Le point du cheminは“賢者の脳髄市”に佇むホテルである。客層は人に亜人、闇の住人、それから死者や生者。あらゆる存在が集うのだ。 由緒正しいホテルは種族と思惑の坩堝と化す。今宵も華やかに、密やかに。 ぷすん、ぷすん、ぼふっ。自動車は咳込み、排煙のおくびを吐いて停まった。角型の、塗装があちこち禿げた車だ。覗く地金も錆びついている。 「ちっ」 みすぼらしい車からみすぼらしい小男が降りてくる。男は安い外套を羽織り、くたびれたシャッポをかぶり直した。車が停まったのはちょうどLe point du cheminの前だ。荘重たるホテルを男は鼻で笑った。 「相変わらず気取ってやがる」 宵闇の中、客足は増すばかりだ。着飾った男女が次々と館内に吸い込まれていく。玄関ガラスはクリスタルのように煌めき、その向こうのエントランスにはシャンデリアの明かりが降り注いでいる。 ホテルの輝きを背に負ってドアマンがやって来た。 「いらっしゃいませ、ゴーリング様。お待ち申し上げておりました」 大柄なドアマンは折り目正しく腰を折る。小男ことゴーリングは胸を反らせ、横柄に顎を突き出した。 「車が動かなくなっちまった」 「災難で御座いました。こちらで移動させておきましょう」 「だから動かねえんだって」 「何とかするのがホテルマンの務めで御座います」 濃紺の瞳のドアマンは優雅に片目を瞑ってみせた。 小広間へ案内されたゴーリングはコートもシャッポも脱がずにげっぷをした。黄ばんだ歯と酒臭い息に盛装の男女が眉を顰める。ゴーリングは彼らに向かってもう一度げっぷを放ち、笑った。 「お上品なこった」 ゴーリングだけがひどく場違いだった。 それはホラー。あるいは、きついブラックユーモア。 Le point du cheminでは不定期に、不可解なミステリーナイトが催される。 「佳き夜へようこそ」 総支配人の挨拶で謎めいた夜が花開く。 「どうぞ最後までお楽しみあれ。当ホテルを挙げておもてなしいたします」 次々と照明が灯り、ずらりと整列した従業員が照らし上げられる。一分の乱れもなく礼をする従業員の姿に穏やかな拍手が起こる。 シャンパンのコルクが飛び、手始めのディナーが供された。 銀盆を持つ給仕が金属音を立てながら行き来する。野菜の輝きを閉じ込めたジュレ。汁気たっぷりの濃厚な肉料理。宝石のように積み上げられたタルトにケーキ……。それらすべてを無節操に貪り、ゴーリングは目をぎょろつかせる。 (さて、何が起こるかね) このホテルにはあらゆる存在が集う。従業員とて例外ではない。しかし、彼らの中心で振舞う総支配人の女は人間だという。彼女は領域内のすべてを支配する。 それにあのドアマンだ。病的に蒼白な肌に、青く浮かぶ血管。まるで死体ではないか。いいや、それだけなら珍しくもない。もっと別の―― 「きゃあああああ!」 絹を裂くような悲鳴で思考が引き千切られた。 一瞬の静寂。次いでどよめきの波が広がった。従業員の首が胴から離れて宙を舞う。特別に挨拶回りをしていたフロントキャプテンだ。残された体はごとりと倒れ、生首は貴婦人のドレスを濡らしながら落下した。キャプテンの頭は、悪魔じみた山羊の頭蓋骨だった。 「これまた生々しい」 「謎解きの始まりか」 静かな興奮が防音の広間を満たす。ゴーリングはシャンパンをがぶ飲みしながら鋭く視線を走らせた。と、視界がぐらりと傾く。随分と酔いが早い。 「ゴーリング様」 ドレスの裾を翻し、総支配人がやって来る。 「この度のお引き立て、まことにありがとうございます」 「おう。飯、なかなかうめえな」 わざとげっぷをした。きつい口臭の前でも総支配人の微笑は揺らがない。 「つきましては特別のおもてなしを……。ご足労いただけますでしょうか」 「ちょうちん記事は書かねえぜ」 ゴーリングは大手新聞社の記者である。 「とんでもない、わたしどもの気持ちでございます。では、こちらへ」 総支配人に導かれるまま広間を出た時、ゴーリングの足が止まった。 墨で塗り潰したような暗闇が広がっている。 「“ミステリーナイトの演出でございます”。お足元にお気をつけ下さいませ」 総支配人の微笑と同時に常夜灯が浮かび上がった。蒼白な、霊魂か何かのような明かりが廊下の両側に並んでいる。しかしゴーリングは納得したように浅く肯いただけだった。 静かだ。敷き詰められた絨毯は足音を吸い、閉じ込める。 暗闇の最奥には先刻のドアマンが直立していた。 「お待ち申し上げておりました」 ドアマンは慇懃に一礼し、黒塗りの重厚なドア――このホテルにこんな扉があっただろうか――を引き開けた。ゴーリングは顎を引いた。薄い冷気と、圧倒的な暗闇が這い出してくる。 「ミステリーナイトの始まりで御座います」 微笑むドアマンの眦には油断がない。 ゴーリングの背後でドアが閉ざされた。 ひょうひょうと風が啼いている。外? いつの間にホテルを出たのだろう。あらお上手だこと、いやいやレディ、紳士たる者嘘はつかんよ……。紳士淑女の笑い声がぼうやりと漂ってくる。 りん……。りん……。 「お迎えに上がりました、ゴーリング様」 ベルの音と共にベルボーイが現れた。 「はん? 何だそのベルは」 「暗闇ですので、驚かせぬようにと。どうぞこちらへ」 りん……。りん……。呼吸のようなベル音だけが響いている。 しかしゴーリングは気付いていた。ベル音で隠蔽された、かすかな金属音を。 「このホテルにゃ色んな奴がいるらしいな」 シャッポをいじりながらうそぶく。 「お前さん、体はナマか? ええ?」 「お戯れを」 「いいじゃねえか、珍しくもねえ。広間の給仕も人造だろ?」 ベルボーイの襟首に手を伸ばす。力を込めて引きずると、ベルボーイは眉ひとつ動かさずに仰向けに倒れた。りん。りん。警報のように叫ぶベルをゴーリングの爪先が蹴飛ばす。 「うるせえな。機械なら死にゃしねえよ」 素早く制服を剥ぐ。ベルボーイは糸の切れたマリオネットのように横たわるばかりだ。 「おい、他にいねえのか。お客様がお呼びだぜ!」 「いかがされましたか」 駆け足の足音。ゴーリングはあんぐりと口を開けた。 フロントキャプテンがやって来る。彼の頭は山羊の頭蓋骨だ。 「ちっ。どうなってやがる」 「は?」 五体満足のキャプテンは首を傾げている。 りん。ベルボーイがむっくりと起き上がり、折れ曲がった首を手で戻して立ち上がった。 「これより先は下りの階段です。お足元にお気をつけ下さい」 そして何事もなかったように歩き出す。 暗闇の底では大柄なドアマンが待っていた。 「お待ち申し上げておりました」 相変わらず慇懃な男だ。ロングジャケットには皺ひとつなく、白い手袋には染みひとつない。 「ミステリーナイト本番で御座います」 ドアマンは静かに微笑み、観音扉に手をかけた。 ギイイ……。 溢れ出すのは湿った暗闇。埃の匂い。何かがべちゃりと顔面に貼り付いた。蜘蛛の巣だ。 「なん――」 圧倒的な光がゴーリングの目を射った。次々と、怒涛の如くシャンデリアの列が点灯していく。壁の蜘蛛の巣は深紅のビロードに駆逐された。すり鉢状の客席。舞台に居並ぶ、絢爛たる仮面の男女。 「秘密の歌劇座へようこそ」 息を吹き返した劇場で総支配人が一礼した。 「どうぞ最後までお楽しみあれ。当劇団を挙げておもてなしいたします」 流れる繊手が舞台を示す。ステージ中央にゴンドラが降りてくる。乗っているのは一組の男女だ。黒いヴェールで顔を隠した黒衣の婦人が、宵闇色の仮面の男に手を預けていた。 楽団もないのに演奏が始まる。仮面の演者が整然と舞い、扇子を艶やかに翻す。繰り広げられる劇のただ中でゴーリングは舌打ちを繰り返した。あのドアマンがドアを開く度に世界が塗り替わる。 「どうなってやがる」 事前に“紳士録”を精査した。しかし、あるべき項目にドアマンらしき者の名はなかったのだ。 規律正しいダンスが続く。男と女が引き合い、離れ、絶えず入れ替わる。まるで精緻なマスゲームだ。目がくらむようなシャンデリアの下、主演のテノールが高らかに歌い上げる。 『光よ、闇よ、銀貨を手に取れ。 表に調和、裏には矛盾! 手を取りて行かん、混沌(カオス)の先へ!』 ゴンドラを降りた仮面の男がゴーリングに歩み寄る。黒衣の婦人を伴っている。婦人はしとやかにゴーリングの手を取り、ヴェール越しに微笑んだ。 「“それでは次の演目です”」 総支配人の声が響く。 「“人体発火”――」 悲鳴を上げる間もなくゴーリングは炎上した。婦人は手を離さない。婦人は微笑を絶やさない。ゴーリングは狂ったように身をよじる。瑞々しい皮膚がぺろりとめくれ、ジューシーな肉がたちまち爛れる。嗚呼まるでトマトの湯剥き! 焼け落ちる意識の中でゴーリングは見た。 「ミステリーナイトもたけなわで御座います」 仮面の男の、宵闇のような濃紺の瞳を。 ゴーリングはベッドの上で目を開いた。 「薬は効きましたか」 傍らに無愛想な医師が控えている。ホテルのハウスドクターだろうか。 医師は民族的な羽根飾りを揺らしながら窓辺に歩み寄った。植木鉢が並んでいる。棘付きの肉塊を連ねたような多肉植物を無造作に摘み取っていく。ゴーリングは慌てて起き上がった。体には傷ひとつ見当たらない。 「薬を追加しましょう」 ごり、ごり、ごり。医師が、毛深い獣の手で植物の肉をすり潰していく。 「もっと夢見心地になれますよ。もっと、もっと」 鉢の植物がケタケタと笑い、ゴーリングは医務室からまろび出た。 霊魂のような常夜灯が揺れている。あるいは真に霊魂なのか。ならば人造物めいているのはなぜなのか。青白く照らされた暗闇をゴーリングは駆けた。 分厚いドアにぶち当たる。ノブを揺する。開かない。 「出せ! 出しやがれ!」 拳で叩く。皮膚が弾け飛ぶ。次いで体当たりを食らわせた。ドアはびくともしない。 「ただいまお開けいたします」 背筋を伸ばし、優雅な足取りで現れたのはドアマンだった。 「大変お待たせいたしました」 大柄なドアマンは小柄なゴーリングの前で腰を折った。後ずさったゴーリングは背をぴったりとドアに張り付ける。それでも強気にシャッポのつばを跳ね上げた。 「お前さん、何モンだ?」 「ドアマンで御座います」 「んな事は聞いちゃいねえ」 「わたくしはドアマンで、ホテルマンで御座います。ところで」 濃紺の双眸がピアノ線のように細められる。 「人間社会の自動車は高価で貴重な嗜好品。一般の記者さまが所有されているのは珍しゅう御座いますね。車体の傷も大変に恣意的なもので御座いました」 「……何が言いたい」 ゴーリングはさっと顔色を変えた。同時に、ドアマンの瞳が稲妻のように光る。しかしドアマンは謎めいた微笑と共にゆっくりとかぶりを振るばかりだ。 「ホテルマンは詮索などいたしません。ホテルを守り、お客様をお迎えするのが務めで御座います」 ゴーリングの背後の扉が軋みながら内側に開いていく。ドアマンの、がっしりとした体躯が壁のようにゴーリングに迫る。慇懃なおもてで温和な微笑が続いている。 「このドアはトップシークレット……特別のお客様にのみ開放いたしております。“暴君の盤上”にてお寛ぎ下さいませ。――正気を保っていられれば、で御座いますが」 追い詰められたゴーリングは扉の内側に倒れ込むしかなかった。くたびれたシャッポが、木の葉のように虚空を舞った。 謎に満ちた夜が退がり、まっさらな朝がせり上がる。夢から覚めた客は朝食を楽しみ、ゆったりと帰り支度を始めた。 「戦慄の夜をありがとう。フロントキャプテンが殺される演出、真に迫っていたねえ」 「光栄で御座います」 朝日に包まれたエントランスでドアマンは見送りをこなしていた。 「ところで、シャンパンを飲んで倒れた男性は大丈夫だったのかい。ほら、コートと帽子の彼」 「はて。そのようなお客様には覚えが御座いません」 「ほう? 僕の勘違いだったかな。それとも化かされたか。このホテルならありそうな話だ」 「夢でも見たので御座いましょう。どうかご内密に」 ドアマンはミステリアスにウインクし、唇の前で人差し指を立てた。手袋をはめた手にみすぼらしいシャッポを握りながら。 (了)
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