訓練場から、威勢の良い掛け声が響く。 上級生たちが規律の取れた動きで駆けていく姿が見える。 それらを横目に眺めながら、空っぽとなった教室の床を、少年は雑巾と共に駆け抜けた。何回か往復し、窓際へと辿り着いて立ち上がる。顔を上げれば、梯子の上には彼と共に掃除を命じられた少女の姿があった。 棚の上を拭いていた少女の背を、丸めた新聞紙で小突く。少女の肩が跳ねて、苛立ちを孕んだ眼が少年を振り返った。投げつけられた布を掴み損ねて、額で受け止める。 ぶわりと埃が舞って、まともに肺に入った。 「そら見ろ!」 からからと、少女らしくない笑い声が降った。 埃に噎せながら、少年は拾い上げた雑巾を水に浸す。冷え切った温度が指先から温もりを奪う。振り解くように布切れを絞り上げた。 じとり、と頭上の少女を睨め上げる。 「誰のせいでこうなったと思ってる」 「お前も同意しただろ」 短く、剣呑なやりとりながら彼らの間に棘はない。少年の陰鬱な蒼い瞳と、少女の明朗な蒼い瞳とが交叉し、やがて彼らは耐えきれなくなったように吹き出した。 密やかな笑い声が、無人の教室に響く。 忘れられぬ、二人だけの一夜を思い返して。 ◆ 発端は、昨日の座学だった。 夕暮れの教室に取り残される、二人の少年と少女。 窓の外から忍び込む陽が、ふたつの影を長く伸ばしている。 しばらく彼らは言葉少なにそこに座していたが、やがてひとつの影が、椅子から立ち上がって教室の前方へと歩み寄った。 「コタロ、見ろ」 高い少女の声が、もう一人を呼ばう。小柄な少年は命じられるままに、少女の隣に立った。 サクラコは頷いて、壁に貼られた地図を見上げる。 その日、彼らが座学で教わったのは自国と敵国にまつわる地理の話。 広大で寒冷、決して肥沃とは言えない自国の領土と違い、東に面する敵国の領土は狭く、しかし人も資源も豊かなのだと言う。蒼は冷たい冬と死の色であり、紅は暖かな夏と命の色だ。綺麗に対照を成すふたつの国は、相容れぬまま長年戦争を続けている。 サクラコの指が、二国の国境付近を指し示した。 「孤児院は此処だ」 「ああ」 朱墨で×の打たれた点から、右下に指を滑らせ、大陸の岸まで持っていく。なだらかな山にもならぬ丘を越えて、すぐ近くだ。 意味ありげに、少女の人差し指がとんとん、とその場所を叩いている。そのまま、無言でむずむずと顔を歪める――笑おうとして何かを堪えている証だ。 「なにが言いたい」 コタロの、冷え冷えと輝く蒼い瞳が訝しそうにサクラコを見遣れば、彼女もまた同じ色の瞳で頷く。口許が、はっきりといびつな笑みを刻んだ。まるで悪戯な子供のように。 「見に行こう」 「……は?」 いとも簡単に放たれたその言葉に、コタロはただ口を開いて応えるしかなかった。 「海を見に行くんだ。二人で」 「院を抜け出すのか」 「消灯の点呼を待ってから出て、起床時間までに戻れば問題ない」 孤児院の規律を破る行為だ、とうろたえるコタロに、サクラコは自信ありげに頷いた。地図によれば、孤児院を東々北に進めば間もなく海に行き当たる。其処まで行き、日の出を見てから帰って来ても充分間に合うはずだと、迷いなく語るその言葉に、コタロは容易く感化される。 「……決行は」 「今日。点呼が終わったら焼却炉前に集合」 「……」 そして、コタロは再びあんぐりと口を開いた。 寄宿舎の灯が落ちた。 暗闇の中、どうにか見回りをやり過ごし、コタロはサクラコに言われたとおりの補助器具だけを手に持って院の裏口を出る。 「遅い」 サクラコは既にそこに居た。 孤児院のわずかな明かりだけが漏れ伝う中、コタロよりもわずかに高いところにある蒼い瞳が焔のように輝いている。コタロの姿を見つけ、むずり、と一度顔を歪めかけて、しかしすぐに憮然とした表情を作った。 「お前の方が点呼が早かった」 「そうかもしれん。行くぞ」 少女が身を翻せば、その背中で一束の金髪が跳ねる。 自分と同じ、褪せたその色を見失わないように、コタロは慌てて後を追った。 ◆ ふたり、無言で山道を行く。 いつしか空を覆う闇は、薄くなっていた。 夜通し歩いた足が痛む。しかしその口から泣き言は零れなかった。いずれ軍のために戦う事となる彼らは、厳しく律されている。 「方向はあっているのか?」 「もちろん」 淀みなく頷くサクラコの手の中で、方位磁針の切っ先がゆらゆらと揺れている。 それを見詰めている内に、コタロは抗い難い眠気に襲われ始めた。歩く足は止まらないまま、うつらうつらと意識を飛ばす。 「――着いたぞ」 サクラコの安堵を含んだ声が、コタロの意識を一瞬にして引き寄せた。肩に圧し掛かり、足を引っ張り続けていた倦怠感が、たった一言で取り払われる。 顔を上げれば、唐突に視界がひらけた。 まばゆい光が、二人の蒼い瞳を強く射る。 陽が昇ったのか、森が途絶えたのか、と眇めた目の中で見当を付けたが、光に慣れた視界は、その両方を示していた。 波打つ海岸線の先、見渡す限り遮るものの何もない、なだらかな凪の海が広がっている。まるで、己の抱く大地で流される血の量など知らぬかのような、穏やかな表情で。 僅かに弧を描く水平線の中央から、顔を覗かせる朝陽。鈍色の海を赤く染め、群青の空を紫に染めて、彼らの知るそれよりも一回りも二回りも大きく輝いている。 海の端から空の天辺へ、まどろむように移り行く色。 「……美しいな」 感嘆するような声が、サクラコの口から零れる。 コタロはただ、そうか、とだけ応えた。 彼の目には、赤く染まる海と昇る陽だけが映っていた。光を跳ね返し、海面で朝陽の下方が溶けるようにゆらゆらと歪んでいる様も、コタロの心を揺さぶることはない。 朝陽は毎日昇る。海は常にそこに在る。 それらはごくごく当たり前な、日常の風景で、何を美しいと思えばいいのか彼には正直よく判らなかった。 けれど、と顔を横に向ける。 「この海の向こうにも、世界は広がっているのだろうか。――我々と紅国の他にも、国はあるのだろうか。私たちが知らないだけで」 訥々とそう語る、少女の蒼い瞳がいっぱいまで開かれ、鮮やかな朝陽の色を映している。 少年は何も云わず、それを眺めていた。 「サクラコ」 「何だ」 朝陽に背を向け、孤児院への道を戻ろうとしたサクラコへ、コタロは逡巡しながらも声をかけた。振り返る事なく、サクラコから短いいらえが返る。 「今からでは……起床時間に、間に合わない」 少女の褪せた金髪の、一つに結ばれ短く尻尾のように伸びた先が、朝陽を浴びて僅か赤みを帯びて透けるのを見つめながら、コタロは言葉をどもらせる。規律を破ってしまう、罰則を受けてしまう、と、幼い少年の危惧は大きくなるばかりだった。 「ああ、そんなことか」 だが、それに対する少女の答えは拍子抜けするほどに簡潔で。 ようやくコタロの方を振り返ったサクラコは、にやりと口許を歪めてみせた。蒼い瞳が、快活で悪戯な火を燈す。 「器具を持て、コタロ。転移を行う」 そう言う彼女の手にも、補助器具と指南書、そして陣を描くためのチョークが握られていた。 「……本気か?」 「お前も習っただろう」 「習ったばかりだ」 「だからこそ覚えている内に復習するんじゃないか」 「まだ実践は禁じられている」 当惑のままに渋るコタロを差し置いて、サクラコは飄々と言ってのける。慣れない彼らでは、陣符を使うよりも直接書いた方が強い力を行使できる。 手元の書を参考に、淀みなく大地に魔法陣を描いていくのを見ながら、コタロの胸中は不安でいっぱいだった。 しかし、少女の目は揺るがない。 「起床時間に間に合わないなら、一か八かの賭けに出てみるのも悪くないだろう」 あっけらかんと言うサクラコに、コタロは否定の言葉を失った。 ◆ サクラコの唇が、何事かを低くつぶやく。 言葉にすらならぬ詠唱をコタロもまた紡いで、二人の身体は魔法陣からあふれる光に包まれた。――発動は成功したらしい。 耳鳴りと共に、身体の浮き上がる感覚。 そして、視界が撓んだ。 一瞬の後、光から吐き出された、そこは薄暗い林中だった。 孤児院の近くにこんな場所が在っただろうか、と思うよりも早く、サクラコの手がコタロを引き寄せる。近くの藪の中に身を屈めさせられ、上げようとした抗議の声は掌で封じられた。 視線の示すままに、外の景色を見遣る。 「――!」 幾人もの男たちが、銃とボウガンとを手に駆け回っていた。 灰のマフラーと、藤色の軍装。分厚い服装に身を包んだ、見慣れた蒼国兵。 少数の彼らと対峙するのは、炎のような紋様が裾に走る、カーキ色の軍装。ゆうに倍は居るだろう。 「紅国だ」 座学で聞いただけの姿。実際に目にするのはこれが初めてだった。奥には上官らしき濃紺の軍装も見える。 演習でも何でもない、本物の“戦場”がそこに在った。 びりびりとした緊迫感の中、卑小な二人はただ身を縮めて藪の中に隠れているしかできない。 傍を駆け抜けていく、一人の紅国兵。 軍帽の下の紅の瞳が、彼らを捉えた。 蒼国の子供だ、と声がする。 ――子供でさえも戦場に立たせるのかと、男の紅目がぎりぎりと怒りを孕む。逡巡をそのまま映して、揺れる銃剣の切っ先が彼らを狙った。 コタロの手には武器も陣符もなく、補助器具だけで行使する魔法は未だ教わっていない。 隣のサクラコが、唇を噛み締めるのが見えた。 蒼い瞳が焔のような光を燈す。握り締めた拳を振り翳し、―― 「何をしている!」 一閃。 稲妻のような鋭い声が、場を切り裂いた。 コタロの傍を掠めて飛んだ、一条の矢。胸を貫かれた紅国兵が前のめりに倒れる。夥しい血が地面に溜まる。――その赤は、海を照らす朝陽よりもずっと、コタロの胸を揺さぶった。 大きな手が、二人の腕を掴んで背後へと退かせる。その脇を擦り抜ける一瞬、彼らは声の主を見た。 厳つい鷲鼻。 峻厳な、猛禽のような相貌。 「ソブイ先生!」 サクラコの声が弾む。父のように厳しく、彼らを育ててくれた訓練教官だ。 何故ここに、とコタロは誰にも届かぬほどの疑問を落とす。ソブイは二人に視線もくれず、ボウガンに次の矢を番えた。 稲光の如く、蒼い瞳が色を落とす。 マフラーに覆われた口許が何やら言葉を零すのを、すぐ傍の二人だけが聞いていた。矢先に陣符を突き刺したボウガンの引き金を引けば、猛禽の如く駆け抜けた一条が雷光へと変じ、遠くのカーキを射抜く。まばゆいまでの光が溢れる。 瞬間的に顕れ戦場に混乱を生んだ男は、それ以上深追いするでもなく、身を翻し逸早く駆け出した。 「来い!」 上官の命令のままに、二人の仔鼠もその背を追う。 「あんな場所で何をしていた!」 戦線を離脱するなり峻厳な声が飛んできて、少年と少女は同時に身を竦め姿勢を正した。 暴発した魔法は、敵国との国境付近へ彼らを転移させた。――ソブイはそれを即座に探し出し、迎えに来たというのか。 「貴様らは規律を破った」 教官の鋭い弾劾に、返す言葉もない。 「その上転移魔法を行ったな。未熟な腕で魔法を行使したらどうなるか、身に染みてわかっただろう」 まさしく事実だった。覚えたばかりの魔法をいきなり実践に移すなど、無謀にも程がある。 「大方貴様らの事だ、仕組みも解さずにそのまま書き写したのだろう。違うか」 「……相違ありません」 蚊の鳴くような声で、サクラコが応える。 その瞳が、微かに揺らいで見えた。 「……」 背中を押されるようにして、コタロは一歩、進み出ていた。自分でも何をしようとしているか判らないままに、サクラコの前に腕を広げる。 惑いながらも開きかけた口は、しかし、振り返ったソブイの稲妻めいた眼光に抑え込まれた。 「言い分は聞かん。院へ戻り次第罰を与える」 「……はっ」 腕を下げ、項垂れる。 再び歩き出したソブイの後を追って、二人もまた足を進めた。 彼らに背を向ける教官の後ろ姿は厳しく、しかし堂々と根を張る大樹のような力強さを備えていた。いつだって、彼らを躾け、律し、育ててくれる師のような、父親のような背中。 隣を歩くサクラコが、むずむずと顔を歪めはじめる。 あ、と思う間もなく、鋭い声が飛んだ。 「何を笑っている、サクラコ! コタロ、貴様もだ!」 <了>
このライターへメールを送る