手招くように枝垂れた薄墨の花が揺れている。 仰ぐ天にあるのは白日か、あるいは宵闇に架かる下限の月か。有るはずの天の様相は、しかし、視界を端から埋め尽くし咲き誇る桜によって遮られていた。 枝のそこここに揺れる提灯がぼうやりとした朱で景色を照らしている。風は無い。けれど花はまるで自身の意思でそうしているかのように、ひっそりと静かに揺れているのだ。 業塵は睡たげな視線を持ち上げ、頭上をも埋めて咲く桜の薄墨を一瞥する。 譬えばこれが桜でなく匂い立つ花であったならば、一帯はむせ返るほどの花気に包まれていただろう。けれど今周囲にあるのは花気ではなく、まるで雨上がりの後のような湿った土と花腐しの名残り。 耳を澄ませば届くのは、波音のようにさざめく女達の声音。笙、篳篥、横笛。雅楽が風の真似事をして桜天井を揺らしているのだ。 ――今は桜の季節であっただろうか。 考えるが、それはすぐに打ち消される。 否や。 今は夏の終わりを間近に控えた時節であったはずだ。 足許はわずかに泥濘んでいる。下駄が沈むのにも表情ひとつ変えず、業塵は迷いの素振りも見せず、まるで見知った場をすすめるような足取りで、枝垂れ桜で出来た迷途を歩き出した。 イェンスは頭上に広がる桜天井を仰ぎ眺め、小さな息をひとつ吐く。頭の中で請けた依頼の内容を反芻した。 謎の失踪者が相次いでいる地域がある。その場所の調査依頼をこなしてきてほしい。依頼内容としてはごくありふれたものだった。 同行者は業塵だった。知らぬ者と同行するよりは知った者のほうが気も楽だ。もっともろくに会話の成り立つ相手でもないのだが。 だが、現地に降り立ち、視界を埋め尽くす枝垂れ桜の内に足を踏み入れたとき、業塵は意味ありげに頬を歪めたのだ。 ――これは一興。 そう呟いた業塵に眉をしかめ、何事かと訊ねたイェンスに、業塵はひどい隈のついた眼だけをぎょろりとイェンスに向け、視線を細めて笑みを浮かべた。 これはまたとない、酒食と花の宴の場である、と。 業塵が扇子を開き口許を覆うのと同時、薄墨の花片が吹雪の如くに視界を埋めた。咄嗟に目を伏せたイェンスが次に目を開いた時、そこにはすでに業塵の姿はなかったのだ。 初めこそ惑い業塵の姿を捜しもしたが、幾度か呼ばわった後、イェンスはひとりの少女の姿を見つけた。 黒々とした艷やかな髪は肩の下で揃えられ、前髪の下、やはり黒々とした目がまっすぐにイェンスを捉えている。 朱色の着物をまとい、両手で抱え持つのは彩色の美しい鞠だ。 イェンスは少女の傍に近寄ると、どこかおどおどと人見知りをしているような少女に向けてやわらかな笑みを浮かべる。 「遊んでいるのかい?」 迷子かとは訊かなかった。手にしているのは真新しく見える鞠なのだ。もしも迷子なのだとしたら、鞠も着物もきっと汚れてしまっているだろう。 少女はイェンスの言葉に小さな首肯を見せた。 「そうか」 言って、イェンスは少女の頭を軽く撫でる。少女はくすぐったそうに目を細め、それからくるりと振り向き数歩分を小走りに進んだ。 見送ろうとしたイェンスは、しかし、足を止めこちらを振り向いている少女に首をかしげる。 「僕に、ついてきてほしいのかな?」 少女は再び小さな首肯を見せた。 敷かれた台座の上、業塵は太夫姿の女達に囲まれ、脇息に身を預けた姿勢で酒の注がれた杯を口に運んでいた。 女達は業塵をもてなしているのか、舞楽を舞い、奏している。 杯の中で揺れるのは蜂蜜色の酒だ。鼻をつくそのにおいが、それが古酒である事を知らせている。 ――古酒など、ターミナルではあまり目にする事のない代物だ。 業塵は太夫姿の女達が供するもてなしよりも、杯に揺れるそれを口に運ぶ事にこそ享楽を得ていた。 「そもじ様がわっち共に贄をお運びくだすったんでありんしょう」 女が一人、空になった杯に新たな酒を次ぐ。 女達がこの一郭を根城にする妖である事などすぐに知れた。桜はいくらでも咲くのだろう。女共に囚われた哀れな愚者共が自らの命を苗床として捧げ続ける限り。 女共は業塵にしな垂れ、上目に見つめながら喜色を顕わにした顔で紅を引いた唇を笑みのかたちにつくる。 「近頃では足を寄せる客もなかなか見えんようになりんした」 女の一人がため息を漏らす。 失踪が続く空間なのだ。人足が遠のくのは当然だろう。 業塵は女の言に応えを渡すわけでもなく、ただうっそりと目を瞬いて、注がれた酒を新たにあおる。 女共の奏する音と、舞う気配。それに舞い散る桜の花。さざめく女共の密やかな笑い声が耳に触れて流れていった。 女共が日頃餌食にしているのは人に類する者ばかり。しかし今新たに迷途に踏み入って来たこの男は人に非ざる者。歓待を続けながら、女共は視線だけを密やかに交わし合う。 眼前にいる男もまた我らと同じ妖に類する者。この迷途が人足を寄せ、贄を招き、屠り喰らう事の出来る場である事も、男はとうに理解しているだろう。 この地に居座り、人を喰らうのが目的なのだろう。女共はそう判じたのだ。見れば、男は女共とは格もまるで異なる強者。真っ向から試したところで返り討ちに合うのがせいぜいだ。 ならば、油断させて殺めるのが正答であろう。酒ならば幾らでもある。酒など幾らでも振る舞える。 人の肉は格別な美食。だが物の怪は滅多に楽しむ事の出来ない珍味。まして眼前にある男ほどの強者ともなれば、それはまたとない格別な珍味であろう。 女共は笑いさざめく。桜がちらちらと舞った。 少女に案内をうけ、イェンスはやがて台座の敷かれた一郭へとたどり着いた。そこには業塵がいて、悠然とした風体で杯をかたむけている。 業塵の名を呼ばわろうとしたイェンスは、しかし、業塵が寄せた視線をうけて口をつぐんだ。 そこにいるのは見知らぬロストナンバーではない。よく知る男の姿なのだ。ゆえにイェンスは業塵の言わんとしている事も知れた、ような気がした。 二人が知己である事が知れぬ方が良いのだろう。業塵には業塵の考えがあるのかもしれない。 業塵の頬がわずかに歪み持ち上がった。 桜が舞う。 「そもじ様にも心に決めたお方がおりましょう」 太夫がイェンスの傍に擦り寄る。酒を杯に注ぎながら、ゆるりと耳元で囁きかけるように口を開けた。ぬらりとした湿り気を共だった女の声がイェンスの記憶を揺らす。 「心に決めた、」 女の言葉を反芻するイェンスに、女はゆっくりと首肯した。黒々とした眼光がイェンスを仰ぐ。この目の色は、つい先ほど見つけたあの少女のそれと同じ。 イェンスは想う。死んだ妻の美しい姿態を。 同時、桜の花が渦を描き視界を埋めた。 雅楽が耳の奥で渦を巻く。 「ねぇ、イェンス」 名を呼ばれ、イェンスは視線を上げた。 「グィネヴィア」 名を呼ぶ。 眼前にいるのは喪って久しいはずの愛しい妻だ。妻はイェンスに名を呼ばれるとくすぐったそうに微笑み、イェンスの肩に頭を預け、もう一度ゆっくりとイェンスの名を呼ぶ。 「逢いたかったわ」 妻の声は、まるで寄せて返す波のようだ。波を伝い、耳の奥に届く。瞬時に高熱を出したような心地を覚えて、イェンスはわずかにかぶりを振った。それからもう一度妻の顔を検める。 まるで少女のような表情を浮かべながらイェンスの目を覗きこむグィネヴィアに、イェンスは目を細める。 「今度こそ私を見てくれる?」 妻が問う。イェンスはわずかに身を震わせた。 イェンスを見上げる妻の顔は変わらず美しい。 妻が焼いたパイのかぐわしい香りが鼻先をかすめたような気がした。妻が微笑む。 「今度はずっと私と一緒よね?」 イェンスも笑った。一抹の情もこもらぬ笑みだった。妻の華奢な肩を引き寄せ、睦言を交わし合うほどの距離にまで唇を寄せてゆっくりと言を紡ぐ。 「貴方の傍に居続けなくてはならない理由がどこにある?」 妻がわずかに目を見開いた。 「イェ」 「彼女は貴方などよりもっとはるかに美しい」 名を呼ばれるのを遮って、イェンスは目を三日月のかたちに歪める。 「大儀であった!」 業塵の声が凛と響き、イェンスは顔を持ち上げた。 台座の上、業塵は今まさに杯を打ち捨てているところだった。台座に捨てられた皿が音をたてて割れる。 雅楽の音がひたりと止んだ。桜の薄墨が轟と渦を巻く。舞っていた女共が動きを止め、割れた杯を検めた後に業塵に視線を寄せた。 業塵は寄せられた視線を意に留める事もせず、手近にいた女の腰を引き寄せて喉を鳴らす。 「儂のための酒食の場、設けてくれた行為。実に大儀であった。褒美は無いが致し方あるまい」 女は刹那驚きに満ちた顔を浮かべたが、すぐとりなすように破顔させた。 「そもじ様、はて、酔狂な」 「儂の預かり知らぬ地の同胞よ。せめて儂の血肉となる事を赦してやろう」 業塵の顔が昏い笑みで満ちる。 笙を担っていた女が道具を捨て走り出す。続き、雅楽を奏していた女共が方々に走り出し逃げ惑い始めた。 「カ、カカカッ!」 業塵が嗤う。女の一人を引き寄せたまま、扇を広げて大きく揮った。 薄墨の渦が一転、黒い霧に――蟲共によって侵食される。女共が細い悲鳴を方々であげる。枝垂れた桜が歓喜に、あるいは恐怖に震えるようにさわさわ音をたてて揺らいだ。 それは誰の目にも明らかに一方的な弑殺だった。女共が端から余さず蟲に降されていく。 業塵の腕の中、イェンスの腕の中。太夫姿の女がそれぞれに身を硬直させていた。目を見開き、消失していく女共を食い入るように凝視している。 黒い霧はひとしきり薄墨を侵食すると、再び業塵の扇子の中に戻っていった。 「業塵、君は」 桜の迷途が消えている。上空に現れたのは墨を撒いたような夜の空だ。 「僕を囮にしたね?」 「大儀であった」 イェンスの言葉に、業塵はばさりと扇子を鳴らす。次いで窪んだように見える双眸だけをぎょろりと移ろわせ、間近に残る女の顔を見やって頬を歪めた。 「所詮、儂の腹を満たすための酒食と花よ」 ゆっくりと言い聞かせるように囁く。 女の顔が畏れに歪んだ。 「僕を困らせて楽しんだね?」 イェンスは業塵に問う。業塵はいつもと変わらず、睡たげな顔でぼんやり歩いていた。 応えなど返ってくる事はない。知れている。業塵は空腹を満たしたのだ。今はただ、一刻も早く惰眠を貪りたいのだろう。 イェンスはうつむき小さく笑った。 ――今度はずっと私と一緒よね? 訊ねたあれは妻ではなかった。口をついた応えは素直な感想に過ぎなかった。 だが。 「焼きたてのパイの匂いがしたんだよ」 落としたそれも独り言に過ぎなかったが、業塵はわずかに視線を向けてよこした。むろん、言葉があるわけではなく、ただそれだけだったのだが。 イェンスは闇色の空を仰ぐ。月も星もなく、ひっそりと静まり返った夜がそこにあった。 風が吹き、草を薙ぐ。さわさわと波が寄せる音に似た気配だけが広がっていく。
このライターへメールを送る