▼0世界ターミナル、バトル・アリーナにて あなたにはまだ、闘う必要がありました。強さを求める必要がありました。 理由は、人それぞれでしょう。 ともあれあなたは自らの意思で闘いを求めて、ここ――『闇黒(あんこく)のバトル・アリーナ』にやってきたのです。 † ターミナルの一角に建造された、とある建物。まるでテーマパークのように広くて大きな建造物で、外観は壱番世界で言う近代西洋風といったところ。大きな劇場のようでもありました。 そこは人形遣いのメルチェット・ナップルシュガーという人物が管理する、戦闘訓練用の複合施設です。中には様々な名を冠した戦闘施設がいくつも用意されており、用途に特化した闘いを行うことができます。 今回、あなたが訪れたのは『闇黒』の名を冠する戦闘施設です。係りの者に案内され、広い部屋にたどり着きました。仮想空間を形成する魔法技術によってチェンバーが構成されているのか、そこは建物の中にも関わらず異質な空間が広がっていました。 部屋の中は、暗がりと影と夜空で構成されています。クラシカルな洋風を思わせる街並みのようですが、どの建物にも灯りはありません。街のようでありながら、それらはすべて石のようにただ重い沈黙だけを放って、そこに在るだけでした。 ――不気味な暗い街。そんな言葉があなたの頭の中をかすめます。 そこに佇む、一人の少女がいました。猫耳のあるフードが付いた、不思議なケープを羽織っているその小さな女の子。彼女が当バトル・アリーナを管理する人物、メルチェット・ナップルシュガーです。彼女の隣には、装飾のなされた木製の棺がひとつ横たわっていました。 あなたが、影と闇で彩られた景色の中を歩み寄っていくと。少女は俯いたまま、ささやくようにそっと言葉をかけてきます。「ひとの心とは強いように思えて、とても繊細なところがあります。心はいつも、風に揺れる木の葉のように……正と負の位置を、大きく行ったり来たりするの」 漆黒の空に浮かぶのは、人のように目と鼻と口のある三日月です。爬虫類のようにぎょろりと艶かしい双眸を、あちらこちらに動かして。綺麗に生え揃った歯をむき出しにして。すべてを天より見下し、すべてを青白く照らし出しながら。道化師のように嘲け笑う月がひとつ、浮かんでいます。「ふと弱くなってしまったときの心は。とても華奢で、儚くて。すぐに壊れてしまうんですよ」 少女がゆっくりと顔を上げました。 真剣で厳しそうで。けれどどこか穏やかさもにじませた眼差しを、あなたに投げかけてきます。「今日和、バトル・アリーナへようこそ。あなたが、今回の挑戦者ですね。ここは闇黒のバトル・アリーナ。挑戦者が〝恐怖〟に抗う場所です」 そう、闇黒を冠するこの部屋で闘うのは、あなた自身の心に潜む弱さそのものなのです。メルチェがこの闇黒のために製造した戦闘人形〝玉響の戦慄(たまゆらのせんりつ)〟は、どのような人物の心も慄かせ、絶対の恐怖で身と心を縛り付けるでしょう。 あなたが挑戦の意を表明すると、少女はこくりと首を縦に動かします。「心の奥底に刻まれた記憶を読み取って、この人形は自在に姿形と能力を変えます。どんなに頑なで強い精神の持ち主であっても、身体の底からわき上がってくる恐れに、震え上がってしまうことでしょう。あなたにはそんな人形と対峙して、自らが覚えた恐怖そのものと闘ってもらいます」 メルチェは棺へと目を落とし、愛しげにその蓋へと指を這わせました。「――さぁ、行きませ。すべてのものを慄かせるきみ。すべてのものを屈服させるきみ。今が這い寄る、その時よ」 物言わぬ棺を見下ろしながら触れ、ゆっくりとその周囲を歩き。愛らしい声音で、彼女は歌うように言葉を紡ぎます。「主の言葉は空言にあらず。虚ろうヒトガタよ、見せ掛けのヒトガタよ、まやかしのヒトガタよ。幽玄なる輝きをもって、泡沫の姿をここに現せ。仮初めの力を用いて、虚構なる戯れの糧となれ。今、偽りの命を玉響の真なる命に――」 棺を指先でなぞりながら歩いていたメルチェが、足を止めると。棺を封印するかのように巻かれていた太い鎖の鍵が、ひとりでに解除されていきます。「顕現する命、その名は――〝玉響の戦慄〟」 解かれた鎖が、重々しい音を立てて落ち。次の瞬間、棺の蓋は無造作に内部から砕かれ、吹き飛ばされて。 その中から、這い出てくるものがありました。 黒くて黒くて、巨大で。爛々と赤く目を輝かせて。名状しがたい姿をした何かが、ぬらりと棺から身体を起こして。慈悲を感じさせない瞳で、あなたを睥睨します。 あなたは武器を構えます。あるいはトラベルギアを顕現させ、あるいは能力を発動させます。 ――けれど。 ――けれど。 手の中には、何もあらわれません。からだの底からわき上がってくるはずの、力の胎動も。何も、何も、感じないのです。(トラベルギアが取り出せない)(力も使えない) その事実に気付いたとき。笑う月の光を遮って、黒い巨怪はあなたの前に立ちはだかります。それを思わず見上げたあなたは――。 呼吸が、苦しくなりました。心のうちから、腹の底から。冷たい冷たい何かがわき上がってきて、あなたの呼吸を阻害します。 満足に息が吸えません、吐き出せもしません。あなたは苦しそうに喘ぐも、他に何もできません。息が詰まるほどの恐慌が全身を支配しています。 そしてさらには。 平衡感覚を失いそうになるくらいの、思わず足元をふらつかせるくらいの、強烈な眩暈に襲われるのです。恐怖でしびれてしまった手足の感覚も、どこか虚ろで。 気が付けば、歯も根が合わないくらいに、おびえて震えていました。からだもこころも、全てが恐怖に絡まり呑まれていて。何もかもが言うことを聞かずに、恐れ慄いているのです。 そんなあなたの頬を無意識に伝う液体は、冷たい汗でしょうか、あるいは涙でしょうか。分かりません、分かりません。 ――ああ、それでも。ひとつだけ、分かることがありました。自分を見下ろすこの黒い怪物は、自分の命を奪う危険な存在であるのだと。(逃げなければ、殺される!) 本来であれば自由に使えるはずのトラベルギアや、己の特殊能力。そのすべてが使えない今、あなたには逃げることしかできません。反撃の戦略を練ろうにもとにかく今は、この場を離れなければ。 あなたは、かろうじて動く足を引きずるように動かして。自分ではひどく緩慢に思える動作で、その場から走り出しました。 怪物が悲鳴にも似た奇声をあげたのを、背中越しに感じました。猛烈な勢いで後を追ってくる気配も感じました。(どうすればいい?) 見ず知らずの街並みに翻弄されながら、あなたは暗がりの中を疾走します。そうしながら考えます。力のすべてが封じられた今、この状況を打開する術を。追ってくるあの異形への対抗策を。この暗い街から脱出する方法を。 すると。ふとあなたの脳裏に、少女の幼いささやき声が響きます。(どこかにある〝希望〟を、集めてください。求めよ、さらば与えられん――) 聞いたことのあるような声でしたが、その主が誰であるのか、今のあなたには分かりませんでした。それどころか、無意識のうちに。ここが訓練のための施設であることですら、なぜか記憶から消えてなくなっているのです。 あなたはここにいる理由も追われている理由も分からずに、暗い街をさまよう迷い人となっていました。 浮かぶ月が、けたたましく笑います。嘲るように、げらげらと。蔑むように、げらげらと。笑い声は暗い街にこだまします。 そんな耳障りな月が浮かぶ、暗い石の街。気を抜けばすべてが闇に見えそうな、暗い街。そこをあなたは走ります。疾ります。 恐怖に侵食されて、今にも身体が動かなくなりそうになりながら。けれどもあなたは。必死に抗って、全力で、前へと――。 あなたと〝恐怖〟との闘いが今、始まります――。====※このシナリオはロストレイル13号出発前の出来事として扱います(搭乗者の方も参加できます)。====
▼どこかの暗い街の中(0世界ターミナル、バトル・アリーナにて) そこは黒で満たされていた。 見上げる空も、路地の石畳も、建物の壁も。すべてが漆黒の陰で覆われていた。 ただの暗い街。街のように見えながら、そこには誰もいない。――闇色の異形を前に立ち尽くす、ひとりの青年を除いては。 「そんな……いや、嘘だ。馬鹿な。なぜ、あなた様が……ここに?」 目の前にいる青年に、呉藍(くれない)は見覚えがある。忘れるはずもない人物。 穏和なそうな微笑を口許に称えた、黒髪の青年。艶のある紫の衣は、総大将であることを示す高貴な色だ。金細工の装飾品も、権威と実力の高さを表している。血のような赤褐色の液で記された呪いの符で、両目を封じている人物。 我らが天狗の総大将、我らが主、朱防守(すおうのかみ)が、そこにいる。 人に近しい姿でありながら、その存在は天に近い山の神。そのような存在がなぜ山を降り、このような下界にまで足を運んでいるのか。 (下界? いや、俺はそんなところにはいない。ここは……そもそも、ここはどこだ? 俺はなぜここにいる? 俺は今まで何をしていたんだ……) 空のように澄んだ青色の髪に両手を差し入れ、頭を抱えて。 けれど呉藍は自分のことを思い出せない。考えようとしても、すべては泡のように生まれては消えてしまうだけ。思考がかたちを結ばない。身も心も脱力している。足元が覚束ず、ふらふらとその場で肩膝をつく。 顔を伏せる呉藍の前に、そっと手が差し伸べられる。 弾けるように顔を上げると、そこには主の穏やかな微笑があった。 「私は、おまえを迎えにきたのだ」 「俺、を……ある、じ、が……? 「一人で辛かっただろう。今までよくやってくれた」 呉藍は石畳に膝をつきながら、慈しみの目で自分を見下ろしてくる主の顔を、ぼんやりと眺めていた。 目の前にいる青年は、自分が憧れ、慕い、仕えていたおひとだ。 その主が、迎えに来た、と言っている。その真意を知りたい、という想いがぽつりと浮かんだ。そうすれば自分が何者であるかも思い出せると。 「ふふっ、何を呆けているのだ。私の手を取れ。おまえは今まで、ずっとひとりで闘ってきたのだろう。故郷に残した私や仲間を憂いて、孤独と闘ってきたのだろう。すまなかったな、呉藍」 高貴と穏やかさが溶け合う、柔らかな声音がこだまする。あらゆる苦労を労い、讃え、認めてくれるような声の色合い。 その時、呉藍の脳裏には過去の記憶が炸裂していた。主の言葉に耳を傾けるたび、鐘を打つように己の過去が像を結ぶ。記憶が蘇ってくる。 (あ……ああっ!) それは、自らが真理数無き彷徨い人、ロストナンバーとなった時の出来事だ。 世界を支えていた空が砕け、空の欠片が地表へと突き刺さったとき、すべてが始まった。 空の欠片は狗賓や天狗を異形へと変貌させ、護る対象だったはずのヒトを蹂躙していった。信じていた護り手の暴走によって疑心暗鬼に陥ったヒトは、禁忌の秘術を以って同様の異形と化し、さらなる戦火と殺戮を呼んだ。 やがて空の欠片から放たれる瘴気が大地を腐らせる。弱くなった土の蓋を破って、奥底から地獄の紅蓮が吹き出した。土の枷を崩して流れ込んだ大海は、無慈悲な濁流と化した。それらが森と山を、村と人を、呑み込んでいく。 それでもヒトが、抗う様子を見せると。空からやってきたその欠片が、獣とも爬虫類とも蟲とも魚とも取れぬ異形へと変じ、残ったヒトを喰らい始めたのだ。痛々しく切ない音と声を、体中から軋ませながら。 そうした混沌の中でも、生き残ったヒトを護るために奔走していた最中、呉藍は主に――。 「捨てられ、た……?」 無意識に口走ったその答えに、驚愕で目が見開く。呉藍はわなわなと震える手で、顔を押さえて。皮膚に爪を立てて。 思い出す。あのときの瞬間を、鮮烈に思い出す。 地平線を埋め尽くすほどの異形が本拠地に押し寄せ、なだれ込むように門を突破してきたときのことを。 守備隊が全滅したとの報告を受けたと同時、動物とも妖とも言えないおぞましい生物が王の間へと侵入を果たし、歴戦を経た仲間達と共に、それらと対峙した瞬間のことを。 両目を焼く痛々しい光の奔流が外から溢れてきたかと思うと、身を浮かすような衝撃波が轟音と共に一行を襲い、呉藍はそれで気を失ってしまって。 意識が深い闇に沈む中、顔に何か雫のようなものが滴る感触を覚え、うっすらと瞼を開いて。 その僅かな動作でも、悲鳴を洩らしたくなるような鈍痛が走る中、呉藍は見たのだ。 額と口端から血を滴らせる主が、失意と絶望の目で呉藍を見下ろしていたのを。 「見損なったぞ」 「貴様のように脆弱な者など、戦士とは到底呼べん」 「腑抜けは不要だ。そこで、いつまでも眠っているが良い」 そうして主が、呉藍を闇の中へ葬るように、何か扉のようなものを閉ざし始めたのだ。 そこで初めて、呉藍は自分が、大きな棺のようものに押し込められていることに気がつく。 主に向かって血に塗れた右手を伸ばし、釈明の言葉を投げかけようとしたが、遮るように扉は閉ざされ、呉藍は漆黒に取り残された。意識はそのまま、闇へと落ちて。 そして次に目が覚めたときには、見たことも無い珍妙な衣服を身にまとう人間――ロストナンバーが、寝台に横たわる自分の傍にいたのだ。 主の視線を思い出す。有無を言わさず突き放すような目。期待を裏切られたことに失望する目。 「申し訳……申し訳、ございません……っ!」 呉藍は荒縄で締め付けられるような、ギリギリとした心の痛みを感じた。主に見捨てられたという切なさ、主の期待を裏切ってしまった己の不甲斐なさが、彼を苛む。とても、顔など上げていられなかった。 「我らは鈴賀山に坐す山神、荒波々木(あらはばき)の使者にして山と人とを護る妖の衆。主の御目に留まり、下級である狗賓でありながらも鴉天狗よりも高い位を賜ったこの身、いつでも主のために捧げる覚悟はできておりました」 それなのに、と。 身を裂くような後悔の感情が、呉藍の心に鋭く食い込む。 「不意の一撃とはいえ、主を護る使命に殉ずることなく、のうのうと気を失っていた醜態には、もはや弁明の余地などありません。でも、でも俺は……っ!」 呉藍は膝をついたまま涙ぐみ、すがるように呻いて。 「もうよい、呉藍」 けれど目の前の主君は、落ち着いた声で呉藍の慟哭を遮った。 「あれからというもの、彷徨い人となったおまえをずっと見守っていた。おまえの心の内は承知している。辛かったであろう……」 主君は、布が擦れる僅かな音だけを立てながらゆっくりと近づいてくる。膝をついたまま申し訳無さそうに顔を俯かせる、呉藍のもとへと。 「もうよい。よいのだ、呉藍。そうまでして生きることなど、ない。苦しみながら生きるを強いられる世など、それは顕現を果たした地獄と同意義。そのような戒めの生に、固執することはない」 主君の手が、男の涙に濡れる呉藍の頬に添えられる。切ないまでに冷たい指に導かれ、呉藍は顔を上げた。穏やかに微笑む主の顔が、自分を見下ろしている。すべてを赦すかのように。 「私もおまえを苦しめてしまっていたな。だが、それももう終わりとしよう」 「あるじ……」 「私はおまえを迎えに来たのだ。痛みと苦しみ、失意と絶望しかない世界から、おまえを救うためにな」 主の口から紡がれる、赦しと救いの御言葉が、呉藍の心に感動と安寧をもたらす。主の言葉が、呉藍の中で鐘のように鳴り響く。 呉藍はむせ返るような喜びに顔に歪め、涙を零しながら搾り出すように言った。 「……勿体無きお言葉ッ!」 それを暖かく見下ろしていた主君の、細められていた双眸の中に。ぬらりとした黒の輝き、怪しく瞬いて。 次の瞬間、主の肉体が驚異的な変貌を遂げていた。内側から膨れ上がるように溢れるそれが、ヒトとしての輪郭を躊躇無く歪ませる。 船の帆を思わせる程巨大で、立ち込める暗雲のような不吉さを漂わせる漆黒の翼。湾曲した刃物の如く捻じ曲がった、鋭い鉤爪。巨壁でさえ一突きで崩せそうな、禍々しい嘴。 それは巨怪。それは異形。家ほどの大きさはある巨大な鴉へと、呉藍の主君は変貌したのだった。 「そうだ、終わりにしよう。滅び行く世界と共に、消え行く私の命と共に。すべて。そう、すべて」 主だったもの。そこから発せられるもの。怪鳥から言い放たれる言葉。その声音は穏やかだ。すべてを赦す慈愛に満ちている。 そしてすべてを諦め、絶望し、破壊だけを望む暗黒の狂気にも満ちていた。 「すべては滅び行き、形無きものに成り果てる」 呉藍はいつの間にか、闇が佇む石の街ではない場所に居た。そこは呉藍が居た世界だ。王の間だ。異形が押し寄せる直前での。周囲には頼りになる仲間達の、懐かしい顔ぶれがあって。 時が回る、時が廻る。あのときの光景が蘇る。 「そこには何も、無い」 裂けた天より降り注ぐ光の塊。空の欠片。星と呼ばれるもの。それ自体が異形であり、ヒトや妖をも異形へと変貌させるのだ。 「そこに意味など、無い」」 閃光と衝撃が大地を走り呉藍達を吹き飛ばした後、光に焼かれた者は異形へと変容したのだ。 「何ひとつ、誰ひとり」 呉藍の主君もまた、その影響からは逃れられなかった。こうして黒き怪鳥と化し、威嚇するかのように翼を拡げたのだ。同じだ。あの時と。大鴉の咆哮が空気を震わせる。 「救われることは、無い」 羽ばたきひとつで旋風を巻き起こす。屋根を、壁を吹き飛ばし、粉々に打ち崩してゆく。思い出の場所を破壊する。思い出の品を破壊する。思い出の人々を、その獰猛な嘴で串刺しにしていく。 「だから終わりしよう」 紅玉を思わせる赤い瞳に、慈悲はない。ただ破壊衝動だけが濁っているのみ。怪鳥は巨大な足を振り上げて、逃げようとする人間を押さえ込む。抗い、縋る同胞の目を抉り、腹を引き裂いて、臓物をついばんで。嘴が相手の体躯ごと石畳を穿って。 「すべて。そう、すべて」 狂った獣が、大切なものを壊していく。すべて、そう、すべて。 破壊をもたらす災禍の鳥が、石畳を粉砕しながら呉藍へと近づいてくる。 中身をぶちまけ、肉塊と化した仲間の死体を踏み潰しながらやって来る怪鳥を、呉藍は歓喜に震える表情で待っている。迎えに来るのを、待っている。 「さぁ、共に逝こう――(違うぞ。それは、ただのまやかしだ!)」 満たされた気持ちの中で呉藍は、僅かな違和感を覚えた。暖かな主の声に混ざって、切迫するような主の声が別に響いてくるのだ。 何かを、言っている? 誰に向けて? 「極楽の、浄土へ――(目を覚ませ、呉藍!)」 「――!」 名を、叫ばれて。雷に打たれたような感覚が、呉藍の全身を駆け巡る。 無意識に体が動いた。肩膝と拳をつける待機姿勢を、瞬時に解除して。体をその場から跳ねさせ、肉薄してくる殺意を間一髪で回避する。 先ほどまで呉藍の居た場所に、仲間の血を滴らせる大鴉の嘴が、哀れみなく突き出されていた。 地面を蹴りつけ、弧を描くように走る。怪鳥の側面へと迫る。 そうしながら、呉藍の脳裏に届いてくる声がある。まるで耳元で囁かれているように。 その声音は岩のように堅く強かで、けれど爽やかな風のように透き通り、荘厳な響きの中にも優しさを秘める、活力に満ち溢れた響きを内包していた。 ただ自分を無条件に肯定し、ただ甘く赦してくれる声音とは決定的に違う。これが本当の主の声だと、呉藍は気づく。 そして思い出す。棺のようなものに閉じ込められたあの時、主が紡いだ本当の言葉を。あの時の主が、失意ではなく希望に満ちた瞳で、自分を見つめてくれていたのを。 (おまえは、ここに在るべきではない。ここで共に滅ぶべきではない。おまえの居場所は、ここでないどこかに……必ず、有る筈だ) 滑るように疾走する呉藍へ、追いすがるように突き出されてくる巨大な嘴。石畳が爆ぜるように四散し、砕かれていく。 (おまえを独りにしてしまう。何も、残してやれない。ただその命を繋ぎ止めるだけしか、私にはできない。天狗の総大将と言われ、天に最も近しいと崇められてきた、この私が。他には何も、何も、できぬのだ) 咆哮が、砂塵混じりの強風を巻き起こす。砕けた石の欠片が舞い上がり、殴りつけるように襲い掛かってくる。 (生きろ。ただ、生きてくれ。それだけが、私の望みだ) 庇うようにして腕を顔前で交差させ、破片を防御する。呉藍の双眸は、腕の間から見える怪鳥を捉えて続けている。 偽りの過去と真実の過去。その光景が溶け合うようにひとつとなっていく。 額と口端から血を滴らせる主が、失意と絶望の目で呉藍を見下ろしていた――違う。希望を託す暖かな目で呉藍を見下ろしていた。 (おまえが生き続ける限り、この世界はおまえと共に在る。おまえの中に在り続ける――) (おまえという生が、この世界が確かに在ったという証になる――) (だから、呉藍――) そうして主が、呉藍を闇の中へ葬るように、何か扉ようなものを閉ざし始めたのだ――違う。切なさを振り切るようにして、棺の扉を閉ざしたのだ。 主に向かって血に塗れた右手を伸ばし、釈明の言葉を投げかけようとしたが、遮るように扉は閉ざされ、呉藍は漆黒に取り残された――違う。呉藍はただ一人、滅びの運命から護られ、生かされたのだ。 主が遺した最期の言葉。厳しさとぬくもりが混在する、愛しさに満ちた言葉。それが、はっきりと。今、聞こえた。 (生 き ろ !) その言葉と同時、周囲の景色に亀裂が走り、それが砕けて飛び散った。 呉藍は戻ってきていた。あざ笑う月が全てを見下し見下ろす街に。冷たい石が墓標のように佇む、暗い街に。 ただし、怪鳥は未だそこに居る。狂気に淀んだ赤い瞳、爛々と輝かせながら。 (そうか、そうだったのか……俺は見捨てられて、彷徨い人になったんじゃない。主に助けられたんだ、生かされたんだ……!) 呉藍は知った。把握した。本来の記憶が稲妻のように閃き、自分の中に浸透していく。。 己の後悔と不甲斐なさ。恐怖。重圧。それらが自らの記憶を改竄していた事実を、把握する。 都合の良いものに変えていたいたのだ。背負うものを捨て、縋ることで生きていくように。 (あの太陽の如き閃光が城を焼いたとき、私は致命傷を負った。他の部下達も同じだ。ただ、おまえだけが偶然にも軽傷だった。命が残っていた。生の灯火は消えていなかった) 怪鳥と対峙する呉藍の耳元に、本来の主の声が響いてくる。 (私はその偶然を、運命と悟ったのだ。私は決意した。この滅び逝こうとしている世界から、おまえを羽ばたかせなければならないと。私は先祖より代々受け継いできた〝星を越える棺〟に、おまえを運び入れたのだ) 視界の端に、気配を感じる。人影の存在を感じる。 目を向けると、そこには誰も居ない、何も居ない。 でも、確かに佇んでいた。高貴なる紫の衣に身を包み、権威と実力の高さを示す金細工の装飾を身に付けた人物が。 (……おまえの目の前に居るその私は、おまえの中の私だ。そしておまえの中の闇でもある。闇は甘い囁きと重い鎖で、おまえを呑み込もうとしている) 主だけではない。故郷世界と共に朽ち果てた仲間達の存在をも、呉藍は感じていた。視界の端に佇む、蜃気楼のような人影。それが仲間達だ、同胞だ。 彼ら彼女らもまた、呉藍に囁いてくる。背中を押すように、励ますように。主の声と混ざって。 (おまえは、闇に居てはいけない。おまえには命が在る。おまえは輝くことが出来る。滅び行くこの世界や私達のように、風前の灯ではない力強さが、おまえには有る) 呉藍は怪鳥を見据えながら、胸元に手をやった。そこには何もない。鍛え抜かれた筋肉が、はだけた上着の間からのぞくのみ。そこには何もない。 「その御言葉が……俺に託された、想いであるのなら」 (なら、あなたはどうするの?) 声が響く。聞き覚えのある幼い少女の声。あるいは、滅びの道を辿る世界と運命を共にした、仲間達の声にも聞こえる。 呉藍は告げる。静かに、厳かに。ゆるぎない決意を。 「俺はこんなところで腐ってなんか、いられない。だから……掴む」 (何を? あなたはその手で、何を掴むの?) 「そんなの――決まってるだろ!」 呉藍は突き出すように右手を伸ばす。 人差し指、中指、薬指、小指、そして親指。確かめるように一本ずつ、時間をかけて指を折り曲げ、ひとつの拳をその手でつくる。 何かを掴むような、右手。その中には何もなかった。目に見える何かは無かった。掴んだのは虚空。そう見える。 (けど、確かに俺は掴んだ!) 呉藍の中で、かたい何かが弾けて蠢き、脈打ち、目覚め始める。 心に宿るものを感じる。虚空に手を伸ばし、しっかりと掴んだ何かを感じる。かたち無きもの、けれど確かに在るもの。抗う意志を力へと変えるもの。 それは希望。その名は希望。あぁ、それこそが。希望という名の―― 「ト ラ ベ ル ギ ア !」 ――冷たく暗い その街に―― ――熱き旋風が 吹き荒れる―― 空気が慄き、渦を巻く。荒れ狂うほどの風が吹き付ける。妖の青年を中心に、疾風が集う。 「俺はもう、迷わない。惑わされない」 空色の長髪が、風をはらんで大きく揺れた。誇らしく、堂々と。 「俺はもう、逃げない。縋らない。仲間の死、主の死、世界の死……すべての事実を、受け入れる」 世界の消失、主君の死、仲間の死、主からの遺言。それらの現実を、あのときの自分は受け止め切れなかった。だから無意識に改竄してしまったのだ。あることを無かったことに、無かったことをあることに。 「そうだ。俺自身も気がついていたんだ、本当は……俺の故郷世界が、あのまま滅んでいったことを。それを受け入れたくなかった。支えを失いたくなかったんだ」 でも、今の自分であれば。どんな感情もすべて、受け止められると感じていた。己から湧き上がる希望も、託された想いも、敵から発せられる恐怖と殺意も。 思考が澄み渡っていく。心と体が自由になっていく。もう絶望には縛られない。だから言える。今なら言える。己に宿る、希望の名を。 殺到する風に乗り、光の粒子が呉藍の首元へと集束していく。光が首飾りの輪郭を形成していく。 「我が内に宿りし想いよ。今再び、決意を以ってここに姿を現せ! 我が希望、我がちから――その名は〝龍樹(ハバキ)〟!」 突如、風は拡散して消失した。 呉藍の首元には、鉱物を思わせる破片を幾つも繋げた首飾りが、見事に煌いている。 それは呉藍が生み出す焔を纏い、変幻自在の武器となる。剣にも鞭にも弓にもなり、炎を纏う蛇龍の姿を取らせ、使役することもできる。 「そこに在った同胞の想い、主の想い……すべて、すべて、俺は背負っていく」 滅び、無と帰したそれを憶えていられるのは、自分だけなのだ。 世界ひとつ分の、想いを背負う。けれど、自分は孤独ではない。背後に佇むものが在るから。背後に佇むものが居るから。 それは主だ。同胞の戦士達だ。世界に住んでいた人々と、そこに在った命のすべてだ。 背負うだけではない。それは寄り添い、支えてくれるものだ。戒めの鎖ではない。生きようとする道を照らしてくれる、太陽の如き輝きだ。 「だから俺は、こんなところで……止まってなんか、いられないんだッ!」 弾けるように動いた手が、首飾り型のギアを引きちぎる。それを宙に放る。 両手を伸ばし、指を素早い動作で動かし、印を切る。中空に生じた焔が、放られた首飾りに巻きついていく。それは大きく大きく膨れ上がり、やがて体の太さが人間ほどもある、巨大な蛇龍の姿へと変貌した。 炎を体中から滾らせるこれが顕現するとき、なぜか常に隻眼だった。何かを見ぬようにと、片目は潰れていた。 (今なら、分かる。潰れた瞳は、俺の心そのものだったんだ。傷ついたふりをして、現実を直視しないための言い訳だったんだ) でも、今はもう違う。荒々しさの中にも理知を称える双眸が、しっかりと目の前の敵を見据えていた。 主である呉藍を護るかのように、その周囲で紅蓮の蛇龍はとぐろを巻いて。炎の口を窯のように大きく広げ、漆黒の大鴉を威嚇する。 呉藍の体がゆっくりと、滑るように動く。両足でしっかりと大地を踏みしめ、片膝を曲げて僅かに腰を落とし、岩のように踏ん張って。左の拳は脇腹へ。伸ばす右手は掌を相手へと向ける。 右手と同じように、真っ直ぐと。視線は敵を捉えて離さない。脅えない、怯まない。 呉藍の世界における、決闘時の作法だ。大きく息を吸い込んでから、青年は高らかに名乗りを上げた。 「我こそは鈴賀山に坐す山神、荒波々木の使者にして山と人とを護る妖の戦人! 我が主にして総大将、朱防守より賜りし『天狼』の名のもとに。山を駆け地を駆け、天を彩る星の漁り火――はばき星の呉藍、ここに見参!」 威風堂々、見得を切る。 揺るぎない構えから漂う覇気は、頑なな意志の表れだ。石畳を踏み込む脚の力強さは、決意と覚悟の表れだ。 「亡き主の姿を騙り、心をかどかわす魔性の異形め。星の篝火にその身を焼かれるが良い!」 引き絞られた右手が、勇ましく突き出される。炎の蛇龍がそれに応え、火の粉を散らせながら身を躍らせた。間合いを詰め、肉薄していく。大鴉は忌々しい咆哮をあげ、彼の決意を迎え討つ。 † 「形在るものが、強さをもたらすこともあります。例えば武器、例えば道具……お金も、そうですね。では形無きものは強さをもたらさないのでしょうか。価値はないのでしょうか、意味はないのでしょうか。私は……そうは、思いません」 暗い街の天空に佇む、顔のある三日月の上。そこに腰掛けている少女の姿があった。猫耳フードを被った女の子だ。彼女はひとり、言葉を紡ぐ。誰に向かってでもなく、ただ歌うように。 「生と対である死は、いつか必ず訪れるもの。死んでしまえば、何も残ることはありません。それは、無――」 「ひとは、無から有を作り出すことはできません。でも人は、形無きものに価値を見出します。想いを馳せ、意味を与えようとします――」 「見えないからこそ、尊くて。見えないからこそ、大事であって。そうした形無きものが強さをもたらすことも、あるんです――」 少女が視線を落とした。地上の街では、力と力がぶつかり合っている。闇を纏う怪鳥と、焔を纏う青年が闘っている。 「見えないけれど、そこに在るもの。あなたは自分の中に、それを見つけたんですね」 少女は嬉しそうに声を弾ませながら、闘いの様を見守った。死闘と呼ぶに相応しい激戦が繰り広げられている。 でも、少女が不安になることはない。 生気に満ちた顔つきで勇ましく抗う青年の勢いが、自分の人形如きに止められるものではないと、もう分かっているからだ。 彼の勝利は、確定している。 「託された想い、受け継がれた想い。あなたの背後に佇むそれらが、どうかあなたの往く道の光となりますように」 <呉藍の冒険は、これからも続く>
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