「これはゼロとエミリエさんが『ゼロ世界で出来るびっくりどっきりツアー』としてヘンリー&ロバート・リゾートカンパニーに企画案を提出しようとしたときのお話なのです」 テーブルの上にちょこんと両の手をおいて、ゼロは話し出す。 あの日もこのテーブルだった。 溶けかけた氷の入ったグラスの周囲に結露が浮かび床に滴る。 あの時、エミリエはそんなグラスを掴んで服に滴る水滴を構いもせず、グラスの中のオレンジジュースを飲むと結露が付着した書類をゼロの前に差し出したのだ。 それからあの挑戦が始まった。 「エミリエさんの案は『巨大ゼロの体内ツアー』という需要がなさそうな物だったのですが、提案するだけならタダなのです」 ヘンリー&ロバート・リゾートカンパニーに企画を提案し、審査を抜けて採用されればある程度の小銭が支給される。 世界司書であるエミリエはさしあたってお菓子代には困っておらず、かと言って自分が派手に楽しむには年に一度の年越し便を待たねばならない。 そんなエミリエが何故旅行の企画を考えたかというと、ヘンリーやロバートのお株を奪い、ライバル会社を設立することを思いついたからである。 このまま世界司書として仕事をしていてもせいぜい左団扇でお菓子を片手にマンガを読む程度の娯楽しかない。 そこで己の才覚で0世界に君臨することができないかと狙えないかと考えたところ、彼らのリゾート計画に一枚噛むことを思いついたのだ。 まず自分の企画が通るかどうかを確認する。 ロバートの資本力でその企画を軌道に乗せ、次に自分が主宰する形でリゾートを運営する。 なんやかんやあって、エミリエは巨大な資本をバックに左団扇でお菓子を片手にマンガを読む生活ができるというわけだ。 「よくわからないのですー」 「いいから、とにかくね。ゼロはおっきくなってくれればいいんだよ。そんでね、エミリエの旅行企画に協力してほしいの!」 「どうしてゼロが大きくなることと旅行が関係するのですー?」 「んふふふふふふふふ、それはねー!」 ばんっとエミリエは両手を広げた。 「おっきくなったゼロの体内をツアーでまわるんだよ! 名づけて『寄生虫体験~この夏、キミもゼロの体内フローラでドキッ★~』って言うの!」 「寄生虫、なのですー?」 「そのとおりだよ! あ、でも、グロいから消化液とかナシだよ。ゼロって食べなくてもヘーキなんだよねぇ? 消化液とか出るの? 自分の体のことはよくわからない? まぁいいか。とりあえず今から下見行きたいんだけど、どこならいいかなぁ。ゼロが思いっきり大きくなれる場所ってどこ? そういえばゼロってどこまで大きくなれるの? わからない? うーん。じゃあ思いっきり広くないとダメだよね。樹海だとどうかな」 エミリエの発言の意図をうまく汲み取れないままに、ゼロは0世界の隅っこへと移動を開始した。 樹海には限界がある。 ターミナルのどこに向いても限界はあるだろう。 ならば、空へと向かうしかない。 0世界はどこまでも広いと言われているが、0世界の空も同様に果てしない。 ゼロが遠慮なく大きくなるためには遠慮なく広い空間を求めるしかないのだ。 さあ、夢を求めて大空へ! エミリエの熱っぽい言葉の意味はよくわからなかったが、とにかくゼロはエミリエに協力すればいいらしい。 当初、エミリエはロストレイルを借り受けると言い出した予定が、リベルの判断を待つまでもなく遊興目的とあってはエミリエの一存で借り出せるものではない。 思案したエミリエが思いついたのが、物好きなロストナンバーが作り上げたロストレイルモドキである。 徹底的にロストレイルを科学的に分析した結果、ロストレイルに匹敵するほどの飛行能力、走行力、そして火力を搭載した夢のメカ。 しかし、本家ロストレイルに及ばぬ点として世界群を越えることができない。要するに飛行能力を持ったロストレイル型の移動装置だった。 ――「ゼロはエミリエさんとロストレイルに乗り込み、果ての無い0世界の果てを目指して移動を始めたのです。そして、二人で数日ほど世界の果てを目指して飛行した後、エミリエさんはゼロに大きくなるよう言ったのです」 ロストレイルもどきの天板によじ登り、ゼロは視線を遠くに移す。 ターミナルが見えなくなったのは出発してから間もなくの頃。 これが本家ロストレイルではない以上、空間的な距離はあっても世界そのものは移動していない。 どれほど遠くとも、また目に見えずとも、この世界の果てのどこかにターミナルが存在するはずだが、それを視認するには遠すぎる。 むくり。 ゼロの体が膨張を開始した。 服は破れない。ご都合主義である。 皮膚の肌理の細かさは変わらない。 髪の一筋にいたるまで、わずかな綻びも亀裂もなく、ただただゼロの体は大きくなる。 ロストレイルもどきについていた両足はすぐに片足だけで立っているほど相対的に小さくなった。 かと思えば、次の瞬間にはゼロのつま先ですら触れられないほどに。 大きく。大きく。 質量を伴わない増大は万有引力を生み出さない。 その一方で巨大化するに従って増大する体積は積算式に増えていく。 「ちょっと待ってよー! ちょっと大きすぎて……」 例えば。 地球にいる人間は地球を「球」とはみなさない。広大で平らな大地と信じて疑わない。 同様に、ロストレイルもどきに乗るエミリエからは巨大化したゼロはもはやゼロではなく、ただの地平に見えた。 垂直にそそり立つ、白い肌の色をした地平線。 「目標、ゼロの口! いっくよーっ!!!」 ――「そう宣言したエミリエさんがゼロの口に到達したのはそれから一週間と二日が経ってからのことだったのです」 「こちらエミリエ、こちらエミリエ。ゼロ、聞こえるー?」 「聞こえるのですー」 果ての無い空間に浮遊するゼロ、その唇のあたりでエミリエからの声がした。 音の大小は問題とせず、ゼロの体質に依存して二人の間の会話に問題はない。 遠方から見ればゼロは独り言を言っているように見えるし、 エミリエの乗るロストレイルモドキにもし第三者が乗っていれば、すぐ間近で聞こえてくる音声がどこまで逃げても追いかけてくる、というイメージが近い。 細かいことはよくわからない。 わからなければ調べてみる。 エミリエはロストレイルモドキの操縦レバーを目一杯押し込み、ゼロの体内へと移動を開始した。 ――そして運命は流転の時を迎える。 本物のロストレイルよりやや不器用な金属の軋み音をたててロストレイルモドキはゼロの体内へと侵入する。 飛ぶロストレイルモドキの足元にはどこまでも果てしなく続く薄ピンク色の大地が広がっていて、時折、どれほど深いのか分からないほど巨大なクレーターや天をついて聳えたつ山岳があった。 「これって、唇の皺かなぁ? あれ、こんなに唇あれてたっけ?」 「そうかも知れないのですー。でも、ゼロの唇はすべすべなのですー」 ゼロが触ってみても触覚に感知できないようなほんの数マイクロメートルに達しない起伏が、エミリエには切り立った崖や天をつく岩山に見える。 体積の違いは明らかに冒険を生み出すのだ。 この企画の勝利を確信し、エミリエはただ真っ直ぐに、真っ直ぐに、ロストレイルモドキを走らせ続けた。 ――それから七日が過ぎた。 エミリエからの通信も七日ぶりである。 巨大化したまま、それ以上巨大化しないように気をつけてゆっくりとまどろんでいたゼロは不意にエミリエの声を耳にした。 「うわぁ、海だ! 海だよ。ねぇゼロ! これすごい、巨大な地底海! ゼロ、これなぁに!?」 「なに、と言われてもゼロにはエミリエさんが何を見ているかよくわからないのですー」 「すっごい暗いよ! ロストレイルモドキの照明をつけても全然向こうが見えないくらいすっごい広い海があるんだよ。あ、もしかしてこれって、ゼロの唾液だったりするのかな?」 少し大きくなりすぎたのだろうか。 このままではエミリエが持っている食料や水が尽きるまでにゼロの体内を移動しきれないかも知れない。 意識的にゼロは少しだけ体の大きさを変える。 効果はすぐに現れた。 「なに、これ。太陽!? ねぇねぇ、ゼロ。聞こえる!? さっき空間が揺れたの!」 「それはゼロの仕業なのですー。驚かせたのなら申し訳ないのですー」 「あ、そうなんだね。じゃなくて、太陽! 太陽!! ロストレイルモドキの前方、はるか上空! 太陽を確認!! すっごい! あ、あっちに月がある。いち、に、さん、……よっつ!! その他にも数え切れないくらいの星がいっぱい。銀河だ! わぁ、ゼロすごい! 銀河が見えるよ!! ……ええと、ねぇ、ゼロ。ここっておくちの中じゃなかったっけ? なんで星空があったりするの?」 「何処かで入ったのかもしれないのですー」 大きくなる過程で飲み込んだのか。 あるいはゼロの膨張にあわせて体内の空間で何かがおきたのか。 常人が、己の体内でウィルスが動き回っている様を察知できないのと同様に、ゼロにはエミリエの報告がよくわからない。 すごいすごい、きゃあきゃあと叫んでいたエミリエではあったが、 同じ光景が何時間も続くと飽きてくるものらしく、やがて食事するから黙るねと言う連絡があり、 その日はエミリエの声を聞くことはなかった。 ――翌日、エミリエの定期報告はやや声のトーンが暗い。 「……ねぇ、ゼロ。おきてる? ここ、エミリエとロストレイルモドキの他に何かイキモノがいるんじゃない?」 「そんなはずはないのですー」 エミリエの声は粘り気を含んでいる。 普段の快活な声との差異は明らかに「恐怖」に類似する色を帯びていた。 やがて、エミリエの激しい呼吸音が聞こえる。 走っているのだろうか。――ロストレイルモドキに乗っているのに? 「ゼロ。いい、ゼロ。よーっく聞いてね。 エミリエは今、ロストレイルモドキの先頭車両にいるんだよ。 他の車両はもう手遅れだと思う。窓の外に銀河が見える、これって年越し特別便の時に見た世界の銀河とちょっと違うよね。 構成する元素みたいなのが、きっと銀河じゃない……あ、ええと、そんなことはどうでもいいんだった。 うんとね。エミリエはここから引き返すことにしたよ。水と食料がそろそろ帰りの分しかないっていうこともあるんだけど、 寝てるうちに荷物の位置が変わってたりして、気のせいだと思っていたんだけど目印をつけてみたらやっぱり移動してる。 でも扉や窓に仕掛けた目印はなくなっていないんだよ。荷物の中も何もなくなってない。 何かがエミリエのことを探りに着てて、それは扉も窓も通らないでこのロストレイルモドキの中にいるのか外から追いかけてきているのかもわからなくて。 それより、さっきもっと凄いものを見たんだよ。銀色の無限空間がどこまでも続いていってそれは果てしなく膨張する中をまっさかさまに落ちていくんだ。 これ以上は危険だって判断してロストレイルを反転させたんだけど、それから何時間経っても銀色の無限空間から抜けることができなくなっていて、 かと思えば粘液質な空気がトドメ色の渦を四つ作っていて、その7色のうち右から数えて二つ目のところからエミリエを睨む目が電気みたいにばちばちって音がしてる。 でも今は大丈夫。たぶんエミリエのことは見えていないはずだから。 ……待って。何か音がした。 んとね、今、ロストレイルモドキの窓、ブラインドかけてあるんだ。 外からバンバン叩かれたりはしないし、本当はツアー中に何があるのか見ておかないといけないんだけど、 エミリエのイヤな予感ってこういう時あたるんだよね。でも、ちょっと待ってね。ロストレイルモドキの進路計が進めないって表示してる。 窓のカーテンをあけてみたら、きっと……。 ……ゼロ! 出して!!! ここから出して!! だめ、間に合わない! 機関室に逃げる! ゼロは早くエミリエをここから出して! シャッターを開けた途端にアイツラがこっちを睨んできた! 目はどこにあるかわからないけど、きっと螺旋の右端くらい! さっき、置き忘れてたエミリエのバッグ。あいつら持ってた! ……やっぱりダメ。機関室に逃げ込んだけど、宇宙的な瞳がエミリエを見てる。 見つかってる。あいつらエミリエのことじーっと見てる! 今、めきって音がした。ロストレイルモドキの車体が囲まれてる。 ゼロ、早く出して。ここから出して! あいつらの体液が入ってきた。もう持たない。 バンバンって窓を叩いてる音、聞こえる!? 機関室の内燃機関からうめき声みたいなものが聞こえてきた! ゼロにも聞こえるよね!? 聞こえるでしょ!? ……ああ、窓に! 窓に!!!! 邪教の一端でもいるの? どう見ても狂気的で冒涜的な装いのあいつらが窓にはりついている! 三叉に分かれた燃えさかる紅蓮の毛皮をまとい、身も凍る戦慄を纏った破滅的で宇宙的で冒涜的な鍋猫がもっふりもふもふとエミリエを……!! ……あああ!!! そうか、わかったよ! エミリエ全部分かった! もしこれがそうなら、チャイ=ブレは……。そう考えたら全部繋がる。 あの謎団子がすべてを物語っていたんだよ。そうか、エミリエは利用されてたんだ。ううん、エミリエだけじゃない。みんなみんなみーんな、あの謎団子を軽く見すぎてたんだよ。 もう間に合わないかも……ううん、間に合う。間に合うんだよ! 早く誰かに……ううん、だめ! あ、そうだ。インヤンガイのモウ・マンタイ探偵のところに行けばどうにかなるかも知れない。そのために早く、きゃぁぁぁぁぁ!! 早く! 早く出して! もうダメ、間に合わないよー! 出してぇぇ、早く、ここから出して!! ゼロ! 聞こえているんでしょ!? エミリエをここから出してよー!! もうロストレイルモドキなんてどうでもいいから、きゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!! 窓を破られた! ゼロ、ぜろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!!!!!!」 「――意味不明なのですー」 エミリエから最初に出せと言われた時点でゼロの体は縮小していた。 縮小の途中でゼロは違和感を感じていた。 ロストレイルモドキの大きさと速度を考えれば、そろそろゼロの口から飛び出してきてもいいはずだ。 もしかして本当に何か危険でもあったのかと危惧してみるものの、 しかし助け出されるはずのエミリエはおろか、ロストレイルモドキやその残骸すらゼロの体からは出てこない。 ゼロの体内はその特性上、まったくといっていいほどの危険はないはずだ。 それならばロストレイルモドキに乗ってゼロの体内へと探検に入ったエミリエはどこへ行ったのだろうか。 「……どうしよう、なのです」 0世界の空間の果てを漂うゼロは一人で考えて一人で悩む。 やがて、トラベラーズノートで連絡を取ることを思いつき、エミリエの顔を思い浮かべてメッセージを書く。 『エミリエさん、今、どこにいるのですー?』 『あ、ゼロ久しぶりー。どこいってるのー? エミリエは司書室で先月からずーっと名簿の整理だよー!! 助けてくれたらビスケットあげるよー!!』 この連絡がゼロをさらにさらに混乱させた。 ではこの数ヶ月、ゼロと一緒に過ごしていたエミリエは一体何だったというのか。 ゼロは他の友達に次々とエアメールを飛ばす。 「エミリエ? ああ、司書室にこもってるみたいだぜ」 「こないだから手伝ってるよー。ゼロちゃんも手伝ってー!」 「人使い荒すぎるぞー。今からピンクのオサゲを引っ張ってやるつもりだ」 無作為にエアメールを飛ばした全員が全員、口裏を合わせているとは考えにくい。 すると今、エミリエは世界図書館の司書室で名簿の整理をしているのだ。 さらに言えば。 ロストレイルモドキなどというものを開発したロストナンバーはこの0世界には存在しない。 したがって、ロストレイルモドキなどというものも存在しない。 ではゼロが体験した一連の事件はいったい何だったのだろうか。 ゼロと共に十数日の旅をしたエミリエは誰で、どうなってしまったのだろうか。 ―― ここから出して!! ゼロ! エミリエをここから出してよー!!!!!!! エミリエの最後の言葉をゼロは反芻した。 しかし、それでもゼロには分からない。 エミリエは出してくれと言っていた。 だがしかし。 出すも何も。 エミリエの乗ったロストレイルモドキはゼロの唇から数ヶ月をかけて舌先まで移動したに過ぎなかったからだ。
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