▼ミスタ・テスラにて 甲高いブレーキ音を立てながら、機関車がホームに停車しました。 車輌のあちらこちらに伸びている蒸気動力菅から白い蒸気が噴き出し、駅の構内は一時、靄(もや)に包まれたかのように白く染まります。 漂う蒸気を抜けて機関車から降りてくるのは、何十人もの乗客たちです。華やかな衣装に身を包んだ紳士・淑女、黄色い声を上げてお話に夢中の女学生グループ、くたびれた上着を羽織った工場労働者、使い込まれた鞄を携える憂いげな旅人……。 そんな中に、変わった格好をした集団がいました。周囲と比べて明らかに浮いた、珍しい服装をしている者達。 けれど誰もが、彼らの格好を自然と受け入れています。それは〝旅人の外套〟という不思議な効果によって、彼らの存在が保護されており、注目を浴びないようになっているからなのです。 すなわち、その集団とはロストナンバー――つまりは、あなた達のことでした。 † あなた達は今回、自前で確保したチケットを片手に、ここミスタ・テスラへとやってきました。 この世界では、元ロストナンバー(且つコンダクター)でもあったシドニー・ウェリントンが、第2の故郷として帰属しています。他にも何人かのロストナンバーが帰属しており、その中のクリスティ・ハドソンという人物の厚意によって、ちょっとした別荘を貸してもらえることになったのです。 まるでお屋敷のように大きく、ヴィクトリアン情緒溢れたこの別荘を拠点にし、色々と遊ぶことができます。 ミスタ・テスラの街並みは、壱番世界で言う19世紀末(ヴィクトリア朝)のロンドンに似ています。前時代的で品のあるレトロっぽい雰囲気と、アンティーク感の漂う文化が独特の空気を漂わせる世界です。 石畳の街並みを行き交うのは、馬が引く車に乗り、クラシカルな衣装に身を包んだ上流階級の紳士や淑女、あるいは中流階級の企業家や労働者、学生たち。 彼らが向かう先は様々ですが、例えば名のあるブランドショップが立ち並ぶ百貨店通りが挙げられます。そこではショッピングをしたり、気軽なティータイムを愉しむことができます。 メインストリートでの散策で楽しめるものは、これだけではありません。 教育施設の碩学院(せきがくいん)に通う女学生の間では、篆刻写真(てんこくしゃしん)が人気だそうな。 篆刻写真とは細かい点で描かれた写真のことで、ショッピング・ストリートに設置されたその印刷機械が、セピア色をしたレトロな雰囲気のある、味わい深い写真を出力してくれます(ミスタ・テスラにおいてはレトロではなく、最新式という認識ですが)。 友人や恋人同士で一緒に写真を撮るが流行らしいとのこと。記念写真にいいかもしれません。 ミユディーズと呼ばれる「貸し本屋」は、いわばお金を出して利用できる図書館のようなもの。そこでミスタ・テスラの流行を追うのは、ファッションに気を遣う者であれば必須だそうです。 その後は個人商店の洋服店に赴き、ミユディーズで集めた情報をもとに服を仕立ててもらうのも一興かもしれません。 もちろん大型百貨店にて、有名ブランドが販売する素敵な既製品を購入するのもいいですが、新作発表と重なっていると、売り場では麗しき争奪戦が繰り広げられるのだそうです。お気をつけて。 服以外にも、香水・化粧品・アクセサリー・日傘・ステッキ・帽子・手袋といったものも、ミスタ・テスラ独特の味わいがあるものばかり。自分自身を、ミスタ・テスラ一色で染め上げてみるのも愉しいかもしれません。 メインストリートを外れて入り組んだ路地へと入ってゆけば、そこは肉体労働に従事する中流~下流市民たちでごった返す雑踏街。威勢のいい掛け声と活気に満ちた言葉が飛び交う、賑やかな場所となっています。 露店では衣類・食料・日用品といったものが並べられ、雑多に販売されています。粗末で粗悪なものも多くありますが、隠れた珍品・名品も存在しています。あなたが目利きや交渉術に長けているのなら、きっと良い買い物ができるはずでしょう。 郊外へと足を伸ばせば、そこはいまだ豊かな自然が残っており、緑溢れる荘園や農村などが見られます。都市部では一般的となった生活様式や文化も、そこまでは浸透していません。 わらや農作物を満載した荷車が動物に引かれる姿や、一面に広がる草原の中にできた地平線の向こうまで続く轍(わだち)など、古めかしくもあたたかい牧歌的な雰囲気を感じることができるでしょう。空に昇るひと筋の煙と漂う香ばしい匂いは、どこかでパンを焼いているそれなのかもしれません。 小高い山の上に建造された古城には、物好きな貴族が住んでいるそうです。観光客や旅人に、お城の内部を公開してくれるとの噂。 こうしたレトロな空気に充ちるミスタ・テスラ独自の特徴といえば、やはり「蒸気科学」と「魔道科学」です。 前者は科学の発展により導き出された方程式や数式を利用し、歯車と蒸気の力によって高度な演算を行い、様々な機械を動かす技術のことです。後者は古来から伝わる魔術や錬金術を応用し、エーテルと呼ばれるエネルギーを生み出すことによって、それを機械の動力源とする技術です。 これらをもとに生み出された機械装置を、一部では「機関(エンジン)」とも呼称しており、これがミスタ・テスラの文化を形作っていると言っても過言ではありません。ミスタ・テスラは今まさに、蒸気科学と魔道科学によって目まぐるしい発展を遂げている真っ只中なのです。 蒸気式自動車(ガーニー)、蒸気式機関車、蒸気船、飛行船舶、自走式一輪バイク……蒸気を吹き出すロボットや、人間そっくりの姿をしたオートマタ。他にも蒸気画像、蒸気通信機、階差機関と呼ばれるパソコンにも似た大型機械などなど。 壱番世界のものと比べて不安定で効率が悪く、大型で野暮ったい印象を受けるこれらの機械群に触れてみるのも、良い刺激や土産話になるかもしれません。博覧会や展示会は頻繁に開催されているそうなので、機会には事欠きません。 そうして外に繰り出すのもまた一興ですが、クリスティ・ハドソンが提供する別荘でゆったりとした時間を過ごすのも良いでしょう。 邸宅内には何人もの家事使用人がおり、あなたがその館で過ごす憩いのひと時を援助してくれます。 あるいは働く使用人に混ざって、現地実習というかたちで多様な「メイド」のお仕事を体感してみるのも新鮮かもしれません。料理・洗濯・掃除に子守、家庭教師、御者に園丁……もしくは現地で様々な活動をしているクリスティ・ハドソンの侍女(じじょ)として、彼女の身の回りのお世話を願い出ても構いません。 広い別荘を探索するのも良いでしょう。 館を取り巻く庭園は、客人を迎えるためにと色とりどりの花で飾られ、美しく仕上がっています。それらを眺めながら昼食会と洒落込むのは如何でしょうか。 花園の奥は植え込みを調整しわざと迷路のように形作られており、それを抜けられた者はいないのだとか。どうやらそこには妖精が棲み付いており、魔法で戯れに悪さをしてくるのだそうです。使用人も迷惑している妖精を、あなたは捕まえられるでしょうか。 そうして華やかな面もあるクリスティ・ハドソンの別荘ですが、悪戯っぽく笑う彼女から「危険な目に遭いたくないのであれば、夜の地下室には近づかないように」と忠告をされています。 地下には何やら、世界図書館に回収される程ではないにしろ、色々といわくつきのモノが秘蔵されているようです。勝手に動き出す鎧甲冑や呪い人形、侵入者を凝視する絵画、悲鳴を上げる閲覧禁止の御本、幽霊を呼び寄せる壊れたオルゴール、歩く人食い植物、別世界への扉を開く衣裳箪笥、血があふれ出す謎の聖杯……。 そうした怪異が外に出るのを防ぐため、各所には様々な罠が仕掛けられているとのこと。「それらを掻い潜ることができるのなら、お好きにどうぞ」「深層部にある個室で待っています」と、クリスティ・ハドソンは意味ありげに微笑みました。 ……オイルランプの光を受けて揺らぐ彼女の人影が、奇妙な形に歪んだのは気のせいでしょうか。 鉄と火薬と石炭と蒸気が生み出す、レトロでクラシカルな浪漫が溢れるミスタ・テスラ。 そこを彩る色合いは、瓦斯灯(ガスとう)が放つあたたかな光、黄金の如き真鍮のきらめき、色褪せた皮の茶色、黄色く変色した紙片の古めかしい色……。 レトロ&アンティークの情緒に満ちたこの世界で、あなた達はどのようなひとときを過ごすのでしょうか。 ――これは、とあるロストナンバー達の、ちょっとした小旅行。====※このシナリオはロストレイル13号出発前の出来事として扱います(搭乗者の方も参加できます)。====
▼早朝、ミスタ・テスラ、ハドソン邸にて 「改めて見ても、とてもよく似合っているわ。メアリベル」 「お褒めに預かり光栄よ、ミス・ハドソン」 化粧台の前に座るクリスティ・ハドソンは、鏡越しに微笑みながらそう言った。 メアリベルは今、ハドソンの長い金髪を櫛で梳いている。 その服装はいつものワンピースではなく、ハドソンから借りた女中服だ。黒い長袖のワンピースの上に、フリルとレースでたっぷりと飾りつけたエプロンをつけている。白の襟とカフスは、後から上につけたものだ。普段は自由に躍らせている髪も、今は丁寧に編みピンでまとめている。 「それにしても、本当に良かったの? せっかくのお休みなのに、わざわざ私の侍女を申し出るなんて……」 「構わないわ。メアリは、メイドになるのがひとつの夢だったの。メイド服だって一度着てみたかったのよ。今日はミスタ・ハンプと一緒に、ミス・ハドソンの身の回りのお世話をするわ」 「ふふふ、そう。期待しているわ。……ところで、エプロンについているその返り血は何?」 「ミスタ・ハンプが私の真似をして、台所にあったスコーンをつまみぐいしたから、これでおしおきをしてあげたの」 メアリベルはどこからともなく、血に塗れた凄惨な斧を取り出してにこやかに見せつけた。 しかし、ハドソンは全く驚かない。微笑ましそうに頬を緩めるだけ。 「あらあら、つまみぐいはいけないわね。ミスタ・ハンプも、そしてあなたも」 穏やかに笑む一方、ハドソンの目許は妖しく愉しげに細められている。 「おしおきが必要だけど、それは後にしましょうか。今日はやることが多いの。メアリベルにはその間、色々な雑務を頼もうかしら。目が回ってしまうかもしれないけれど、よろしくお願いね、メアリベル――さ、ドレスを着けるのを手伝って頂戴」 ハドソンは椅子から立ち上がると、壁と一体化している大型クローゼットへと歩み寄る。 レディのドレスは、自分ひとりで脱ぎ着をするようにはできていない。誰かの手で持ち上げてもらったり、紐を結んでもらうなどの補助が必要なのである。 「かしこまりました、ミス・ハドソン……いえ、ご主人様。本日のドレスも、メアリが見立てて差し上げます」 演技掛かった恭しいお辞儀と笑顔で、メアリベルは返した。 その笑みの端には、小悪魔めいた影がちらついている。 † そこは超大型の貸本店だ。 中流階級以上の人々が集っており、静かで上品で落ち着いた場所。図書館を彷彿とさせるたたずまい。 死の魔女とティリクティアは、ミスタ・テスラ世界の最新ファッション事情とその店舗情報を調べるため、この貸本店に訪れていた。 「美を着飾る乙女と致しましては、やはり最先端のファッショナブルをチェケラーしておかなければならないのですわ」 うきうきとしながらファッション関連の本棚を巡る魔女だが、その足はなぜか魔法・魔術関連のコーナーへと向かっていく。 「あら、呪術関係の書籍も充実しておりますのねぇ。死者再生の秘術に関するものもあったりするのかしら、ですわ……ほほう、これはまた面白い記述内容ですこと……」 狂気をにじませる怪しげな笑みを浮かべながら、魔女は研究書に目を通す。でもその視線は、ちらちらと隣にいる人物へも注がれていた。 視線を向ける対象は、今回の旅の同行者であるメルヒオールだ。彼は魔術関連の本を開いている。かつて石化して動かせなかった右腕は、本来の生身の姿へと戻っていた。ある戦いを通じて、石化の呪いを克服したのである。 メルヒオールは横から注がれる露骨な視線を受け、頭をかきながら面倒くさそうに声を洩らした。 「おまえ、ティリクティアとファッション情報を調べに来たんじゃないのか……なんでこんな棚のとこにいるんだよ」 「そ、それは……」 魔女は、はじらう顔を本で隠して言いよどむ。本当は「愛しのメルヒオール先生とデェトだから嬉しく舞い上がっちゃってもーできるだけ傍にいたいんですウッヒョオオ」なんて思っているけれど、はしたない言葉なので慎んだ。 こほんと咳払いを挟んでから、すました調子で言葉を返す。 「先生はミスタ・テスラに何度も訪れていて、とてもお詳しいと伺っておりますの。この世界に疎いあたくしに何卒、手取り足取りあんなことやこんなことまでたっぷりどっぷりご教授賜りたくグフフ……おっといけない、邪な期待もしてしまってついお口からお内臓が」 口端から漏れ出すはらわたを、指で押し返す魔女。 うげ、と苦そうな顔で視線を逸らしながら、メルヒオールは疲れた様子で溜息ひとつ。 「はぁ……別に案内するのは構わないんだが……」 手元の研究書を閉じながら、メルヒオールは隣を盗み見た。魔女とは反対の方向だ。 そこには、同じような学術書を手にとって読んでいる、女の子の姿がある。 ただし、彼女は人間ではい。機械人形であり、元ミスタ・テスラの住人であり、今はロストナンバーとして覚醒した少女、イーリスだ。 イーリスは苛立ちを抑えきれないといった様子で本を畳み、メルヒオールに言い放つ。 「ほんっと、先生の周りには女の人しかいないのね。しかも今日のはまた変なのだし、それに魔女だし」 「変な魔女とは失敬な! 私には死の魔女という、れっきとした――」 「今日はひとり男がいただろ……」 「この場に居なくちゃ意味がないじゃない」 「ちょっと、ふたりしてスルーしないでくださらないこと!」 そうやって言い合っていると、音も無く近づいてきた笑顔の店員からお静かにと注意され、三人は身を小さくさせたのであった。 † 「この写真のドレスと帽子、とても素敵ね……よし、ここに決めたっ――あら?」 一方、本来の目的どおりにファッション情報をチェックしていたティアは、絵本のコーナーに置いてあったほの暗い装丁の本に気がついた。『寂しがり屋の黒妖精』というタイトルの絵本だ。 「わ、本当に置いてあるーっ。ふふっ……ダークは元気にやっているのかしら?」 とある怪事件を解決した果てに、生み出された本がこれなのだ。人々に記憶・認知されないロストナンバーの成果が、違うかたちとして世界に残した足跡。 事件を通じて出会った黒い妖精のことに想いを馳せながら、ティアは絵本の表紙を愛しげに指でなぞり、感慨深く微笑んだ。 「そういえば、ゼロと一緒に篆刻写真も取りたかったし、おめかしもしてみたかったんだけど……どこに行っちゃったのかしら?」 † ティア、メルヒオール、イーリス、魔女の四人は、有料の蒸気自動車を使って有名な大型百貨店へと向かった。 仕入れた情報をもとに、この世界のファッションで身を包むためだ。 「ねぇ、このサテンの花を散らしたパラソルなんて素敵じゃない? ほら、縁にフリルも付いていてすごくお洒落でしょ」 芸術性に富んだ装飾が施されている日傘を開き、肩に添えながらくるりとターンしてみせるティア。黄金色の髪が気持ち良さそうに躍る。 いつもの服から着替え、今はミスタ・テスラ世界で流行の衣服に身を包んでいる。肩口は蕾のように柔らかく膨らんでおり、腕の布地は細くてすらりとしたラインを描く。袖口は別に新たな布地があしらわれ、控えめに広がっている。それは咲き開いた花弁を思わせる。 そうして着飾ったティアを、メルヒオールはぬぼーっとした表情で眺めながら。 「……まあいいんじゃないか」 起伏のない感想をもらすと、イーリスが横からぴしゃりと言い放つ。 「何それ意味分かんない。もう、先生は黙ってて――ティアの髪の色に合わせるなら、こっちの色も良いかもしれないよ」 イーリスはティアに向き直ると、別の日傘を持ってきて。 ちょうどティアと同じ年頃の思考回路を持つイーリスは、彼女と意気投合したようだ。最初は互いにさん付けで呼んでたのだが、今はもう気さくに呼び捨てで声を掛け合い、キャッキャッと黄色い声をあげてはしゃいでいる。 メルヒオールは面倒くさそうな顔で「なんで何もしてないのに叱られなきゃいけないんだ……」とぶつくさ呟いていたが、イーリスの強い一瞥に口をつぐんだ。居場所がない。 「先生、あたくしは如何です? ちょっと試着をしてみたのですけれど」 華やぐ乙女達の様子を面倒くさそうに観察しているメルヒオールに、魔女がうきうきと声を掛けてきた。彼女は花も恥らうようなはにかみを浮かべているつもりなのだろうが、メルヒオールには発狂寸前の末期な哂いにしか見えない。 「ん……まあいいんじゃないか」 「もう、先生ったら恥ずかしがってしまって。似合うよ素敵だよ最高だよと、素直におっしゃってくださっても良いのですわよ?」 「何言ってんだおまえは……」 「――は、はっ、はくしゅん!」 魔女が勢い良くくしゃみをした拍子に、頭が首からずぽんと外れて転がってしまう。 「ちょ、ちょっと誰か、私の! 私の頭を拾ってくださりませんことーっ」 「おいこら、そのままあんまり出歩くと――」 転がる頭を追って、首無しの体がおぼつかない足取りでふらふらと歩き回る。これではただのホラー小説だ。 そしてメルヒオールの静止は間に合わず、そこをちょうど通りかかった店員の金切り声が百貨店内にこだました。 † 「さあさあ、名も無き大道芸人の、楽しい愉しいショーが始まるよー」 蒸気機関で汲み上げた水を使っている噴水が有名な、とある広場にて。 マスカダイン・F・羽空は、噴水の淵に立ち、大げさな仕草で両手を広げながら、花のように明るい笑顔を振りまいていた。 道行く中流階級の人々が、何事かと興味深そうに目を向け立ち止まり、マスカダインのもとへ歩み寄っていく。 「お代は結構だから、お金なんか無いちびっこも、寄ってらっしゃい見てらっしゃい! なのねー」 おどけた口上を緩く述べながら、マスカダインは懐から色とりどりのお手玉を取り出し、それを使ったジャグリングを始めた。彼の手捌きによって、お手玉がまるで統率された動物か何かのように、宙で弄ばれる。 「すごい、あんなにくるくる回ってる!」 「ほう、大したものじゃないか」 「他には何かないの? みせてみせてーっ」 マスカダインは観客の要望に快く頷いて。 「もちろんだよー。じゃあ、こんなのはどうかなー?」 片手で逆立ちし、そのまま噴水の淵を土台にして跳ねるようにダンスをする。さらには空中に身を躍らせて回ってみたりと、躍動感のある動きで観客を魅了していく。 他にも、何も無い掌から花を出したり、手の中のコインを消失させたり、紙の的を投げたカードで切り裂いたり等、小さい奇術を披露していった。 そうするたびに観客がみせてくれる反応――目を見開く、口が開いたままになる、黄色い声を上げてはしゃぐ、拍手をしてくれる等――を、ひとつひとつ目に焼きつけるマスカダイン。 「あら、すごいこと」 「ねー兄ちゃん、あれできる?」 「いや、俺にも無理だな」 「いやはや、これはたまげたぜ」 「でも、あっちの人もすごかったんだよ! 僕ちょっと連れてくるっ」 そういって走り去っていった子ども達。やがて彩り豊かな衣服に身を包み、肌にも奇抜な化粧を施している、典型的な道化師を格好をした芸人が子ども達にせがまれながら引っ張られてきた。 「ほら、このあんちゃんさ。さっきすごかったんだぜー」 「でもピエロさんのお人形も素敵なのよう。見せてあげてよお」 道化師は声を発することなく、芝居染みた仕草で了承の意を示す。すると背負っていた大きな木製の箱から、糸で繋がれた人形を取り出し、それを巧みな指捌きで操ってみせたのだ。マスカダインはそれに目を見張る。 「うわあ、これはすごいなあ……! 生命のない置物のはずなのに、まるで生きてるみたいだよ……本当に愉しくて踊ってるみたーい!」 自分が芸を見せる側だったことも忘れて、マスカダインは道化師の手繰る糸人形を、きらきらした目で見つめていた。 「わはー。すごいものを見せてくれたお礼のしるしだよー、道化師さん! わくわく嬉しいハッピーな気持ちを、皆にもおすそ分け。飴ちゃん、配っちゃうよーっ!」 快活に笑いながらマスカダインが懐から取り出したのは、玩具銃型のトラベルギアだ。それを空に向けて連発する。 ぱすぱすという軽い炸裂音とともに発射される弾丸は、鉛玉ではなく飴玉だ。花火が弾けるみたいに、咲いてはばら撒かれていく飴の雨。子ども達は歓声を上げて大喜びし、落ちてくる飴をキャッチしようとはしゃぐ。 素敵なものを見せることができた喜び、素敵なものを見れた喜び。今、マスカダインの表情は輝いていた。 † そうして賑わう雑踏を、遠くから眺めている者がいた。 いつの間にかそこに居る人影が、ひとり。いや、ふたり。ぴっとりとくっついて離れないから、ひとつのシルエットに見えただけだ。 ひとりはシーアールシー・ゼロ。 もうひとりは、ゼロと同じくらいに小さな男の子だった。布とも皮とも思えない漆黒の外套は、顎の下から足のつま先まで全身をすっぽりと包んでいる。顔つきは陰気で勢いがなく、目許も眠たそうにまどろんでいる。けれどその双眸に宿る色合いは、落ち着いた静けさと穏やかさがにじんでいる、優しい目つきをしていた。 彼の名はダーク。ゼロがこの世界で出会い、悲劇から救った住人のひとり。 「穏やかだね」 「まったりなのですー」 「平和だね」 「ゆったりなのですー」 ダークの黒い外套に、一緒に包んでもらっているゼロ。ふたりはお互いのほっぺたがくっつく近さで寄り添い、公園内を行き交う人々の様子を眺め、まどろんでいる。 「……今日はどうして、ここに」 「ゼロはダークさんに逢いに来たのですー」 「僕に?」 ダークは顔をゼロに向けた。ゼロもダークに顔を向けており、互いに見つめ合う体勢となった。おでこと鼻先がぴっとりと触れる。 ふたりは常人と違う感覚を持っているため、この距離感に恥ずかしさを抱くことはない。まどろむためにくっついて寄り添うのは、ふたりにとっては自然なことなのだ。 「ゼロは忙しくなるのです。なのでこれからは、ずーっとずーっと来れなくなるかもしれないのですー」 「……そうなんだね」 「逢えないぶん、まどろみにきたのですー」 「……ゆっくりしていくといいのさ」 「うにゅー」 ゼロは瞼を伏せ、猫にみたいにほっぺたを擦りつける。ダークも同じように擦り返して、それに応えた。 「……どこか行きたい場所は、あるのかい」 「ゼロは、ダークさんと一緒ならどこでも嬉しいのですー」 「……そうなのかい」 「そうなのですー」 「……もう少ししたら、どこかにおいしいものでも食べに行こうか」 「はいなのですー」 ふたりはしばらく、頬と頬を触れ合わせて戯れながら、人々をただ傍観していた。 そして人知れず、いつの間にか姿を消していた。 † 一方、ティア、魔女、メルヒオール、イーリスの四人はカフェテラスでティータイムを愉しんでいる。 「うんうん、こんなに芳醇でおいしいスコーンは初めてっ。カップとソーサーも素敵だしお洒落だわ」 「ほんとだよね、ティア」 ティアは、白を基調に青の塗料で飾られたカップを手にうっとりとした様子でいて。隣に座っているイーリスもほっこりと満足顔だ。 「こんな御店を見つけられたのもティアのおかげだよ、ありがとう」 「そんなことないわ、イーリス。ただ私は、こちらの世界での定番のお散歩コースを調べて辿っただけだもの」 そしてカフェの後に、四人は人通りの多くなった街中を散策した。 手押し露店から漂うフィッシュ&チップスの香りに負けてつい買ってしまいつつ、手を油だらけにしながら笑い合い、多くの店舗が建ち並ぶ通りへと足を向けていく。 香草などを詰めた、お洒落で小さな袋を売っている御店で、サンプル品を手に鼻先を動かす女の子ふたり。 「ねぇティア、これすごくいい香りがしない?」 「くんくん……本当ね、とても素敵! 袋も凝っていて見た目も可愛いし」 「お土産にも良さそうだよね」 「それはいいアイディアね、イーリス! 店員さん、ここにあるサシェを全種類、ひとつずつくださいな。それと、あのポプリにー、この切り花も!」 そういった感じで、ティアは訪れた店で次々と豪快に買い込んでゆく。 「……おしとやかそうに見えて、ティアって意外と大胆ですわよね」 目を点にしてそんな様子を眺める魔女の横で、メルヒールは疲れた溜息をひとつ。 「まあ故郷の世界じゃお姫様だって言ってたしな。そんな胆力も必要なんだろ……あー疲れた……」 「何やってるのせんせ、ほらこっちこっち。早くー!」 「へいへい……」 イーリスに急かされるメルヒオールは、ただの荷物持ち係に成り果てている。 次々と店舗を巡っては、服や装飾品やらお菓子を次々に購入していくティアとイーリスに振り回され、メルヒオールは目を回すしかできなかった。 そうしていると、とある店舗内部にある豪奢で大きい真鍮色の機械の前で、見覚えのある小さな陰がふたつ、もぞもぞと何かをやっていた。 「……これはどうやって使うのさ?」 「ゼロも分かりませんですー」 「あ、ゼロ! それに……ダーク!」 品物が満載の紙箱やら買い物袋やらをメルヒオールに押し付けると、ティアは小さなふたりに駆け寄っていく。ダークは不健康そうな目許を緩ませて。 「久しいね、ティア」 「ええ、久しぶり! 元気そうで何よりだわ。……なになに? ひょっとしてダークは、ゼロとデート中なの?」 「でえと、か。そうとも言えるかもしれないね」 「しれないのですー」 「ところでティア、この機械の使い方が分からないのだけれど、助けて欲しいのさ……」 「あ、篆刻写真機ね。ちょうどいいわ、皆で記念写真を撮りましょう!」 スカートなのも気にせず、ティアがぴょんぴょんと跳ねてアピールし、皆を機械の前に集結させる。 互いにぎゅうぎゅうに押して詰め合って、何とか並んで撮影した白黒の篆刻写真。皆の豊かな表情がいっぱいに映った、素敵な一枚となった。 † 「……指示された仕事は、すべて終えたわ。ミス・ハドソン……」 ご主人様、と気取って呼ぶ余裕もなく、メアリベルはふらふらになりながらハドソンの書斎に入ってきた。 煤や埃やたくさんの汚れにまみれているメアリベル。不機嫌そうな表情を隠しもしない。けれど仕草だけは優雅ぶることを忘れないのは、屈すること良しとしない抵抗の表れか。 スカートを持ち上げ、丁寧にお辞儀をするメアリベルを見て、ハドソンは口許に手を添えて上品に笑う。 「ふふふ、くたくたのご様子ね」 「今日のメアリは、溝鼠にでもなったような気分よ……」 「そうね、綺麗だったエプロンも台無し。まるで煙突掃除でもしてきたかのよう」 まず会食があるということで、料理の支度を手伝ったメアリベル。けれど直接の調理を任されるはずもなく、命じられるのは優雅さの欠片もない下仕事ばかり。重い焼き串をせっせと回すのは、体の小さなメアリベルには一苦労だったし、大量の皿をお湯で洗った後に冷水ですすぐのも、手の皮膚をひどく傷めさせた。 「メイドの仕事が如何に大変か、メアリはよーく分かったよ」 「それは結構。おしおきに懲りたなら、もう悪戯は二度としないこと。他にもたくさん悪戯を企んでいたことは当然、把握済みですからね?」 あまりの大変さに耐えかねて、メアリベルは他にも悪戯を仕掛けようとしていたのだ。 例えばお茶の時間の際は、切り落としたハンプの指と一緒に紅茶を淹れてやったのだが「腐ったたまごの臭いがするわ」と言ってすぐに見抜かれた。 また、ハドソンは上等な小間物もたくさん所持していたので、そのひとつやふたつを違う場所に隠してやろうとした。 しかし持ち出そうとすると罠が起動し、鋭い棘の生えた鉄塊が落下してきたり、床から槍が突き出てきたり、壁から毒矢が発射されてきたのだ。 「ふーん、お見通しだったというわけね……まったく、メアリが下手に出ていれば調子に乗って……」 「何か言ったかしら?」 「い い え、ミス・ハドソン。……新参のメイドはもう疲れ果てました、これにて失礼します」 そう言って書斎を後にしたメアリベルだが、まだまだ懲りてはいない。彼女の口端は邪悪に歪んでいる。 「屋敷中を掃除させられたけれど、おかげで屋敷の構造は把握することができたわ。ふふふ、入っちゃいけない秘密の地下室だなんて、入るためにあるようなものじゃない。そう、冒険心は忘れちゃいけないわ」 夕暮れの光が差し込み、どこか怪しい影の差す廊下を、メアリベルは花畑を散歩するような軽い足取りで進む。 「ミスタ・ハンプの頭をかち割って、道標にくさい黄身を落としていけば、迷子にもならない。ふふ、地下室にはきっと誰も見たことがない、素敵な秘密が隠されてるに違いないわ。メアリとミスタ・ハンプのふたりじめよ」 ▼夜間、ハドソン邸にて 「――と、さぁこの通りー」 コイン消失マジックを披露するマスカダインの前には、ハドソンの姿があった。 本来、ハドソン邸には泊まらず他の場所で適当に過ごすつもりだったマスカダイン。けれど彼を偶然街で見かけたハドソンが、そのマジックを是非、自分の前で披露して欲しいと、わざわざ改めて彼を招待したのだった。 秘密の入り口から地下室に案内されたマスカダインは、そこで数々の芸を実演しているのである。 「まぁすごい! 素敵な腕前をお持ちなのね、マスカダインさん」 「いえいえ、愉しんでくれたら何よりだよー」 へらへらと緩く笑いながら、仰々しくお辞儀をするマスカダイン。そんな彼に、ハドソンは1枚の硬貨を差し出した。 「これは、せめてものお礼よ。大道芸を生業とする方々は、こうして糧を得ていると聞いたわ」 「あ、うーん。えっと……」 マスカダインが戸惑いがちに言いよどむ。 「受け取らないの?」 「うーんとね。どうしようかなーって、ちょっと、悩んでるんだ――」 手持ち無沙汰に、マスカダインは掌でお手玉を弄ぶ。 ハドソンは椅子に真っ直ぐ腰掛けながら、オルゴールの音色にしっとり耳を傾けるような表情で、彼の話を聞いた。 「ボクは今まで手品を見せたりして、お金は貰ってなかったんだよねー」 「あらあら、皆を愉しませてくださるのにお金を頂戴しないなんて」 「楽しませるということは、ボクにとっては罪滅ぼしだったんだ。宿命だった。使命だった。義務であり、責務だったんだ……」 「これからも贖罪ため、あなたは人に笑顔をもたらしていくの?」 「あはは、たぶんねー」 「ふふ。あなたは笑っているわね。元気いっぱいの、快活な笑み――」 でも、とハドソンは言葉を切って。 「あなたは、心の中では泣いているのね」 「……」 「あなたの笑顔の裏にある、憂いげな面持ちが透けて見えてしまいそう」 ハドソンの切なそうな声音、視線。マスカダインは逃げるように顔を背けた。 「あなたの志を否定したりはしないわ。あなたにはあなたの人生があって、今のあなたが在るのですもの」 「……」 「でもあなたはもう充分に与えてきたと、私は思うわ。洗練された先ほどの技術を見れば、分かります。あれは人に笑顔をもたらす、素敵な業よ」 こくり、と。ハドソンは愛着を込めてゆっくりと首肯する。 「きっと今度は、あなたが笑顔を与えてもらう番」 与えて、もらう。 はっとした表情でマスカダインは言葉を反芻した。ハドソンの暖かな声が、彼の耳を打った。 ハドソンの紡ぐ言葉が、そっと重ねられていく。 「笑顔にしてくれた、愉しませてくれた、だからお礼をしたい……そうしたひとの心遣いをきちんと受け取ることもまた、大切だと私は思うの――」 「ひたすらに施し続け、誰かから赦されるのを待つ。それもひとつの道でしょう――」 「でも、構わないと思うの。あなたを赦すのが、あなた自身であっても――」 「自分で、自分を……?」 考えてもしなかった発想に、マスカダインはふわりと目を見開く。伏せていた顔をぎこちなく上げ、ハドソンに向き直る。 年頃の少女にように麗しく、けれど老成した大人のような落ち着きのある微笑みを、ハドソンは浮かべていた。 「たくさんの誰かを幸せにしてきた、あなただもの。もうそろそろ、あなた自身も幸せになっていい頃合だと思うわ」 「ボクが、幸せに? 誰かを、じゃなくて……」 「そう。私はね、幸せはぐるぐると循環していくものだと思っているの。誰かに幸せにしてもらったら、お礼にその人を幸せにする。その人は贈られた幸せに応えたくなって、また相手を幸せにする。そしたら……というようにね」 くるくると指を回しながら、楽しげに語るハドソン。そんな彼女を、放心したようにぽかんと眺めるマスカダインは、ぽつりと言葉を洩らす。 「笑顔を奪ってきたぶん、笑顔を取り戻してあげたらって、思った。人の笑顔を見ると、ボクはすごく幸せだった……」 「うんうん……」 「誰かを笑顔にしたこと。ボクが見せたモノに対するお礼の印、ありがとうの気持ち……ボクがそれを受け取れば、ボクは変われるのかな……?」 「試してみる価値は、あるかもしれないわ」 そう言って改めて彼女から差し出された硬貨。マスカダインの思いつめた表情が、柔らかな笑みに移り変わる。芝居掛かった風に頭を垂れ、跪き、そのお金を賜った。 「頂戴するよ、ハドソンさん」 「いえいえ、こちらこそ素敵な芸をありがとう。また魅せて頂戴ね? さて――」 おもむろにハドソンは椅子から立ち上がり、壁に立てかけてあった得物――装飾の施された漆黒の細剣――の鞘を、品のある所作で手に取って。。 「少し、上のお遊戯に付き合ってあげなくてはね」 ハドソンは口許に含み笑いを忍ばせながら、楽しげに呟いた。 † 「ふふふ。皆、メアリのお茶会へようこそ」 拝借した水晶玉の奥に結ばれている像を通じて、仲間達がやってきたことを確認したメアリベルは、愉快そうに口端を歪めた。 わいわいと賑やかにハドソン邸へと帰宅した仲間達へ、地下室で秘密のお茶会をするといった内容の招待状を贈り付けたのだ。彼らは戸惑いながらもハンプに連れられて、のこのこと暗い地下室の階段を降りてきている。 「さあおまえ達、起きて頂戴。動く甲冑、首無し人形。流血する絵画と、悲鳴を上げるオルゴール。歩く人食い植物に、牙を生やした衣裳箪笥も!」 地下室で見つけた、枝切れのような魔法の杖を一振り。怪しい色をした光の粉が拡散すると、地下宝物庫に置かれていた物品や調度品がざわざわと震え、蠢き始めた。 「メアリが一夜の魔法をかけてあげる。皆で騒いで踊りましょ、お茶会にいらしたお客様をもてなすの。あっははは! 楽しく悪戯し放題、お仕置きなんて怖くない! 一生忘れられない夜になるわ!」 メアリベルの、邪気と愛らしさに満ちた甲高い哂い声が、地下で反響する。 † メアリベルの魔法に掛かった不気味な品々が、メルヒオール、イーリス、魔女の三人に襲い掛かる。 中身が空洞であるはずの甲冑が肉薄してきて、躊躇なく戦斧を振り下ろす。 「やだ、武器で裂かれてお洋服が! イヤーン、先生に見られてしまいますわ」 わざとらしい悲鳴を上げつつ嬉しそうにしている魔女。 しかし、切り口からドバドバと血と腐肉を溢れさせていては、肌が見えても色気など皆無だし、ウインクした拍子に目玉が転がり落ちては可愛げなど微塵も無い。 「さっきからもー、うるさいわね! あんた先生の何なのよ!」 「きーっ、口の減らない小娘ですわね! あなたこそ先生の何ですの!」 牙の生えた扉を開閉させながら追いかけてくるクローゼット。それから走って逃げつつ、イーリスと魔女が言い争いを始める。 「私は先生の生徒で助手! ほんと付き纏わないで欲しいわ。肉をそうやってぼとぼと落としちゃって、品がないったらありゃしない」 「ふん、肌の硬い機械人形風情が生意気を言っても、カッコなんてつかなくってよ? 私は死を超越した死の魔女。ほら、こうやって首が取れても死ぬこともない、完全無欠の存在ですの。あなたに同じ芸当ができて?」」 「何よ、私だって頭くらい取れるんですからね! 腕だって蒸気を噴かして飛ばせるわ。死に損ないの腐乱死体に、そんな高等なことできないでしょう?」 「失礼な! 私だってそれくらい造作もありませんことよ!」 そんなふたりを振り返りながら、メルヒオールが一喝する。 「だー、ふたりともうるせぇ! 逃げるのに集中しろっ」 † 「せっかく地下に封じ込めておいた怪異を、解き放ってしまうだなんて。ちょっと悪戯が過ぎるわね」 「埃臭い地下室でじっとしてるなんて、きっとつまらないわ。おばけにだって気晴らしは必要よ」 地下室にある広間で、ハドソンとメアリベルが対峙していた。薄暗い灯りが、ふたりの顔に色濃い影を落とす。 「あらあら。お手伝いをしに来たのか荒らしに来たのか、分かったものではないわね」 「メアリは遊びに来たんだよ? ミス・ハドソン」 「まったく。悪い子には、うんとおしおきが必要なようね」 「あはっ、メアリとやり合うつもり? いいよ、ハンプの脆い頭をかち割っているだけじゃ腕がなまっちゃうもん」 にたりと挑戦的に哂うメアリベル。ハドソンは子どもの悪戯に困ったような、小さな嘆息を洩らす。 と、枝分かれしている暗い通路から、駆けるような足音が響いてきて。 「はぁはぁ……ふぅ、やっと逃げ切ったわ……! あー愉しかったっ。……あら? ハドソンさんにメアリベルも」 スカートが翻るのも構わず全力疾走し、広間にやってきたのはティアだった。見知った顔が対峙して、緊張感の漂う空気を漂わせてを目にすると、楽しげに声を弾ませる。 「何だか一触即発の気配が漂っているわね。ふふ、良かったら私も混ぜて頂戴! 喉が渇いたから、途中で綺麗な杯に注がれていた飲み物を飲んだのだけど、それからもー何だか愉しくなってきちゃってうずうずしているの」 溢れる元気の良さを抑えきれないといった様子で、ティアは妖艶にぺろりと上唇を舐めた。 「こんな気持ちを表現するには、やっぱり決闘よ。闘いましょう、メアリベル、ミス・ハドソン! この私がお相手するわ」 ティアはトラベルギアの宝剣を軽やかに顕現させると、堂々とした所作でその茨をまとう得物を構える。 「あらあら。……ティアさん、あなた狂乱の聖杯から溢れる血を飲んだのね」 「あ、ごめんなさい。飲んだらいけない高級なものだったのかしら」 「杯から勝手に涌き出てくるものだから、そういう意味では気にしなくてもいいわ。飲んだ者を一時的に不死身にする薬なのだけど、人の心を異常な闘争心で溢れさせてしまうの」 「なるほど、どうりでさっきから胸の高鳴りが収まらないわけね!」 頷きながら、試すように宝剣の切っ先を振るい。 「ねぇ、ミス・ハドソン。あなたは元々ロストナンバーで、ツーリスト……ということは私の未来予知のように、不思議な力もあるのよね? それがこの屋敷の秘密と繋がっているのではないのかしらって思うの。それに、ダークのあの絵本……ひょっとすると、あなたが著者じゃないのかしら」 「ふふ、知りたい? 可愛い仔猫さん。それなら、かかって来なさいな」 「仔猫じゃないわ、ティリクティアよ!」 「さっきからずるい、メアリも混ぜてっ!」 それを皮切りに三人の乙女が弾かれるように床を蹴った。乙女達のドレスの裾が風をはらんで翻る。激しい動きに、髪がうねり狂う。 メアリベルの無骨な斧、ハドソンの漆黒の細剣、そしてティアの茨をまとう青き宝剣が噛み合って、華麗な火花を咲かせて散らせた。 そんな戦場に遅れて辿りついた魔女やメルヒオールは、驚いた様子で戦いを傍観するだけ。 「ティ、ティアったらあんなに好戦的でしたっけ……」 「色々ともう、正気じゃないんだろ……うぐ、吐きそうだ」 様々な奇怪な現象と怪異に襲われ、迷路のような地下室の罠を掻い潜りながら逃げてきて、メルヒオールは既に満身創痍だ。覇気の無いいつもの顔が、病人のように青白い。 「それは大変! 先生、あたくしの胸を貸して差し上げますわ!」 「ゲロ吐きそうなのに胸貸すとか意味が分からん……」 「こういうことですわ♪」 魔女は、骨の指先を猛禽類のように尖らせて己の腹部を引き裂き、中身の臓物を掴んで取り出し、スペース確保。 「さぁ、あたくしの中に遠慮なく注ぎ込んでくださいなのですわ! あっ、注いでだなんて遠まわしになんて卑猥なっ、私ったら大胆? ぐふふ」 「げろげろー」 効果は抜群だ! メルヒオールは倒れて、目の前が真っ暗になった。 ……つまるところ、気絶してしまったのである。 この後、体調を崩して寝込んでしまったメルヒオールは、残りの休日を療養室で過ごしたという。 † そうした地下の喧騒からは程遠い、ハドソン邸の屋根の上。 ゼロとダークのふたりは肩をくっつけ、互いに互いの頭にもたれかかるようにして、夜空と月と星を見上げていた。 「もうしばらくまどろんだら、お別れだね」 「お別れなのですー」 ダークの声音が、闇に溶けてしまいそうなほどに儚く、弱々しかった。 「僕が夜空なら、君は瞬く星のようなもの。星を失なった夜空は、ただの闇黒さ……君と離れたくない、君を手放したくない」 憂いに細められた双眸が、ゼロを見つめてくる。ダークの陰の闇が、ぼこりと泡立つ。 「正直に言うよ。僕は、君と一緒にいたい。……いっそ、食べてしまいたい。僕の闇の中に、君を閉じ込めておきたい」 「ゼロを食べてしまうのですかー?」 思いつめた様子のダークに、ゼロは相変わらずの緩さで淡白に問いかける。 ふたりは静かに見つめ合う。やがてダークが、悲しげにそっと首を振って。 「けれどそれは、何か違う。そう、今では思うよ……だから、食べない」 「そうですかー」 そしてふたりはまた、くっついたまた天を仰ぎ。 「こうして君と一緒にまどろむことも、できなくなってしまうんだね」 「ゼロは、ダークさんと一緒ならいつまでも、まどろんでいられると思うのですー。でも、ゼロには壮大な計画があるのです。ここで立ち止まるわけにはいかないのですー」 だから、とゼロは付け加える。ダークの両手を取って立ち上がる。 「だからゼロは、ダークさんに、ゼロを残していこうと思います。ゼロは、ヒトのまねっこをしてみます」 ゼロは少しだけ、逡巡したように目を逸らす。そしてまたダークを見つめる。 表情の変化は全くない。いつもの、口許だけににじむ表面的な微笑みを浮かべ、無垢で無色で無感動な瞳が、ぱちくりと瞬きをするだけだ。 でも、今、少しだけ。 ゼロの目許が、ほんの僅かに細められ。まるで慈しむ女神のように、優しく笑いかける。 「ダークさん、ゼロとケッコンしましょう」 ゼロは、ぼんやりとしたままのダークの手を、静かに唇まで導いて。戸惑うことなく彼の小指を口に含む。そして甘く、そっと、噛む。 この接触を通じ、ゼロは己の精神感応性情報因子をダークの根源へと流し込んでいる。 「ダークさんに、ゼロを、少しだけあげました。これでゼロはダークさんのものなのです」 ゼロは、ダークのぷにぷにしたほっぺに手を添えて。 「ダークさんも、ゼロに、ダークさんをください」 「……」 ダークは黙って、ゼロが己にした同じことをした。ゼロの柔らかな小指を愛しげに食み、精神感応性情報因子を分け与える。 ゼロがぶるる、と気持ち良さそうに身じろぎをした。 「はふ。……これでダークさんは、ゼロのものなのです。これはもう、誰にも変えることの出来ない絶対の真理となりました」 こつんと額をくっつけて。 そして感情に乏しい双眸で、ふたりは見つめ合う。 「ゼロがいなくなっても、ゼロはダークさんのものです。どんなに離れていても、もう二度と逢えなくても」 「ゼロ……」 ダークは甘えるような頬擦りを、ゼロのほっぺたにした。ゼロもまた同じことを返した。 「ゼロという情報を、僕は忘れない」 「ダークさんという情報を、ゼロは忘れません」 「超えることのできない境界が、ふたりを別とうとも」 「ずっと、一緒なのです」 「いつまでも」 「いつまでもー」 ヒトでない彼らは、ヒトの真似事をしてヒトのように振舞う。 相手の柔らかな頬に、唇を静かに触れさせる。交代に、何度も、何度も。「一緒にいたい」という互いの気持ちを、繰り返し繰り返し、表し、示すように。別れを惜しむように。 月が照らす青い光の下、小さなふたりは、ついばむような儚いキスを繰り返す。 † そうして、休日の日々は遠い過去の出来事となっていった。 今回の紀行の後、ゼロにひとつの変化が訪れた。 彼女の半分くらいしかない小さくて黒い何者かを、ゼロがいつの間にか連れ歩くようになっていたという。ゼロはそれに話しかけ、戯れ、まどろむ時は大事そうに抱えていたそうだ。 一方ミスタ・テスラではダークが、彼の半分くらいしかない小さくて白い何者かを、いつの間にか連れ歩くようになったという。ダークはそれに話しかけ、戯れ、まどろむ時は大事そうに抱えていたそうだ。 この小さな人物が具体的にどういった存在であるかは、ふたりだけが知っている。 <おしまい>
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