ターミナルは画廊街の端に、『知る人ぞ知る』と言った風情でひっそりと佇む、小さな映画館が在る。 普段は壱番世界の名画や異世界で手に入れたフィルムなどを気紛れに上映しているだけの、まさに道楽商売と言った様子の運営だが、時折――やはりこれも気紛れに――“シネマ・ヴェリテ”と称して特別営業をする日が設けられていた。 その日、初めに訪れた一人だけを相手に、フィルムを回すのだと云う。 ◇ 映写機の稼働する、乾いた音が響く。 暗闇の中、銀幕をじっと見据える目が二つ。 光のあてられたスクリーンにはただノイズのみが映り込み、一向に映像を結ぼうとしない。それを訝しく思いながらも、この日ただ一人の客は視線を逸らさなかった。スクリーンの向こう側に何かを求めるように、眼を凝らして。 ふっ、と、銀幕を照らしていた光が遮られる。「何か、見えたか?」 それと共に、映写室から声が届いた。窓越しに振り返れば、ひとりの男が微笑みながら観客を見下ろしている。傍らには稼働を止めたクラシカルな映写機が見えて、男はその管理――映写技師をしていたのだろうと知れる。「見えないだろう。何も映していないんだから」 試すような事をして済まなかった、と、客席への扉を潜りながら男は言う。「うちのフィルムは特別製でね。“観客”が触れなければ、何が映る事もない」 客席の照明をいったん点ければ、白熱灯の光が部屋を照らし、先程までノイズを映していた銀幕は味気ない白へと変わる。 男は部屋の隅に置かれていたテーブルを客席前へと引っ張り出して、席の中ほどに座るただ一人の客を見上げた。「フィルムの色を選んでくれ。色によって、何が映るかが変わってくるから」 そう言って指し示されたテーブルの上には、五本のフィルム缶が並んでいた。「青のフィルムは《追憶》。君が経験してきた記憶を映し出す。美しい景色、やさしい家族、愛しい誰か、ひとえに記憶と言っても様々な容があるだろう。ひとときの郷愁に浸ると良い」「赤のフィルムは《断罪》。君が自覚する罪を映し出す。……《断罪》である以上、その映像は君の知るものよりも幾分か苛烈になっているのかもしれないが。――己の罪と向き合う勇気はあるかい?」「黒のフィルムは《変革》。君が“変わった”――つまり、覚醒した前後の映像を映し出す。ツーリストならディアスポラ現象、コンダクターなら真理数の消失だ。そこに何があったのかを、もう一度再現してくれるだろう」「金のフィルムは《希求》。君が望むものを映し出す。求める何か、逢いたい人物、待ち侘びる未来――実現するしないに関わらず、君が思う通りのものを見せてくれるだろう」「白のフィルムは――……何でもない、何かだ。“観客”によって映すものを変える。君に深く関わる何かかもしれないし、或いは全く関係のない何かかもしれない。自分の事など興味がない、と言うのであればこのフィルムを視てみるかい?」 しばしの逡巡の末に、観客が一本のフィルムを手に取る。――その刹那、空白であったはずのフィルム缶のラベルテープに、確かに名が刻まれたのが見えた。 映写技師の唇に、微笑みが浮かぶ。「さて、御客様。心の準備はお済みですか?」 そして、ケレン味溢れる仕種で御辞儀を一つ。 さながら活動弁士の前口上のように、こう謳うのだ。「シネマ・ヴェリテは貴方だけの映画をお見せします。何が映るかは貴方次第。さあ、上映と参りましょう――」
「……この色ですか?」 イェンス・カルヴィネンが迷わず選び取ったフィルムに、助手は意外そうに目を見張る。ひと当たりのよい温和な物腰の紳士は、穏やかな笑みを返して、席についた。 赤い雷鳴がとどろく。 いや、それはノイズだった。 銀幕を切り裂いて、ノイズは鮮血のようにほとばしった。 《 幸 福の 護 り 》 浮かび上がるタイトルは、滴る血で壁に記したメッセージさながらに、忌まわしくかすれ、歪んでいる。 なのに何と甘くやさしく、美しい響きだろう。呪いと祝福の輪舞のようだ。 僕は、君だけのもの。 だから、だから君も……。 映し出される映像は、結婚して間もないころの、新緑のなかでの朝食。 折りたたみ式の窓を全開にすれば、テラスとダイニングエリアはひと続きになる。光あふれるテラスの向こうに広がるハーブガーデン、白いテーブルクロスに並ぶ素焼きの皿には、焼きたてのパンと新鮮なバター、木苺のジャム。 こぼれるような妻の笑顔が、逆光に奪われていく。 白い耳朶(みみたぶ)をいろどるサファイアのピアス。貞節を意味する青い宝石。 それは、イェンスが贈ったものだ。もし不義をおかしたならその青は曇るのだと、冗談めかして言いながら。 僕だけが、妻を愛している。 だから、誰も妻を見るな。触るな。話しかけるな。僕だけのものだ。 何でも君の好きなようにすればいい。 僕は君を束縛したりしない。だって、嫌われたくないんだ。 だから、だから。 僕だけを愛して。 それなのに。 金と青のノイズが、蜘蛛の巣のようにじわりと広がった。 こころをえぐる追憶は、鑑賞者であるはずのイェンスを、画面のなかのイェンスと同化させる。 妻が、美しくなっていく。 思わせぶりなため息と、行き先を告げぬ外出が多くなっていく。 爪を赤く染めずとも、薔薇の香水に身を纏わずとも、艶やかな黒髪を流行のかたちに変えずとも、もともと美しい女だったのに。 そうだ。 僕は自覚していた。妻への異常な独占欲を。 だけど押さえていた。押さえなければならないと思っていたから。 嫌われたくない。傷つけたくない。彼女の愛を失いたくない。 だったら自分を押し殺せば良い。彼女のために、彼女のために。 埋み火のような魔物を、飼い殺しながら。 ある日、そのピアスは、鳩の血のいろをしたルビーに変わっていた。 「――さんから、いただいたの。わたしを崇拝している、なんて仰って、おかしなかた。ちょっと強引だけど楽しくてお話上手で素敵なかたよ。……かまわないでしょう? サファイアもルビーも、同じ宝石ですものね」 これ見よがしにそう言って、妻は、ルビーのピアスの贈り主とのただならぬ関係を匂わす。 「……そうだね。とても似合うよ」 「そう?」 「ああ、とても綺麗だ」 「今度はお揃いの指輪をくださるのですって。受け取ってもいいかしら?」 「ご厚意はお断りしたら失礼だよ」 「……そう。あなたが構わないなら、そうするわ」 何でも君の好きなように。君を束縛したりしない。嫌われたくないんだ。 だから、僕だけを愛して。 ディナーの用意をしましょう、と、キッチンに立った妻が、ワインオープナーを投げつけ、ワインを注いだデカンタを叩き割ったのは、そのときだ。 赤ワインの飛沫を、妻は返り血のように浴びている。 「あなたは平気なのね? わたしが他の男と寝ても」 「……君……」 「どうして問いつめてくれないの。どうして『この売女』って罵ってくれないの。そんな男のどこが良いんだって、怒ってくれないのよ!? わたしのことなんて、どうでもいいんでしょう?」 割れたデカンタの破片が、イェンスの頬に飛ぶ。驚くほどに熱い血液が、切り傷から流れる。 君は、僕だけのもの。僕だけが君を愛している。 君が与えてくれるなら、僕だけに向けるものなら、それが暴力でも嬉しいんだ。 痛みさえ、甘く僕を痺れさせる。 だけど、 ああ、ああ、ああ、 よくも他の男と! 恥知らずな女め! あんなに自由にさせたのに、何でも買って、何でもいうことを聞いたのに、僕は決して君に抗わなかったのに。 僕は君だけを愛していたのに。 ああ、アーサー王を裏切ったグィネヴィア! 君は王妃のように、僕を裏切った! ――幸福の護り。 知っているさ。ああ、知っているとも。 それは、城の名前だ。 王妃グィネヴィアと、その不義の相手、騎士ランスロットが閉じこもった城の名前。 アーサー王が、その城を落とせなかったことも。 ああ、ああ、ああ、 許さない。 愛していたのに、心から君だけを愛していたのに。 僕は君しか見ていなかったのに。 許さない。僕のものだ僕だけのものだ許さない誰にも渡さない許さない許さない僕を裏切り許さない許さない畜生許さない決して許すものか 何度も何度も妻の頬を打ち、やがて―― 我に返る。 そして、詫びる。 「殴ってごめん。僕が悪かった」 「あなた……」 妻の瞳に、虚無と絶望が浮かぶ。 夫は、自己完結してしまった。 殴られながら安堵していたのに。 やっと自分を見てくれたと。やっと本音をぶつけてくれたと。 なのに。 映像は変わる。妻の指にはルビーの指輪が光る。 よくも裏切ったな。 許さない。 ――殺してやる。 哀しい、すくいようのない、暴力の応酬が続き、やがてフィルムは、ふつりと途切れた。 愛しているのに。愛しているのに。愛しているのに。 ◇ 銀幕が何も映さなくなっても、イェンスは微動だにしない。 助手の気遣いか、明かりはしばらく、点かなかった。 ◇ 今なら、思える。 妻の不貞は、演技だったのではないかと。 青いピアスは、曇ってなどいなかったのではないかと。 自分が、妻を追いつめた。妻も、夫を追いつめた。 ならば、自分たち夫婦は、同じ過ちをおかしたのだ。 どうするべきだったのか。どうすればよかったのか。 盲目的に愛情深かった一途な妻の思いを、今なら理解できるものを。 王妃グィネヴィアは、本来、名前だけしか現れていなかった人物のはずだ。 彼女にキャラクター性を与え、円卓の騎士ランスロットとの不倫要素を付加したのは、後世の作家たちではなかったか。 まっさらな王妃と高潔な騎士に、アーサー王を裏切る罪を犯させたのは――誰だ? もう詫びることさえ、できないけれど。 ずっと、君を愛している。 罪から目を背けずに生きよう。自己憐憫も自己弁護も逃避も、自分に許さないままに。 愚かしい似た者夫婦の、それが、《断罪》。 ◇ 声をかけたものかどうか、助手はおろおろと迷っている。 恋も人生もこれからの、まだ若くかわいらしい娘だということに、改めて気づく。 「……君は、好きなひとが、いるかい?」 「え? あ……、は、はい」 頬を真っ赤にして、助手はうつむく。 「その……、片思い、ですけど」 「そうか。……大切にするんだよ」 このフィルムは持ち帰るよ、と、イェンスは微笑んだ。 断罪の赤。 罪を、忘れないために。
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