ブルーインブルーでしばらく過ごすと、潮の匂いや海鳥の声にはすぐに慣れてしまう。意識の表層にはとどまらなくなったそれらに再び気づくのは、ふと気持ちをゆるめた瞬間だ。 希望の階(きざはし)・ジャンクヘヴン――。ブルーインブルーの海上都市群の盟主であるこの都市を、旅人が訪れるのはたいていなんらかの冒険依頼にもとづいてのことだ。だから意外と、落ち着いてこの街を歩いてみたものは少ないのかもしれない。 だから帰還の列車を待つまでの間、あるいは護衛する船の支度が整うまでの間、すこしだけジャンクヘヴンを歩いて見よう。 明るい日差しの下、密集した建物のあいだには洗濯物が翻り、活気ある人々の生活を見ることができる。 市場では新鮮な海産物が取引され、ふと路地を曲がれば、荒くれ船乗り御用達の酒場や賭場もある。 ブルーインブルーに、人間が生活できる土地は少ない。だからこそ、海上都市には実に濃密な人生が凝縮している。ジャンクヘヴンの街を歩けば、それに気づくことができるだろう。●ご案内このソロシナリオでは「ジャンクヘヴンを観光する場面」が描写されます。あなたは冒険旅行の合間などにすこしだけ時間を見つけてジャンクヘヴンを歩いてみることにしました。一体、どんなものに出会えるでしょうか?このソロシナリオに参加する方は、プレイングで、・あなたが見つけたいもの(「美味しい魚が食べられるお店」など)・それを見つけるための方法・目的のものを見つけた場合の反応や行動などを書くようにして下さい。「見つけたいものが存在しない」か、「見つけるための方法が不適切」と判断されると、残念ながら目的を果たせないこともありますが、あらかじめご了承下さい。また、もしかすると、目的のものとは別に思わぬものに出くわすこともあるかもしれません。
古風な帽子のつばの陰から、空高く輝く太陽を仰ぐ。強い陽射しを受け、翡翠色の瞳が眩しげに細められる。瞳を隠す睫毛は、髪と同じに淡い銀色。端正な顔は、けれどその右半分が白皮の眼帯で覆い隠されている。 眼帯に施された銀糸の精緻な刺繍が、陽光を集めて静かに輝く。 漆黒の衣装は、陽の強い此処では熱を集めるだろうに、どこまでも涼やかに見えるのはどうしてだろう。人込みと陽光に溢れる市場の喧騒の中、あの人の周りにだけ、涼風が舞っているかのよう―― 「――どうかしましたか?」 翡翠の眼が、此方を向いた。僅かに眉を寄せた、難しげな表情をしている。 「え、あああ、すみませんッ?!」 果汁売りの少女は露店に山積みにした果物越しにうろたえる。見惚れていたことに気付かれてしまっただろうか。 「ええと、」 挙句に折角受けた注文を忘れてしまった。 「ご注文、何でしたっけ……?」 叱られるかしら、と恐る恐る問うてみる。 胸ポケットから片眼鏡を出そうとする細い指先の動きを止めて、彼は伏せていた眼を上げた。思いがけず真直ぐに此方を見てくるその眼に、険しい色はない。むしろ、感情を表すことを知らない幼な子のような、透明な視線。 「この辺りの果物には詳しくないので、何か、……」 店先に並ぶ、大小様々な果物に翡翠の眼を巡らせ、迷うような仕種を見せてから、 「……柑橘系のものを頂けますか」 柔らかな言葉を使う。少女は笑顔で大きく頷いた。陽に焼けた腕を伸ばし、金色の果実を幾つか取る。手慣れた動作で厚い皮を剥き、錫製の圧搾機にかける。ハンドルを回し、果汁を搾る。銅の冷たい碗に受けて差し出す。少女の手元に注いでいた視線を動かす彼が、果実圧搾機を物珍しげに見ていた気がして、 「旅の人ですか?」 少女は果汁と引き換えに代金を受け取りながら、そんな言葉を掛けてみる。はい、と返って来た素直な返事に嬉しくなる。 「何かお探しですか?」 重ねて問うてみれば、 「茶葉を扱うお店を」 碗の縁に付けていた唇を離し、物静かな声できちんと答えてくれる。 「探検気分で探そうと思います」 探検。感情の分かり辛い、どこか気難しげにも見える佇まいからは、そんな言葉は想像もしていなかった。市場の景色へと眼を向けながら、彼はゆっくりと果汁を口にする。喉を潤すだけでなく、丁寧に味を楽しんでいる様子が窺えた。 近寄り難い雰囲気を纏っているけれど、本当は案外優しい人なのかもしれない、と果汁売りの少女は思う。 「きっといいものが見つかりますよ」 少女の声に送られ、彼は、――ヴィヴァーシュ・ソレイユは、市場の喧騒へと足を向ける。 海のある場所を訪れたことは、ロストレイルに乗車するようになってからも多くない。人込みは苦手だが、笑いさざめくように吹き寄せる海風も、力強く照りつける太陽も、――新鮮だ。 荷車いっぱいに積まれた、香ばしい匂いのパン。 露店の台を飾る赤や黄、橙、色鮮やかな果実。 屋台の傍の卓には様々な形と色の酒瓶。 普段は口にしない食べ物でさえ、陽の光に輝きながら並んでいるのを眼にすると、素通りするには惜しい気がした。 精霊の力さえあれば、この身体は維持出来る。それでも、石畳の市場に所狭しと軒を連ねる露店に並ぶ品々は、目にするだけで楽しい。 唇と喉の奥、先程口にした柑橘ジュースの爽やかな酸味と香りが残っている。海風を呼吸すれば、その香りが全身に行き渡る気がした。 賑わう人波に紛れ、ヴィヴァーシュは歩く。異国風の女が売る細工物を眺め、漁師が荷台に乗せて市場に運び込んできた魚樽に興味を示し、大道芸の男の軽やかな舞に足を緩め、路地の奥にひっそりと咲く白い花に誘われる。市場の通りを離れ、狭い路地へと歩みを向ける。軒の隙間から流れ込む陽光目指して、白い花弁を精一杯広げる花にそっと触れる。 路には蒼や翠の石や貝殻がモザイク模様を描いて埋め込まれている。靴底に滑らかな石の形を感じながら行けば、家の壁にぐるりを囲まれた小さな広場に辿り着く。広場の真ん中には、小さな泉。人気の無い泉の傍の陽だまりには、白猫が一匹、のびのびと陣取っている。 行き止まりでしょうか、と泉の広場を見回す。路地が複雑に絡み合うこの界隈は、まるで迷路のよう。迷路の街を歩くヴィヴァーシュの瞳に、焦りはない。感情を映し難い翡翠の眼には、迷路を楽しむような朗らかな光が宿っている。 蔦が這う壁に沿って歩く。強い陽光が蔦の緑を透かして優しくなる。洗濯物のはためく路地の空を見仰けば、海鳥が影絵のように渡る。隧道のような、建物と建物を繋ぐ宙廊の下を潜り抜ける。路地の奥には海の鮮やかな青が煌く。 この街は、どこに居ても海の気配がする。海の匂いを纏った風が空を走り、気紛れに路地へと降りて来る。 その気紛れな風の群の中に、ふと、甘く優しい茶葉の香りを感じた。僅かに足を緩めて周囲を見回す。路を定めて歩き出す。 通った路と通っていない路、通った路と路を繋ぐ通っていない路。迷路を解いたその先に、小さな店舗。 古びた低い石塀の上には、瑞々しい葉の溢れる鉢植えが幾つも飾られている。鉢に使われているのは、古くなった茶壷や空き缶、茶葉の描かれた木箱。路地いっぱいに広がる茶葉の匂いの中に時折、鉢植えに育つ香草の甘い匂いが混じる。 深い緑色に塗装された門扉は招くように開かれている。香草ばかりが植えられた小さな庭を横切り、門と同じ色の扉を開ける。 ふうわり、香ばしい匂いが身体を包む。 帽子を取る。今日は、と挨拶を口にすれば、唇に紅茶の香りが触れる。 「はいはい、いらっしゃい」 よく見つけたねえ、と商売っ気があるのかないのか、のんびりとした女店主の声が返って来た。 淡い陽射しが差し込むカウンターの奥に、白いバンダナを頭に巻いた恰幅の良い女が一人。 広くはない店の壁には作り付けの棚が並ぶ。棚には所狭しと様々の茶壷や小売り用の缶。視線を巡らせるヴィヴーシュに、店主は人懐っこく笑いかける。 「何かお探しのものでも?」 「……いえ」 「じゃ、色々見てお行きよ」 カウンターの上、次々に硝子の小瓶が並べられる。小瓶の中身は、様々の茶葉。ヴィヴァーシュが小瓶に詰められた茶葉の香りをひとつひとつ確かめて居る間、店主は茶器の準備をする。気に入った茶葉を手渡せば、丁寧に淹れた味見用の茶となって差し出される。 「海を渡ってきた異国の花が入っててね。花の香りがここまで鮮やかなのは少ないよ。そのまま飲むのが美味しいね」 「混ざってるのは近くの島特産の金色の実の皮だね。温かくしても美味しいけれど、冷たい水で一晩じっくり香りを出してもいい」 ヴィヴァーシュが産地やお勧めの飲み方を短く問いかけ、店主が嬉しげに応じる。それを幾度が繰り返して後、気に入ったものを茶壷から缶に詰めてもらう。 「本を扱う店をご存知ないですか」 もう一軒、訪ねてみたい店の場所を訊いてみる。店主は機嫌よく頷く。 「ああ、紙に書いてあげよう」 蒼紫の花が入った茶葉と、柑橘の香りがする茶葉。二種類の茶の缶と、本屋への路を書き込んだ紙とが入った紙袋を大事に抱え、 「ありがとうございました」 ヴィヴァーシュは被り直した帽子の縁に片手を添え、丁寧な礼をする。店を出、温かな潮風の中を歩き出す。 ロスイレイルの発車時刻が近い。 今日の探検は、これでおしまい。 終
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