『空想は人から生まれるものである』 「どうぞ。書評欄に出ていますよ」 「ありがとう」 イェンス・カルヴィネンはヴィンセント・コールから朝刊を受け取った。安楽椅子に腰かけるイェンスを横目にヴィンセントは紅茶を淹れる。 『空想自体は無害である。実体のないモノなのだから。抑圧や鬱積を紛らわすための空想は有益とも言えるだろう。それに、空想には責任も義務も伴わない。何をしてもいいのだ。たとえ人を殺そうと――』 「どうぞ」 ヴィンセントはティーカップとアップルパイの皿を差し出した。 「あいにく、アプリコットは売り切れでした」 「構わないよ」 「明日はもう少し早くに買いに行きますので」 ヴィンセントは書簡の束を整理しながら対面に腰掛けた。 「そんなに興味深いですか、マーカス・ボイドの最新作は」 「それなりにはね」 イェンスは静かに苦笑した。 「イェンス・カルヴィネンとは対極の作風ですが」 「だからこそ、かな」 お天気の話でもするような口ぶりだ。 「空想の人物が現れ、日常に恐怖をもたらす……という筋書きらしい。じゃあ仮に、どうしても会いたい相手が実体化したならどうだろう」 穏やかな緑の目が虚空を彷徨う。ヴィンセントは眉ひとつ動かそうとしない。手紙の山を機械のように仕分けているだけだ。 「僕は」 イェンスは新聞を閉じ、のろのろと眼鏡を外した。 「彼女に一目会えるならどんな目に遭っても構わないな」 背もたれに埋もれ、長く熱い息を吐く。ヴィンセントはちらとイェンスを盗み見た。俯いたイェンスは密やかに、甘やかに微笑んでいる。 「本当だよ。本心なんだ。たとえ痛めつけられようと、殺されようと」 「……イェンス」 「ああ、済まない。独り言さ」 「いえ。こんな方からファンレターが」 ヴィンセントは封緘されたままの封筒を差し出した。イェンスは何気なく裏返し、ふと眉を持ち上げる。 『From マーカス・ボイド』 “成人向けダークファンタジー”。マーカスの作風を一言で括ればそうなる。ヴィンセントが評した通り、児童文学作家のイェンスとは水と油だろう。 しかし売り上げではマーカスが勝る。熱狂的な読者も多く、インターネット上にファンコミュニティが乱立するほどだ。 「どうして僕に見せたんだい。それも未開封のまま」 マーカスからの手紙を前にイェンスは苦笑した。 「貴方が興味を持たれるかと」 ヴィンセントは青みがかった鉄のような目で答えた。ここへ届いた手紙は一部を除いてヴィンセントが検閲する。罵詈雑言の類ならまだしも、危険な代物――例えば刃物や毒物など――が仕込まれていないとも限らぬからだ。 「君の判断は信頼するが、何故ファンレターだと分かった?」 「言葉のあやです」 実際、ファンレターだった。マーカスから賛辞を受けるとは思いもしなかったが。 「少々引っ掛かりますね。調べましょうか」 「放っておけばいい」 イェンスは便箋を静かに封筒に収めた。 「マーカスがこんなことをするわけがない。まともな作家や出版社なら相手にしないよ」 しかしマーカスからの手紙は他の人間の所へも届いた。 マーカスの著作を出している出版社。その出版社の編集者。編集と懇意にしている作家たち。 「やっぱりお宅にも?」 イェンスの本を担当したこともある編集者は少々困惑していた。 「まるで絨毯爆撃だよ。関係者全員に届いてるみたいで」 「関係者とは、具体的にはどなたですか。ご存じの範囲で結構です」 ヴィンセントは素早く手帳にメモを取る。編集部に届いた手紙もコピーさせてもらった。どの手紙にもマーカスのメールアドレスが記されている。プロバイダから発行される物ではなく、フリーメールの類のようだ。 「このアドレスには連絡してみましたか」 「まさか」 「差出人にお心当たりは?」 「悪戯かなりすましに決まってるよ」 編集者は苦笑いした。 「過激な信者も多いからね。放っておいたら?」 読者やファンという枠を超えてマーカスを信奉している者も少なくない。もっとも、それはマーカスに限った話ではないだろう。信者と揶揄される手合いは表現者には付き物だ。 ヴィンセントはいったん自宅に戻り、古いパソコンを立ち上げた。 ハードディスクが億劫そうに唸り、粗い液晶に緑の光が現れる。ふた昔前の型であるため起動も遅い。しかしヴィンセントは焦らない。 (何故よりによってイェンスに……) 灰青の双眸の上で緑のかぎろいが瞬く。 手紙に記されていたメールアドレスにはgoat-escapedという文字列が使われていた。 マーカスの初期の著作に『山羊は逃げた』がある。新興IT企業が舞台で、急進派の女性社員が不祥事のスケープゴートに選ばれるところから始まる。良くも悪くも有名な作品らしく、信者の間でも評価は分かれているのだった。 案の定、『山羊は逃げた』でネット検索すると様々な意見が現れた。初期の作品だからと擁護する声。結末がぬるすぎてマーカスではないという罵倒。 “『山羊は逃げた』についての考察”という投稿が目に飛び込んで来る。 ファンコミュニティへの投稿のようだ。ヴィンセントはマウスに指を置いて斜め読みを始めた。 “賢明なる諸兄には周知であろうが、作品は作家一人で作られるものではない。編集部の意向も多分に反映される” 長い指がはたと止まった。 “ましてやデビューしたての書き手なら、編集者があれこれ指示をしないわけがない。編集会議での決定が著者の意向より優先されることも珍しくないのだ” ヴィンセントは黙って読み進めた。手紙の文体と似ていないでもない。投稿者は既に脱会しているようで、IDは非表示になっていた。 腕時計が時を刻み続けている。一分の狂いもなく、精密に。 ヴィンセントは腕を組んで沈思した。 マーカス・ボイドは謎の多い作家で、素顔すら明かされていない。しかし例の手紙を受け取った者の一部はマーカスの正体を知っている。だからこそなりすましと断言できるのだ。 だが、ある可能性が脳裏にこびりついて離れない。 殺風景なデスクの上でイェンス夫妻の写真が微笑んでいる。「どうかイェンスをお願いね」。心を震わせる芳しい声。 「……やってみるか」 と呟いた時だった。 液晶の緑光がぎょろりと動いた気がした。はっと目を揺らした瞬間、パソコンの電源がぶつりと落ちた。 「大丈夫かい?」 緑色の目が気遣わしげにヴィンセントを覗き込む。ヴィンセントは寝不足の目許をごまかすように瞬きした。 「お気遣いなく。イェンスに心配されるとは、私も未熟ですね」 「元気そうで安心したよ」 イェンスは羊のような温和さで微笑んだ。 「今日はちゃんと買えました」 「うん?」 「アプリコットパイです。早速出しましょうか」 イェンスの返事も待たずにキッチンに入る。このキッチンでアプリコットパイを焼いていた女の姿が今も目の前に彷彿とする。 「メール便が来たよ。編集長からだったから僕が開けたんだけど」 イェンスは控え目に欠伸をしながら冷蔵庫を開けた。 「マーカス・ボイドから編集長に宛てた手紙と、原稿が入っていた」 「原稿」 ヴィンセントはガス栓をひねりながら顔を上げた。 ケトルの底が焼ける音。イェンスはミネラルウォーターのボトルを開けて唇を湿らせる。 「『山羊は逃げた』について。自分は本当はこうしたかった、という……。あの作品は色々言われているようだからね」 「よくあることです」 ヴィンセントは横顔で受け流し、紅茶の缶を開く。 「イェンス・カルヴィネンはどうしますか。編集者と意見がぶつかった時」 「何だい、今更」 「……いいえ。忘れて下さい」 ケトルが絶叫し、ヴィンセントは火を止めた。 ポットに湯を注ぐと紅茶の香りが花開く。 「僕なら、とりあえず編集者に言われた通りにやってみるかな」 イェンスはカップに顔を近付けて目を細めた。眼鏡が曇っている。 「そうやって初めて見えてくることもあるし。向こうも根拠なく言ってくるわけじゃないんだから」 「貴方は編集に向けて書いているのですか?」 「編集を納得させなければ読者の手元には届かないということさ」 イェンスのフォークがパイの層に入っていく。ヴィンセントは密やかに目を伏せた。繊細で芳しい菓子が中年の手で崩される様は正視に堪えない。 「とことん衝突を避けるのですね」 「うん?」 パイの欠片を頬に付け、イェンスが目をぱちくりさせる。我に返ったヴィンセントは一瞬で揺らぎを押し込めた。 「拝借できませんか。ミスタ・ボイドから送られてきた原稿を」 ヴィンセントはメール便を受け取って出版社へと向かった。 編集長への取り次ぎを願う。少し待つようにとのことだったが、相手はすぐに現れた。 そのまま小さなミーティングルームへと連れて行かれる。 「原稿、読んだかい」 編集長は単刀直入に切り出し、ヴィンセントは機械のように肯いた。 「粗い部分もありますが、ミスタ・ボイドの筆と言われても信じたでしょう」 「俺も一瞬疑った。驚いたよ」 編集長は苦り切った様子で頬を歪める。ヴィンセントは眉ひとつ動かさない。『山羊は逃げた』を担当したのはこの編集長だ。 「マーカスの初稿そのものだった。あの時は初校が上がるまではママだったんだが、当時の編集長から待ったがかかってね。ヒロインの夫……ピーターの処遇に無理があると」 「確か、再校時点で大幅に直しが入りましたね。珍しいケースだったので覚えています」 「ああ。俺は抵抗したんだが、会議で通っちまって」 編集長は煙草に火をつけた。立ち上る紫煙で彼の姿が塗り潰されていく。 「ミスタ・ボイドはどうおっしゃったのですか」 「難色を示したよ。でも最終的には同意してくれて、少し安心したとこぼしていた。当時は方向性に迷っていたし――」 長いままの煙草がスタンド灰皿にねじ伏せられた。 「マーカスの経緯を考えれば自然な話だ」 「同感です」 「だろ? だからこそ言える」 紫煙よりも濃い嘆息。 「マーカスはこんなことはしない。でも、なら、原稿の送り主は誰なんだ?」 暗い液晶で緑色の光が瞬いている。古いパソコンに一件のメールが表示されていた。 『From マーカス・ボイド』 ヴィンセントはコーヒーカップを引き寄せた。不味い。粉が酸化してしまったようだ。しかし自身が飲む分には構いはしない。 雑味を食道に流し込み、メールをもう一度読み直す。 『ピーター・ウィルソン君 まずは君と神に感謝を。そして、君のチャーミングなチョイスに賛辞を。 本題に入ろう。 一度会って話せないだろうか? 君となら有意義な時間を共有できそうだ。 金曜の夜に六番通りの東公園にて待つ。 君の来訪を切望する。 ――マーカス・ボイド』 読み終えると同時に緑光が粉々に砕け散った。ヴィンセントの銃がパソコンを撃ち抜いたのだ。 熱い銃身を持て余し、しばし立ち尽くす。 証拠を残してはならない。フリーメールのアカウントを取得し、海外サーバーを経由してメールを送った。常用している最新機種を使わなかったのも初めからこうする予定だったからだ。 ならば何故こんなにも不快なのだろう。 『自分が創作したものが実は異世界を表現していた』……。 作品が先か、世界が先か。鶏と卵のような論争だ。 積み上げてきたものが覆され、否定されたとしたら。例えば空想の人物が実体を持ったなら、果たして『相手』を許せるだろうか。 携帯電話が叫んだ。イェンスからだった。 「これからディナーでもどうだい」 羊のように間延びした声である。 「今夜は予定があります」 「そうか。残念」 「ああ、いえ」 ヴィンセントは思い直して言葉を継いだ。 「短時間で済む見込みですので。多少遅い時間でよろしければ」 「構わないよ。何時くらいかな?」 「そうですね……待ち合わせが二十時なので、二十一時に六番通り西のスタンドで」 「分かった」 かすかに苦笑の気配がある。 「待っているよ。気を付けて」 ぷつりと電話は切れた。 ヴィンセントは携帯電話の電源を落とした。鎧のようにスーツを着込む。イェンスの誘いを受けたのは不審を抱かせないためだ。 「行って参ります」 写真立てに正対し、騎士のように一礼した。 ピーター・ウィルソンは金曜二十時に公園で殺される。 ヴィンセントが二十時きっかりに着くと、電話ボックスの暗がりから中背の男が現れた。 「ようこそ。私がマーカス・ボイドだ」 「ピーターです。よろしく」 儀礼的に握手を交わしながら、ヴィンセントはちらと相手の頭上を見やった。 「本物なのですか」 次いで、単刀直入に問う。 「本物だと判じたから来てくれたのではないのか?」 芝居がかった口調で男は答えた。マーカスの作品の登場人物のように。 「私は金曜の夜にこの公園でとしか言わなかった。それなのに君は二十時にこの電話ボックス前に来た」 「『山羊は逃げた』の読者なら……ピーター・ウィルソンを覚えている者なら誰でもそうします」 「序盤で死ぬモブのピーターを、か」 男は目を吊り上げて薄く笑った。マーカス本人の笑い方に似ていた。 「ピーターは重要な役割を果たすべきだった。そうでなければヒロインの夫という設定の意味が消失する」 両手を広げた男はまるでオペラ歌手のよう。 「あの場面で黒焦げになった死体たち。そう! 多数の人間が電話ボックス前の爆発に巻き込まれた。体がバラバラになった者さえいたのだ。そこで伏線を張っておけば良かった。ピーターは実は死んでいない、と」 ヴィンセントは口を開かない。その実、頭脳はめまぐるしく回転を続けていた。目の前の男の頭上には真理数が浮かんでいる。 実体化しただけなのだろうか。覚醒しない場合もあるのだろうか? 「ヒロインの敵は社内の人間だけではなかった、と」 男の独唱が続く。 「真の敵は最愛の夫であった、と」 ヴィンセントは黙っている。 「その方がソリッドではないか? 想像してみたまえ、死んだと思っていた者が勃然と現れる恐怖を。信頼していた者に復讐されるという苦痛を」 ヴィンセントの眉宇が初めて動いた。 「成程。分かりました」 「それは有り難い」 「貴方は偽者です、ミスタ」 青ざめた鉄のような目がひたと男を見据えた。 「物語に心酔し、模倣し、ご自分をマーカス・ボイドと思い込んでいるだけなのではありませんか」 「……何だと?」 男の声がわずかに震える。 「何故なら」 ヴィンセントは銃口のように人差し指を突き付けた。 「死んだ筈の配偶者が現れるのは恐怖などではありません。たとえ復讐のためであろうとも。それがマーカス・ボイドにとっての真理です」 「私は本物だ!」 男が吠えた。蛇のような勢いで二本の腕が伸びてくる。ヴィンセントは懐に手を差し込んだ。護身用の銃の感触。 「カバラ戒律を知っているか」 朗々とした、聞き覚えのある男声が響く。 「『心せよ亡霊を装ひて戯れなば、亡霊となるべし』。この言葉を君に贈ろう」 電話ボックスの後ろから別の腕が伸びて来て男を掴んだ。ちかりと燃える緑色。山羊のように不気味な目。 「――私こそがマーカス・ボイドだ」 腕は男を引きずり込み、静寂が訪れた。 ヴィンセントの腕時計が時間を刻んでいる。機械のように精密に、無表情に。 「ふう、重い重い」 闇より濃い暗がりからイェンスが現れた。背中には失神した男をおぶっている。 「眼鏡がずれていますよ」 ヴィンセントは睫毛一本動かさずに指摘する。イェンスは「済まない」と苦笑し、眼鏡を直した。 「マーカス・ボイドにとっての真理……か。嬉しいことを言ってくれるね」 「名義を使い分けていても根底は同一人物ですから。それより、何故ここが?」 「君の行動を編集長から聞いてね。もしかしたらと思ったんだ」 イェンスは羊のような穏やかさで微笑む。視線から逃れるようにヴィンセントはこうべを垂れた。 「個人的に気になったもので。出過ぎた真似をしました」 イェンスを守るためだったなどとどうして言えよう。 「ありがとう」 「……は?」 思わず、顔を上げる。 「僕を心配してくれたんだろう? でも、無茶はしないでくれ」 全てを見透かしたイェンスは何一つ咎めず踵を返した。 「ちょっと早いけど食事に行こうか。その前に警察に寄らないと」 「車を回します。先に出ていて下さい」 ヴィンセントはイェンスに背を向ける。次の瞬間、足が凍りついた。 電話ボックスのガラスにマーカス・ボイドの横顔が映り込んでいる。緑の目を山羊のように吊り上げ、うっすらと微笑んでいる。 「どうしたんだい?」 振り向いたおもてはいつものイェンスだ。 「いいえ。何も」 ヴィンセントは呼吸一つで揺らぎを隠し、足早に車へ向かった。 (了)
このライターへメールを送る