その日、画廊街の片隅で、その映画館はいつも通りに開館時間を迎えた。 両開きの硝子戸に掛けていた『CLOSE』の札を『OPEN』へと裏返すため、外へと出た映写技師はふと、煉瓦の路の上に一人の少女が立っているのを見つけた。 「いつかは世話になったのじゃ」 左右に分けた三つ編みを弾むように揺らし、ジュリエッタ・凛・アヴェルリーノは彼へ、行儀よくお辞儀をして見せる。その傍らでは彼女のセクタン・青い梟のマルゲリータが忙しなく翼を動かしてホバリングを続けていた。 「いらっしゃい」 微笑んで、応える。 澄んだ海のような碧の瞳が、何かを伝えようと強く煌めいている事を見てとり、映写技師は手を掛けた札を裏返すことなく、彼女を館内へといざなった。 ◇ 「わたくしは、一目でいいから未来の伴侶の姿を見たいと常々願っておるのじゃ」 ロビーを抜け、劇場へと続く廊下を歩きながら、少女は夢みがちな瞳を輝かせて男に語る。映写技師は相槌を打ち、ただ静かに聴いていた。 「それで、何度もヴォロスのメイム――神託の街へと通ったのじゃが、中々その貌を拝む事は叶わなくて」 「そうか。……何度、挑戦を?」 「……五度、じゃ」 僅か、恥ずかしげに顔を伏せるジュリエッタに、映写技師は眼を丸くして笑った。少女の可愛らしい好奇心と行動力を讃えるように、安堵させるように頷く。 「だから、此処へ来たと言う訳だな」 「そうなのじゃ。夢ではわたくしの邪念が現れてしまうのかと思って……以前、素晴らしいフィルムを見せて頂いたここならば、と」 不躾な願いだと言うのは判っている。 そもそも、シネマ・ヴェリテは時に行列が出来るほどの人気の催しなのだから、こうした突然の依頼を受けてもらえる事はないと言うのも重々承知の上で、彼女はここを訪れた。 恐る恐る横目で彼を窺うと、映写技師は静かに黙したまま、観客席へ続く扉を推し開いた。 一歩、足を踏み入れて、彼は軽やかに振り返った。 「贔屓にしてくれて、ありがとう」 今日は閉館にしておいたから、と映写技師は笑って、ケレン味溢れる仕種でお辞儀を一つ、少女へと送る。 「さて。――御所望のフィルムは、黄金《希求》で宜しいですね?」 活動弁士の前口上の如く、滑らかな口振りでそう、問いかけた。 ◇ そして、客席の照明が落ちて。 ジュリエッタを巡る、二巻目のフィルムの上映が始まる。 銀幕を覆い尽くして、黄金のノイズがちりちりと白を蝕む。熾き火のように燻り、フィルムの回る音に合わせて踊る。 《 Dimane del Sole 》 ターミナルの蒼い空を、黄金のノイズが彩って、鮮やかな光を描いた。 樹海の中に聳える二つの街の鳥瞰から始まり、徐々にアングルが高度を下げていく。木々の間を潜り、アーカイヴ遺跡の外壁を駆け登るようにして、映像は黄金のノイズと共にターミナルを駆け抜ける。 やがて、ある小さなチェンバーの家の前で、カメラは立ち止まった。 《 ――これは、我が伴侶の歩いてきた旅の軌跡。 》 黄金の字幕が、銀幕の右端に紐解かれるように現れる。 その文字を追うようにして懸かるナレーションは、何処となく落ち着いて聴こえるが、確かにジュリエッタ自身の声だと判った。 古めかしい屋敷の奥の書斎。黄金のノイズが埃のようにちらついて、古書の匂いが鼻孔を擽る、柔らかな光射すその場所で、金の髪の少女がデスクに齧り付いて文字を書いている。手元のメモ帳を捲り、首を傾げ、少しずつ、少しずつ原稿用紙を埋めていく。 三つ編みの髪を解いて、長く伸ばしたジュリエッタの姿がそこにある。 数年後か、数十年後か解らないが、恐らくは壱番世界から身を引いて、ターミナルで生きる事を選んだ彼女の姿なのだろう。自身のセクタンを文鎮代わりに原稿用紙の上に留まらせたまま、ひたすら、何処か楽しげな様子で文字を綴っていく。それを読み上げるように、ナレーションが挟まる。 『……ああ。ここにいたのか』 ふと、書斎の入口から声が掛かった。 貌を上げたジュリエッタが、嬉しそうに振り返る。 『おかえりなさいなのじゃ!』 幸福そうなその表情を彩るノイズは美しく、煌めいて銀幕を飾る。原稿を脇に置いて、メモだけを片手に声の主――彼女が伴侶と認めた、たったひとりの男性の元へと歩み寄る。遠目のアングルで、顔も判然としない男性は、しかし優しく逞しい体躯をしている事だけが解った。 『ただいま。留守番ありがとう』 『妻の務めとして、当然の事をしているまでじゃ』 彼のいない間に家事を済ませてしまうのも、その合間に彼の冒険小説を綴るのも、随分と慣れて効率良くできるようになった。幼く世間知らずだったジュリエッタは、異世界の人やターミナルの仲間たち、そして何より彼との出会いで、確かに成長していた。 そして場面は移り変わり、小さな屋根裏部屋に黄金の光があふれる、暖かなひとときが映し出された。 窓の光から外れた翳りの下、椅子に腰かけた伴侶が冒険依頼の話を聞かせ、ジュリエッタがそれを興味津々に聞いている。メモ帳には新しい物語の断片が書き留められ、沸々と湧き上がる創作意欲を、暖かな紅茶で喉を潤すついでに呑み込んだ。 『君は、以前のように旅に出る事はしないのか?』 ふと、伴侶が立ち上がって紅茶を注ぎ足しに向かう彼女へと問いかける。 マグカップからふわりと香り立つ、黄金のノイズを鏤めた湯気に遮られて、こちらを振り向いた貌は見えない。ジュリエッタは入口から伴侶へ笑い掛け、首を振った。 『良いのじゃ。わたくしはここで、そなたの帰りを待っているのが楽しいのじゃから』 完全に依頼に向かわなくなったと言う訳ではない。 それでも、以前よりは随分と数が減ってしまった。 しかし、ジュリエッタの中に物足りなさなど無かった。彼女が旅に出なくなった分、彼の冒険譚をたくさん聞いて、それを小説にする事が出来るのだから。 二人で階下へと降り立ち、キッチンの棚を開けたジュリエッタが、何事かに気が付いた。 『あ』 思わず、と言った様子で声を上げたジュリエッタへ、彼が貌を向ける。 『どうした?』 『調味料を切らしてしまったのじゃ。買って来ようと思う』 そう答えて、いそいそと外出の支度をする。帰って来たばかりの伴侶と、一時的にとは言え再び別れるのは少し淋しいが、 『じゃ、今度は俺が君を見送る番だな』 『大袈裟じゃのう』 笑いながら、連れ立って玄関へと向かう。見つめ合っている内、伴侶が、幼いままのジュリエッタの背を引き寄せた。上半身を屈め、抱きしめた少女の顔に、己の顔を近づける。そっと、眩い空の光に切り取られた二人の影が重なっていく。 初々しく頬を染めて、瞳を閉じたジュリエッタがその瞬間を待ち侘びる。銀幕の外側のジュリエッタもまた、恋焦がれていた将来の伴侶の顔をついに拝む事が出来るのだと、期待に胸を膨らませた。知らず両手を握り締め、高鳴る鼓動と共にフィルムの回転を待つ。 ゆっくりと、近付いてくる伴侶の顔。 翳っていたそれが、徐々に明らか、に―― 「な、なんなのじゃああああ!?」 ――ならなかった。 瞬間、銀幕に大写しになったのは、鏤められた黄金のノイズのど真ん中をぶち抜いた大きな穴。演出のようにはとても見えなかったし、すぐにフィルムは元通りになって、ジュリエッタから顔を離した伴侶が悪戯に笑んで、そっと抱き留めていた手を離す姿が映る。最初と同じ、遠くからのシルエット。結局その貌は映らなかった。 『では、行ってくるのじゃ』 『ああ、いってらっしゃい』 思わず悲鳴を上げてしまった客席のジュリエッタを置き去りに、フィルムは回り続けていた。 新婚の夫婦のように初々しく、微笑みを交わし合った二人が、手を振って扉の外と内に別れる。黄金のノイズが溢れる室内の景色が扉の向こう側に消えて、ジュリエッタもまた、名残惜しさを振り払ってチェンバーの外へと歩き出す。鮮やかな青い空に、碧の瞳を細める。 それはささやかで、幸せな、日常の風景。 ジュリエッタが希う、黄金のひとときだ。 ――そのはず、なのだが。 「うう……またしても御顔を拝見する事は叶わなんだな……」 ◇ 再び、客席に照明が燈る。 「……これは、君のセクタンだな?」 苦悩と疲労を滲ませた声が、映写室の側から掛かった。余韻に浸る間もなくジュリエッタが振り返ると、黄金のフィルム缶と何やらばたばたもがいている青い毬を両手に、映写技師が彼女の元へと歩いてくるのが視える。 「マルゲリータ……?」 小さな羽根を大量にまき散らし、技師の手から逃れようと翼を撒き散らすその毬――否、梟は、ジュリエッタと長く旅を共にしてきた相棒そのひとに間違いなかった。 「いつの間にそちらへ?」 「さあ。上映後は扉も窓も開けていないから、その前に潜り込んだのだろうが……やってくれたよ」 そう言って、深く長い溜息をひとつ。 マルゲリータを飼い主へと返して、額に手を宛てた男は困ったように眉を下げた。もう片方の手に持つフィルム缶の中身を引っ張り出し、首を傾げる彼女へと見せる。 「あ」 「……気付いたら、やられていた」 やわらかな黄金に染まったフィルムの途中、一カ所だけが大きく破れているのが目に入った。碧の瞳を丸くして、ジュリエッタは映像を思い返す。一瞬だけ途切れ、映画から消えた、将来の伴侶の顔。何かに食い破られたかのようなフィルムの破損。――すべて、合点が行った。 「――またもそなたの仕業かマルゲリータ!」 思わず頓狂に声を荒げても、セクタンはほう、とただとぼけた顔で首を捻るのみ。 「大人しくしておれと、あれほど言って聞かせたじゃろうに……」 そもそも、好奇心の旺盛なこの相棒に、映写機などと言う真新しい物を見せてしまったのが間違いなのだ。回る黄金のフィルムを眺めていた彼(彼女?)は、その内我慢が出来なくなって、フィルムを嘴で突いてしまったのだろう。――それが、ジュリエッタの待ち望んでいた伴侶の顔の上に突き刺さったと。シンプルだが、遠くを見つめてしまいたくなるような真相だ。 五度――四度だろうか? これまでの夢もこうして、全てマルゲリータに台無しにされてきたことを思い出し、ジュリエッタはがっくりと肩を落とした。 「すまない。管理の不届きだ」 「そんな、技師殿のせいではないのじゃ! むしろ侘びなければならぬのはわたくしのほう――流石に今回は怒るぞマルゲリータ!」 同じように肩を下げ、頭を垂れる映写技師へ、両手をぶんぶんと振って見せる。懲りないセクタンの鳥脚をやるせない想いを籠めて握り締めると、ぴぎゃ、と鳥類らしい鳴き声を上げてマルゲリータは小さく竦み上がる。コミカルなその様子を眺めていた映写技師が、思わず噴き出したのを見、ようやくジュリエッタもまた笑みを零す。 「……とはいえ、素敵な映像を感謝なのじゃ」 そして、改めて映画への感想を口にする。 映写技師の静かな瞳が、それを待ち侘びている事を感じ、ジュリエッタは姿勢を正した。――マルゲリータの足は掴んだまま。 「わたくしももう受験生。どんどん己の生きる時は周りと外れてゆく」 それはコンダクターの負う、哀しくも逃れられぬ宿命だ。 ジュリエッタの姿は十六歳の少女のまま、帰属しない限り加齢する事はない。本来の彼女はもう、大学へ進学しなければならない年齢だと言うのに。 一番最近に見た神託の夢は、彼女がヴォロスの一地方に帰属を選ぶ姿を見せてくれた。思えばあれも、今見た映画と同じ、彼女の揺れる心を映し出していたのだろう。 「このまま壱番世界に居るべきか、いつかは決断しなければならぬ……そう思っていたから、このような映像を見たのかもしれぬのう」 しみじみと、感傷に浸りながら呟く。 「佳き未来を見せて頂いた事、感謝しておるぞ、技師殿」 「ああ。……今度は、彼に邪魔されないよう、気を付けておこう」 肩を竦めて微笑みあい、フィルムを彼の手に預けたまま、ジュリエッタは映画館を後にした。 <了>
このライターへメールを送る