開かれた雨戸の向こう、夜の薄い闇が包む静かな庭の中、糸のように降り注ぐ雨の気配ばかりが広がっていた。 畳敷きの部屋、板張りの廊下。小さな書棚やテーブル。気持ちの問題だろうか、蚊遣りの煙が空気を小さく揺らしている。 ――怪異ナル小咄ノ蒐集ヲシテオリマス。代価トシテ、茶湯ヤ甘味、酒肴ナド御用意シテオリマス 長屋の風体をしたチェンバーの木戸、風に揺れる浅葱色の暖簾の下に、そんな一文がしたためられた、小さな木製の看板が提げられていた。目にした客人が暖簾をくぐり、現われたチェンバーの主に案内されたのが、この部屋だった。 雨師と名乗る男は、和装で身を包み、細くやわらかな眼光は、眼鏡の奥でゆるゆると穏やかな笑みを浮かべている。 テーブルには酒と肴の用意が整えられていた。定食じみた食事の用意も、甘味と煎茶の用意も出来ると言う。 「それでは、お聞かせくださいますか?」 言いながら、雨師は客人の前に膝を折り座った。「あなたが経験したものでも、見聞したものでもかまいません。もちろん、創り話でも」 怪異なものであるならば。 そう言って、雨師は静かに客人が語り始めるのを待っている。
そうじゃのう。わたくしが小学校に通っていたころのことじゃ。東京の自宅の近くにの、ちょっとした空き地があってのう。空き地とは言うが、実のところは廃墟となっておった家の敷地内に位置する場所じゃ。子どもであったがゆえかもしれぬが、入ってみれば案外と広い庭でのう。子どもの背丈なぞ隠れてしまうほどの高さにまで伸びた草が、夜ともなれば風に吹かれて波のような音をたてて揺れるのじゃ。あれがまた不気味でのう。 言いながら、ジュリエッタは雨師が用意したおはぎを口に運んだ。代価という名目で用意する品を決めて欲しいと乞われた際に、しばしの思案の後、ジュリエッタが思いついたのがおはぎと抹茶だったのだ。折りしも彼岸を迎えようかという時節。祖父の部屋を連想させる空気を満たしたチェンバーで、雨の音を聴きながら懐かしく食するのも良いものだ。 イタリアに住んでいた頃は餡子などというものを口にすることは無かった故に、初めて口にする時にはそれはもう、戸惑いもしたものじゃ。うむ、今ではもう大の好物でのう。わたくしは黒ゴマのおはぎが好きかのう。 雨師が用意した重箱の中、並ぶおはぎは粒餡とこし餡とをメインとしたものだったが、ジュリエッタの言葉を得てか、わずかに場を離れた後、雨師は黒ゴマで作ったおはぎを携えて戻ってきた。 黒ゴマのおはぎを口に運び、抹茶を数口ほど飲んだ後、ジュリエッタは温かな息を吐いて目を眇め、ぽつりぽつりと記憶を語る。 まぁ、特に変わった風でもない日本家屋じゃ。けれど子どもたちからすればまたとない好奇心の的じゃろう? 草の海に囲まれた廃墟。あらぬ噂もつきものじゃった。 夏休みも終わりに近い日の夕方じゃった。その廃墟を探検してみようと友だちに誘われてのう。もちろんわたくしも喜んで向かいもしたもんじゃ。わたくしも子どもじゃったが故にのう。 瓦屋根の、二階建ての、白壁の家じゃった。雨戸は壊れておったが、あれはわたくしたちのように好奇心故に廃墟を訪ねた者の仕業であったのやもしれぬ。子どもであったが故、窓や鍵が壊れていたかどうかまでは気が向かなんだ。 玄関の、ガラス張りの引き戸をこっそり開けて、三和土から一段高くなった板張りの廊下にお邪魔してのう。土足で上がるのも気が引けるじゃろう。じゃがそんな礼儀なぞ気にしない先人たちが多くおったのじゃろうなあ。家の中のあちこちが泥だらけでのう、靴を脱いで上がるのも逆に気が引けたのじゃ。返事などないことも承知の上で、それでもやはり一応の謝罪と断りを述べた後に土足のままで上がらせてもらってのう。 玄関を入ってすぐに二階に続く階段があっての。一階には客間と居間、台所、風呂、それに階段の下に倉庫を兼ねておったのじゃろう、物置があったのう。どこも荒らされ放題じゃった。空き缶やら菓子の袋やら……。 一階を一通り見て回った後、友だちが言うたのじゃ。二階にも行ってみよう、との。しょうじきあんまり気は進まなんだが、好奇心がないとも言わぬ。階段の板が軋む音にもおっかなびっくり、わたくしどもは二階へと上がったのじゃ。 歩けば軋み、腐りかけていた床や畳は、場所によってはそのまま踏み抜けてしまいそうにわずかに沈む。人が住まなくなれば家は腐敗していくのだとも言うが、その通りなのかもしれない。手入れの有無などとは別に、住まう者の息吹を吸えばこそ、家というものもまた息吹を返すものなのだろう。思いついたようにそう言ったジュリエッタにうなずきを返し、雨師もまたそれに同意を見せた。そうかもしれませんね。そう言いながら新しく点てた抹茶を差し伸べた。 二階には部屋が四つあっての。どれも障子で区切られた和室じゃった。畳もずいぶんと腐っておってのう。踏み入るのにも迷うほどの有り様じゃった。障子もボロボロでの、部屋の中にも取り立てて目ぼしい家具なんぞは見当たらなんだ。よくある怪談なんかじゃと人形があったりもするんじゃろうが、そんなものはなかったのう。 ただ、一番奥の部屋の障子の奥に、わたくしは三面鏡があるのを見つけたのじゃよ。 夕焼けがやけに赤々とした色で畳を染めていた。西日のせいか、その部屋だけが、他の部屋の畳と違い、まるで手入れが届いたもののように綺麗に整えられていた。友だちは別の部屋を探索していた。彼女が来るのを待とうかとも思ったし、心のどこかが、その部屋への踏み入りを拒絶しているようにも思えた。 抹茶を口に運ぶ。ほろ苦い風味が広がった。呼吸をひとつ置いて、ジュリエッタは記憶を辿る。 けれど、わたくしもオシャレに関心のある女子である故に、興味には勝てなんだ。こっそりとお邪魔して、鏡面を覗いて見たのじゃよ。少し曇ってはおったが、ヒビが入っているわけでもなし、壊れているわけでもなしでのう。西日が照らしてキラキラしておっての。何しろ三面に映る自分の姿なぞあまり目にするものでもなくてのう。髪型のチェックなどをしておったのじゃ。呑気にの。そのまま、数分も経ってはいなかったとは思うがの。……違和感とでも言おうかのう……。視線を感じたのじゃよ。 それでわたくしは周りを見たのじゃ。友だちが来たのかと思うてな。けれどわたくしひとりしかおらなんだ。なのに視線は変わらず感じる。それどころか忍び笑う声すら聞こえたような気がしての。――鏡面を振り向き見たとき、わたくしは自分の顔を見てしまったのじゃ。向かい合う自分の顔が、とても歪んだ、恐ろしい笑みを浮かべていたのをの。笑いながら鏡面に両手をついて、わたくしを食い入るように見つめておった。 ――しょうじきを言えばそこからどう移動したのか覚えておらぬ。気がついたら階段を下り、縁側を飛び出して、草むした庭の中に立っておった。 苔むした池があってのう。水の匂いが満ちておった。ヒグラシが鳴いておったのう。草の中、わたくしはぼうやりと立っておった。風が吹いておったな。池の周りに蒲の穂が伸びておったのう。何故じゃろうな。わたくしは、池の水を覗いて見ねばならぬと、そう思うたのじゃ。 それで、どうなったんです? 抹茶を口にするジュリエッタに雨師が問う。ジュリエッタはうなずき、言葉を続けた。 気がついたら、わたくしは自分の部屋に寝かされておった。目を覚ました後、お祖父様にこっぴどく叱られてしもうてなあ。なんでもわたくしは池の中に身を沈めようとしておったらしいのじゃ。わたくしが急に飛び出していったものじゃから、友だちが追いかけて来てくれてのう。それで助けてもらったんじゃよ。――何故池の中に入っていたのか、覚えておらぬのじゃ。水面を覗いて、自分の顔を見たところまでは覚えておるのじゃが……。 でも、池は苔むしていたのでしょう? 雨師が言う。ジュリエッタはうなずいた。 ならば、そこにあなたの顔が映るはずなどないのでは? さらに続けた雨師の言に、ジュリエッタはわずかに表情を強張らせた。 それもそうじゃの。……今まで気付かなんだ。 あの廃墟はあれからすぐ、危険だからという理由で取り壊されてしもうての。結局、どういう者が住んでおったのか、どうして廃墟になってしもうたのか、何にも知らなんだ。 ……はて、そうじゃのう。ならばあの日、わたくしは何を見たんじゃろうかのう。 首をかしげ、雨降る庭に目を向ける。 草木は音も立てずに揺れていた。
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