迷宮から抜け出すには注意深く飛ばなければいけないよ。低きを進めば霧に捕われ、高みに昇れば太陽に焼かれてしまうから。 天と地の間を慎重に、根気良く進むのだ。 バランスひとつ誤ればあっという間に墜ちてしまうよ――。 青年は煉瓦の床に這いつくばり、何かを拾い集めていた。青。黄。緑。赤。色彩の欠片のような羽根が散らばっている。青年は、落ちている羽根で翼を編もうとしていた。 「足りない」 青年は瞳を伏せて呻いた。満月の、蒼白な光が青年の背中を冷やしている。ここは塔の最上階だ。滑らかな円窓のみが外界と青年を繋いでいる。 「足りないんだ」 今はこれ以上の羽根は手に入らない。手近な物で間に合わせるしかない。青年は燭台の蝋燭に火を点し、作りかけの翼の上に垂らした。涙のように滴る蝋は、瞬く間に固まって羽根どうしを繋いでいく。 暗闇の底で青年は翼作りに没頭した。迷宮のようなこの塔から抜け出すには窓から飛び立つしかない。 チチ、チチチ……。 可憐なさえずりが払暁を告げる。振り返ると、窓辺に止まった青い小鳥がぽろりと何かを落とした。 いびつで不完全な真珠だった。 青年は真珠を拾い上げ、吸い寄せられるように窓辺に近付いた。青い鳥が逃げていく。青年は窓から身を乗り出して外を俯瞰した。明け方の霧が世界を隠蔽している。 銃声が霧を引き裂いた。 弾丸は残響の尾を曳き、白い闇に呑み込まれていく。 「……外したな」 ジョヴァンニ・コルレオーネが耳を澄まながら呟く。傍らで、双子の兄が舌打ちしながら猟銃を構え直した。 「もう一度だ」 兄はやみくもに照準を合わせようとしている。ジョヴァンニ青年は眉を顰めた。銃の先には濃密な霧が広がるばかりだ。 「引き上げよう、兄さん。この視界では厳しい」 「――何だと?」 兄の視線がジョヴァンニを突き刺した。 「俺に指図するのか。何様のつもりだ」 ジョヴァンニは詫びることもできずに顎を引いた。血走った兄の眼は、狩りの不調に苛立つ猛獣そのものであった。 兄の不満と不機嫌は今に始まったことではない。兄弟仲もずっと前からぎくしゃくしている。ジョヴァンニは原因を知っていた。恐らくは、兄も。 霧の緞帳を銃声が揺さぶる。二発。三発。十発近く撃ったところで兄はようやく猟銃を下ろした。そしてジョヴァンニに向かって言い放った。 「運が良かったな」 ジョヴァンニはひょいと眉を持ち上げた。音を聞く限り、兄の弾はすべて外れた筈だ。 「獲物が命拾いしたということだ」 兄は意味深な言葉を残して背を向けた。 迷宮の塔で青年は翼を編み続ける。もっと。もっと羽根が欲しい。 小鳥は夜明け前にやって来ては真珠を落としていった。どれもこれもが型崩れの、バロック真珠と呼ばれる類の物だ。 円かな月が欠けていく。翼は未だ完成しない。 「足りない」 青年はいつかのように呻いた。 チチッ……。 小鳥がやってくる。朝が近い。明け切らぬ天は、小鳥も青年もサファイアブルーに染め上げている。 青い鳥の嘴から、雫のように真珠が落ちた。やはりバロック真珠であった。 青く染まったいびつな珠に青年はふと瞳を揺らす。 パールのネックレスを贈ったら女は喜んでくれるだろうか。 幸せの青い鳥が飛び去っていく。青年の翼は小さく、外界の霧は未だ晴れない。 朝靄の中から帰還した兄弟に女は眉を顰めた。兄弟の髪はしっとりと濡れ、頬に張り付いている。 「風邪を引いてしまうわ」 女はスカートを翻し、タオルを取りに走った。滑らかな足取りに惑いは見えない。ほっそりした背中を見送り、ジョヴァンニは密やかに息をついた。 「すっかり板についている」 呟いた後で、慌てて口をつぐむ。心の断片が唇から滑り落ちてしまった。それを察したのかどうか、兄は鼻で笑った。 「当り前だろう。この家の妻になる女だぞ」 女がタオルを手に戻って来た。柔らかな白布が兄に、次いでジョヴァンニに手渡される。ジョヴァンニは努めて無造作に鬢を拭った。途端にふんわりとした香りに包まれ、手が凍りつく。不意打ちの芳香はどんな香水よりも甘美に胸を揺さぶった。 「ジョヴァンニ。何かまずかった?」 女が気遣わしげにジョヴァンニを見上げている。優しい瞳。柔らかな声音。まぎれもない親愛の証。 「木偶にも気を使ってやるのか。ルクレツィアはまるで聖母だな」 兄が鼻で笑う。ルクレツィアと呼ばれた女は朗らかに微笑んだ。 「だって義理の姉弟になるのよ。ねえ?」 美しい笑みはジョヴァンニへも平等に向けられる。 「行こう。着替えを手伝ってくれ」 兄は無造作に女の髪を撫で、所有の証のようにして抱き寄せた。絹糸のような髪の毛からタオルと同じ香りが立ち上り、ジョヴァンニの前でほどけていく。 美しい女だ。 このまま時が止まれば良い。せめて残り香が消えぬように。 ――それで満足する筈だと、懸命に自分に言い聞かせ続けている。 キィ……ン。 氷の粒のように真珠が落ちる。煉瓦床を転がり、青年の膝にぶつかって止まる。青年は真珠を拾い上げ、テグスに通していった。蜘蛛の糸のようなテグスにバロック真珠が連なっている。 もう少し集めればネックレスになるだろうか。蝋で固めた翼ももうじき完成する。だが、あと少しだけ羽根が足りぬのだ。 軽やかな羽ばたきと共に青い鳥がやってくる。いつものように舞い降りた小鳥は、歪んだ真珠をぽとりと落とした。 「これだけか」 青年は小鳥に問うた。夜明け前の青の中で小鳥はただ首を傾げた。 「これだけか?」 青年の語気が珍しく荒ぶる。幸せの青い鳥は再び首を傾げる。 「足りないんだ。もっとくれ」 鳥は答えない。 「どこから持って来るんだ」 沈黙。静寂。 「もっとよこせ!」 青い鳥の前で、むき出しの怒声だけがこだまする。 太陽の気配がじりじりと迫り、青い世界が煮詰められていく。青年は苛々と鳥に背を向けた。作りかけの、まだらで継ぎだらけの翼が目に入る。せめてこの翼が完成すれば真珠を探しに行けるかも知れない。 青年はのろのろと振り返った。視線の先で、小鳥が青いシルエットとなってわだかまっている。 「よこせ」 ヂッ、と小鳥が悲鳴を上げた。青年の手が蛇のような勢いで小鳥を鷲掴みにしたのだ。青年は一息に鳥を締め上げた。鳥は羽毛を撒き散らしながら痙攣し、やがて動かなくなった。 手の中の熱が引いていく。 キィン、キィン、キィン。鳥の瞼からいびつな真珠が次々と転がり落ちる。鳥の死骸が、青年の手の中で泣いていた。 青年の唇がのろのろとめくれていく。 「……簡単じゃないか」 こうやって手に入れれば良かったのだ。 バロック真珠はテグスで編んだ。手作りの翼は、鳥の死体から羽根をむしって完成させた。 地平線から太陽が生まれ、真っ白な朝日が暗闇を追い立てる。 青年は息を呑んだ。 小鳥の羽は純白だった。鳥は、明け方の青い闇に染まっていただけだったのだ。 しかし青年は振り返らなかった。今更どうにもならぬ。継ぎ接ぎだらけの蝋の翼を負い、イカロスのように飛び立った。 思慮深く飛ばねばならぬ。大地の霧に呑まれぬように。天空の炎に焼かれぬように。 純白の薔薇が朝霧に煙り、こうべを垂れている。憂鬱に濡れた花弁をひと撫でし、ジョヴァンニはようやく立ち上がった。兄が待っている。狩りの供を務めねばならない。 身の回りの準備は兄の婚約者が整えてくれた。 「気をつけてね」 微笑と共にハンチング帽が差し出される。ジョヴァンニはアイスブルーの瞳を揺らした。胸が焼かれる思いだった。 きっと、この身は地獄に落ちるだろう。既に辺獄に片足を突っ込んでいる。これ以上進めば煉獄で焼かれよう。 今ならまだ引き返せる。まだ間に合う。 「……ルクレツィア」 それでも感情は止まらない。 「どうしたの?」 目の前の女はあまりに美しい。このまま時が止まれば良い。この笑顔を見つめ続けられるように。 ――それだけで良いのかと身の内が粘つく。 それで足りるのか、と。 「いいや」 ジョヴァンニはゆっくりとかぶりを振り、心を凍らせた。 「いつもありがとう。行って来るよ」 軽やかに帽子を受け取り、背を向けた。 二頭の馬が霧中を駆ける。獣の吐息は熱く、霧よりも濃い。兄はしきりに馬の腹を蹴る。負けじとジョヴァンニも手綱を繰る。 狩り場に着き、馬を木に繋いだ。駆け足の興奮が止まぬ馬はしきりに土を蹴りつけている。 「どうだ。たまには競わないか」 猟銃を担いだ兄は不敵に笑った。 「俺と貴様と、別々に動こう。どちらが多く獲物を仕留めるか勝負だ」 「危険だ」 ジョヴァンニは冷静に反対した。この濃霧では誤射を招きかねない。 「逃げるのか。負けるのが怖いんだろう?」 兄はせせら笑いながら白い闇の奥に消えていく。 生き物のように霧がたゆたう。馬の鼻息が静寂を揺さぶる。 青年は注意深く羽ばたいていた。天と地の中間を選び、慎重に渡っていく。背筋を冷たい汗が伝う。少しも乱れてはならない。均衡を保つには全神経を集中させねばならぬ。 この翼でどこに行くのだろう。どこまで飛べば彼女にまみえるだろう。永遠に天地の狭間を彷徨わねばならぬのか。さりとて昇れば焼かれてしまう。墜ちれば潰れて死ぬだけだ。 外もまた迷宮ではないか。 動揺がわずかに体を震わせ、翼が傾いだ。眼下の霧が迫る。墜ちる。 霧の中から黒光りする筒が飛び出した。猟銃だ。青年はアイスブルーの眼を見開いた。霧の中から、ジョヴァンニ・コルレオーネと同じ顔の男が狙っている――。 銃声が霧を引き裂いた。 イカロスは撃たれ、まっさかさまに墜ちていく。 刹那、青年の呼吸が止まった。撃たれたのは青年ではなかった。青年の後ろを危なっかしく飛んでいた、青年と瓜二つの男だった。 ジョヴァンニは呆然と兄の棺を見下ろした。 「どうして。どうして……」 兄の婚約者が棺に取り縋って啜り泣いている。 兄は無謀運転の末に死んだということになっている。ジョヴァンニを支持する勢力が勝手に仕組んだことだ。ジョヴァンニは兄の陰になるよう努めてきた。兄と彼女の幸せを願い続けていた心に偽りはない。 だが、兄がいなくなればと考えたことは一瞬たりともなかっただろうか。 「ジャンカルロ」 女は兄を呼び続けている。姿かたちも、遺伝子までもがジョヴァンニと同じ男の名を。 兄と彼女は政略結婚で結びついていた。この女の家柄はコルレオーネ家に必要だ。完璧で正当な理由だった。 「ルクレツィア」 唇を濡らす熱を隠し、華奢な肩にそっと手を置く。肩にこぼれる絹の髪が震える。 「君を幸せにする……兄さんの分まで」 彼女がゆっくりと振り返った。宝石のような瞳から次々と涙が転がり落ちていく。女の涙は真珠のようだと人は言う。ならば、彼女の涙はバロック真珠のごとく千々に乱れていただろう。 それすら美しいと、ジョヴァンニは密やかに高揚した。 青年は老い、ひとり時を止めた。 彼は今なお飛び続けている。イカロスの翼で、永遠に。 (了)
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