ロストレイル13号が0世界のターミナルを出立したのは数日前のこと。良くも悪くも0世界に新しい波がもたらされようとしているのは明確だ。 変容は様々なものをもたらす。何より、ワールズエンド・ステーションが発見されれば、真理数を無くしロストナンバーとして覚醒を迎えた旅人たちも、あるいは自分の郷里に帰還することが出来るようになるかもしれないのだ。 ざわめく0世界の中、その一郭にある小さなチェンバーの中で、ロウ ユエはぼうやりと座っていた。 管理不在のまま放棄されているチェンバーは案外と数多く存在している。世界図書館が一応の管理はしているようだが、中には一般に開かれ、半ば公園のような使われ方をしている場所も少なくはない。 ペルシャ庭園の様式を模した水路、水路に沿って設けられた噴水。植樹された草木の緑は鮮やかで、降り注ぐ陽光はのどかな春のそれを彷彿とさせるもの。 水路の傍に広がっていた芝の上に腰を落とし、水色の空を仰ぎ見ながら何事かを思案していたユエの後ろ、ヒイラギが姿を現したのは、ユエがこのチェンバーに足を踏み入れてから半刻ほど過ぎた後のことだった。 「ユエ様、ここにおいででしたか」 言いながら芝の上に膝をつくヒイラギを一瞥した後、ユエは紅玉のような双眸をちらりと動かしてヒイラギを検める。 「捜しました」 視線を重ねて微笑むヒイラギに、ユエは肩で息をしながら返す。 「わざとらしい」 本当は捜すまでもなく、ユエの居場所は大概把握しているはずなのだ。何しろこの生真面目な従者は、ユエの命令がなくとも常に付き従っているのだから。 ヒイラギは静かな笑みを浮かべたまま、コーヒーをいれたタンブラーをユエの前に差し伸べる。 「座っても良いですか?」 「好きにしろ」 「では」 言葉を交わした後、ヒイラギはユエから幾らか距離を取った辺りに座り、自分用に用意したコーヒーを口にする。本来ならば主より先に飲食するのは言語道断。だが、今この場では、ユエの従者はヒイラギより他にいない。毒見役をかねてしまうのは、もはや癖なのかもしれなかった。 心地よい風が吹いている。 しばしの間そうして黙していたヒイラギが、「そういえば」と思い出したように口を開けた。 「先般耳にした話ですが、北極星号の出立以降、ちょっとした気鬱を抱えてしまう方が続いているそうです。医務室を訪ねる方も増えたようですし、中には教会に足を運ぶ方も少なくはないとか」 「教会?」 「告解をするためかと思われます」 「なるほど」 言い終えた後、一拍の間を置いて、ヒイラギは主の横顔に目を向ける。 「ユエ様もいかがですか?」 「何がだ」 「医務室や告解室の訪問です」 「なぜ」 「深い意味は特に。気分転換というよりは、もっと気軽に」 「どちらにも今は用がない」 にべもない応えを述べて、ユエはそれきり口をつぐんだ。ヒイラギはコーヒーを口に運び、喉を潤してから言葉を続ける。 「……ここ何日かずっと、お休みの間うなされておいでなので」 「また俺が寝ている間、部屋を覗いてたのか」 「覗いてはいません」 きっぱりと返してかぶりを振るヒイラギに、ユエの片眉が跳ね上がった。覗きはしていない、だが聞き耳は立てているということか。 何か言い返そうと思って口を開きかけ、しかしユエはそのまま口をつぐんでコーヒーを口に運ぶ。そうして小さな息を落とした後、 「これは独り言だ」 と断りを挟んでから言葉を紡いだ。 「北極星号が朗報を持ち帰れば、いずれ俺たちの郷里も見つかるかもしれない」 「ええ」 「帰属など、夢物語のようなものだと思ったときもあった」 郷里を放逐された自分たちが再び郷里の地を踏む日が来る。それはロストナンバーたちの中のほとんどが夢に見ているものではないのだろうか。しかし、世界群など果たしていくつあるものかもしれない。砂漠の砂の中に落ちた砂金を見つけるようなものだ。――そこには諦念にも近いものがあるばかり。 けれど、ワールズエンド・ステーションが見つかれば、その砂金を見つけ出す術が手に入るのだという。むろん、ワールズエンド・ステーションが無事に発見されるかどうかは分からない。それでも、少なくとも旅客たちは大きな可能性を手にしたのだ。 真理数を無くし、郷里から放逐された後、やはり同じようにロストナンバーとしての覚醒を果たしていたヒイラギ。再会を果たした後、ヒイラギは郷里にいたときよりも一層強く、ユエの傍でユエの面倒を見ている。 もしもふたりの郷里が見つかったら、ユエはその時おそらく迷うことなく郷里への帰属を選ぶだろう。郷里にはやり残していることも多くある。戦況の行方や仲間たち、養い子。皆の安否も心配だ。――だが、それはユエ個人の選択であって、ヒイラギにはヒイラギの選択があるのだ。ユエの従者だからと言って、何も必ずしもそれに合わせる必要などない。 けれど、ユエには奇妙な確信がある。 ヒイラギはユエが郷里に帰ると言えば必ず同行して帰属を選択するだろう。だがそれは同時に、ユエのために命を賭し、場合によっては死という末期が待つ道を選択させてしまうことにもなるのだ。 ――死なせたくなどない。もう、これ以上。 「……ヤナギは」 「は」 「ヤナギは俺のために死んだのだろう」 口にした名前。――幼い時分からユエの従者として傍に立ち続けてくれた男。そうして、 「兄が、ですか」 「ああ」 低く、呻くようにうなずいた。 ヤナギ。双子で生まれた、ヒイラギの兄。 双子が守るは主であるユエの命。そしてその務めをより確実にこなすことが出来るよう、双子はそれぞれに有する異能継承の儀を執ったのだ。 ――異能継承。相手の心臓を喰らうことで、相手が有する能力をそのまま己のものとすることが出来る。 ヒイラギはヤナギの異能を取り込むことで、より一層強力な力を身につけたのだ。 ヒイラギの内にはヒイラギ本人の忠心の他、ヤナギの願いも色濃く残されている。主であるユエを守るためならば、ヒイラギはなんの迷いもなくその命を差し出すだろう。 けれど、 「ユエ様。ヤナギを殺したのは俺です」 ユエの悲痛に、ヒイラギが大きくかぶりを振った。 「わかっている。……俺のためなのだろう」 「いいえ、それは違う。違います、ユエ様。――あれは俺が」 勢いのあまりに口をついた告解。 幼いころから兄と共にユエの身辺の警護や世話役を務めてきた。けれど双子とはいえ、性格は驚くほどの差異があった。 生真面目で融通がきかず、頑なであることしか出来ない自分。対して人当たりも良く、柔軟で明朗とした性格であった兄。ユエがヒイラギよりもヤナギと共にあるのを良しとしていたであろうことは重々承知していた。 兄に嫉妬していた。ユエと友人のように親しく軽口すら交わしている姿を見るにつけ、心の中で得体の知れぬ感情が沸き立っていた。 だから、あの日――死に瀕していたヤナギの願いを聞き届け、その心臓を喰らった時。当然、胸が抉られるように悲しかった。つらかった。あれ以来、肉を口にするのにも躊躇してしまうほどの衝撃だった。 だがその反面で、妙な安堵もあった。 これでユエを占有することが出来る。 ユエと肩を並べ、気の知れた友人のように軽口を交わし、ユエの命を守る盾となり、常に傍に身を置くことが出来る。――ヤナギのように。 明かした告白を耳にして、ユエはわずかに驚いたような顔をしていた。 我に戻ったヒイラギは刹那顔を蒼白とさせる。 ユエから視線を逸らし、目を泳がせた後、当て所なく周りを見回してからうつむいた。 ――勢いのあまり明かしてしまった己の心。 醜い嫉妬や羨望、あらゆる感情がない交ぜとなって泥ついた心の底。 決してユエには知られることのないようにと願い、己の深い場所に沈め続けてきた醜悪な記憶。 ――知られてしまった。 ユエは沈黙したままだ。その沈黙が一層怖ろしい。反応を知るのが怖ろしい。――今のユエの顔を、そこにあるであろう表情を見るのが怖ろしい。 全身が一息に冷えていくのが分かる。顔は血の気を失い、ともすれば意識すら遠のいてしまいそうなほどの感覚に捉われていた。 長く短い沈黙が続く。 噴水から溢れ、水路を流れる水の涼やかな気配ばかりが広がっている。陽光は変わらず安穏とした温もりを振りまき、空は流れる小川のような色をしていた。 風が流れ、ユエの髪を梳いていく。 ヒイラギは口をつぐみ俯いたままだ。 「……俺は、おまえたちは雰囲気がまったく違うだけの、仲のいい兄弟だと思っていた」 口を開き落としたユエの言葉に、ヒイラギの肩がわずかに震える。 「ヤナギといるほうが良いとか、おまえといるのが嫌だとか、そういうことは考えたことも無かったな」 そう続け、ユエはわずかに首をかしげた。 「……まぁ、確かに、おまえは生真面目すぎるし頑固だが」 それでも、双子と共に過ごす時間は楽しかった。 生まれ落ちた瞬間に全ての宿命は定められてしまっていた。 長老たちと戦うため、能力の使い方を覚え、知力を身につけるために様々な学術に手を伸ばした。剣術や武術も学び重ね、毎日少しずつ牙を磨ぎ、己の内にある激情を外に零すことのないように努め続けた。――色々なものを守るため。それに応じた力を身につけるために。 けれどその願いに反して、あまりにも多くの命が奪われていった。顔を合わせたこともない兄姉たち、――双子の守り手。 相手の異能を自分のものにするためには、相手を殺し、相手の心臓を喰らわなくてはならない。そうしてより強固な異能を作りあげていくのだ。強くなるためには相手を取り込まなくてはならない。そこには必ず殺し合いというものが付きまとう。 命の奪い合い。 受け入れ難い宿命だ。けれど、長らえた自分に出来るのは、死んだ相手のぶんまで生き続けていくことなのだと思っていた。どれほどに強く生を望んでも、それすら叶うことなく死んでいくものも数多くいるのだ。その数多い祈りや願い、憾みや悲しみ。そういったものの上に立つのであればこそ、そのすべてを背に負い、這ってでも生きていかなくてはならないのだ、と。 けれども世界は想像以上に残酷なものだった。 ユエが生まれるより前に死んでいた兄姉たち。その死の因が何であるのかを知った。守り手である双子兄弟は、本来互いの異能を奪い合わなくてもいい存在であったことも知った。 「俺は結局、おまえたちに何ひとつ返せていないな」 俯いたままのヒイラギに己の胸の内を独白し、ユエは自嘲気味に笑う。 「ヤナギはやはり俺が殺したようなものだ」 落とした言葉に、ヒイラギが弾かれたように頭をあげた。 「それは違う!」 「確かに、ヤナギを喰ったのはおまえ自身の意思だったんだろう。しかし、そんな選択をさせたのは俺だ」 「ユエ様」 「あのジジイ共のせいでいろんなものを失くした。……何一つとして救うことが出来なかった。……俺はあまりにも無力だ」 呟き、己の手を見つめながら、ユエは小さな息を吐く。それからふとヒイラギに目を向けた。 「俺はおまえたちから返しきれないほど、たくさんのものを貰ってきた」 困惑しているヒイラギの顔にヤナギの顔が重なる。ユエのために命を落とし続けてきたものたちの姿が重なる。彼らごとヒイラギの顔を見据えた。 「それなのに俺は、今まで、おまえが抱えていたものに気付きもしなかった」 すまない。小さくそう続けて、ユエはひっそりと瞬きをする。 「ユエ様! 俺は」 ユエの言葉に大きくかぶりを振りながらヒイラギが言う。 「俺は、ヤナギも、ユエ様をお守りするための盾であれればと思っています!」 死に瀕したヤナギの言葉が浮かぶ。ユエのための盾であり続けるのは、ヒイラギだけの願いではないのだ。 ユエは小さく微笑みながら首肯する。 「ヒイラギ。俺は」 言いかけて、しかし、ユエは初めて小さな迷いを見せた。 「……ユエ様?」 ヒイラギは心配げに眉をしかめ、ユエの顔を覗き込む。目が合い、ユエはそっと唇を噛んだ。 「……俺は、おまえや……彼らが命を賭して仕えてくれている、……それに相応しいものになれているだろうか」 落とした言葉は、ユエには珍しいほどに弱いものだった。 ヒイラギは口を閉ざし、ユエが続ける次の言葉を待っている。 「命を賭し、守る。その命の重さを背負うに足るものに、……主に、少しはなれただろうか」 もちろん、個の命の重さははかりしれないものだ。それに見合うものになれるはずもない。けれどその命を背負い、立ち続けるものとして、少しでも。 「……ユエ様」 ヒイラギが主の名を口にする。 「俺は、――ヤナギやその他の皆も、ユエ様であるからこそお守りしようと思うのです」 紡いだ声は優しく。 「皆、ユエ様を心から信じ、お慕いしているからこそ、その背に命を託したのです」 ユエの背に重なり続けていくものの重さは量り知ることが出来ない。自分たちにはそれを代わることも出来ない。けれどその身を、命を、進む道を、守ることは出来る。しかし、それは同時にユエが負うものの重さをさらに増してしまうことにも繋がるのだ。 「俺は皆の分もユエ様をお守りします、だから」 だからそんな悲しい顔をしないでください。 そう続けた後、ヒイラギは口をつぐんだ。 ――再び、わずかな沈黙の時が続く。 その沈黙を破ったのはユエだった。ユエは深く長い息をひとつ吐いて、ヒイラギが用意したコーヒーを飲み干すと、いつもと同じ笑みを浮かべて胸を張る。 「それがおまえの、――おまえたちの願いか?」 静かに問いかけた。 「はい」 ヒイラギは迷いなく応える。 「そうか」 言って、ユエは視線を上げた。青々とした空が頭上に広がる。果てがないようにも見えるが、ここは、0世界というひとつの世界の中に創られた箱庭のひとつでしかない。 「それがおまえたちの願いで、それが俺がおまえたちの主であるための条件だというなら、俺に出来るのはひとつだ」 そう続けながら視線を落とす。ヒイラギの顔を見つめ、常のように勝気な笑みを浮かべた。 「その代わり、おまえにもひとつ命ずる」 「……はい。なんなりと」 ユエの言葉を耳にするとヒイラギは背筋を正して表情を引き締めた。真っ直ぐ、逸らすことなくユエの顔を見つめる。 「おまえは俺より先に死ぬな」 「……は」 「おまえは俺を置いて逝くな。俺より先に死ぬのは決して許さない」 「ユエ様、しかし」 それは、主を守るための盾としての務めにあるものとして、極めて難しいものになる。けれどユエはヒイラギの目を見つめたまま。 「分かったな」 そうして続けた言葉は、否を返すことすら許さない、強固たるものだった。 ヒイラギはしばし呆然と主の顔を見ていた。が、ユエが目を瞬いてゆるゆると笑みを浮かべたのを目にとめて、――何故かは分からないが、緩く笑ってしまったのだった。 「何故笑う」 「い、いえ、……くく……その、ユエ様が……そんなわがままを……くく」 「わ、わがまま!? わがままだって!? ヒイラギ、おまえ!」 「く、……くく、分かりました、分かりました、ユエ様」 「ヒイラギ、おまえ!」 頬を紅く染めてヒイラギに殴りかかるユエの拳を軽くいなしながら、ヒイラギはさらに笑みをこぼす。 ――分かりました、ユエ様。 この命にかえても、どこまでも、いつまでもお傍に。
このライターへメールを送る