深く雪が降り積もり、楼閣を青く照らし出したあの夜。 幼い少女が放り込まれたのは、美しく、陰湿な鳥籠だった。 ◇ 傾き始めた日を背中に受け、華月は新たにできた生傷を抑えながら帰路に着く。長い髪を束ねていた紐をほどいて、退けていた前髪を顔の前に垂らし、視界が僅かに暗くなった事に安堵を覚える。なるべくひと気のない裏通りを選んで、周囲の気配を過敏なまでに気にしつつ、誰とも会わないように歩いていく。 道すがら目に入る、日の光を透して輝く蒼が美しい。華月の棲む遊郭『麗蒼楼』の名の由来となったらしい、全面に飾られた硝子細工の窓は蒼を基調として美しく、この色街の中で特に目を惹いた。この場所の持つ陰湿さを見て見ぬふりするかのような輝きに、華月はちいさく溜め息を零す。 明日の訓練の事を想うだけで、今から心が重い。 師である老婆は厳しく、訓練の間華月に休む暇も与えてくれなかった。負った傷の処置をするのはいつも、訓練が終わった後だった。異能使いとしての教育は受けていたが、それを戦いの為に扱ったことのなかった華月にとっては何もかもが初めての事で、慣れないままに疲労と傷ばかりが増えていく。 彼女が華月に、生き延びる術を与えてくれているのだと言う事は判る。 華月の選んだ道はか細く、またあまりにも我儘で、その為には泣き言ひとつ許されないのだと言う事も判る。 華月と同様の異能を持つ彼女は長年、たった独りでこの遊郭『麗蒼楼』を護り続けていたのだ。細い双肩にのしかかる重圧は幼い華月の目から見ても大きく、それを引き継がなければならない未来を判っている。 それでも。 「――かえり、たい」 それでも、突然境遇を変えられたばかりの幼い少女にとって、この生活はあまりにも酷過ぎたのだ。両親に裏切られこの遊郭に売り飛ばされた彼女には、頼るべき庇護者もいない。 滲み始める視界を拭う事もせず、ひとり孤独な路を行く。 「……?」 ふと、足を止める。 ひらり、目の前で蝶が羽撃いたようだった。 銀色の鱗粉を零して、蒼い燐光に包まれて、ふわふわと夢みるように踊る。幻想的な色彩に魅入られ、恐る恐る華月が手を差し伸べても、それは指先を擦り抜けていく。――そこで、ようやく気が付いた。 はじめから、蝶などどこにも居なかったのだという事に。 どこからか響いてくる、澄んだ可憐な歌声が、華月には蝶の羽撃きのように聴こえただけだった。 ちりちりと、蝋燭の火に巻かれて消えてしまいそうなほど、儚く静かな声。自分と同じ、年端も行かぬ少女のものだろう。新入りの芸妓か、入りたての禿(かむろ)か――そう、推測を巡らせながら、ふらふらと華月は声に惹かれるように歩みを変えた。 やがて辿り着いたのは、若い娼妓たちが棲む、狭い部屋の外側だった。廊下の蒼い窓細工から華月の楼と同じ見世であることはわかるのに、今までに入り込んだ事のない場所で、少しだけ戸惑いを覚える。 円い窓に貼られた薄い障子。 その内の一つに、幼い少女の影が映り込んでいる。 「だあれ?」 そう、問いかける声もまた、儚く燃える蝶のようだった。 びくりと肩を震わせ、華月は足を止める。人の声に本能的な恐怖を覚え、足が竦んで進退も侭ならない。歌声に惹かれ、灯に誘われる蛾のように歩いていた自分とは別人のようだ。それが影の持ち主から発せられたものだとは判っているが、頭では理解していても感情が追い付かない。 「こわがらないで」 声の主はそんな華月の姿が見えているのか、障子の向こう側から柔らかく声をかけ続ける。 「その背格好、女の子ね。わたしと同じ」 同じなものか。 反射的に華月は、そう叫ぼうとして喉を抑えた。寸での所で踏みとどまり、改めて言葉を探す。 「違うわ。……私は、逃げているだけ」 異能のおかげでただの護り手で居られる華月とは違い、自らの身を売らなければならない遊女の生き様はずっと悲惨で苦しいものなのだ。そうなるのが嫌で、怖くて、力だけを追い求める華月には彼女たちほどの覚悟はない。どこまでも弱い自分が、憎らしかった。 それでも、障子の向こうの少女はくすくすと小さく笑った。自身が背負う境遇など、まったく意に介さぬ素振りで。 「ねえ。此方へ来て」 顔を上げる華月に、そよ風のような可憐な声は言葉を重ねる。 「もっと聴かせて。あなたの話」 歌声と同じ、儚いいざないの言葉。 抗い難い優しい響きに、華月はそっと歩みを進めていた。 それを待っていたかのように、円い窓の障子が開かれる。 奥から貌を出したのは、艶やかな黒髪に、淡く澄んだ蒼い瞳の、月光のような少女。儚く繊細な美の中に、芯の強さが垣間見える。 束の間、見惚れる華月の前で、少女は優しく微笑んだ。 「わたしは揚羽。あなたは?」 「――華月」 ざぁあ、吹きぬける風が、長く伸ばした前髪を攫って行く。 咄嗟に顔を隠そうとした華月の手を、そっと少女――揚羽が留めた。いきなり触れられた事に驚いて彼女を見遣れば、じっとこちらを眺める眼差しとぶつかる。 束の間、紫と、蒼の視線が交錯した。 「綺麗な名前ね」 優しく微笑んで、与えられた言葉。 俯く事も忘れ、華月は茫と彼女だけを見つめていた。 ◇ その日から、華月は訓練後、日が暮れるまでの短い時間を揚羽の部屋の傍で過ごすようになった。時間になるといつも揚羽は窓の障子を開けて待っていてくれる。 色街の路地を抜けて向かう途中、彼女の歌声が優しく道案内をしてくれるから、寄る辺ない華月も孤独や恐怖は感じなかった。 「華月!」 窓の外に華月の姿を見かけて、ぱあっと儚くも明るい笑みを浮かべる揚羽の姿は、月光の中咲き誇る一輪の花のように美しい。無邪気に寄せられる好意に戸惑いながらも、華月は最早恐れる事もなく彼女の元へと歩み寄った。 彼女の前でその日の訓練の成果を見せれば、すごい凄いと手放しに褒めてくれる。華月と違って異能を持たぬ身が恨めしいと冗談めかして笑う。幼くしてこの鳥籠に入れられた、お互いの境遇を少しずつ話しながら、二人の少女は着実に距離を縮めていた。 居場所のなかったこの楼閣で、初めて見つけた親友と、己の拠り所。 少しずつ、世界が変わり始めていた。 「華月は幾つになるの?」 「私は十四よ。つい昨日年を取ったの」 「じゃあ、わたしの方がお姉さんね」 どこか羨望に似た色を含んで、蒼い瞳が華月へ真っ直ぐに注がれる。それは年を経る事を怯えずに済む華月の境遇を羨んでの事だったのだろうか、と僅か後ろめたい想いが過ぎるが、華月の生まれた日を純粋に歓んでいるような様子からはとてもそんな悪意は感ぜられなかった。彼女は、自分の成長も華月の成長も、同じように喜ばしいものと感じているようだった。 自身の後ろ向きな考え方を少しだけ恥じて、素直で優しい親友に頬を緩める。そして、この狭く息苦しい鳥籠の中で、彼女が居てくれてよかった、と改めて思った。 「そうだ」 悪戯を思い付いた子供のように、揚羽は首を傾げて手を打ち合わせる。どうしたの、と問う華月にも微笑むだけで何も言わず、ごそごそと窓の向こう側で何かを探っている。 「これ」 やがて、振り返った揚羽が、華月へと何かを差し出した。 「――髪飾り?」 驚きと当惑に声を上げる華月へ、揚羽は静かに微笑んで頷く。彼女の白く美しい手には、同じ意匠の髪飾りが二つ、握られていた。繊細な装飾が施された、透かし彫りの蝶。片方は瑠璃をあしらった夜明けの空のような色彩、もう片方は琥珀を用いて黄昏の蕩ける色合いを顕しているようだ。 「綺麗ね……」 素直な感想が、陶然と魅入る華月の口から洩れる。揚羽も誇らしげに頷いて、店の近くに来ていた行商人から買い求めたのだと教えてくれた。 「一目で気に入ったのよ」 「そう……綺麗だもの、わかるわ」 だが、自分のものに拘らず、贅沢をしない彼女にしては珍しい話だ、と華月は小さく首を傾げる。 それを問いかけようと口を開いた彼女を推し留めて、揚羽は蒼い瞳を悪戯に細める。つがいの蝶の片割れを、そっと華月の胸に差し伸べた。 「片方、華月にあげるわ」 「! そんな」 目を見開いて固辞しようとする華月にも退かず、いっそ強引なほどの勢いで髪飾りを彼女の手に握らせる。 「華月のその黒い髪に、よく似合うような気がして」 だから買ったのよ、と小さく舌を出して告白する、その様はまるで幼い子供のようだった。 「こんな高そうなもの、受け取れな――」 「受け取ってもらえないと拗ねてしまうわ」 冗談めかしてそう笑うが、その言葉は謙遜の過ぎる華月の性格をよく理解しての事だと判る。瞬間、言葉に詰まって、華月は揚羽の蒼い瞳の中に映る自分自身を見つめていた。 ◇ 結局断り切れず、髪飾りの片方を受け取って、華月は自室へと戻った。揚羽はしてやったりと言った顔で笑っていたが、明日どんな顔をして逢えばいいか判らない。折角貰ったものを無視していつも通り、と言うわけにもいかないだろう。 衣裳箪笥の上に置かれた小さな鏡を前に、長く考えに耽る。粗末な部屋の中、育ち盛りで何の変哲もない少女の姿が映り込んでいる。 己の容姿を隠すように、少し背を丸め、顎を引いて、長い前髪で目元を覆った自分の姿。特に、悪目立ちする紫の瞳が衆目を浴びる事を恐れていた。――堂々と胸を張って、儚げな美しさを誇る揚羽とは大違いだ、と思う。 私は、影でよかった。 鳥籠の中を舞う蝶や鳥たちの、支えとなる影でいられれば、それで――。 「……ううん」 ――でも、このままではいけないのかもしれない。 歯を噛み締める。首を横に振る。意を決して、長い髪をまとめて横に流す。耳の上に髪飾りを挿して、自分の顔、特に鮮やかな紫の瞳がよく見えるように調整した。 おどおどとして、自信のない少女の姿が、鏡に映り込む。 こんな自分でも、揚羽は歓んでくれるのだろうか。 明日は訓練も休みだから、一番に揚羽に見せに行こう、と。 そう、心に決めた。 ◇ 「華月――?」 「ど、どう……?」 次の日、顔を合わせた揚羽は小さく口を開いて言葉を喪っていた。視線はまっすぐ、華月の瞳と、蝶の髪飾りに注がれている。やはり似合わないのだろうか、と華月が肩を落とそうとしたその時、蒼い瞳が一度瞬いて、揚羽が表情を変える。 「すごく綺麗」 花の綻ぶような、美しい笑みだった。月光のような可憐な声が、抑え切れない嬉しさを顕している。 「思ったとおり。華月にとても似合っているわ」 まさか着けてくれるとは思わなかった、とどこか安堵するように息を吐いて、華月の長い髪を手櫛で梳いた。他人にいきなり触れられる事も怖ろしかった筈なのに、彼女だけは何をされても気にならなかった。 「待っていて」 そう言うと、昨日と同じように部屋の中へ引っ込んでしまう。しばらく物音を立てた後、すぐに揚羽は顔を出した。 「あ……」 その髪には、揃いの蝶が舞っている。 左耳の上に飾る彼女と対になるよう、右耳の上に。よく手入れされた揚羽の長い黒髪にそれは美しく映えて、思わず見惚れてしまうほどだった。 「どう?」 はしゃぐ少女は、先程の華月と同じ、しかし堂々とした物腰で感想を乞う。 「綺麗……。私なんて比べ物にならないくらい」 「そんなことないわ。わたしは華月に似合うと思って買ったんだもの」 だから、着けてもらえる事がとても嬉しい、と。 微笑む揚羽の淡く澄んだ瞳を、華月はじっと見つめていた。月光のような、儚く美しい蒼。願わくばこの色が、ずっと美しく澄んだままで居られるように。――その光を護る為なら、自分は幾ら傷付いても構わない。静かな決意が、華月の心を優しく燈した。 そっと、白皙の指が、華月の傷だらけの手を取った。自らの胸に引き寄せて、両手で包みこむ。 「お揃いよ」 「――ええ」 窓越しの少女たちは鏡のように、つがいの蝶を飾りながら、日の暮れるまでの短い間、優しく微笑みあっていた。 いずれ訪れる、残酷な未来を知らないまま。 <了>
このライターへメールを送る