これはわたくしがホテル“Le point du chemin”に勤務していた時の話でございます。 “Le point du chemin”は、八百万廟の入り口“賢者の脳髄市”で営業中でございまして、生者死者問わず領域内外のお客様に多数ご利用いただいておりました。 その中でも今回は、ホテルにはつきものの『忘れ物』のお話をいたしましょう……。 ■冴えない青年 冴えない風体の男が一人、ロビーへと現れた。時刻はもう夜中。 吊るし売りのスーツをさんざん着倒したのだろう、スーツはクタクタ、ネクタイは緩んでいて襟元のボタンは2.3個開けていて。髪は衝動のままに掻きむしったのか、酷く乱れている。だが本人はそれに頓着した様子はない。 お客様をじろじろ観察するのは失礼に当たるので、けれどもなにか不便があった時にすぐに対応できる程度にドアマンはお客様を把握するよう務める。 すると男はフラフラと揺れる足取りでフロントを素通りし、出入り口を潜って、車止めのあたりで戸惑ったように一度、足を止めた。 何かを探すように右へ左へふらふら、きょろきょろ。 夜の闇を纏って漂う美しい海月のように彼は、泳ぐように何かを探している。 やがて諦めたのか、小さくため息を付いて引き返す彼は、肩を落として。十数分前もくたびれていたが、この十数分で更にくたびれたようにみえる。 「お探しものは今宵も……?」 「約束したんだ あの人はきっと来てくれる。思い出して連れて行ってくれる。愛しているから」 その会話が交わされるのは、毎夜決まって午前二時のこと。 ■故意の紳士 ホテルに忘れ物はよくあることでございます。 取りにいらっしゃるお客様、いらっしゃらないお客様。わざと置いて行かれる場合もございます。 残して去る方、置き去りにされるもの、それぞれに事情はあるのでしょう。 けれどもわたくし達従業員は、お忘れ物に気が付きましたらお声を掛けねばなりません。 「お忘れですよ、お客様」 そう声をおかけして感謝されたこともあれば、舌打ちされることも怒鳴られることもありますれば。忘れていく意図もそれぞれなのだと感じるところでございます。 *-*-* 以前、ホテルを訪れたある紳士がいた。その紳士は悲しそうな表情をして、『ソレ』を『忘れて』行く事を決意したようだった。 それは子供――いや、子供の姿をした紳士自身だ。 よく見れば紳士の面影がある――いや、この場合は逆というべきか。 大きな瞳に涙を貯めて、子供は無言で問いかける。 『僕はもういらないの?』 『僕を捨てていってしまうの?』 子供の形をしているのは紳士の嘗ての純真な心。希望を持って過ごしていた頃、優しさを育んだ頃、真っ直ぐな思いで突き進んでいた頃、子供の頃から育て、共に過ごしてきた大切なもの。 けれども紳士はそれを置いて行く事を決意した。 『そればかりでは大人はやっていけないんだ』 紳士は仕事や私生活でうまくいかないことでもあったのだろうか。冷たい言葉が少年の肩を揺らす。しゅんと頭を垂れてしまった少年の背中に手をやり、片手を胸に当ててドアマンは紳士に頭を下げる。 「お忘れ物は丁重にお預かりいたしますので、取りにいらっしゃいましたらフロントへお申し付けください」 「……処分してかまわんよ。取りに来ることなど無いだろう」 紳士は一度も少年を振り返らず、ビジネスバック片手に出入り口をくぐっていく。 「……!」 少年はなにか言いたそうに手を伸ばしたけれど、結局空を掴むばかりでその手は引っ込められて。涙がぽたり、大理石の床の上にダイヤモンドのように落ちた。 処分していいと言われたとはいえお客様の『忘れ物』を勝手に処分する訳にはいかない。ホテル側にも数ヶ月、或いは数年の保管義務はあるのである。 *-*-* 保管場所でぽつねんと体操座りをしている少年を見続けてどのくらいが経ったことでしょうか。数日のことだったかもしれないし、数週間のことだったかも知れません。 ある日突然、件の紳士がホテルへと飛び込んできたのでございます。 *-*-* 「私の、私の忘れ物はまだあるかね!?」 フロントに食って掛かる勢いで尋ねるその姿は、いつも見る紳士の落ち着いた様子とは違っていて。『忘れ物』をしたことで、なにか支障をきたしたのだろうか。フロント係は一瞬瞠目してから我に返ったように忘れ物リストを繰る。 「まずお名前を……」 「ロッテンハルト様。お忘れ物はあちらでございます」 その様子を見ていたドアマンが、慌てる新人のフロント係の代わりに紳士の名を呼ぶ。彼が人の顔と名前を忘れることはない。たとえ一見の客でも、きちんと記憶の引き出しにその情報を閉まってあるのだ。 「……!?」 ドアマンの言葉に紳士がそちらを見やると、精緻な細工の施された真っ白な柱の影から、ひょいと顔をのぞかせている少年がいた。 紳士はいつもの余裕の表情ではなく、何処か切羽詰まった、そして鬼気迫った恐ろしい顔をしていた。それでも、少年には紳士の面影がある。当然だろう、少年は紳士の一部なのだから。 紳士の声を聞き取ったのだろう、保管場所からこっそり出てきた少年は怯えた瞳で紳士を見つめている。捨て置かれたことが相当ショックだったのだろう。だが、迎えに来てくれると信じていたのに違いない。でなければこうして自ら姿を表すことなどしないはずだから。 紳士はビジネスバッグを放り投げるようにして、そこはロビーだというのに構わず大理石の床に両膝をつき、両腕を目一杯開いて。疲れて少しやつれた顔に精一杯の笑顔を浮かべて囁いた。 「おいでっ……!」 「!!」 その言葉にびくっと身体を震わせ、瞳に涙をためる少年。少年は柱の影から身体を出し、そして。 きゅっ。 紳士の首っ玉にしがみついて、もう離さないよとばかりに頭をうずめる。 「ごめんな、置いていってしまって」 希望、優しさ、真っ直ぐな思い。嘗ての純粋な心だけでは大人はやっていけない。けれども、失ってもいけないということに紳士はようやく気がついたのだ。 感動の再会を、ドアマンは紳士のビジネスバッグを丁重に拾い上げつつ眺めていた。 「喧嘩になる時もあるだろうけど」 「一緒に行こう」 視線をあわせて見つめ合い、そう約束して。立ち上がった紳士は少年と繋いだ片手を離さぬまま、ドアマンからビジネスバッグを受け取り、フロントとドアマンに丁重に礼をした。少年の、それに倣う姿が初々しい。 しっかりと手を繋いだまま、二人はとりとめのない言葉を交わしながらホテルを去っていった。 ■思い出した女 先ほど申し上げたように、ホテルでの忘れ物は忘れて行かれる理由と同じく多種多様でございます。 単純に『物』である事もあれば、そうではないことも多いのです。 *-*-* 午前一時過ぎ頃――。 「部屋、はある? 泊めてちょうだい。お金はあるの」 露出度の高い派手なドレスに身を包んだ女が、フロントに札束をばらまいた。相当酔っているようで、酒気を帯びたその顔は派手な化粧でも隠せないほど赤い。 「ねぇん、早くしてちょうだいぃ。ふかふかのベッドで休みたいのよぅ」 豊かな胸をフロントデスクに乗せてシナを作る女。新人のフロントマンが二重の意味で慌てて空室確認をしている間に、ドアマンは静かに散らばったお札を拾い、フロントデスクへと置く。 「あら、ありがと♪」 ちゅ、と投げキスをした女に、ドアマンは見覚えがあった。しかし口にも表情にも出さず、ドアマンはフロント奥の時計へ目をやって。 そろそろのはずだった。 毎晩の、美しい海月の彷徨は、このくらいの時間から始まるのだ。 カシャン……。 何かが大理石の床に落ちた音がして視線を移せば、それは先程まで女の手についていた金のブレスレット。引っ張っても簡単には壊れそうもないしっかりとした一級品に見えたが、途中で切れ、床の上を少し滑った。 それは、予感じみた何かだったのかもしれない。 「落とされましたよ、チェハーク様」 「ああ、これね……」 女は切れたブレスレットを指で挟んで受け取り、何かを思い出したかのようにふっと鼻で笑って。 口に出しはしないが女はふっと思い浮かべた。この黄金のブレスレットを買った『元手』の出処を。 女にとって『愛してる』だなんて何よりも軽い言葉で。 女にとってはその言葉に引っかかる男なんてただの金づるでしかなかった。その内の一人。散々騙して貢がせたけど、対価は支払ったつもりだ。一時の幸せな夢、それを見せてあげたのだから。 潮時かと感じて捨てたあの日、そういえばこのホテルでだったかしらなんて記憶も曖昧で、男がその後どうしたかなんて全く興味が無いから知る由もなくて。 (ふふ……馬鹿な男) それは女にとっては最大級の褒め言葉だったかもしれない。けれども彼女に騙された男達は、そうは取らないだろう。 もう、その男の顔も名前も思い出せない。思い出す必要もない。思い出せるのは、男から搾取した金額だけ。 「やっと迎えに来てくれた」 だから、そんな声が聞こえてもそれが自分に向いているなんて思わなくて。女は「処分してちょうだい」と壊れたブレスレットをドアマンに差し出した。 その時、女の視界に入ったのは――くたくたの吊るし売りのスーツ、くしゃくしゃのワイシャツはボタンがいくつか開いていて、ネクタイも緩んでいる、冴えない男。 「ひぃっ!!」 顔は、覚えていた。というよりあまりの衝撃に思い出した。 「ずっと待っていたよ」 男の笑顔が、以前と変わっていなかったから。 かつての恋人と呼べる関係にいた男。否、女にとっては金づるでしかなかった男。その男がなぜか目の前にいる。 「いや……なん、でよ……」 男の顔は青白く、明らかに生者のそれではない。よく見れば緩んでいると思ったネクタイは輪にされていて、男の首筋には赤黒い痕がついている。 「知らない、あんたなんて知らないわっ!!」 女は叫ぶ。だが男が待ちごがれていた彼女を間違えるはずはなく。 「もう、離れない」 恍惚に歪められた男の表情は、女にとっては恐怖以外の何物でもない。 ぎゅ……後ずさる女を、男は抱きしめて離さない。触れられた部分がありえないほど冷たくて、女は「ヒッ……」と震え上がった。 助けを求めるように辺りを見回す女の視線を受け止める者は誰もいない。 「さあ……一緒にいこう」 「いや、いやよ、やめてぇぇぇぇぇぇっ!!」 ドアマンは知っていた。毎夜決まった時刻にホテル入口を彷徨う男は、かつて恋人に酷く裏切られてこのホテルで首を吊ったのだと。 それでもいつか彼女が自分を思い出してくれると信じて、ずっと待っていたのだと。 女は男のことを、忘れたままなら良かったのだ。 だが、偶然が重なり、思い出してしまった。 もしも全く思い出さなかったら、男はホテルに留められたままだったのに――。 *-*-* その後二人がどうなったかでございますか? 申し訳ありません、ホテル外での出来事は基本的にわたくしの管轄外でございまして……けれども、あれ以降お二人とも当ホテルへいらしていないのは確かでございます。 わたくしの記憶は、確かでございますから。 え? もっと他の話をご所望でございますか? そうですね……それではまた今度、機会がございましたら時間の許す限り、お話させていただくと致しましょう。 今日のところは、忘れておくべき記憶に引きずられぬようにご注意の上、ゆっくりとお休みになってくださいませ。 ――良い夢を。 【了】
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