「……儀莱(ニライ)へ?」「ああ。再び向かいたいのだが、構わないか」 行き交う旅人と世界司書とのやり取りで賑わう世界図書館、ロビー。 導きの書を枕にし、再生した世界計の隣で早くも惰眠を貪ろうとした巨躯の虎猫へ、二人の旅人が声を掛けた。 儀莱――別たれた豊葦原・朱昏の東南に位置する、《理想郷》と呼ばれる小さな島国。雪は以前、彼の島を訪れた事があった。「構わないけれど、どうしてまた」 顎を擡げ、訝しげに首を傾げる灯緒に、雪・ウーヴェイル・サツキガハラは微かに笑って肩を竦める。「特に深い意味はない。彼の地の空気に再び触れてみたくなっただけだ」 あの島の、独特な生と死の在り様を、快く思わぬ者も決して少なくはないだろう。――しかし、ヨリシロとして死の世界を身近に感じる雪にとっては、それは受容できぬ在り方ではなかった。「……きみは?」 鋭い黄金の瞳が、雪から隣の青年へと滑る。 独特な灰色の瞳を軽く丸めた後、蓮見沢 理比古は、ふわり、と色香立つように笑ってみせた。「綺麗なところだって聞いたから、観てみたくて」 彼もまた、死者の国に近しい彼の島を懼れてはいないようだった。 そう、と簡素に頷いて、虎猫は枕にしていた導きの書をめくると予言を探し始めた。「彼の島は今、祭の時期らしい」「祭?」「うん。祭と言っても、定期的なものじゃないんだ。むしろ数十年に一回、あるかないかくらいの」 穏やかな、停滞していると呼んでも過言ではない時間の流れを持つ彼の島で、島の外の人間が定めた日や年は然程意味を持たないようだ。「先月くらいかな。島を護る祝女(ノロ)の一人が、突然亡くなったらしい」 そして、何でもない事のように、そう告げる。 雪は僅かに驚いて、彼のであった祝女の姿を思い返した。島民たちとは違う《生》を持っているであろう彼のミコたちにも、《死》は等しく訪れるものなのか。「……そして、欠員を補うように、島には新しい祝女が産まれる」 《産まれる》と言っても、決して赤子から成長する訳ではない。儀莱に棲む人々は全て、《発生》した時から死ぬまで、成長も老化もしないのだから。「それを祝う祭り、と言う訳だね」「そう。祝女たちの崇める神の座から、一人の娘が降り立ってくる。新たな祝女になるその娘を、島の総出で歓迎するんだ」 とても賑わっているみたいだから、楽しんでくるといいんじゃないかな。 いつも通りの放任的な言葉で締め括り、虎猫はチケットの手配へと向かった。 ◇ 罅割れた夜空のようにも見える《ディラックの空》が、朱色の雲を纏う青空へと姿を変える。無限の世界群の一つ、別たれた豊葦原・朱昏へと乗り入れた合図と見、雪は再びの来訪に窓枠から顔を覗かせた。 朱色の霧が、薄く薄く大気を覆っているのが視える。――場所により、花と成って咲き乱れ、雪となって降り積もり、そして雨となって打ちつける、不可思議な朱の色彩が。「――あそこの雨は、過去の情景を映す」「……うん、それも気になってるんだ」 僅か、逡巡するような間を置いて反応を返した理比古へ、雪はゆるやかな所作で振り返った。「理比古にはもう一度顔を見たい、会いたい者がいるのか」「そうだね。叶うなら、ありがとうとごめんなさいを言いたい人がふたり、いるよ」 近付いてくるコバルトブルーの海と、その奥に覗く緑溢れる島を窓の外に見遣りながら、理比古は何かを懐かしむように、瞳を細めていた。 ◇「いらっしゃいまし、御客人方」 朱紫の小袖を羽織った女と、銀の刺繍を施した白装束の女とが並んで、ロストレイルから降り立った二人を迎え入れる。「久しいな」 雪の言葉に、女たちは顔を見合わせて、柔らかに微笑む。ふたり、よく似た顔立ちながら、確かに別の存在だと判る不思議な雰囲気を纏う女たち。島の各地に点在する集落を預かる、祝女だ。 それぞれの集落には、ひとつずつ象徴とも言える樹が咲いている。 雪が以前訪れたのは空木の集落だが、他数人の旅人は業火の花――鳳凰木の集落を訪れたらしい。そして、今回亡くなったのは、島の西に位置する白い桜の集落の祝女だと聞いた。「祭は明日まで夜通し続きますゆえ」「どうぞ、ごゆるりと」 二人は交互に語って、彼らをいざなうように緩やかに踵を返した。 ちょうど、ロストレイルの着岸した浜とは真逆に位置する場所のようだった。 白い砂浜に足を踏み入れて、ふたりの旅人は青い青い海の向こう側に見えるものに目を奪われる。「わぁ……!」 思わず、理比古が目を見開いて感嘆の声を零す。 赤、白、金――様々な色の花に埋もれた小島。此岸からは距離があって、その全貌を把握する事は出来なかったが、視界に移るだけでも鮮やかな花々が咲き乱れている事は解る。 流れる季節にも頓着せず、ただ美しく色彩にうずもれた島だ。「あれが、あなたがたの《カミ》……」 海峡越しにもはっきりと伝わる、充ち溢れんばかりの神威に圧倒されながら、茫と雪が声を落とす。異世界の神に仕えていた彼には、彼の地の持つ神性が痛いほどよく判る。かつて訪れた、珊瑚の入江をも凌ぐ、大きなカミ――此の島で言う、霊威(セジ)が渦巻いている。「ええ。我ら祝女が代々守り続けているものに御座います」 祝女が続けて言うには、あの向島で、祭事が行われるとの話だった。 新たな祝女となる娘が一晩、離れ小島で神のもとに身を捧げ、正式に島を護るものとして認められる。「……その、新しい祝女は?」「今、貌見せを終えて戻って参りましょう」 そう言って女の指差した先、コバルトブルーの海の上を、朱い小袖が舞う。 細波立つ水面に波紋を描きながら、点々と、花笠を被った小さな娘が、遠くに見える離れ小島から此岸へと渡り来るのが視える。海の上を、躍るように。 その後を追うように、一艘の小舟が小島から姿を見せた。 面で貌を隠した二人の漕ぎ手と、白装束の女を乗せて。 岸へと辿り着いた花笠の娘は、ひらりと朱い裾を翻し、紫の蝶に変化して祝女の纏う小袖へと姿を消した。桟橋に横付けされた小舟から、女が降り立って、待ち侘びる島民の元へ粛々とやってくる。 頭頂から白い羅紗を被り、その貌は見えない。 絹の下から零れる、漆黒の髪が流れる風に靡いた。「……話によれば、この後は夜まで、先代の屋敷に居るようだ」「あの、桜の咲いていたお屋敷?」 頷いて、雪は緑の木々の向こう側に垣間見える、白い霞の花を指し示した。九人の祝女が貌を覆った女を連れ、静々と、雪の指差した方向へと歩み始める。ぞろぞろと、島の民もまたその後を追った。 ――それはまるで、嫁入りの行列のようにも見えた。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>蓮見沢 理比古(cuup5491)雪・ウーヴェイル・サツキガハラ(cfyy9814)=========
静かな行列が、止まる。 桜の祝女――となる娘が無事、屋敷に辿り着いたのを見届けて、二人は先ず島中を見て回る事にした。夜まで未だ時間はある。今はこの雰囲気を楽しみたいと。 「何を見るのが正しいのかな。……それとも、ここには正しさなんて堅苦しいものはないのかな」 生と死を内包する、歪んだ在り方とすら呼ばれるこの島の姿も、今の理比古の眼には、暖かな光景に映る。 祭と祝福に、島全体が綻んでいるようだった。 「ここの空気は雪に似ているね」 「私に?」 柔和な笑みから紡ぎ出された唐突な言葉に、雪はふと足を止めて眼を瞬かせた。屋台で貰った手の中の菓子を一口齧り、理比古は頷く。歩き始めたばかりなのに、既に腕に抱える膨大な量に僅か目を瞠る雪の態度も意に介さない。 「ん。何て言うのかな、神聖でいて堅苦しさがなくて、優しくて、全てを赦してくれる。そんな雰囲気」 鋼のような光零す灰色の瞳が、凛と背筋を伸ばす友人の姿を静かに見つめている。騎士然とした佇まいながら、威圧感を相手に与えない。ただ穏やかに寄り添う、名の通り冬の雪のような静謐さを湛えた男だと思う。 雪は涼しげな面差しに穏やかな微笑を刷き、何処からか降り注いできた花弁をひとひら、掌の中に握り締めた。 「そうか。……だが、私には理比古、おまえに似ているように思える」 今度は、理比古が眼を瞬かせる番だった。同じ言葉を返されるとは思っていなかったのだろう、ただでさえ若々しい顔立ちがよりあどけなくなって、雪は思わず笑みを零した。 希望も絶望も、幸福も苦難も、――生も死も、全ての在り方を受け容れて、内包する、複雑でありながら至極研ぎ澄まされた、美しい在り様だと思う。 「――なら、俺たちは似た者同士?」 「そう言う事になるな」 平和な結論に落ち着いて、ふたりは顔を見合わせて笑い交わした。 ◇ 桜の屋敷に戻った雪を見送って、理比古は一人、祭の中を歩く。 ふわりと薫る甘い匂いに釣られ、立ち寄った家先では家主らしき老年の男性が何やら砂糖醤油で焼いた煎餅を丸めた物を作っていた。雪に呆れられるほど食べていたにも関わらず、食欲に乗せられて理比古はひとつそれを貰った。――今日は口煩い母親役が居ない分、のんびりと胃袋を充たす事が出来る。 この日の為にと用意しておいた朱昏の通貨を差し出しても、男性は首を軽く傾げただけで受け取らなかった。この島では経済という価値観が存在しないのだろうか。理比古もまた首を傾げ、しかしそれがこの島の在り方なら、と微笑んで許容する。 「――もし、旅の御方」 甘味を堪能する理比古の耳に、ふと、静かな声が沁み込んだ。 振り返れば、長い黒髪の女が一人、彼の元へと歩み寄ってくるのが見える。白い衣裳を纏うその姿は、祝女のひとりだろうか。 「あなたは?」 「ソヤ、と申します」 女は翳りのある微笑みを浮かべ、恭しく頭を下げた。異国情緒のある儀莱に於いても、どこか浮世離れした、大振りな紋様の装束を肩から羽織っている。 島の中央の集落を預かる祝女。十人の花嫁たちを統べる、頭領的な存在であるらしい。 「突然呼び止めたりして申し訳ありません。御聞きしたい事が御座いまして」 儚げな面差しの女は、仰々しいとも取れる畏まった言葉で、理比古を静かに見上げた。 「うん。俺でよければ」 快く頷いた理比古に、祝女はぱっと貌を輝かせた。 「数日前から、島の娘が一人行方を眩ませておりまして。何か心当たりは御座いませんか?」 「娘さん……どんな子だったの?」 流石に、年頃の娘、というだけでは心当たりが多すぎて答えられない、と真摯に問い返せば、女は不躾な問いを一蹴されなかった事に安堵の笑みを浮かべた。 「……そうですね、私によく似ている、と集落の者には言われておりました」 「ソヤさんに?」 「はい」 鳳凰木の集落の女が弾く三味線に興味を示していたと、懐かしむようにソヤは続ける。 「うーん……心当たりはないけど、気にしてみるよ」 「有難う御座います」 礼儀正しく儚げな祝女はまた、ひとつ頭を下げた。 庭先での支度を終え、客間へと戻ってきた雪は、主たる桜の娘に対面した。 「どうか致しましたか?」 白い衣裳、白い羅紗。霧の中に隠されたような朧げな佇まいで、しかし娘は確かに微笑んでいる。 甲冑姿の雪は礼儀正しく畳に座し、深く頭を下げた。短く、しかし心を籠めた言祝ぎを送った後、感謝を述べる。 「私たちのような外からの来訪者でも、快く受け容れてくれて、感謝している」 「いいえ」 静かに沁み入る清水のような声で、貌を隠した娘は微笑む。 「この島は新たな客人を歓迎します。私たちもまた」 儀莱は循環を許容する。人が訪れる事も、去っていく事も、全て。海に囲まれた島ゆえ、外からの客人は珍しく、祝女たちも興味深いのだと、桜の娘は続けて言った。無邪気なその様子に、雪もまた笑みを浮かべる。 ――ふと、庭先から声が届いた。 「うわあ……!」 祝福に華やぐ村から戻ってきた理比古の目に飛び込んできたのは、桜舞う民家の庭先を彩る白。落ちた花弁の合間を縫って描かれる、龍に似た陣形。さながら、雪化粧のような。 「これ、雪が?」 「ああ。彼女への祝いに、剣舞を奉納しようかと思って」 桜の娘と共に理比古を出迎えた雪が、頷いて応えた。狼の意匠を胸元に設えた、甲冑姿が彼の凛然とした佇まいによく似合う、と思う。 普段であれば黒紙に白墨を用いた簡素な陣を使うのだが、今日ばかりは時間に追われているわけでもなく、また心からの祝福を顕したくて、雪も手を抜かなかったらしい。 「俺も見てもいいかな」 「勿論。軒先で待っていてくれ」 理比古をソヤと桜の娘の待つ縁側へと促しながら、雪は白墨の陣の中央に進み出る。水平に、胸の前に己の愛剣を翳し、恭しく瞼を閉じた。 「……新しき守り手を前に、カミよ、あなたは何を見せてくれる?」 独白。まるで祝詞のような。 鋼の刃が、虚空を滑る。 青白い光がその軌跡を追って、熱の籠った大気に燈った。 甲冑の靴底が湿った大地を踏み締めて、高い音を立てる。凛、と大気が澄み渡る。燈った光が粒子に成って弾け、剣閃を翻す舞手の周りを彩った。白隅を彩る桜の花弁が舞い上がり、光に成って青白い剣閃と共に舞う。彼の名と同じ雪のような、しかし暖かな色彩に囲まれて、ヨリシロは剣を振るう。ほのかな闇を纏う御剣が、その刃を鮮やかに閃かせた。 清廉な大気の中、白墨の蛇龍に抱かれた異国の巫が捧げる剣は、瞬間的に、儀莱の地に宿る神威を極限まで高めた。 耳が鳴るほどの静寂の中、いびつな音が響き始める。 虚空から押し出されるようにして、じわり、と朱の霧が染み出した。 神気に充ちたヨリシロの剣が暴き出したるは、場違いな妖気。犬に似た形をとる、幻影の如き淡い気配が、当惑に揺らぐ。 黄金のアーモンド・アイズが、確かにソレを捉えた。 次の瞬間、振り翳した刃が袈裟掛けに躍り、朱の影は真二つに裂かれている。断末魔も上げる事無く、静かに霧となって大気に融けた。しゃァん、大地を踏み締める甲冑の音が、その残滓さえも散らし消し去る。 「……今のは」 わずか眼を瞠って、思わず声を上げた理比古に応えるように、ソヤが口を開いた。 「どうやら何者かの刺客が入り込んでいたようです。……王の護る海を越えるなど、愚かな事を」 それ以上は何も言わず、黄金の祝女は眼前で披露される剣舞に魅入る。 理比古もまた、雪の剣が魔を祓ったのならば心配は要らぬとばかりに、問いを重ねる事はなかった。 降り注ぐ白い光の中、陽炎が揺らぐ。 霧のように不定形に揺らぎ、理比古の眼に辛うじて人と判る、朱の影だ。雪の舞を阻害せぬよう、静かに佇んでいる、 ソヤの反対側に座っていた桜の祝女が、驚きとともに立ち上がる。 そのまま、何かに魅入られるように、一歩、庭へと踏み出して。 「――うえさま」 薄衣の奥で、色付いた唇が小さく、しかし確かにそう呟いたのを、理比古は傍らで聴いていた。 細い指先を花の雨に伸ばす。蜃気楼のように揺らぐ影――彼女には、その姿がはっきりと見えているのかもしれなかった。 「いつまでも、お慕い申し上げております」 白い羅紗に遮られてその貌は解らずとも、確かに娘は幸せそうに微笑んだのだと、そう判った。 理比古もまた、ほのかで淡い笑みを浮かべて娘と花の雨とを見護っている。 ◇ コバルトブルーの水面に波紋を描いて、二艘の船が往く。 祝女となるべき娘と、その見届け人である空木の祝女が島に上ったのを見届けた後、二人も一時の上陸を許された。 一歩、足を踏み入れて、その光景に息を呑む。 空も、大地も、全てが花に覆われている。木々に咲く花、地面から咲く花、鮮やかな色彩が、島全体を包み込んでいた。 島の内部は大きく、五カ所に分けて違う色彩で統一されているようだった。金木犀、槐花、茴香や女郎花を初めとした金の花を中央に、白、朱、青、黒――紫と言った花々が大地と中空とを飾っている。 ふらりと引き寄せられるように黒花蝋梅の樹に近付いた理比古が、ふと屈みこむ。 「どうした?」 「ん? 摘んでもいいって言ってくれたから」 理比古は小さく笑むと、足許の赤い花を一輪摘み取って大事に握った。 「それは?」 「天竺葵。花言葉は『婚礼の贈り物』だったかな」 壱番世界の風習だけどね、と補足を添えて、手の中の花と共に微笑む青年は、春の香に似た色気を纏っているようでもある。目映い空を見上げるように、雪は眼を細めて成程と頷いた。 笑み交わす二人の視界を、唐突に朱が遮った。 雨か。 ――否、雪だ。 「こんな暖かいのに」 降り注ぐひとひらを掌ですくい上げ、理比古が首を傾げる。指先に留まった朱の欠片は融ける事もなく、綿帽子のように柔かな感触を残したままふわりと風に舞う。そしてまた地面に落ちて、そこで初めて陽炎のように姿を消した。 「雪……でも、ないようだな。これは」 冷たさを与えず、ただ深々と降り注ぐだけの朱。 まるで何かを迎え入れるかのように、上空へ舞い上がり、落ちてくる。 暫しその光景に見とれていた理比古が、唐突に何かを気取った。 「これ……何かの卵みたい」 「卵?」 「種子って言った方がいいのかな。蒲公英の綿毛とか、そう言うのに似てる」 地面に落ちて、その奥に溶け込んで行く姿は、まるで綿毛が大地に根差していくようだ。 しかし何の種子かまでは判らなくて、二人はまた暫しの間、深々とした光景に口を鎖した。 舞い交う朱のスクリーンの中、優しい記憶が蘇る。 じっとその瞬間を待ち侘びる雪の前で、庭園のあずまやの下、ふたりの男がテーブルを囲んで座している光景が現れた。 「……ジーン、陛下」 以前この地を訪れた時にも見た、雪の敬愛するふたりの姿だ。雪は眼を見開いて、しかしすぐに懐かしさに細めて笑う。 (男三人のみとはむさくるしい茶会だな) 苦笑を含んだ声が響く。朗らかで、信頼と安寧に肩の力を抜く、この声は己自身のものだろう。視界の先で、二人の朋がからからと笑い声を上げる。 (確かに) 年上の親友――近衛騎士団長ユーヴェルジーンが、雪の言葉に短く同意を返す。淹れられた紅茶の香りを楽しみ、椅子に深く腰掛ける姿は豪放で、誰もが好感を抱くだろうと思わせるほどのおおらかさがある。 (ならばジーン、そなたドレスでも着て参れ) 唐突に王がそんな事を言うから、親友が飲んでいた茶を噎せそうになり、寸での所で留まった。文武両道に秀でた優れた王でありながら、しかし遊び心や柔軟な思考を忘れぬ名君であったと思う。 (……俺がやったら犯罪ですよ陛下) 呆れたような声音に、今度は雪が吹き出す番だった。 現実の彼自身も、くすり、と笑みを零し、しかしすぐに哀愁を孕んだ眼差しを朱の描く幻に向ける。 平和で穏やかな、懐かしく愛惜しい日常。 あの光景はもう、戻らないのだろうか。 「……最近、少し迷う」 隣に立つ理比古には、この情景は視えていないのだろう。 押し殺したように呟く雪の姿を、ただ心配そうに見つめる、灰色の眼差しだけを感じる。胸の奥に暖かい光を与える、透き通るような視線。 「戻るべきなのか、戻らないべきなのか」 覚醒してから暫くは、ただ故郷へ戻る事だけが己に残された使命だと感じていた。己に濡れ衣を着せた友の心を汲み、敬愛する王の身を案じて。一刻も早く、あの場所へ戻らなければと。 ――だが、もう判らない。 覚醒してから知った、無限の階層世界の中、何を十全と呼ぶのか。 「……すまない。もう少し、考えてみてもいいだろうか」 消えゆく情景から視線を逸らし、惑い子のように心許なげな声で請うた雪を、問い質すでもなく理比古は微笑んで受け容れた。 「視えるのは、幸せな記憶だけなのかな」 「いや。過去の情景であれば、そうとは限らないようだが――理比古」 「うん。……大丈夫。心配しないで」 如何な苦しい記憶であっても己は喜ぶのだろうと、それだけを確信しながら、理比古は気遣わしげな雪の視線に笑み返した。 朱のノイズに蝕まれながら、静かに、情景が描き出される。 すっかりと見慣れた、蓮見沢の屋敷。理比古の私室だ。 見上げる天井が霞む。朦朧と、朱のスクリーンのせいだけではなく視界が揺れる。 「……ああ」 恐らく彼が高熱を出して寝込んだ時の事だろうと、理比古は見当を付けた。 寝入るまでに随分と従者に世話を焼かれたような覚えがある。いつも以上に小言が多く、しかし心配そうな態度で、彼のシノビはひとときも離れなかったのだ。曖昧な記憶だがそんな所ばかり確信が持てて、理比古は朱の雪を身に受けながら幽かに笑み零した。 室内は暗く、夜更けの事だと判る。 皆が寝静まっているはずの屋敷の中で、何故か、私室の襖が開かれた。 寝入る己の視界の中、そっと視線をそちらに向ける。 「――!」 日中、彼の事を訪れも気にかけもしなかったはずの長兄の姿が、そこに在った。 兄はそれ以上近付く事もせず、ただ部屋の入り口近くを逡巡するように歩き回ってから、暫くした後に立ち去った。雪で霞む視界の中、その後ろ姿をじっと見届ける。 そしてそれと入れ代わりに部屋を訪れたのは、これまた彼を憎んでいた筈の次兄で。周囲の様子を窺いながら、密やかに――彼の傍まで歩み寄る。 理比古はただ唖然と、鋼色の眼を見開く。 ――夢だと、思っていた。 熱で浮かされていた己の願望が見せた、都合の良い幻だったのだと。 「兄さん……」 そっと、理比古が伸ばした手を、幻の次兄が掴む。朱に霞むその姿は伸ばした指の先で空を切るが、それでも兄はただ心配そうな顔で理比古の顔を覗き込むだけだった。苦しくはないか、どうしてやればいいのか、戸惑いと気遣いの滲む表情が、じっと理比古の様子を窺っている。過去の幻である彼らの眼には、今の理比古ではなく、熱に朦朧とする義弟の姿が見えているのだろう。 (理比古) そっと、優しい声が耳朶を打つ。 柔らかな雪に似た朱色が、理比古の頬をそっと撫ぜていった。幻影の、優しい陽炎の消えていく虚空を眺めながら、ただ茫とした表情を曝したまま、理比古は手を伸ばし続けている。 「……兄さんたちは、本当は俺のことをどう思っていたのかな」 心許なげな、迷い子のような言葉を静かに聞き届けていた雪が、おもむろに理比古へと手を伸ばした。背の高い青年の身体を、二本の腕で抱き締める。 「雪?」 光沢のある灰色の瞳を見開いて、あどけない仕種で理比古が首を傾げる。何も言わず、ただ雪はその背中を優しく敲き続けた。 驚きに固まっていた表情が、次第に綻んでいく。 鋼に似た灰色が、大きく光映して揺らいだ。 「……自分のことばっかりで、ごめんね。雪」 涙落とす寸前のような表情の青年に、雪の安堵づけるような笑みは視えていただろうか。 「気にするな。私や、おまえの“家族”も皆、おまえを大切に思っている」 騎士の広い肩に貌を埋めた、青年の押し殺したような嗚咽だけが、朱の雪注ぐ島に響いていた。 ◇ 神座での一夜を明かし、祝女を乗せた小舟が暁に照らされた深青の海から戻り来る。 白い羅紗を被ったまま、行きと変わらぬ姿で再び儀莱の砂を踏んだ娘は、待ち侘びる島民と祝女たちの元までしずしずと歩み寄った。 羅紗に劣らぬほど白い指先が、貌を覆う薄衣をつまむ。 そのまま後頭部まで持ち上げて、娘は初めて、旅人たちの前に素顔を曝した。 儚く柔和な、霧の日のようにあまやかな容貌の娘だった。 理比古は彼女に歩み寄り、恭しく、手の中のものを差し出す。 日の光の中で瑞々しく映えるそれは、神座の島で詰んだ花々を纏めた、小さな祝いの花束だった。天竺葵の他にも、金や、白や、紫や、青の、五色の花が布の中で咲き乱れている。 「これを、わたしに?」 「はい。――あなた方の護る、全てのものを美しいと思います」 祝女は微かに目を瞬かせ、やがて花の綻ぶような柔らかな笑みを浮かべて、頷いた。儚げな、白霞のような面差しにぱっと色が乗る。 「ありがとうございます」 細い指先が、そっと、花束を受け取った。 胸に五色の花を抱き、青い海に抱かれるように、神へ嫁いだ娘はひどく幸せそうに笑った。 その背には、降り注ぐ花にうずもれた島が眠る。 娘たちの護る、神のまどろむ場所が。 <了>
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