浅葱色の暖簾をくぐり中に踏み入ると、そこには台の上に駄菓子や御面を並べられていた。決して広くはない空間の中、手作りと思しき椅子がひとつばかり、台の前に置かれている。 台の周りには小さな提灯がいくつか飾られてある。店内は薄暗く、提灯が落とす仄かな灯だけが場を照らしだしているのだ。「おや、お客さんかい。こいつぁ驚いた。こんなしみったれた店に、まあ物好きなお客もいたもんだ」 言いながら顔を覗かせたのは、顔面にヒョットコの御面をつけた作務衣姿の男だ。男は台を挟んだ向こう側に置かれた椅子にどかりと腰をおろすと、背で結んだ黒髪を掻きむしりながら言を続ける。「うちで扱ってんのは、まぁ、見ての通りさ。きなこ棒やあんず飴、ミルクせんべい、ソースせんべい。ドロップもあるよ。それに御面も、ほれ、この通り。どれでも好きなものを試してみりゃあいい。お買い上げはそれからで結構ってなもんでね」 並べられている面はキャラクターの面などではなく、狐や天狗、鬼、そういった神や化物の面ばかりだ。店主の言の通り、種類は豊富、取り揃えられている色や表情も様々だ。根付きは小さな可愛らしい狐のものが多く、振れば小さな鈴の音が鳴る。 さて、このお面についてだが。店主は言葉を続けている。「大きな声じゃァ言えねェが、この面、被れば夢が見れるんだとよ。起きているのに夢を見るんだ。どうだいあんた、面白いだろう。こっちの根付きは、強く願掛けしながら振れば、その願いがかなえられちまうかもしんねえってんだ。どうだいひとつ、買っていかねェかい」 そう言って、ヒョットコ面をつけた作務衣姿の男は笑う。「もっとも、どんな夢を見るのかは知らねェよ。それに、願がかなったときにどんな見返りを求められるかなんてのも知らねェ。まァいいじゃねえか、そんなこと。夢が見れて願がかなう。楽しもうぜ、お客さん」 言った後、男は「ああ」とうめいて付け加えた。「そういやあ、うちで売ってるモンについての説明をしてなかったっけなあ。まぁ、詳しくは紙に書いて、ほれ、そこに貼ってあるから、勝手に目を通しちゃくれませんかね」
ホームを降り、少しだけ歩みを進めてみた。幽太郎は街の中をぐるりと見渡した後、ほうと小さな息をひとつ吐く。幽太郎が懐かしい故郷《ホープエンジンス》に戻るのは、果たしてどれぐらいぶりになっただろう。失い、もう二度と戻れないのではと絶望的な気持ちにすらなったこともあった。けれどある日世界図書館の館長から呼び出された幽太郎が彼女の口から聞いたのは、故郷が見つかったという明るいニュースだったのだ。初めこそ事態を飲み込むことが出来ずに首をかしげていた幽太郎も、館長が再び同じ内容を繰り返し告げたのを確かめて、まさに飛び上がり喜んだのだった。そしてその場で迷いなく帰属を申し出て、そうして今、こうして再び故郷の地を踏むことが出来ている。 故郷の風景は幽太郎の記憶にあるものから変化を帯びていた。汚染されていた空気も空もすべてが澄み渡り、街を彩るのは豊かな緑で、崩壊の一途を辿っていたはずの世界の安寧は、確かに楽土の形を得てそこに広がっていたのだ。 人類が遺した文明は遺跡となり、今や蔦が這い土に埋もれている。動物たちは草を食み、平穏の中、連鎖に沿い生きていた。 幻獣の容姿をとったロボットたちが、街中をやわらかな笑みを交わしあい過ぎていく。どこにも、ただの一片たりとも不穏の気配など存在しない。――まさにそれは楽土と評するに相応しい光景だった。 幽太郎は歩き出す。初めは迷いながら、探るように。これは夢なのではないかという疑念が降っては消える。けれどもその疑念以上に、吹く風の心地良さが、花のかおりが、空のみずみずしい青い色が、世界を包み込む鮮やかな緑が、行き交う仲間たちの姿が――すべてを懐かしく思う気持ちのほうが一層大きく膨らむのだ。この気持ちが、この懐かしさが夢であるはずがない。そう強く思えるのだ。その証拠に、初めは探るようにおずおずと歩き進めていた幽太郎の足取りが、街を進むにつれて軽やかに、踊りだすような歩調に変わりだしていったのだから。 確かに街並は記憶にあるそれと異なっている。けれど、世界が変わってしまったわけではない。旧文明の残滓は遺跡となってあちらこちらに遺されている。アノ建物、知ッテル! ソレジャア、コノ辺デ曲ガレバ。考えながら道を折れると、やはり記憶にある通りの風景の名残が残されていた。それを幾度か繰り返して、幽太郎は確信したのだ。ここが真に自分の故郷であることを。そうして改めて歓喜を抱き走り出す。もうすぐ、もうすぐ《家》へ帰ることが出来る! 夢を見ているかのように足もとがふわふわした。 見慣れた路地へ出た頃、幽太郎はひとりのロボットから声をかけられた。幽太郎とは形の違う、ユニコーンを模した姿をしたロボットだった。 「幽太郎? オマエ、何処ニ行ッテイタノ?」 振り向き、相手を見る。懐かしい友人の姿があった。幽太郎は思わず声を跳ね上げる。 「ゴメン、ボク、旅ニ出テタンダ」 「旅? ソウナノカ。オカエリ、幽太郎」 微笑む友人に満面の笑みを返す。そうしている内に、幽太郎の周りは懐かしい面々でいっぱいになっていた。取り囲む彼らの姿はそれぞれに違うけれど、皆が嬉しそうに笑い、同じように「オカエリ」と言ってくれる。幽太郎の長い旅の疲れを案じ、頭を撫で、肩を叩き、「帰ッテキテクレテウレシイ」と言う。そのひとつひとつすべてに応えながら、幽太郎の心は温かなぬくもりで埋め尽くされていた。「タダイマ」を言える、たったそれだけのことが、こんなにも嬉しくてあたたかい。 「ソウダ、幽太郎。早ク家ニ帰リナサイ。オ母サン、ト、オ父サンガ、待ッテイル、ヨ」 そう告げたのは誰だっただろう。何しろ幽太郎はたくさんの友人や知人たちに囲まれているのだ。もはや誰が口を開いたのかも定かではない。 けれど両親の名を耳にしたとき、幽太郎はわずかにぴくんと肩を躍らせた。厳格で厳しく、けれど寡黙な優しさをくれた父親。過保護なまでの愛をくれた母親。遠い昔語りを聞かせてくれた祖父、遊び相手になってくれた祖母。懐かしい、穏やかな日々。 けれど。 けれど、彼らは怒ってはいないだろうか。オマエナンテ、ウチノ子ジャナイ! なんて言われたりしないだろうか。考えると足がすくむ。けれど友人たちに背を押され、幽太郎はほどなく懐かしい我が家を前にした。懐かしい。何ひとつ変わっていない景観に、幽太郎はいつの間にか大粒の涙をぼろぼろとこぼしていた。ドアノブに触れようと手を伸ばす。けれどやっぱり足がすくむ。視界は涙でくもり、けれど友人たちがもう一度背を押してくれたのに勇気を得て、ドアノブに触れようとした、矢先。 ドアは向こうから開かれた。中から現れたのは幽太郎によく似た姿の大きなロボットだった。手にはジョウロを持っていた。家の周りを飾る鉢植えに水をやりにきたのだろう。 母は幽太郎の姿を目にすると一瞬全身を強張らせ、それから数拍の間を置いた後、手からジョウロを落としてわなわなと震えだした。 「幽……太郎……? 幽太郎……ナノ、ネ?」 その声が震えていたのを知って、幽太郎は声をあげて泣いた。何から話せばいいのかわからない。ただひたすらに母の名を繰り返し、懐かしいその姿に抱きついた。母は何も言わずに息子を抱きとめ、ただずっと優しく頭を撫でてくれていた。 「早ク、オウチ、ニ、入リナサイ……オ父サンモ心配シテルワヨ」 父親にはこっぴどく叱られた。ドレホド心配シタト思ッテイルンダ。そう叱りつけてきた父は、けれどその後に力強く息子を抱きしめてくれた。祖父も祖母も幽太郎の帰還を手放しで喜び迎えた。皆に抱きしめられ幾度もオカエリとタダイマを繰り返し、温かな夕餉を囲み、安心したせいだろうか。幽太郎は徐々にゆっくりと眠りの波を漕ぎ出したのだ。 目を開くとそこは仄暗い建物の中だった。眼前にあるのは平台の上に並べられた面や根付け、そして駄菓子の数々。平台の向こうではヒョットコ面の男が胡坐で座り、幽太郎の顔を見据えていた。 「戻られたようでやんすね。おかえりなせえ」 言われ、幽太郎は目を瞬いた。――アア、ソウダ。ボク、ハ、ココデ ゆっくりと思い出す。 ターミナルの一郭で見つけた一軒の長屋風の建物。提げられた暖簾に誘われるように足を寄せ、平台に置かれていた瓶の中の小さな飴を口にした。夢を、見られるのだと知って。 じゃあ、あれは――つい今まで見ていたあの風景は夢だったのだろうか。胸に残るぬくもりも、懐かしさも、母の腕も父の声も、すべて。 「よい夢を見れやしたかい?」 ヒョットコ面の男が言う。幽太郎はわずかに首をかしげた。 夢? 「アリガトウ、ゴザイマシタ」 丁寧に礼を言って暖簾を出た。ターミナルの空は真っ青で、幽太郎は懐かしい故郷の空を思う。 夢であるはずがない。きっと今も幽太郎の帰りを待っていてくれている。 小さな息をひとつ吐いてから足を進めた。イツカ、キット。帰ルンダ、――アノ懐カシクテ、暖カナ場所、ニ。
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