「……来たね」 集まったロストナンバーを前に、虎猫の世界司書は、枕にしていた導きの書から顎を離し、のそりと起き上がった。 ふたりの旅人を交互に眺めながら、また珍しい組み合わせだね、とぼんやりとした感想を零す。しかし特に気にも留めず、猫は話を切り替えた。「朱昏の東側、《皇国》の南に公娼街があるんだけどね」 名を《朱雀縞原》。絢爛な名にも恥じぬ、燃え上がる焔の鳥のような一夜の夢の如き場所だ。「其処の茶屋――遊女たちを囲う店の一つから、依頼が舞い込んで来たんだ」 なに、そんなに難しい話じゃない、とのんびりとした口調で言って、怠惰な虎猫は軽く欠伸を噛み殺した。 依頼はさる遊女の身辺警護。 娘はその日、とある華族に身請けされるのだという。「身請けは遊女の幸せと言うけれど……彼女にとってはそうではなかったみたいだね」「つまり、彼女はそれを望んでいない、と?」「察しが早くて助かるよ。――きみたちに期待されているのは、護衛という名目の監視役だ」 通常の身請けであればその必要もなかっただろう。 だが、望まぬ話を持ちかけられた娘が真に想い、想われる相手は別に居る。噂によれば当の華族の弟であるらしいが、それが真実か否かは定かではない。 店の者もそれを知り、旅人たちの他にも用心棒を何人も雇って、蟻一つ逃さぬ厳重さで臨んでいるという。死んだ妓女の怨霊が跋扈すると根も葉もない噂を流されて、客足が遠退いている店としては、何としてもこの見請け話を反故にするわけにはいかないようだった。「どちらにせよ、逃げる場所はない。……そのはず、なんだけど」 導きの書が、奇妙な予言を残したのだと、灯緒は首を傾げる。 二人が消える、のだという。 逃げ場のない店の中で、忽然と。 どんな手段を使うのかは判らない。だが、心中にしてもどちらの身体も痕跡も、何も残さず消え失せるのだ。――何か、きなくさい匂いがする、と虎猫は黄金の瞳を細めて考え込んだ。彼の世界と縁の深い司書は、朱昏に特有の、密かな妖異の気配を感じ取る。「……もしきみたちが彼女らを逃がしたと思われれば、責任を問われるかもしれない。――まあ、その辺りは、うまくやってくれればいい」 ようは、きみたちがどう動こうとも、怪しまれなければいいんだ。 投げ槍とも言える態度でそう語り、鋭い牙の並ぶあぎとをゆがめて、気紛れな獣はにやりと笑ってみせた。 ◆ 龍王の大河に抱かれて、朱雀の島は夜を知らず輝き続ける。 硝子張りの朱の空が、充ちる月を、星々を鮮やかに染め上げて、まるで闇を燃しているようだ。 今日もまた、柳燈籠が大路を照らす。 女たちの心など、知らぬとでも言いたげに。 重厚な黒漆の廊下を、黒髪の美少女が凛と歩いていく。いつもと変わらぬゴシックドレスに身を包み、東野楽園は猫のようなしなやかな足取りで、女たちを捕える鳥籠の中を進む。 常に貌を覆っている布を取り払い、金の瞳を曝して、青燐がその隣を歩く。店の者たちの好奇に充ちた視線から、楽園を護るように、さり気なく。 やがて二人は奥の間へと通され、手枕に肘を掛け、寛いだ様子の店の主と対面した。「……娘か」 言って、吐き出された紫煙が、天井の近くで蟠る。 背の高く、髪の短い、傍目には男と見紛うような妙齢の女だった。不躾な、値踏みするような視線にも臆さず、楽園は短く切り揃えた髪を揺らして首を傾げる。悪戯なチェシャ猫のような眼で、不敵に笑んだ。「何かしら? 女なら遊女見習いとして隣で監視もできてよ。男では不都合な役割でしょう?」「……よく回る口だね。だが、嫌いじゃないよ」 咥えていた煙管を口から離し、女はふん、と唇を曲げてわらう。どうやら楽園の物言いを気に入ったらしい。「ついてきな。照葉(てるは)に合わせたげる」 くだんの遊女は、万一にでも男と連絡が取り合えぬよう、数日前から角部屋に隔離されているらしい。ふたりをいざなって、主は粗雑にその部屋の障子を開く。「照葉、居るね?」 狭く、しかし物がないゆえに伽藍として見える部屋だった。 凝った意匠の鏡が、真っ先に彼らの視界に飛び込んでくる。衣裳箪笥の上に置かれ、円い鏡面を入口へと曝しているその前に屈み込んで、長い黒髪の娘が、鏡越しにふたりを見ていた。「どなた?」 りん、と高い、硝子細工のベルのような繊細な声で、娘は問うた。「今日のお目付け役だ。女の方は禿(かむろ)の代わりにでも使ってやりな」 それとだけ言うと、女は二人と娘を残してその場を立ち去った。見知らぬ人間を女の傍に残したところで逃げ切れぬと、それほど己の張った監視体制に自信を持っているのかもしれない。 取り残された籠部屋の中、華奢な肩を震わせて、娘は振り返る。そっと、衣裳箪笥の上の鏡を懐に大切そうに仕舞い込んだのを、二人は見逃さなかった。「……お願いがあります」 名を名乗るよりも先に、娘は褪せた畳の上に指を着いて、深く、頭を下げる。艶やかな黒髪の下から、澄んだ湖面のような瞳が彼らを見つめていた。「後生です。今宵限り、一目だけでいいのです」 あの方に逢わせてください。 わたしたちのすることを、ゆるしてください、と。 思い詰めた眼差しで、縋るように投げられた言葉。楽園の猫のような瞳が、青燐の柔和な瞳をちらりと一瞥した。その一瞬、黄金の視線が交錯する。 彼らは、その先にどんな願いが続くのかを知っている。「――わたしは、あの方を思い出になど、したくない」=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>東野 楽園(cwbw1545)青燐(cbnt8921)=========
「思い出にしたくない……ですか」 静かに考え込む素振りを見せ、青燐は黄金の瞳をそっと伏せた。耳に馴染みのある言葉だ。身に覚えのある言葉だ。忘却。一秒ごとに大切な記憶が切り刻まれ、そぎ取られていく感覚。彼にはその痛みが理解できる。 「私にもそう言う人は居ますし、今でも思い出にできないでいます。だから判りますよー」 現れた翳りを振り払い、冗談めかした口調でそう微笑みかけて、青燐は頷いた。目の前の妓女に手を貸そうと心を決める。鳥籠から解き放たれて、幸福ではなく渇望を抱いて凍え死ぬかもしれない小さな鳥の、ささやかな願いを叶えてやりたいと思った。 「……ただし、本当に逢うだけですよね?」 ふと表情を引き締め、それを確認すれば、娘は僅かに視線を鋭くした後、数瞬の間を置いて頷いた。 「――はい。文句は申しません」 「それならいいんです。手伝いますよ」 たとえそれで、より慕情と傷を深めようとも。 彼女にとってそれは忘却、或いは記憶の褪色よりはずっとましなのかもしれないから。 優しい目で見護る青燐の前に進み出て、楽園は娘の片手を取り、そっと両手で包み込んだ。 「ねえ、照葉。貴女の恋人の話を聴かせて頂戴?」 「肇(はじめ)さまの?」 照葉は首を傾げ、楽園の問い掛けに問いで以って返した。短い黒髪をふわりと躍らせて少女は頷く。 「貴女を身請けする方の、弟様だと聞いたのだけれど」 「――ええ。久世 啓(くぜ ひろむ)さまと、肇さま。見目はよく似ておいででも、佇まいの雰囲気が違うから、見間違える事はないの」 彼らは双子であり、家を継いだのは兄の方だが、何故か兄は弟に対して劣等感を抱いていたようだ。勉学や才能に於いては対等でも、弟の人格と人望に対し、嫉妬を覚えていたのではないか、と照葉は語る。無意識下のコンプレックス。 「おふたりは共に、その事に気付いていないようだったけれど……今回、喋った事もない私を身請けすると啓さまが仰ったのも、それが原因ではないかしら」 身一つ自由にできない娼妓の身、秘めた愛を全うできるなどと、ひとひらも思っていないのだと娘は語る。いつかは望まぬ相手の許に行く事になっても、後悔はしないようにしてきたつもりだった。 だが、劣等感を充たす為の道具として扱われるのは納得できない。照葉の眼はどこか、悔しさのようなものが見え隠れしていた。 「そう。貴女は啓さまでは駄目なのね」 「……ええ」 「解ったわ。……それで、青燐はどうするの?」 不意に話を振られて、金の瞳を柔らかく細めた青燐は微笑んだ。 「男の私が傍に居るのも『不都合』でしょうから、一旦外で待たせていただきますねー」 淡い瓶覗色の髪を揺らして、気負うことなく天人は少女たちに背を向けた。色街という場に於いて遊女ではない女は異物でしかないが、店の裏方では使用人でもない男の方が居場所がない。やりたい事もあるし、とひらりと片手を振ってみせ、青燐はその場を立ち去る。 後に残された少女たちは、静かに視線を交わす。 「あなたは?」 「私は貴女についているわ。東野楽園というの、宜しく」 「えでん」 馴染みのない響きに首を傾げ、しかし照葉は透明な水面のように笑った。 「では楽園、その姿は綺麗だけれど、人目を惹くわ。わたしの着物でよければお貸しします」 ◇ この色街には、不思議と木行の気が充ちていて、青燐にとっては居心地が良かった。話によれば、東と南の氣を入れ替えて、五行の流れが歪んでしまったためだと言う。 廊下ですれ違った楼主は相変わらず煙管をくゆらせて、照葉を頼む、とどこか殊勝に頭を下げた。これが照葉の為になるのだと、彼女自身頑なにそう思っているような、思い詰めたような眼で。 青燐は頭を下げて応え、彼女と別れると、長い廊下の隅で待機していた二人組の用心棒へと近付いた。 「そろそろ交代か?」 「あ、いえ私はただの見回りでしてー」 期待に顔を上げた男の言葉へ首を横に振って返し、青燐はするりと二人の隣に立つ。 「成程。俺らがさぼってないか見に来てる訳だな」 「そう言う事ですねー。ちょっと雑談がてら」 「そりゃいい」 からからと、気前よく男たちは笑う。 「ところでこの店、妙な噂が立ってるって、聞きました?」 何気なく、世間話と言った体で話を振ってみれば、相手もまた然して警戒する事なく話を合わせた。 「あー、昔失踪した妓女の霊がうろついてるって奴だろ」 「失踪? 死んだのではなく?」 世界司書の予言と食い違う話に、首を傾げて情報を聴き出す。男は髪を掻き混ぜて苦笑する。まるでそこに意味はないとでもいうかのように。 「噂なんてそんなもんだろ。尾鰭が付いて、細かい所はぶれるのが普通さ」 事実、意味など無いのだろう。 その根源がどんなものであれ、人々の間を話題として通り過ぎた時点でソレは真偽も形も定かではない噂に変わる。 成程と頷いた青燐の前で、彼の相方らしい男が話に対してふと首を傾げた。 「ん? 俺は折檻されていた女が部屋から失踪したって話を聞いたけど」 「なんだそりゃ」 新たに持ち出された噂からは、特に怪談になるような不気味さも感じられなかった。隣の男も呆れて軽く息を吐く。口を挟んだ男は拗ねたように唇をとがらせ、しかし青燐が興味深げに視線を向けている事に気付いてどこか得意げに話を続けた。 「ほんとほんと。脱走出来ねえように見張りを配置してたはずなんだけど、ふと覗いたら忽然と消え失せてたんだよ。今日の娘みたいな状況で」 室内に誰かが忍び入った痕跡もなく、ただ初めからなかった者のように、娘は消えていたのだと言う。 ――この、ヴェールのように柔らかな、屋形全体を包む朱色の気配が関わっているのだろうか、と青燐は静かに思索する。モノ一つの気配ではない。この建物全体が、朱によって変質している――廊下脇に添えられた切り花に触れてみれば、かれはそんな事を語った。 「兄さん、何してんだ?」 「いえ。綺麗な花だなと」 相槌を打ちがてら、ふと確認したトラベラーズノートに楽園からの伝言が遺されている事に気付き、青燐は目を細めた。 「では、私はそろそろ持ち場に戻りますね」 やんわりと話を打ち切って、するり、流れる風のようにその場を立ち去る。 ◇ 「――誰か、誰か来てッ!!」 鼓膜を貫くような金糸雀の叫びが、鎖された籠部屋から響き渡る。 廊下の隅を見張っていた用心棒の男たちは顔を見合わせたが、続けざまに聴こえた悲鳴がいよいよ鬼気を帯びてくるのを感じ、慌てて駆けつけると部屋の扉に手を掛けた。 「どうした」 「照葉が、照葉の様子がおかしいの!」 部屋の中に居たのは二人の娘。 髪の短い、部屋に入った時は洋装だったはずの娘が、長い髪で顔を隠しうつ伏せに倒れ伏す照葉を抱きかかえたまま、その黄金の瞳に涙を浮かべている。必死の形相にぎこちなさは窺えず、男たちもそのまま魅入ってしまいそうなほどの艶を纏っているようだ。 少女の白い手は、照葉の首筋に宛がわれていた。必死に、一筋の希望に縋ろうと。 「……呼吸も、脈拍もないの。温もりもどんどん喪われて行く……お願い、早くお医者様を呼んで!」 その言葉に、弾かれたように男の片方が部屋を飛び出す。 何をする訳でもなく立ち尽くすもう一人の男を一瞥し、楽園の黄金の瞳が一瞬、すぅと冷えた。しかしそれもすぐに、焦りの色にとって代わる。 「駄目、間に合わない――」 「御客に医者がないか、私が探してきましょう。あなたも手伝ってください」 部屋の入口から、薄青の着流しを纏う長髪の青年が言葉を挟んだ。部屋の中で立ち尽くす男を視、指示を与えていざなえば、男は茫然としたままその後を追った。 まろび出るように部屋を飛び出して行った後姿を見送り、楽園はゆっくりと息を吐いた。既に抱きかかえる照葉の身体は冷たくなって久しい。しかし、その瞼が僅かに上下するのを楽園は視とめた。 室内に置かれた、薄緑色の香炉から細い細い煙が立ち上る。甘美な、ささやかな香りを吸い込んで、楽園は僅かに笑った。 「……さ、今の内よ」 腕の中の“死体”に向け、言葉を掛ける。 ◇ 男は独り、覚悟だけを抱いて大路の人混みに紛れていた。 これが最後になる、と思えば、自然と身に力が入る。心が冷えて行くのがら判る。けれど、ここで立ち止まるわけにはいかなかった。自分にしか出来ない事がある。 ――ふと、華やかな柳の燈の下、男は目を惹くような異装の人物が佇んでいる事に気付いた。 青い狩衣、単眼模様が際立つ布で隠れた貌。華奢とさえ取れる体躯。男女の別も定かではない。 「……君は?」 突如目の前に現れた相手の異相に面喰らいながら、しかし男は動揺を顔に出さずに問いかける。それには応えず、狩衣姿の人物は薄青の覆面の前に立てた人差し指を持っていった。沈黙を促す仕種。思わず口を噤む。 そのまま、狩衣を翻して大路とは反対方向へ向かってしまう。ついて来い、とでも言いたげに。 「待ちたまえ!」 ――何故か、その姿を見失ってはならない気がして。 慌てて青の消えた路地を曲がり、男は薄青の後姿を追い掛けた。 覆面の人物が向かったのは、人通りのない屋形の裏側だった。ゆったりとした歩みながら、誰の眼にも止まらぬよう、道を選んで歩いた事が解る。随分とこの街に慣れているような素振りだ。 足を止めた相手に向かって、男は詰め寄る。 「何の用だ? 私も暇という訳ではないのだが」 男をこの場所までいざなった、薄青の人物はそれきり何を語ろうともしない。ただ男に背を向けて、何かを見つめているだけ。 己にはもう時間がないのに、と男は焦る。 急いで“彼女”に逢いに行かなければ――。 「肇さま」 焦燥に駆られそうになった思考を振り払うように、薄青の覆面の奥から声が響いた。硝子の鈴のような、澄んだ高い声音。 「照、葉――?」 目を瞠り、久世肇――啓の弟である男は茫然と、声を持つ女の名を呼んだ。女はそれに応え、振り返ると単眼模様の面を取る。長い黒髪が靡く。 そこには矢張り、男が焦がれてやまないただひとりの娘の貌があった。 幸福そうに蕩けた貌で、照葉は微笑む。 「お逢いしとう御座いました。誰にも邪魔をされない場所で」 「照葉……だからといって、こんな危険な真似――待っていればいいと言っただろう!」 己が為に危険を冒したという事よりも、彼女が危険にさらされる――それが耐え難いと、男は憤る。握り締めた娘の掌は酷く冷たい。まるで死人のように。 女はただ、透いた笑みでそれを受け流した。 「私と兄とは双子だ、兄の振りをしてお前に逢いに行く事など容易いとあれほど、」 「待っているだけというのも、辛いものよ」 詰問を遮って、重なる言葉。 照葉の背後から姿を見せた、遊女姿の短い黒髪の娘――楽園が彼女の隣に並び立って、悪戯な微笑みを咲かせる。 「少なくとも照葉はそれに耐えきれなかった。それくらいは汲んであげてもいいのではなくて?」 「そうですよー。暫くは私の香で誤魔化せていますから、あまり彼女を責めないであげてください」 照葉の纏う狩衣と同じ、薄青の長い髪を靡かせて、青燐は常と同じ緊迫感に欠けた声を挟んだ。彼のトラベルギアである香には焚くと摂取した者に幻覚を齎す作用がある。それが効いている内は、照葉の脱走に気付かれる事はない。 決して無策の行いではないのだと窘められ、肇は言葉に詰まった。言葉だけで二人が照葉の協力者である事を察し、済まない、とただそれだけを零す。 「肇さま」 男の手を、照葉が両の掌で持ち上げ包み込む。貌を上げた初めと視線を交わして、静謐な、覚悟の滲む表情で微笑んだ。 その手の中には、小さな、円い鏡面が握られていた。 「ゆきましょう。私と共に」 「照葉……?」 それを肇にも見えるよう翳す。朱硝子の天井から降り注ぐ光を取り込むように。鏡面が鈍い輝きを放ち、目を瞠る男の前で、娘は二人の協力者に向け頭を下げた。 鏡の向こうに広がるのは、もうひとつの世界。誰の手も届かない場所。 「お二方とも、有難う御座いました。私たちは――」 「――それは駄目よ」 銀の閃きが、空を切り裂く。直後、甲高い音が小さく響いた。 「ッ!?」 的確に、照葉の手に持つ鏡の中央を貫いたのは、小型の鋭利な鋏だった。装飾的で、繊細な意匠それは、楽園のトラベルギア。一刺しで鏡の世界を打ち砕いて、からん、と地面に落ちる。 「その向こう側へ渡るつもり? 残念だけど、それは見過ごせないわ」 「ど、して」 「部屋から大切に持ち出してきたのだもの、私が勘付かないと思って?」 怪異の存在を嗅ぎ取った世界司書。 屋形の中から二人が忽然と『消え失せる』予言。 照葉が手放すまいとしていた小さな鏡。 それらを結び付けるのは、聡明な楽園にとってそう難しい話ではなかった。 不敵な笑みで語る楽園の隣で、ああ、と青燐が声を零した。 「消えた妓女の霊が跋扈するだの、密室の中から妓女が消えただの、やけに消えたり現れたりする怪異が多いなと思いましたが……そう言う事だったんですねー」 代々屋形に受け継がれてきたという鏡。彼女たちはその向こう側に存在していた世界に取り込まれ、或いは自らその身を落とし込んだのだろう――妓女が苦界から逃れたいと思うのは、何も珍しい話ではない。 「でもね、そんな事をして如何なると言うんです?」 言葉の調子をがらりと変えて、柔和だった黄金の瞳が、ふと鋭利に煌めいた。楽園もまた猫のような眼を細めて頷く。 「現実から逃げても何にもならないわ。お互い好き合っているなら、生きて幸せにならないでどうするの?」 「……照葉、そんな事を――?」 二人の諭すような言葉に、男はただ眼を丸くしていた。全てが照葉の暴走であり、彼自身は何も知らされていなかったのだろうか。 項垂れる娘と、困惑する男。その姿を、青燐はただ静かに冴えた眼で見つめていた。 「あなたたちが居なくなって、店がどうなるか、考えましたか?」 其の口調に、常のおどけるような柔らかな調子はない。穏やかな好青年の仮面を剥ぎ取って、真摯な天人は言葉を重ねた。 「照葉殿にも、店への恩義は少しはあるでしょう。楼主殿はあんな方ですが、少なくとも私の眼には、店の人々を虐げるような方には見えませんでしたよ」 粗野で、斜に構えた態度ではあるが、彼女なりに店の事を考えているのだと知れる。この色街で女が主を担う重責とは如何なものか、部外者である彼らには想像もつかない。 「彼女なりにあなたと店を想って、身請け話を請けたんじゃないですかね」 「判って、判っています……!」 しかし、それでは自分はどうすればいいか――縋るような娘の眼に、男は貌を伏せて、応えた。 「照葉。……兄は、一度だけ君に逢った事があるんだ」 「え――」 「既に家から離れていた私の名を騙って、兄はこの屋形へ来て、そして君に出逢った。私よりも先に」 「自ら素性を明かすには、色々と制約のある立場だったんですねー」 普段通りの柔らかな物腰を取り戻し、青燐は言葉を添える。立場ある者の制限と義務、決して判らぬ話ではない。 「そしてそれ以来、兄はひと時たりとも照葉を忘れた事はなかった」 肇自身、それを聴かされたのは兄が身請けを決めた後の事だった。家を継いで以来、疎遠になっていた弟の許にやって来て、兄は矜持も何も投げ捨てて頭を下げた。 「――幸せにするからと、私でさえ初めて見るような真面目な貌で、そう言ってくれた」 だから、“情人”として照葉の貌を見るのはこれで最後にしようと、彼は決めていた。 「照葉。不器用で、誤解されやすい人だが……兄を、宜しく頼む」 ――初めから、彼女は劣等感を充たすための道具などではなかったのだ。 「……ほんとうに、ひどいおひと……」 照葉は小さく、絞り出すような声で男を詰り――涙を湛えて、膝を着いた。 ◇ 迎えに来る啓を待つ為、照葉は再び青燐の覆面を被り直した。これから鳥籠に戻ると言うのに、その背に苦痛の色はない。ただ透明な、覚悟と意志だけがあった。 「待って」 その後ろ姿に、楽園が声を掛ける。 振り返った娘へと駆け寄ると、楽園は彼女の両手を握り締め、その掌の中に巾着袋を握り込ませた。 「この中には安楽死用の丸薬が入っているの」 言葉に僅か息を呑み、照葉が袋の中身を掌に取り出せば、其処には彼女が先程屋形から抜け出す時に含んだ、仮死状態を招く薬と全く同じ外見のものが二粒だけ収まっていた。 「よく似ているでしょう。でも偽物じゃないわ」 それを信じるか否かは、貴女次第だけれど。 悪戯に微笑んで、楽園はそっと人差し指を唇の前に宛てた。 「いつでも死ねる。……そう思えば、生きていく足しにもなるでしょう?」 最後の選択肢を抱いたまま、抜けるかどうかも判らない懐の剣は、それでも彼女の心を保つ為の支えになるはずだ。 失恋は心苦しいが、それだけで終わらない事を楽園は知っている。 「貴女が強かに生き抜いた末に、幸せを見出してくれるよう祈っているわ」 それは、楽園なりの心からの激励の言葉。 「――ありがとう」 照葉もまた、透明な、冴えた湖面の笑みで以って応えた。 <了>
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