「元々この国の人間じゃないの」 移り住んできたのだと女は言った。 「知り合いも友達もいなくて。だからね、貴方達が来てくれて私も嬉しかったのよ。あの人はずっと外出ばっかりだし」 「仕事ですよ。打ち合わせに営業、自然なことです」 ヴィンセント・コール少年はティーカップを弄んでいる。女は豊かな黒髪を耳にかけながら紅茶の缶を手に取った。 「知ってるわ、私にだってそれくらい分かるわ。作家として大事な時期だもの」 ヴィンセントは答えず、ちらと腕時計に目を落とした。次いでオーブンの前に屈み込む。真っ赤な炎の下でアプリコットパイが炙られている。 「あ。そろそろね」 女の繊手が伸びてきて火を止めた。 「あと三分あります」 「余熱で火を通すの」 「余熱……」 ヴィンセントの目の前でオーブンが真っ暗になっていく。 やがてオーブンから引き出されたパイは美しいキツネ色をしていた。バターの香りの下で宝石のようなアプリコットが艶めいている。 「美味しそうだね」 パイに誘われるように男がやって来た。イェンス・カルヴィネン。女の夫だ。 「待って。今出すから」 女はヴィンセントの手に紅茶の缶を預け、食器棚の前に身を翻す。黒髪の軌跡を横目で追い、ヴィンセントは紅茶の缶を開けた。今すべきことは夫妻のために紅茶を淹れることだ。 「いや。後でいただくよ」 イェンスは慈しむように女の肩を抱いた。 「打ち合わせに行って来る」 「……どうして」 女の声がこわばったことにヴィンセントだけが気付いていた。 「先週出したプロットが通ったらしい。さっき電話があった」 「でも、イェンス」 「イェンス!」 代理人が玄関から呼ばわる。 「今行く。――じゃ、後で」 イェンスは女の髪に接吻して踵を返した。 残ったのは彼女とヴィンセント、焼き立てのパイ、それから、 「お茶にしましょうか、ミズ」 ティーセットが二客。 二組の湯気がゆらゆらと立ち上る。 「焼き加減、どう?」 「完璧です」 湯気は近付き、絡み合い、また離れながら溶けていく。ぶきっちょなワルツの踊り手のように。 ヴィンセントは少年だった。思春期の子供はしばしば年上の異性に憧憬を抱く。例えば教師にラブレターを書く生徒はどこの学校にもいるだろう。 「あの人の分、焼き直しましょうか」 女はヴィンセントの視線に気付かぬままパイ生地を練り始める。 刈り揃えられた芝生。白いポーチ。白い外壁、白いドア。イェンス宅を初めて見た時はありふれた民家だと思ったものである。しかしヴィンセントはすぐに異状に気付いた。 フランケンシュタインのように継ぎ接ぎだらけの壁紙。頻繁に買い替えられる調度品。洗面所の、美容院ばりのシャンプー台。 「階段で転んでしまってね」 おまけにイェンスはしょっちゅう生傷を作って現れる。 「あの人、どんくさいの」 と女はキッチンで言う。夫婦間の軽口だろうとヴィンセントは推測した。 「何のためにジム通いしてるんだかね」 「ジム? ミスタが?」 「ええ。脱いだら凄いってやつ」 茶目っ気のある言い方だ。ヴィンセントはイェンスの筋肉を想像しようとして、やめた。女がどこで、いかなる状況でイェンスの裸体を見たのかにまで思いが至るからだ。 夫婦なら当然のことだろう。ティーンエイジャーにだってそれくらいは分かる。 「……クッション、新調されたのですね」 しかしヴィンセントは話題を変えていた。 「いいのを見つけたものだから」 「先月買った物は処分されたのですか」 「穴が開いたのよ」 砂糖に浸かったアプリコットが鍋でくつくつと煮えている。 「粗悪品だったのでしょうか」 「どうかしら」 「今度、丈夫な品を探してきましょうか」 それはささやかな厚意。相手の気を惹くための思い付き。 「別に……どれも同じよ」 女は熱いアプリコットにフォークを突き込んだ。 「だってすぐ破れるし。ねえヴィンセント、クッション割いたことある? 中のダウンが舞って、ふふ、天使の羽根みたいなの」 フォークでこすられ、鍋がギイギイと悲鳴を上げる。 「でもただのゴミよね。ふふ。あんなにロマンティックなのに」 「……ミズ?」 「ん? なあに?」 女はようやくヴィンセントに顔を向けた。一つに縛った黒髪がほつれ、ぞろりと耳に落ちかかる。 「ねえヴィンセント。あの人、外ではどうなのかしら。例えばパーティーとか」 質問の意図を察してヴィンセントは顎を引く。寡黙な脳が瞬時に演算を繰り広げ、最適解を弾き出す。 「……ミスタはあの通りの方ですから。穏やかで、知的で」 世辞ではない。ヴィンセントから見てもイェンスは紳士だ。 「惹かれる女性がいてもおかしくはないでしょう」 そう告げた瞬間、女の唇からみるみる色が失せていった。 「じゃあ――」 「こんな話はよしましょう」 ヴィンセントは表情を隠すように背を向けた。 慣れぬ土地、夫は不在がち。一人残された女が何を感じるか、ヴィンセントにも予想はつく。 「あの人、どうして私を選んだんでしょうね……」 問わず語りに漏らされたそれは小さな疑問だった。紅茶の湯気に溶かしてしまえるほどの。 「考え過ぎです。ミスタはちゃんと帰ってくるじゃありませんか」 「私の気持ちとあの人の気持ちがイコールだと証明できる?」 やがて猜疑は不安へと膨れ上がる。 「編集のアシスタント、女なんでしょう?」 女はイェンスに異様な執着を示した。ヴィンセントから根掘り葉掘りイェンスのことを聞き出そうとした。 「どんな人? 歳は、髪型は、スタイルは? ねえヴィンセント。教えて。答えて」 「ミスタは礼節を守る方です」 「分かってる。分かってるわよ!」 爪でガラスをこするような金切り声。ヴィンセントは表情を変えぬまま途方に暮れた。肩を掴んで、抱き締めて、否、髪の一本でもいいから撫でてやりたい。だがその先はどうする。夫から奪うのか。憎からず思っているイェンスから? 「ミズ。どうか冷静に」 ただ見つめることしかできない。 「ヴィンセント、教えて。答えて。あの人、外で何をしてるの。ねえヴィンセント!」 どうしても視線が合わない。ヴィンセントの名を連呼する女はヴィンセントを見ていない。 「……アシスタントから電話番号を渡されたようです」 女の瞬きが止まる。 「どうしたんだい、二人とも」 イェンスがのっそりと顔を出す。相変わらず呑気な男だ。 「ヴィンセント、ちょっといいかな」 「はい」 イェンスの手招きに応じてヴィンセントは女の前を離れた。 「名刺が溜まってきてね。整理してもらえないか。関係者の名を覚えるのも兼ねて」 「かしこまりました」 名刺の束を受け取り、機械のように選り分けていく。やがて編集アシスタントの女の名刺が出てきた。丸っこい文字で電話番号が記されている。 「ミスタ。これは」 さりげなく確認すると、「ああ」と苦笑いが返ってきた。 「君も見ていただろう? 突き返せば恥をかかせる」 「連絡なさったのですか」 「まさか」 イェンスは安楽椅子に沈みながら眼鏡を外す。 「知っての通り、愛妻家なものでね」 緑色の目がどこへ向けられているのか、確かめるまでもなかった。 女はヴィンセントを通してイェンスの挙動を知るしかない。ヴィンセントは理知的だったが、少年だった。ただ女に見てほしくて、少しでも気を惹きたくて、情報――話すべき事と話すべきでない事――を慎重に選別した。嘘をついたのではない。ただ語らなかっただけ。ほんの小さな悪戯だ。 「ちょっと転んでね」 イェンスの生傷が増えていく。やがてイェンスは外出を避け、代理人との打ち合わせも自宅で行われるようになっていく。 「いつもお疲れ様」 女は顔に笑みを貼り付けてアプリコットパイを出してくれた。 「……壁、また張り替えたのですね」 ヴィンセントは目を逸らす。イェンスは「ん」と苦笑いした。 「傷が付いたんだ」 「傷?」 「ああ。僕がうっかり家具をこすってしまって」 「ほんとにどんくさいんだから」 女が抱くクッションはまた新調されている。背筋が不吉で粟立ち、ヴィンセントは視線を彷徨わせた。 「どうしたんだい。さ、飲んで」 イェンスが手でティーカップを示す。ワイシャツから覗く手首の上を赤黒いミミズ腫れが這っている。 「ん。ちょっとぶつけてね」 イェンスはさりげなく手を引っ込めた。ヴィンセントは青ざめた鋼のような目でイェンスを見据える。ぶつけた痕でないことくらい、子供にだって分かる。 「ミスタ」 女が席を立つのを待って口火を切った。 「失礼ですが――」 「済まない。黙っていてくれ」 イェンスはあっさり口を割った。 「一晩じゅう手錠をかけられていた。少し殴られもしてね」 ヴィンセントはひゅっと息を呑んだ。 「いいんだ。僕がいけない。僕が不甲斐ないから」 のろのろと眼鏡が外され、充血した緑眼が露わになる。 「心配させて済まないね」 イェンスはこんな時でもヴィンセントを気遣っていた。 「……相変わらずお優しいのですね」 ヴィンセントの心は鉄のように冷えていく。イェンスはあまりに愚かだ。愛妻家とうそぶきながら、己の優しさこそが妻を苦しめていることを知らない。 『どうかイェンスをお願いね』。 妻がどれだけイェンスを気遣っているのかは伝えないことにした。嘘はついていない。ただ黙して語らぬだけ。 ヴィンセントは少年で、子供だった。伝えるべき事と伝えるべきでない事を取り違えていた。 「あの人、私に興味がないみたい。いつも黙って見送るの」 「ミスタは優しい方ですから」 「違うわ。愛してないのよ!」 彼女は壊れ、狂っていき――。 「悪かった、悪かった、悪かった」 イェンスがうわごとのように繰り返している。 「不安で、怖くて、だって君はこんなに美人で、僕はただの中年で、僕たちの気持ちはイコールじゃないと思って、嫌われたくなかった、疎まれたくなかった、だから執着しないふりをして、僕は、ねえ」 真っ赤なイェンス。真っ赤な女。真っ赤な浴槽。ヴィンセントは立ち竦む。何もかもが塗り潰されている。彼女の血に染まっている。 「いくな、許さない、聞いてるかい、君は、僕だけの」 イェンスは血まみれの妻を抱き締める。彼の口許と胸元は吐瀉物で汚れていた。無理もない。ヴィンセントだって今すぐ吐きたい。胸でどろどろとしている汚物をぶちまけられればどんなに楽だろう。 「僕だけの物だ」 イェンスの指の股を女の髪がぞろぞろと這っている。 「君になら何をされても良い」 デスマスクにくちづけるたび唇がねっとりと糸を引く。 「愛している。いくな。いくな……」 ヴィンセントは動かない。動けない。自分は何もしていない、嘘だって一つもついてはいない。 どこで間違えた。何を読み違えた。 これが結果だ。 玄関が破られ、救急隊が雪崩れ込んでくる。カーテンを透かして青いパトランプが回っている。 「触るな!」 隊員を前にイェンスが咆哮した。 「奪うな」 イェンスは泣いていた。 「渡さない……誰にも……」 「……ミス、タ」 ヴィンセントの喉からようやく声が出た。震え、掠れた、声とも呼べぬ情けない音。しかしイェンスは我に返ったように瞬きをする。 「ヴィンセント」 右腕に妻を抱いたまま、血まみれの左腕が伸びてくる。避けることもできずにヴィンセントは抱擁を受けた。 「いつも済まないね」 イェンスの腕は温かで、震えていた。 「済まない。済まない。大丈夫だから」 ヴィンセントのシャツもみるみる血を吸っていく。温かい涙を受けながら。 ヴィンセントは相変わらず少年だったが、この瞬間に理解した。 イェンスの本心を。己の傲慢さと愚かさを。浅慮で立てた解と夫妻の真実がイコールではなかったことを。 真っ赤な遺体は薔薇で埋められ、棺に納められた。ガラスの棺をワイヤーがきりきりと吊り上げる。イェンスの足元には暗く深い穴が口を開けている。 「待っ」 下ろされる棺にイェンスが縋ろうとする。彼をぐいと引き戻したのはヴィンセントだった。だがこの先はどうする。慰めの言葉でもかけるのか。それとも、自分の罪を告白して懺悔するとでも言うのか。妻が死んだ時ですら自分を気遣ってくれたイェンスに。 「――今更追い掛けてどうなるのです」 全てを押し込め、鉄面皮を保つ。 許しなど乞わない。もう遅い。愚か者は愚か者として生きるまでだ。 棺に土がかけられていく。紙のように白いデスマスクが塗り潰されていく。後には風と日なただけが残り、参列者は一人二人と踵を返し始めた。 イェンスは最後までその場に膝をついていた。柔らかな盛り土を今にも掘り返しそうに見え、ヴィンセントは黙ってイェンスを促す。 「いつも済まないね……」 イェンスは憔悴した頬で微笑む。彼はこんな時でも紳士だ。 夜の帳が下り、天も地も真っ黒に塗り込められる。草木は静かにまどろみ始め、夜露を孕んでこうべを垂れた。暗闇の中に十字架がほの白く浮かび上がっている。根元の盛り土は冷たく湿り、イェンスの膝の形に窪んでいる。 さくりさくりと土を踏む足音が近付く。暗闇の中で青灰の目が開いた。青ざめて凍えた鋼の色だ。 「ミズ」 真新しい墓標の前にヴィンセントがひざまずく。 「ミスタ」 咎人のようにこうべを垂れる。胸の淀みは何一つ言葉にならぬ。吐き出す気はない。この重みこそが罰だ。 酸い胃液が食道までせり上がる。強引に飲み下すと全身が総毛立った。 『どうかイェンスをお願いね』。 芳しい声に身を焼かれる思いがする。 煉獄に落ちたらこんな心地になるのだろうか。 「かしこまりました」 業火さえ凍てつかせる双眸で騎士のように誓う。 「この命尽きるまで、全てを捧げて彼を守ります」 立ち会ったのは十字架だけだった。 (了)
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