黒殿!」 部屋のなかにはいっていくジュリエッタをじぃと見つめるマルゲリータ――ドアが閉まると、小さな嘴で窓をちょいちょいと突き始めた。 「失礼するぞ、おお、黒殿!」 執務机に向かっていた黒猫にゃんこ――現在は三十代のダンディなスーツ姿の男性である黒は顔をあげると、鳩が豆鉄砲を食らったように目を丸めた。 「お前、誰だ」 「む。わたくしじゃ!」 「はぁ?」 「わからぬか? ジュリエッタじゃ!」 「ジュリエッタ? これは、また、変わったなぁ」 唖然とした顔で呟く黒にジュリエッタは頬を膨らませる。その幼さの残る仕草に黒は微笑んだ。 「ま、中身はジュリエッタだな」 「なんじゃ、その言い方は」 「いやー、女は化けるなって」 肩を竦めて黒は革張りの安楽椅子から立ち上がるとジュリエッタを頭からつま先までしげしげと無遠慮に眺めた。 「わたくしも、もう大学生じゃ。そろそろ、服装を改めようと思ってのお。しかし、動きやすいというのは第一に考えたのじゃぞ?」 以前のジュリエッタは白に青のラインがアクセントにはいったシャツ、下はズボン。それにリュックに帽子のボーイシュな服装を好んでいた。今黒の目の前にいるのは淡い桜色のシャツ、明るいイエローコート。下は濃いワインレットのスカートにリュック。頭にはベレー帽子。今までと一番違うのは髪型だ。以前は三つ編みにしていたが、おろした。肩くらいのウェーブのかかっているのに内側のこめかみの束だけ小さな三つ編み。顔にも薄化粧を施し、唇はゼリーのようにふっくらと、瞳は夏の海辺のように輝きを宿している。 こんなジュリエッタを見て驚くなというほうが無理だ。 「似合うじゃないか」 「……ありがとう、嬉しく思うぞ」 「それで何しに来たんだ? お前、最近、うちの暴走娘の世話をいろいろと焼いてくれて、助かってるぜ」 「今日は黒殿に用があってな。キサ殿は今日はおらぬのか?」 ジュリエッタはきょろきょろと部屋のなかを見まわすが、以前掃除したときのままきれいな部屋にキサの姿はない。 キサは以前、シオンと一緒に勉強と称して満員電車に乗った仲である。 「ああ、今日は別の奴に押し付けて、ごふごふ。家庭教師と勉強中だ。というか俺に用?」 「うむ。ええっと、これを」 リュックからラッピングしたクッキーを両手で持ってジュリエッタはずいっと差し出した。 「わたくしが得意としているトマトクッキーじゃ。今朝、焼いたばかりで美味しいと思うぞ! 以前迷惑を掛けたマルゲリータはちゃんと外にて待機させておる。わたくしもあのとき、黒殿を気絶させてしまったのでお詫びにあと報告じゃ、いまは、ほれ」 声とともにジュリエッタの背後に金色の九つの首を持つ蛇の幻――八岐大蛇を出現させた。ずっと不安定だったが、ようやくトラベルギアの力を完全にコントロールできるようになった証だ。 「無事に制御できるようになったのじゃ」 「おめでとう。大変だっただろう。クッキーはありがたくもらっておく」 黒は幻に目を眇めたあと、クッキーを受け取ってウィンクを一つ投げた。 「それで、聞きたいのじゃが」 もじもじとジュリエッタは恥ずかしげに黒を見上げる。 「ん?」 「すこしは、色気が出てきたじゃろうか?」 「……は?」 黒は小首を傾げた。 「じゃから、少しは色気なるものが出ておるかのう?」 「誰が?」 「わ、わたくじゃ、わたくし!」 「……ジュリエッタ」 「う、うむ。黒殿の素直な意見を聞かせてほしい!」 「で、誰が好きなんだ」 「!?」 ジュリエッタは硬直後、ぽん! 音をたてて赤面した。まだ、何も言ってないのに、どうしてそんな確信をついたことをさらりと言いのけられてしまうのか。 「な、な、な、なにを」 「いや、ここまできてわからない鈍い男でもないぞ。俺は」 「いや、し、しかし」 「へぇ。ジュリエッタが恋ね。お前が書いてる小説みたいにあまーいことを言う男なのか? そうそう、必ずピンチになると駆けつけて、助けてくれるような」 「な、なっ」 「全部読んでおいたぞ」 ジュリエッタの真っ赤だった顔が今度は青色にと数秒の間に変化していく。 その反応を黒はからからと笑いながら意地悪く眺めた。 「いやー、面白かったぜ。新刊、楽しみにしているからな」 「よ、読んだのか!」 「以前、読むっていっただろう? まぁ、座れよ。立ち話もなんだしな」 ジュリエッタはぎくしゃぐとソファに腰かける。黒はすぐにマタタビ紅茶とジュリエッタが先ほどもってきたトマトクッキーをテーブルの上に置いて、向かい側に腰かけた。 黒は自分の紅茶にはウィスキーを数滴だけ落としたあと口つける。 「黒殿には隠し事や秘密を持てそうにないのお」 「人が変化するってことは、何かあるときだろう。……以前、ダイアナの起こした事件でお前はいろいろと大変だったからな」 ダイアナの名前にジュリエッタはぎゅっと拳を握りしめる。 彼女を止めたいと願ったのに、できなくて、心が不安定だったのに暴走した力で殺めてしまった。 ひどく落ち込んだが、周りにいる仲間たちの励ましから自分の心を真っ直ぐに見つめ、前に進もうと決めたのだ。 「あのことについては、決して忘れてはいけないことじゃ。けれど、わたくしは、わたくしなりに、整頓をつけた」 「がんばったな」 褒められてジュリエッタは朗らかに目尻を緩める。 「少し、心配していたが、お前はやはり強いな」 「そんなことはない。わたくしではなく、周りの人々のおかげじゃ」 「人が変わるのは、その人間自身の強さだ。周りはただきっかけを与えたにすぎない。だから、その強さを、今の己を誇りにしていいと俺は思う」 「……ありがとう。黒殿、それで」 「で、好なやつって誰だ」 ぼっ! ジュリエッタは赤面する。今まで真面目な話だったのが九十度くらい話が変わってしまっている。 にやにやと黒は笑う。 「お前が色気のことをいうんだ。メインは、その話なんだろう?」 「う、うむ」 ジュリエッタは両拳を膝の上に置いて出された紅茶をじっと見つめる。そこに映った新しい自分。 自分でも努力して変わったと思うが、異性から見てどういう印象なのか知りたかった。そこで思いついたのが以前、いろいろと指摘してくれた黒だった。容赦なくびしばしと告げられた言葉にはいろいろと考えさせられた。 恋の話は、もちろん女の子友達と盛り上がったりもするけれど、まだ親しい友人に話すのは気恥ずかしさが強い。きっと友達は応援してくれると思うが…… だって好きになったから、この気持ちを口にしたら、どんどん溢れてしまいそうで。 止められなくなったら怖い。 もし、受け止めてくれなかったらやっぱり怖い。 それと一緒で この幸せな甘みを自分のなかでもうちょっとだけ味わっていたいと思う独り占めしたい気持ちもある。 贅沢な悩みだが、一人で悶々するとのは柄ではないのに、司書である黒を頼ったが――まさか、一発でばれてしまうとは予想外だ。 けれど同時に黒ならば相談相手としては適任だと思える。 「俺から見ると、お前は以前よりもずっと大人になったと思うぞ。そうだな、色気が出てきた」 「ほ、本当か?」 「ああ。色気っていうのは、そいつの持つ人間としての魅力を示すものだ。……お前はいい女だよ。ジュリエッタ、自信を持て。俺が保障する」 「ありがとう」 ジュリエッタは両肩から力を抜くと、さっそく紅茶のカップを両手で包み込み、そっと味わった。 あたたかで、おいしい。 「わたくしの、好きな人はのお、その、三十代くらいの人なのじゃ。ちょうど黒殿と同じくらいじゃから、黒殿がそういってくれると自信が持てる」 「ほぉ、わりと歳の差があいてるな。クッキーもらうぞ」 ぽりぽりとトマト型のトマトの果肉入りのクッキーを黒は齧りだす。ジュリエッタは紅茶の薄い茶色をじっと見つめて言葉をつづけた。 「それでのお、司書でもあるのじゃ」 「ごふぅ!」 黒が紅茶を吹いた。 「ごふ、ごふごふ。クッキーの欠片がき、器官に!」 「黒殿! 大丈夫かの」 黒はジュリエッタの前に掌を差し出して待てと示すとたっぷり一秒咳き込んだあと紅茶を飲んで、はぁーと大きなため息をつくと落ち着いた。 「いや、ものすごい告白を今、聞いた気がした」 「こ、告白?」 ジュリエッタが驚く番だった。 黒は真剣な顔でジュリエッタを見つめる。 「だって、その条件って俺だろう」 「!?」 「そんな、遠回しの告白をしてくれるとはな。俺もいろいろと答えないとな」 「いやいやい、そうじゃなくて」 ジュリエッタが困惑して首を振るが黒は聞いちゃいない。 にやりと笑うとジュリエッタの横にちゃっかりと腰かける。それにジュリエッタは反射的に身を竦めた。 黒が見下ろしてくるのにぎゅっと拳を握りしめる。 好きな人が出来て、今は、はっきりと男性というものに意識を置くようになった。 背丈が違う、 声のトーンも、 ぬくもりも、 「ち、ちがうのじゃ、――!」 脳裏に浮かぶ好きな人の名をジュリエッタは叫ぶ。 どす! 「どす?」 なんか刺さった音がしてジュリエッタは薄目を開けてはっとした。 黒の額に深々と突き刺さったマルゲリータ――の、嘴。 「ま、マルゲリータ! なぜ、ここに! 廊下でまっておれと、窓があいておる!」 主人思いのマルゲリータは廊下で待機を命じられたが、一生懸命に嘴で窓をつついて外へと出るとふわふわと飛んで黒の部屋の窓まで移動すると、そこが開いていたのをチャンスとなかに飛び込み、ジュリエッタに不届きな手を出そうとした黒を成敗したのである。 ころーんとマルゲリータはジュリエッタの胸の中に落ちる。それをジュリエッタは両手でキャッチ。 「マルゲリータ、わたくしを助けてくれたのか」 こくこく。 「……は、いかん、黒殿、だいじょ」 ジュリエッタの目の前には暗黒のオーラを纏った黒がいた。 「この鳥がぁあああ! いい度胸だぁああ! 羽毛布団にして昼寝してくれるわぁ!」 腰にはサーベル。右手には縄を持った大人げなくブチ切れた黒がいた。マルゲリータはふわぁとジュリエッタの腕から飛ぶと黒と対峙する。 「ちょ、マルゲリータ、それに黒殿、やめ……やめぬか!」 ばちぃん! 室内なので八岐大蛇は一匹のみ出現させ、テーブルに小さな雷撃を落としたジュリエッタはキッと黒とマルゲリータを睨みつける。 「喧嘩はだめじゃ! その、わたくしが誤解を招くようなことを告げてしまったが、わたくしが好きなのは」 「いい、いい、それは先聞いた」 黒がサーベルを置いて肩を竦める。 「横にいって、腰抱いて、別の男の名前叫ばれれば、いやでもわかる」 真っ赤になるジュリエッタに黒は大げさに肩を竦めた。 「安心しろ、俺が恋愛対象になるなんてはじめから思っちゃいない。まぁからかってわるかった」 「からかったのか? わたくしは本気かと」 「レディ相手にはいつだって本気さ。けれど、相手がいるやつに手を出さないのが俺の流儀でね。まぁ、ジュリエッタはからかうとかわいいからな、しかし毎回、毎回、邪魔しやがって」 ふわふわと浮いているマルゲリータを黒はじろと睨みつける。マルゲリータはそんな視線なんぞ気にせず、ジュリエッタの腕のなかに収まる。 黒は再びジュリエッタの向かい側のソファに腰かけると額を抑えた。 「あいたた。俺ともあろう者が油断した。くそ……」 「額に穴が……ぷ、ぷははは! すまぬ、笑ってはいけないが、ふふふ、おもしろくて、すまぬ、すまぬ! 黒殿!」 ジュリエッタがおなかを抱えて笑うのに黒もくすっと笑った。 ようやくマルゲリータ乱入事件も落ち着いた二人は一杯目の紅茶を飲み終え、二杯目にすすむ。クッキーも順調に減っていく。 「それで、わたくしは、相談したのは……こんなことを聞いてもいいのか迷っておるのじゃが、記憶を消すことをどう思っておるのじゃ」 「……ジュリエッタ、それは」 「ロストメモリーは記憶を消す、のじゃろう?」 ジュリエッタは俯くと拳を握りしめる。 好きな相手が世界司書である以上、共に歩みたいと願えば自分が0世界に帰属するしかない。しかし、それはチャイ=ブレの許しを得、覚醒以前の記憶が消えるということを意味する。 記憶を無くす。 考えただけで怖くてたまらない。 ジュリエッタにとって思い出は大切なものだ。 いまは亡き両親。 復興したいと願った家のこと。 自分の根を作り出してくれた故郷であるイタリア。 もし、それらを無くしてしまったら自分は自分ではなくなってしまうのではないのか? そうなってしまったら、もしかしたら、この恋心はどうなるだろう? 変わってしまった己を彼は好きになってくれるだろうか? どう変わってしまうかだってわからない。 考えれば考えるだけ胸が苦しく、痛い。 それに0世界に帰属すれば、今までずっと願っていたお家復興も諦めなくてはいけない。 マルゲリータとも別れてしまう…… 誰かを好きになることが、こんなふうに自分の根源を揺さぶるほど大きなものだとは思わなかった。 恋はもっと穏やかで、優しく、包み込まれるようなものだとばかり思っていた。けれど違う。心がかきたてられ、苦しくなって、蜜のように甘い幸せが両方いっぺんにやってくる。 恋は一人で出来る。 けど、わたくしは出来ればこの気持ちの先をもっと知りたい。得たいと願っている。 「黒殿はどう思っておる」 「人は得るためになにかを失う。それが理だ。……しかし、今の俺は、何かを失ったとは思っていない。今仮に記憶を失うが、どこかの世界に帰属できるといわれて、それが好きな相手のためだといわれれば……そうだな。後悔の少ない道を選ぶ」 「後悔の少ない道? しないのではないのか?」 「どっちを選んでも後悔すると思う。だからできるだけ後悔の少ないほうを選ぶ。そして、その選択は自分でしたものだと納得する。誰かがこういったから、誰かのためとかそういう言い訳は作らない。自分が選んだ、自分の求めた結果だ。だから後悔してもいいんだ。ジュリエッタ、後悔しないほうが後悔するよりもずっと辛いものだ」 「そういうものか?」 「そういうものさ。まぁ、まずは、ジュリエッタは好きな相手にぶつかってこい、その気持ちを、二人で悩んでみろよ。一人で悩んでも仕方ないだろう? そいつと共に居たいと思うなら、まずは好きなやつにあたって、一緒に悩め」 ジュリエッタが真っ赤になるのにふふっと黒は笑う。 「俺に出来ることがあれば協力するぞ? もちろん、もしだめだったときは俺が慰めてやる」 「不吉なことを申すな……しかし、ありがとう」 照れ笑いするジュリエッタに黒はふと窓から差し込む青空に視線を向けた。 「もし、迷うならこう考えろ。この道を選んで『不幸になってもいい』とな。人は幸せになるために選択をする。けれど、どんな道も、苦しいことや悲しいことはある。だから、『不幸になってもいい、どんな道でも自分が切り開いてみせる』と……はじめから幸せになることばかり考えるよりは、不幸になる覚悟をしておけば何も怖くない、だろう?」 「黒殿」 黒もそうだったのだろうか? 選び続ける人生のなかで自分を信じ、不幸になってもいい、きっとこの先で自分は幸せを掴むと信じて進んできたのだろうか? 黒はジュリエッタの視線に穏やかに笑う。なにもかも語らないけれど、優しさをこめて。 「……さて、で、あいつのどういうところに惚れたんだ? 惚れたきっかは? さぁて、いろいろと語ってもらおうか。今日一日、仕事はないからな」 「なぬ!?」 「逃がさないからなぁ~」 「!?」 ジュリエッタがいつ執務室から無事に家へと帰れたのかを、知る者はいない……
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