――コツ、コツ、コツ 靄がかかっているのか、街頭の灯りが薄ぼんやりと滲んでいる。そんな薄曇りの深夜に響く靴音が一つ。 地面が所々濡れているのは酔っ払い達の吐瀉物を洗い流した後なのか、すえた臭いが鼻先を僅かに掠める。しかし、靴音を響かせている人物はそんなものには頓着せず、背筋を伸ばしたまま歩みを進めている。 ごちゃごちゃと迷路のように入り組んだ路地を迷いなく右に折れ左に折れ……一つの扉の前でぴたりと足を止めた。 扉の周辺に目を這わすが、そこに呼び鈴と思しき物はなく、ドアスコープのみが設えられていた。 「ふむ」 思案気に声を発した男は白手袋を嵌めた腕を上げ、扉を叩く。 ――コンコン、コンコン 扉横の窓からは室内の明かりがもれ、住人の在宅を示しているのだが反応がない。 暫く待ってもう一度。 ――コンコン、コンコン 「なんだぁ」 室内の男が漸く気付いたとばかりに顔を上げた。するともう一度。 ――コンコン、コンコン 「しつけえなぁ」 なおも続く音に舌打ちし、ゆっくりと扉へ向かう。 ドアスコープを覗き込み、外の様子を窺うも訪問者の姿は映されず、もう一度チッと舌を打つ。 わざと視認できる場所にいないのか、そういう者なのか、どちらにせよ客であるならば無視もできない。 「どちらさん?」 用心の為、ドアチェーンを掛けたまま扉をゆっくりと押し開く。 「夜分遅くに申し訳御座いません、ミスター」 「お、まえは……!」 ゆっくりとシルクハットを脱いだ男の顔には見覚えがあった。 「秘め事にはちょうどよい晩で御座いますね」 上品に笑う男の後ろには猫の爪のような月がぽかりと浮かんでいた。 ドアマンが務めるホテル“Le point du chemin”の従業員用ロッカールームはいつになくざわめいていた。 制服に着替えながらひそひそ。まるで口に出すのも憚れるというように、声を潜めて喋っている。ドアマンはそれとなく耳をそばだてて彼等の会話を聞いていた。 ひそひそ、ひそひそ。 「おーい、ミーティング始めるぞ」 前勤者の呼びかけでお喋りは唐突に終る。ぞろぞろと移動する彼等の後にドアマンも続いた。 引継内容を聞きながら従業員達はどこか上の空だった。 その原因は珍しくもない失踪事件。だがそれも、ここ“Le point du chemin”で起こったとなれば別だ。このホテルの敷地内には結界が張られ、従業員達の不測の事態に対応できるようになっているからだ。 そうなればこの事件は敷地外で、計画に基づいた上での犯行と考えた方がいいだろう。 「ふむ、興味深い事件で御座います」 詳しいことは伏せられていたが、いずれなんらかの指示があるかもしれない。ドアマンは思考の海から上がり、持ち場へとついた。 「そういえば……」 さりげなくホールを見渡しながら、“彼”の姿が見えないことに気が付いた。よくシフトが同じになる赤銅色の癖毛のベルボーイ。 ドアマンはホテルの入り口に佇みながら、彼との出会いを思い出していた。 「は? アンタ、第二級昏種なの?」 急に場の空気が変わり、ドアマンは困惑した。それまでは和気藹々とした雰囲気の中、最近出回っている噂や休日はなにをしているかなどとそれぞれが喋っていたのだ。 「見栄張ってんじゃねーぞ」 「いえ、そんな、わたくしは……」 なにかまずかっただろうか。 自分としては彼の質問に答えただけなのだが。 仕事中は勿論のこと、普段でも上品な物腰のドアマンに「アンタさぁ、えらく上品だけどイイとこの出なの?」と聞いてきたのは彼なのだ。 その彼の質問に素直に答えただけなのに機嫌を損なってしまい、ドアマンはただオロオロとするしかなかった。 「へぇ、あんた、高位眷属なの? 珍しいなぁ、そんな奴がホテルに就職だなんてさ」 ドカッとドアマンの隣に腰を下ろしたのは赤銅色の髪に特徴的なライトブルーの瞳を持った男だった。 「でもさ、お客様の前では高位眷属なんて関係ねぇぞ。俺達が“同僚”ってことも……」 「勿論でございます」 そんなことは充分承知しているとドアマンが告げると彼はニッと笑った。 「分かってんならヨロシイ!」 少々乱暴に肩を叩かれ、僅かばかりの悲鳴と苦笑をもらす。 ドアマンは高位眷属であってもそれを鼻に掛けることなく頑張っていくつもりだ、指導を頼みたいと申し出ると彼は「もちろん!」と手を差し出してきた。ギュッと手を握り返すとまたニッと笑う。どうやら人懐っこい人物のようだ。 「あー、さっきはゴメン。俺、あんま裕福な家の出じゃないからさ、ちょっと僻んじゃったんだ」 先程まで話していた灰褐色の髪の彼が頭を下げると赤銅色の髪の彼――ルーセルが彼と私の腕を掴み 「んじゃ、仲直りの握手な」 と、手を握らせた。 「改めまして、よろしくお願い致します」 「うん、よろしくな」 よかった、どうやら仲直りができたようだ。 「ところでレジー。前から思ってたんだけどさ、その義骸、童貞だろ。良い店教えてやろっか?」 「大きなお世話だっつーの!」 ニシシと笑うルーセイの頭を真っ赤になったレジー――正しくはレジストイというらしい――が叩き、休憩所を出て行ってしまった。そろそろ休憩時間も終わりだ。そのまま持ち場に戻ったのだろう。 「せっかく機嫌が直られたのに……」 私がふうと息をつくと「いつもの事だから気にするな」と言われ、そういうものなのかと無理やり納得する。 そんな経緯があったお陰か、休憩時間が重なった時にはよく言葉を交わすようになった。 身を切るような寒い日には 「俺は機械化してっから平気だけど、あんたは寒いだろ? 待ってろ、珈琲パクってくる」 と、温かい珈琲をご馳走してくれることもあった。 なんやかや、彼は面倒見のいい性分のようだ。 「あー、莫迦! そうじゃねって、貸してみ」 などと色んな人にお節介をしている所もよく見かける。 彼の親族はホテルマンとして働く人が多く、その影響もあってか、彼も幼い頃から将来はホテルマンとして働く夢を持っていたらしい。 普段は大分砕けた口調で話す彼だが、いざ仕事となると破綻なく言葉を操る彼に脱帽する。 背筋をピッと伸ばし、丁寧な言葉を発し、どんなに重い荷物も文句一つ零さず運ぶ姿はベルボーイの鏡と言っても過言ではない。 普段の彼と仕事中の彼のどちらか一方しか知らない者にとっては、彼が同一人物だと言っても俄かには信じてもらえないだろう。それくらいの変容ぶりだった。 彼がサイボーグであることはあの日に珈琲を振舞ってくれた時にわかったことだが、それもホテルマンとして働く為に体を改造したということだった。 生身にしては特徴的な瞳を持つ彼にようやく合点した。彼のライトブルーの瞳は僅かに発光しているように見えていたから。 「……それは本当で御座いますか?」 「間違いねえよ。俺、聞いたもん。今から霊視するってさ」 休憩所に入った私を見つけたレジーは、走り寄ってきてそう耳打ちをする。 失踪事件から数日、当事者の行方が依然不明なことと、ホテルから少し離れた建物の陰からそのベルボーイの物と思われる制帽が見つかった為、霊視が行われることになったのだ。 その当事者の名前はルーセル。赤銅の髪を持つ彼のことだった。 「彼が……」 ドアマンは軽く息を詰めた。 それほど広くない一室に霊視をする女、総支配人、ドアマンが集まっていた。 机の上には制帽。呼吸を整えた彼女がその上に手を置き、スッと目を閉じた。 「始めます」 脳裏に浮かぶ映像を彼女は言葉にして紡ぎ出す。 † 従業員出入り口のドアを開けると冷やりとした空気が流れ込む。 「さすがに深夜勤務だと冷え込むなぁ」 はあ、と白い息を吐き出して空を見上げると、雲が月を覆っていてぼんやりとした光を中空で留めていた。 視線を下ろすと向かいの建物に片腕を添え、俯いている人物がいることに気が付いた。 酔っているのかどうにも足元がおぼつかない。 気になったルーセルは暫く男を見詰めていた。するとその体がどんどんと傾いでいくではないか。 「おい、大丈夫か?」 ルーセルは男に駆け寄り、肩に手を掛けた。 「あ、ああ。大丈夫、大丈夫だとも」 男は苦しげに呻きながらルーセルの腕を取って立ち上がった。 「ありがとな」 俯いた男の口元が歪んだと思ったら、全身に雷が落ちたような衝撃が走った。 「――ッ!」 ルーセルは声無き悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちた。 刹那、男の右腕が放電の火花を放っているのが見えた。 ――油断した。 沈みゆく意識の中で、勤務中はホテルの敷地外から出ないよう厳命されていたことを今になって思い出していた。 ずるり……と体の中心に手を突っ込まれ、次いで皮膚をミチミチと引き剥がされるような感覚がする。 止めろと言いたいが声が出ない。体も動かない。意識が剥離する。 ゆらゆらと視界が揺れ、透明な分厚い壁に囲まれた場所に入れられた。歪んだ視線の先には自分の体が台の上に横たえられている。 ――そうか、俺は体を奪われたのか。 そう思うが次の瞬間には意識が曖昧になる。とりとめもなく色んなものが浮かぶが、すぐに霧散し意識が保てない。ただ、密封された容器の中でフワフワと浮かぶことしかできなくなる。何もかもが曖昧だ。 「やあ、連絡ありがとう。さすがだね、このボディで間違いないよ。これ、代金。ああ、魂はそっちで処分してくれ。僕が欲しいのはこのボディだけだからね。じゃ、貰ってくよ」 「へへ、毎度」 客を愛想笑いで送り出したあと、男は独り言ちる。 「まあ、うちは魂の方が専門なんで全然問題ないんだがね」 † 霊視が終ったあと、室内には重い空気が漂っていた。 「ドアマン」 「はい、ここに」 「彼の魂を取り返してきてちょうだい」 「勿論で御座います」 総支配人の言葉にドアマンは頷く。 ホテルを出て空を見上げれば、猫の爪のような新月が流れる薄い雲をぬってちらちらと輝いていた。 「わたくしのことをご存知で?」 男が忌々しく呻くのをドアマンが目を細めて聞いている。 知ってる。知っているさ、仕事の為に外から覗けばいつもこの男が玄関口に佇んでいた。 その奥にいるターゲットを見るともなれば否応にも目に入る。 「で、何の用だね? ホテルマンの――」 「わたくしのことはドアマンとお呼び下さいませ」 「ドアマンさんよ」 男はドアマンを睨め付けた。 大丈夫だ、こいつは何も知りはしねぇ筈だ。あの晩、あそこにいたのは俺とあいつだけだった。 「お分かりになりませんか? 貴方は知っている筈です、ミスター」 ドアマンはついと指先を男の胸に押し付ける。 「貴方の中にお心当たりが御座いましょう? ――わたくしの友人をお返し下さい」 ドアマンの瞳が青く輝いた。 「なんだってんだ、畜生!」 なんとかドアマンを追い返した男は寝室のドアを開けながら吐き捨てた。 「まったく気分が悪いや」 寝室に足を踏み入れようとして凍り付く。 「何だぁ?」 眼前に見えるのは渦巻く闇。 男はごくりと唾を飲み下し一歩、また一歩と後退した。ぞわぞわと背筋に悪寒が走る。 ぶわりと闇が膨らんだと思うと無数の黒き手がドアから噴出してきた。 悲鳴を上げて逃げ出すが一本の腕が男の胸から突き出した。手の中になにかを握っている。 「な……な……」 ぐぶりと腕が抜けドアが閉まる。 その直後、男の体は糸の切れた人形のようにその場に倒れた。 見開かれた目、驚きに固まった口。男の魂は既にそこにはない。 「これはお返しいただきます」 棚に置かれた友人の魂。その空いた隙間に新しい魂を置く。男のものだ。 「奪うものは奪われる。それが世の理でございます」 取り返した魂は家族に返され、奪われた体もまた数ヵ月後に家族の元へと戻された。彼の魂は結局そのまま朽ち、弔われたと聞いた。 それから数十年後、若いベルボーイが雇われた。 彼は大叔父の勤めに興味を持ち、サイボーグ手術を受けてこのホテルにやってきたと語った。 「さようで御座いますか」 ドアマンは笑顔を返した。 ああ、彼と同じ瞳だ。 懐かしいライトブルーに胸が締め付けられる。 外では雨が降り出したようでぽつりとドアマンの足元にも染みが広がった。 ここは玄関の中。雨は降り込んだりしないというのに。
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