ヴゥゥン――… ブラウン管に電気が通る、画面が明るくなる、その予兆に似た耳障りな音が漏れる。巨大な白のスクリーンから。テレビの始まりの音を立て、銀幕が走り出す。 或いはそれは羽音だったのかもしれない。真夜中、路地裏、誘蛾燈に惑わされた蟲(バグ)たちが哄笑染みた軽薄な音を立てて翅を震わせる。灯に触れて容易く燃えてしまうほどの弱弱しさで。 黒が散る。黒が溢れる。黒が氾濫する。 銀幕を覆い、貪って、侵蝕するような黒が、ちらちらと蜉蝣めいて蠢く。 観客席の暗闇の中、一対の瞳だけが、不快なばかりの画面を捉えていた。 《 JailBreaker 》 焔が走る。 目を焼くほどの鮮やかな光が、蠢く黒の銀幕を切り裂いて幾つかの文字を描く。劉のフィルムに文字を刻む。それはたちまち燃え移り、広がって、画面中の黒い蟲を燃やし尽くしていった。不完全な燃焼を起こした音が、まるで笑みのような余韻を遺す。 浄化の炎でさえ不味いと喚くか、噫そうだ、《この街》は掃溜めだ。 燃えた炎と焼け落ちた蟲の壁の向こうに、濁った灰色の景色が現れる。日の射さない湿った路地、くすぶる汚泥の臭い、ひっきりなしに聴こえる銃声と断末魔。 ミュータント自治区――【バグズ】。 それがこの、薄汚い街の名前だ。 ブリキの扉を押し開いて、外に出た若い男が、甲高い音に貌を歪めた。ヴゥン、羽音のノイズが見るものの鼓膜を蝕む。アングルはそのままパンし、男の背後にボロのアパートを映し込む。住居と呼ぶにも御粗末に過ぎる。ただ、雨風が凌げるだけの、ねぐらだ。 サイケデリックなシャツの胸元から、八本足の蜘蛛のタトゥーが覗いた。鎖骨に内出血の青痣を残し、男は猫背を丸めて歩く。曇った陽射しが虫食いのように破れたトタン屋根から男を照らした。 無気力なブラウンの瞳は暗く、曇天の下濁った光を放つ。 画面がざわめいて、湧き出した黒いノイズが銀幕を埋め尽くす。 場面が切り替わる。怖気立つほどの蟲螻(バグ)と共に。 がつん、と、画面が激しく揺れる。 殴られた衝撃で、男の身体が吹っ飛んだ。脇に積まれた一斗缶をぶちまける。ブリキの角で額を打ったのか、鋭い痛みにうめいた劉はそのまましばらく起き上がれずにいた。数メートル先では、放り出された眼鏡のレンズが無残にも砕けている。 それを取り囲むように立つ数人の男たち。にやにやと歪んだ口許。蠢く黒いノイズに侵食された顔。 一人が劉の胸倉を掴んで引き起こし、またその頬を殴り付けた。 抵抗する力は、未だ残されている。 だが、男には端からそのつもりはない。いつもの光景だ。マフィア組織《タランチュラ・ファミリー》の下っ端として籍を置くヴァージニア・劉は、その実憂さ晴らしのサンドバッグ或いは新薬の実験台として扱われるばかりだった。 観客席の劉もまた、何の感慨も抱かぬ瞳でそれを見つめている。 ただ無為に息をし続けていた、かつての自分を。 ◆ 「兄ちゃん!」 イカれた肩を抑え、如何処置したものかと考えあぐねながらねぐらへと帰る劉を、角の死角になる場所から潜めた声が呼びとめた。 「あ?」 眼鏡の下で無気力な目を歪ませ、劉は警戒の眼差しと共に周囲を窺う。どうせこの肩ではろくな反撃もできないだろうが、それでも拳や鉛弾が飛んで来る方向だけでも把握しておきたかった。 しかし、予想に反して帰ってきたのは、彼を手招きする軽快な声だった。 「こっちこっち。早く来いよ」 角の電燈の陰に隠れるようにして、薄汚い襤褸のような服を纏う男が劉を呼んでいる。伸ばしっぱなしの前髪から覗く人懐こい眼差しに見覚えがあり、劉はああ、と気のない返事をした。よくねぐらの周辺で顔を合わせるホームレスの男だ。名前も素性も何も知らない。どうでもいい、とすら思う。時折顔を合わせれば声を掛けてくるくらいの、そんな関係なのだから。 劉は男に乞われるまま、だらけた猫背のまま角を曲がる。 ざァ、ザッピングのようなノイズが画面を横切って、瞬間、銀幕に違うシーンを切り取った。 暗く淀んだ部屋。打ちっぱなしのコンクリート。むき出しの鉄骨。簡素で殺伐とした白いベッド。黴と饐えた匂い。打ち捨てられた医療施設と言った風情の場所。――観客席の劉には、覚えがあるようで、なかった。 医療着に身を包んだ男が、マスクと帽で覆った顔の前に注射器を掲げる。 内容物を押し出せば、透明な緑の液体が針からつぅ、と零れ落ちた。 劉を呼んだ男は、周囲に人の目がないのを確かめると、彼へ小さな紙包みを差し出した。 「やるよ」 訝しげにそれを受け取って包みを開き、劉は微かに目を瞠る。 紙包みの中からは、安っぽく、薄っぺらいバーガーが丸々ひとつ姿を見せた。食っていいぜ、と男は請け合う。 「んだよ、珍しく羽振りが良いじゃねえか」 口端を擡げて皮肉な笑みを作れば、男はけらけらと笑い返した。がりがりと首筋を掻く指先から垢が削げ落ちる。 「まァな」 煙草を取り出し火を付けた劉に、恥ずかしげもなく一本乞う。呆れた貌で、画面に向けて劉は煙草を一本差し出した。 「実入りの良い仕事を見つけたんだよ」 「へぇ」 熱に浮かされたように話す男にとって、マフィア組織の下っ端にすぎない劉と同じだけの収入でも充分な大金なのだろう。 受け流すように相槌を打って、劉はバーガーに一口噛みついた。 ◆ ぞろぞろと、じわじわと、染み出してくる黒いノイズ。 汚泥の底で無感傷に生きる劉の姿を蝕む。画面の端で蠢いて、移り変わるシーンの端々に巣食う。 その黒は、変革への予兆。 パラパラと降る雨の下、劉は立ち尽くしていた。 噎せる匂いのゴミ置き場の中から、人の片腕が投げ出されている。短い薬指。あのホームレスのものだ、と身体の殆どがゴミに押し潰されていても判る。隣のビルの窓から落ちてきたのだろうか。見上げても痕跡など残っているはずもない。 ふと、開いた男の掌の近くに、小さな注射器が落ちている事に気付いた。 何の気も無しに拾い上げる。この薄汚い街では薬物中毒など珍しくもない。それを買う金が男にあったかは怪しい物だが、あの“実入りのいい仕事”で得た金を全て費やしていたとしてもおかしくはない。 注射器の中には何も残っていなかった。劉は顔馴染みの命を奪ったソレを矯めつ眇めつ眺めていたが、ふと、端に押されている刻印を見つけた。 八本足の蜘蛛の形。 ――《タランチュラ》。 注射器を握り潰した。針が折れ、掌に突き刺さったが、構う素振りすら見せない。踵を返して走り去る。 激しくなった雨が、取り残された死体の掌を打ちつけている。 強かな雨で肩を濡らし、劉の足は迷いなく、或る場所へと向かっていた。水溜りを踏む度大きく雫が跳ねる。ズボンの裾を濡らすのも意に介さない。劉自身も収容された事のある場所だ。地理は覚えている。 ヴゥン、ノイズが響いて、画面が移り変わる。様々な薬を投与されて、それでも顔色一つ変えない生白い貌の男が映り込む。昔の劉だ。彼は毒や薬には強い。 また、映像が戻る。打ち捨てられた廃墟のような建物に忍び込み、下へ下へと降っていく。白い壁。打ちっぱなしのコンクリート。落ちたパイプ管。どこからともなく吹き込む隙間風。医療施設と呼ぶには不衛生に過ぎる。所詮は実験施設だ。 黴の匂いが空気を湿らせる。客席の劉の中に、あの時の感覚が蘇る。降り続いた雨に温度を奪われ、凍るような指先でドアノブを押し開いた。 無人の部屋で資料を漁り、劉は様々な情報を得ていく。秘密裏に実験台を募り行われていた新薬の実験。――ソレを使えば、一般人でも劉のような特殊能力に目覚める、と。劉が実験台に使われなかったのは、既に彼がミュータントだったからか。 しかし、未完成の薬には強い副作用があった。服用者の寿命を大幅に縮め、時に麻薬のような強い幻覚作用をも引き起こす。 子供でも判る話だ。男は、その“新薬”によって命を落とした。 怒りのあまり、手の中の資料を引き裂こうと力を入れた瞬間。ふと人の気配に気づき、劉は慌てて身を潜める。 廊下を歩く二つの足音。会話の内容に耳を欹(そばだ)てた。 「……聞いたか? モルモットの一人が中毒で死んだそうだ」 「それがどうした。ゴミの命と引き換えに、クスリの裏付けがとれるなら安いもんだ」 嘲るような笑み。歪んだ口許が大写しになる。 唇を噛み締める。劉の眼鏡の奥の瞳が、不穏に閃いた。 お調子者で、面倒に思った事もあった。 煙草を吸う度に強請られるのが不愉快だった事もあった。 ――だが、それでも、劉にとっては掛け替えのない相手だったのだ。 この、薄汚いスラムの中で、唯一彼を殴りも嘲りもしなかった男。親切に、劉の事を気に掛けてくれた。名も素性も知らない相手。 あの薬を世に出せば、また、心優しい誰かが死ぬ。 こんな自分にさえ親切にしてくれた、あの男のような――。 ノイズがざわめいて、黒い蟲螻が画面を覆う。 不穏に閃くダークブラウンの瞳を隠すように、黒い夜を招く。 月光も射さない昏い夜だった。 「――追え、決して逃がすな!」 数人の追手から身を隠しながら、劉は腕の中の鞄を抱き締めて駆けていく。まるで鼠のように、こそこそと身を小さくしながら路地裏を往く。 その日の夜、再び施設に忍び込んだ劉は、新薬のサンプルと資料を根こそぎ盗み出した。 路地裏の地理には詳しかったが、やはり不健康が仇となった。肉体労働の得意でない劉は直に息を切らし、長く逃げ切る事も出来ず路上の缶に蹴躓いた。汚れたアスファルトにキスをする。顔を強かに打ちつけて、それでも尚駆け出そうと身体を起こす――その肩に、炎が撃ち込まれた。 「――ッ!!」 遅れて激痛が肩を襲う。吹き出す血、貫通した弾丸がアスファルトの上に転がり落ちる。また、路上へと這い蹲る。 高く足音が響いて、劉は荒く息を吐きながらも振り返った。迫りくる男の、拳銃を持つ手に毒蜘蛛のタトゥーが大きく彫られている。 「大人しく薬を渡せば命だけは助けてやる」 男の貌は影――否、輪郭がざわめいている。黒い蟲が無数に群がって人の形を象っているだけ。吐き気のする光景だ。 額に押しつけられた虚ろな銃口。 劉は目を閉じ、皮肉気に口許を吊り上げた。 「断る」 指先に力を籠める。 男の死角から鋼糸を呼び出した瞬間、引き金を引く指に力が入ったのが判った。 糸がその胸を貫くのと引き換えに、鉛弾が放たれる。 目を閉じたまま、それを待ち侘びる。 ヴゥゥウウウン! 強い羽音が轟いた。 黒のノイズが瞬時に画面を覆い尽くし、端から蝕んで行く。ボロボロに崩れて融けていく映像。その向こうに最早何が映っているかも判らない。ざわざわと蠢く蟲の群れ。――唐突に、動きを止めて。 そして、映像が途絶える。 ◆ 客席に照明が燈る。 「どうだった?」 映写室からの扉を潜り、感想を問う映写技師の手には、まだら色の黒いフィルムが握られていた。ダークブラウンの瞳がそれを一瞥し、ああ、と気のない返事をする。 「……馬鹿なことしたもんさ」 肩を竦め、けだるげな仕種で劉は虚空を見上げる。 「組織に歯向いさえしなけりゃ、世は全て事も無しだったのに」 謳うような自嘲。あの件がなければ、こうして《変革》を迎える事もなく、汚泥の底でただ息をするだけの命だったろう。何にも心を動かされずに、ただ丸まって生きていたのだろう。 「……だが、君に後悔などはないようだが」 映写技師の見透すような視線を疎い、劉は立ち上がった。曖昧に礼を云い、客席を抜けて男の傍を擦り抜ける。 「また、来てくれ」 劇場の扉を潜る背中へ、追いかけるように掛かる声。 劉はただ右手を軽く上げてそれに応えた。 ――《奴ら》にとっては、ゴミに過ぎなかったのだろう。 あのホームレスの存在も、下っ端のモルモットであった自分も。 だが、それでも。 ゴミのような人間にも、ちっぽけだが譲れない物がある。プライドと呼べるほど立派ではなくとも、それは確かに、今も尚己の中に根付いている。 忌わしい薬は全て、毒を知らず、効果もないこの身に流し込んだ。副作用など知ったものか。 毒蜘蛛を隠す胸元を握り締め、劉はターミナルの蒼い空を睨めつける。 <了>
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