「ドクタークランチ! これはどういうことだ!」 息を切らして黒埼壱也はドクタークランチに詰め寄った。「壱番世界に旅団が行ったと報告を聞いた。これじゃあ、約束が違う!」 烈火の如く怒り狂う壱也にドクタークランチは冷酷な笑みを浮かべた。「約束か……君はまったく成果を出していない。その上シャドウ・メモリが敵の捕虜となった報告まで出ている」「……シャドウ・メモリは俺の命令を無視して一人行動した結果、捕まったんだ」「部下に命令を聞かせるのも君の役目ではないのかね」 クランチの言葉に壱也は拳を戦慄かせた。「早く結果を出さないからこういうことになるのだよ。しかし、まぁ君の知り合いが偶然危険にさらされる可能性がある、というだけじゃないか」「俺の知り合いがいる場所をわざわざ狙ったのもたまたまか!」 にぃとクランチは唇を吊り上げて微笑んだ。「君は実に頭がいい。そこの点は私も認めよう。しかし、それだけでは足りないのだよ」 頭が沸騰する怒りに壱也が怒鳴り返そうとしたとたんに呼吸が乱れ、胸を押さえてうずくまった。「う、あっ……!」「壱也!」 後ろにいたキャンディポットが不安げな顔をして壱也に手を伸ばすが、その手は乱暴に振り払われた。「壱番世界の事件には、図書館側が動くだろう。間に合えば助けてくれるんじゃないのかね?」「……黙れ」 壱也はふらふらとその場をあとにするとキャンディポットも健気についていく。「壱也、無理しちゃだめよ。心配なら私が様子を見てきてあげるわ、ね、だから」「うるさい、俺にかまうな」「壱也……私は、あなたの役に立ちたいの。私ね、世界が嫌い、みんな嫌い、壊れちゃえばいいって思ってた。けど、壱也は私に優しくしてくれた。はじめてよ、可愛いこの子たちより、好きになった人、だから、壱也」 キャンディポットはポシェットを一度撫でて、悲しげに顔を歪め、媚びるようなに壱也を見つめた。「……キャンディポット、君は勘違いしている。君のその気持ちは俺の与えられた能力による感情だ。本来の君ものじゃない」「そんなこと、そんなことないわ!」「なら言ってやる。お前たちを俺が本当に好きになると思うのか? 特に俺の大切なものを破壊しようとしたお前を」 キャンディポットの顔が絶望に染まる。「それを差し引いても子供のお前を愛すると?」「……壱也」 キャンディポットの顔を見つめて壱也は一瞬だけ目を伏せたが、一度も振り返ることはなく歩き出した。 キャンディポットは虚ろな目で闇を見る。 きらい、きらい、きらい、みんなきらい。ぜんぶ滅べばいいの。壊れちゃえばいいの。 壱也を思うこの心が偽物なのか、それとも本物なのか、彼女はわからない。ただわかるのは激しい嫉妬という名の憎悪。「壱也は全部が終わったら壱番世界に戻っちゃう……?」 ふっとキャンディポットは笑う。「大切なもの、壊してあげる。そうしたら、ここにいてくれる?」★ ★ ★深夜にも関わらず大学には十人の学生がいた。彼らは各々寝袋などを用意して泊まり込む用意もしていた。 天体観測のサークルの泊りこみの合宿だ。「天体観測って、ロマンだけどさー。現実は寒いし、ひもじいよな」「それも男だらけっていうわびしいよなぁ」「それ、いうな」 カップ麺をすすりながら防寒具に身を包んだ男たちは笑う。「けど、お前はいいの? 最近、ろくに寝れてないんだろう? 久遠、てメールは彼女かよ?」「え、違うよ。幼馴染のメール。あかりのやつ、メールするっていってたのに……ん、壱也とはいったサークルだし、あいつのためにも続けたいなって、それにあいつがいなかったらこうやって夜の大学を使うこともできなかったし」「ああ。黒埼な。あいつ、頭いいし、口もうまいよな。教授にとりいってちゃっかり部室確保するし、施設とかも使えるようにするしさ」 そこで生徒たちから笑いが消えた。「なんで行方不明になったのかな、あいつ」 遠くでみしっと音がした。 そのあとに続くのは激しい破壊音。「な、なんだよ、おい、あれ、なんか壊れてないか」「え」 慌てて全員が窓からそれを見ると、大学の西校舎で黒い影が蠢いているのが見えた。「大変だ」 久遠が慌てて立ち上がった。「おい、どこ行くんだよ。真人!」「あの部室には壱也の論文とか置いたままなんだよ。とりにいかないと!」「おい、危ないぞ」 気遣う声もふりきって久遠真人は走った。「壱也、必ず、お前が帰ってくる場所を守ってやるからな……!」――みぃんな、みぃんな、壊しちゃえ。★ ★ ★「壱番世界でなんぞ奇妙な事件が起きとる」 そう告げたのは着物に猫耳、尻尾の黒猫――黒猫にゃんこの変身した姿の一つだ。キセルを銜えた黒猫は顔しかめた。「ある大学で、キャンディポットのワームが暴れとる」 それも今までのような隠れたやり方ではなく、大量のワームを使い、破壊の限りを尽くしているのだという。 このままでは大学は一夜にして破壊されてしまう。さらに間の悪いことに、その大学には天体観測のサークルの生徒が十名ほど泊りにきているというのだ。「このままやとその十名は間違いなく食われる。それに一人だけなんぞ自分からワームのいる中心部に向かっている生徒もおるらしい。まずは生徒たちの保護、安全なところの誘導が先決や。無論、出来る限りこちらのことは知られないほうがいいから、なにかしらいい嘘をついて安心させて移動させるとええやろ。 ワームは一匹、一匹はたいしたことないからお前さんらならいけるやろ」 黒猫はロストナンバーへの信頼を示すようににこりと微笑んだ。「キャンディポットの今度の行動、どうにも腑に落ちん。これは旅団の考えとは少しばかりズレがあるように思う。なんや、一人で暴走しているような……ま、捕まえるのも殺すのも難しいにしても接近したらなにかしら聞きだせるかもしれん」★ ★ ★「キャンディポットが壱番世界で暴走している……?」 ウォスティ・ベルの報告を受けた壱也の顔が明らかに強張った。戦慄く拳を握りしめて、ため息をつく。 く、く、く……不愉快な笑い声が響いた。「これは、これは黒埼殿の能力はここまで影響を及ぼすとは、恐ろしいことでありますな!」「お前は、百足……ベル。すぐにポットを回収に向う。百足、君ときぃも連れていく。建物の被害は? ……ドンガッシュも連れていこう。彼の能力とベルの能力を使えばある程度は修復が出来るはずだ。今回は裏方に二人でまわってもらうから、ベル、呼んできてくれ」 嫌味を無視する壱也の態度に百足は顔を一瞬だけしかめた。「それが人に頼む態度とは思えんでありますな。他人の能力を借りるだけが能な分際で」「君は俺が土下座でもして頼み込めが満足か? 百足」「まさか!」 百足は大げさに肩を竦めて笑い飛ばした。「ただその力の影響に置かれるのは不愉快だといいっているのでありますよ! 黒埼壱也」「安心しろ、蟲の力を借りなくては何もできない、それも蟲の羽化一つ自分では成し遂げられない君みたいな、能無しをどうこうするわけないだろう」 百足の顔があからさまに怒りを宿すのを壱也は冷ややかに見つめた。「前みたいな小物に俺は興味ない。余計なことを考えるくらいなら蟲の能力をあげることだな……先に行っている」 背を向けて立ち去る壱也の背を見て百足は屈辱に震えあがった。「百足さま? あ、あの、壱也さまは悪い人ではないのです。ただ難しい……きゃあっ!」 おろおろと不安がるきぃを百足の足が乱暴に蹴り倒した。「うるさい! 出来そこないの分際で! 羽化一つ自力では出来ないとは情けない! ……あの実験さえうまくいっていれば小生の夢に近づいたはずだというのに世界図書どもめ……!」
女のすすり泣きのような冷たい風が、哀惜の唄声をあげる。 彼は冷たい目で建物を一瞥し、その顔に一瞬だけ痛みが走った。 「ベルたちは『場』を構成することだけ考えてくれ。あとのことはこちらがやる。きぃと百足は俺とキャンディポットを回収に」 「黒埼くん、それでは君の負担が……すでに三人以上と『共感』をしている。これ以上は」 「世界図書館にはナレンシフを食べる化物がいるんだ。……移動手段を断たれるわけにはいかない。ベルとドンガッシュはここを頼む」 彼は闇のなかに飛躍した。 ★ ★ ★ 「あら? 不幸な気配が近づいている気がするわ。あー、いやだ、いやだ」 ふんわりと花びらのような白いドレスをひらめかせて幸せの魔女がうんざりとした口調で吐き捨てた。 「本当に、ずいぶんとキナ臭い依頼だこと。不幸の匂いもプンプンして……正直、このまま見ないふりをして家に返ってお茶でも飲みたいのだけど……仕方ないわねぇ。はぁ~……来るんじゃなかったわぁ」 「もうお姉さんったら、文句ばっかりぃ。そういうの、年寄りくさーい」 とリーリス・キャロンが赤い瞳で幸せの魔女を見上げて、可愛く小首を傾げて窘めた。 「あのね、私は幸せの魔女なのよ? 幸せがないところにノコノコ来てどうするの? それに女の魅力は不機嫌な顔のときなのよ。子供にはわからないでしょうけどねぇ」 何度か同じ依頼をした仲である彼女たちには既に遠慮という言葉はない。むしろ、毒舌を浴びせあって友情を深めあう間柄だ。 「オイオイ、二人で遊んデんじゃネェぜぇ。オレらがココになにしにきたのかわかってんのかァ?」 二人のやりとりに呆れた眼差しを向けたのはジャック・ハート。大げさに肩を竦めると問題の大学に一瞥くれ、にぃと白い歯を見せてニヒルに笑う。その瞳は戦いに心を掻き立てられて爛々と輝いていた。 「ヘッ、イイゼ、イイゼェ! ヒャヒャヒャ! こういう依頼はゾクゾクするゼェ! 俺サマはワームと正面から遊んでくるゼェ。テメェらはどうする? 連れてってやろうかぁ?」 「うーん、私は、避難を優先でやるからぁ、ジャックのおじちゃんがんばってー! 手があいたらいくからね!」 「ワームなんていやよ! 汗臭い、泥臭い、不幸臭い! 私も避難を優先するわ」 リーリスが元気よく、幸せの魔女はひらひらと手をふるのにジャックは肩を揺すって笑った。 「ハッ! 女にゃあ、この楽しみはわからねぇかってノ。じゃあ、そっちは任せたゼェ」 ヒャヒャヒャと耳につく笑い声をあげてジャックは地面を蹴ると、ふわりと宙に浮いた。目が紫に変化し、ワームたちの位置を確認したのちそこへと移動した。 「なにがいいのかしら、私にはさっぱりだわ」 「うふ。ワームって可愛いと思うけどぉ? さーて、私たちはあっちね」 リーリスは自分の指にはまるオニキスの指輪を見下ろした。 にっと唇の端をつりあげて微笑を浮かべると、冷たい石に優しいキスを落とした。 リーリスと幸せの魔女は二人揃って、生徒たちのいる校舎へと向かった。 派手な音に不審がる九人の生徒たちは落ちつかない視線を交わしておろおろと、警察に届けるべきかと話しあっていたのにいきなり現れた二人の少女に戸惑った。 「君たちは? こんな深夜に、え、ええ?」 混乱している隙をついてリーリスはいきなり両手で顔を覆うと、大声で泣き出した。 「うぇーん! お兄ちゃんたぃ! りーりぃすね、わんちゃん探してるのぉ、しらない? りーりぃすのかわいいわんちゃん?」 「わんちゃん?」 混乱した生徒は戸惑いながらリーリスに視線を向ける。 「そうなのよ。このわんちゃんなんだけど」 幸せの魔女がやや面倒そうに、差し出した写真には赤い目が特徴的な子犬が――それはリーリスが変身した子狼の姿。首輪をつけていると子犬にしかみえない。 移動中にリーリスは、首輪をつけて子狼に変身するとその姿を車掌に頼んでポライドカメラで撮影したものだ。 魅了の力を使えば容易く生徒たちに言うことを聞かせることは出来る。しかし、あまり大々的にやって自分の正体が仲間たちにばれてしまうことは避けたい。とくに幸せの魔女は妙なところでカンが鋭いから。 「あのね、シロン……どこなのかなぁ? この建物にはいってくるのは見えたのに、いないのぉ。ねぇ、一緒にさがしてぇ?」 リーリスの赤い瞳が、生徒たちをじっと見つめる。弱弱しいが魅了の働きかけに生徒は騒ぐことも不審がることもなく、語られた話を鵜呑みにした。 「それは大変だね。探さないと、なぁ。みんな」 「え、あ……ああ。探してやらないと」 「そうだ。探さないと」 ぽつぽつと漏れ出す声にリーリスは口元に笑みを浮かべた。魅了は力の弱強によっては相手の心を自分に都合よく動かし、状況を変化させることにとても役立つ。 どがっ! ……と大きな音がしたのにびくりと生徒たちは震えあがった。 「あの音、先から、なんなんだ」 「音、音……そうだ。久遠をはやくとめないと!」 「行くことは許さないわよ」 慌てて駆けだそうとする生徒の前に幸せの魔女が立ちはだかった。その鋭い瞳に生徒たちは縮みあがった。 「あ、あんた、誰だよ」 「あんた、ですって」 「あ、あなたは」 「あなた?」 「……あなたさまは」 「よろしい。……私? 私はね、通りすがりのクッキングアイドルよ。そして、この子の保護者でもあるの。ええ? 音? 私には聞こえないわ。聞こえたとしても幻聴よ」 「おい、あんた、なに言ってるんだ。あんなにはっきりと聞こえてるんだぞ」 生徒の一人が鼻白んで幸せの魔女を睨みつける。 「ああ、あれはね、いま教育番組で話題沸騰のクッキングバトルの特別撮影をここでしているせいなの。だからとっとと部外者は家に帰りなさいな……なに、その目。これ以上は言わないわよ?」 絶対零度の睨みに生徒たちは震えあがった。 再び大きな音のあときゅうと不気味な鳴き声がした。 さっと幸せの魔女は振り返る。 「ああ、いやだ、いやだ! ジャックさんったら、なにをしているのかしら? この依頼のあと、幸せなお仕置きをしなくてはいけないのかしらねぇ?」 廊下へと飛び出した幸せの魔女が睨みつける先にずり、ずりっと這いずるのは子犬の大きさくらいの芋虫のようなワーム。 ずり、すりりっ。 這いずりながら、口が――それは人のものだった。にちゃりと笑って細い舌をいくつも出して、獲物を探している。 「な、なんだよ、あれ」 「ひぃ!」 あまりの異様な姿に生徒たちは悲鳴をあげて後ろへと逃げた。 「リーリスさん! そこの腑抜けたちをなんとかしてくれる?」 「大丈夫ぅ?」 「ああ、いやで、いやでたまらないわ」 けどね、花弁のような唇が嫣然と微笑む。 「目の前でそいつがのうのうとしているほど腹が立つことはないの、おわかり?」 ざ、しゅ。 いつ抜いたのか。彼女の右手には幸せの剣が握られ、フェンシングの構えで素早く、ワームを突き刺した。 「ああ、いやだ。きもちわるい」 突き刺したワームを乱暴に剣から放つ形で壁に叩きつけ、幸せの魔女は髪をかきあげた。 「私の幸せはどこかしら? ああ、お前たちの腹を突き刺したら、見つかるかしら、――ねっ?」 「もう、機嫌わるぃ~。本当にワームが嫌いなのねぇ。だったらどうして依頼受けたんだろう? ……そういえば、別の依頼もあったけ、もしかして……間違えたのかなぁ。やだ、ありそう」 リーリスはワーム相手に容赦なく剣を振るう幸せの魔女を見ながら、ドジぷりを想像してこっそりと笑った。 「な、なんなんだよ、これ」 「うわぁああっ!」 「っと、いけないいけない! みんな、落ち着いて! 仕方ないわよね。緊急事態だし、本当は穏便にするつもりだったなんだけど……私を見て!」 かっと赤い瞳が輝く。 「私の近くまできて、早く! これはね、全部夢よ!」 強い魅了の力は生徒たちの意識を問答無用で奪い去った。リーリスは床を蹴ってふわりと浮遊し、生徒たちをつれて窓から外へと飛びだすと大学の門前まで移動した。幸いにも深夜で通行人がいないので大胆な行動をしても目撃されることはなかった。 地面に着地するとリーリスは生徒たち一人ひとりの顔を見て囁きかける。 「いい? 昼間から準備して機材まで運んだのに使用許可が下りなくて天体観測は中止になったのよ! あなたたちはふてくされてやけ食いしてまっすぐ家に帰った」 「俺たちは、俺たちは……ふくさくれて」 「帰る、帰る、帰ったんだ」 生徒たちは操られた人形のようにリーリスの言葉を繰り返す。 「さぁ、行きなさい」 パンっ! 両手を叩くとそれを合図としてふらふらと生徒たちが家路につく。彼らの背が見えなくなるまで見届けたあと、リーリスは赤い目で建物を睨みつけた。 「現場に急いだほうがいいわね」 ★ ★ ★ 「オラ、オラオラ! どうした! 千切れて消し飛びなァ! ヒャヒャヒャ!」 猛る獣のようにジャックは声を荒らげると、片手に生み出した風の刃を放ち、ワームを細かく切り裂いていく。 もう片手に生み出した青い稲妻は雷鳴を轟かせて数体のワームを一瞬にして丸焦げにした。 ジャックの紫色の瞳はワームたちの居場所を的確に見通し、攻撃を与えていく。 きぃいいいい! 天井に隠れていたワームがぬるりとした体液をまとった細い両手を伸ばしてジャックの首を襲撃する。 「あめェんだヨ!」 怒声をあげて、ジャックは腰の鉈を抜くと力任せにワームの顔を一突きにし、床に叩きつけて足で踏みつぶした。 「俺サマは半径50m最強の魔術師だゼェ! 滅びなァ!」 すでに十体以上は倒したというのにジャックは息一つ乱さずに余裕の笑みを浮かべ、首を軽く鳴らす。 出来るだけ被害がないように、という配慮のない破壊の限りを尽くした行動で壁にはひびがはいり、かなりひどい状態となっていたが、しかし当人は平然と 「火でもつきゃァ面白いのにヨゥ」 などと物騒なことを愚痴る程度には気に留めていなかった。 「……ハッ、味気ねぇナぁ!」 暗い暗い闇の果て――廊下の先に人影を見つけてジャックは目を眇めた。 「親玉の登場かよ」 「……邪魔しないで、壊すの。ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ! こんなものはいらない、なにも、なにもいらないの!」 ヒステリックな悲鳴をジャックは鼻で笑った。 「ションベン臭いガキの寝言なンざ聞いてられるかヨ!」 「ガキ……違う、違う、違う! 私は子供じゃない!」 ジャックの一言は、キャンディポットの心を抉り、激しい憎悪の色に染めた。 彼女の悲鳴に共鳴するようにワームたちも鳴く。 きぃいいいいいい! 「ハ、上等だ。……っ!」 泉のなかに落した小石が作り出す波紋のように、静謐な歌声がジャックの耳を愛撫した。それは優しく、甘く。どこか泣いているような響きをもって。 それに合わせて発生した白い霧が、ジャックの足元を濡らした。慌てて飛びのいたが、実態のない霧はすぐに足に、腕に纏わりつくとまるでタチの悪い酒を飲んだときのように頭が重く、思考が奪われていく。 ――沈め、沈め。底へと。 「っ! くそ、なンだ。これ……」 ジャックは忌々しげに吐き捨て、霞ゆく視界で前方を睨みつけた。 そこにはキャンディポットとは別の人影が三つ。そのなかでもとりわけ小さな影――きぃは唄いながら前へと進み出る。その瞳はジャックを捕え、眠りへと誘おうとする。 「ち。メンドクセェタイプがきたな」 ジャックは吐き捨てると、手に持つ鉈を持ち直し、なんの躊躇いもなく自分の横腹を突き刺した。 「!」 ジャックのとった行動に驚いたきぃの唄が一瞬、乱れた。 その一瞬。 たった一瞬。 その隙があればジャックには十分だった。片手に生み出した雷に風の刃を纏わせて、放つ。 宙を駆けるそれは金色の獣を一瞬だけ形作ってきぃに襲いかかた。が、突如として壁が現れて防がれた。ジャックの攻撃にどろりっと白い壁は溶けると、そこから無数の蟲が――人の内臓色をした蠅とミミズが合体したような醜い蟲がけたたましい声をあげてジャックに襲いかかった。 「きぃ! 唄え!」 「百足さま……はい!」 黒い学生服で颯爽と前へと出た百足がにぃと唇を釣り上げ、残酷な笑みを浮かべた。 「小生の可愛い、可愛い蟲の味を特別に味わうがいい」 「チッ! ガキの次は悪趣味な蟲野郎かヨっ!」 ジャックは悪態をつくと、片手に生み出した雷を天へと放った。スプリンクラー設備がばちりっ! 火花を散らし、続いて冷たい雨が降り注いだ。 「キャンディポット!」 駆けつけた壱也をキャンディポットは紙のように白い顔で、じっと見つめた。 「壱也」 「さぁ、帰ろう」 差し出された手に、キャンディポットは首を横に振った。 「……いや、壱也、あなたの帰るところ壊すの、壊して、壊して壊し尽す。すべて、すべてよ。みんなみんなきらい、こわれちゃえばいいの」 狂気を宿した微笑みを、壱也は悲痛な顔で見つめた。 無遠慮に降りだした冷たい雨が、まるで涙のように二人の顔を濡らし、滴り落ちる。 「なんなんだ、これ……どうなってるんだよ!」 駆けつけた久遠は声をあげた。 誤作動を起こしたのか天井からは水が降っているし、知らない人々が争っている様子もある。 「壱也の論文が……!」 その声に壱也も気がついて振り返る。それが目の前にいる少女の破壊衝動を突き動かすとも知らずに。 「……真人! どうしてここに……!」 「あのひと、あのひとが、あなたをここにつなぎとめるのね? ああ、なら、」 ――コワサナクッチャ 何にも汚されない美しい白の少女の狂気は音もなく、ただただ激しい憎悪を刃へと変えて久遠へと襲いかかった。 ワームが鋭い爪を伸ばして久遠の喉笛を斬ろうと襲いかかる。 ほぼ同時に 「キャンディポット!」 「させるかよっ!」 二つの咆哮があがった。 ジャックは久遠の周りに透明なバリアーを張ってワームを弾き飛ばし、さらに水によって威力を増した雷を放ってトドメをさした。 「テメェなにしてんだよ! あん? 俺サマか? セイギのミカタさ!」 「正義の味方? ……お、俺は、壱也の論文を」 「論文? 馬鹿かテメェは! そんな紙キレが今大事なのかァ? テメェが大事にするもんはもっと別のモンだろうがよ」 ジャックの怒声に久遠は守られたこともあり素直に反省して恐縮したが、すぐに顔をあげた。 すでに冷たい雨は止み、はっきりとした視界に、探していた相手を見つけた。 「壱也……なのか?」 ふらり。何かに縛られたように体を逸らしたキャンディポットの体が倒れ込む。壱也は、その細い腕をとって胸のなかに大切に抱きしめた。 彼女の瞼は己の意思に反してだんだんと重く、落ちていく。それに必死に逆らって。 「壱、也」 「忘れるんだ。俺のことは、なにもかも……俺が君を君でなくさせるもの、苦しめるものは持っていくから」 「壱也、壱也……!」 キャンディポットは壱也の腕にむしゃぶりつく。 「これはクランチの部品のせいだ。君の心に俺は触れて、利用した。俺の目的のために……君も承諾してのことだった。……だから、まさかここまで精神に影響を及ぼすなんて思いもしなかった」 必死の抵抗は弱く。ついには動かなくなったキャンディポットは壱也の腕の中で眠りについた。 「……記憶の改ざんと感情の調整は完了。次に目覚めたとき、君は俺を忘れる。なんとも思わない……相手の潜在能力を引き出し、俺を母体にして複数の能力を合わせることもできると聞いたが、こういう応用も出来るということか。精神的に脆い相手だと依存性が高いリスクがあることにはクランチに文句をいう必要があるな」 冷酷な分析ののち、壱也は自分の腕のなかで眠っているキャンディポットを見つめて、すぐに首を横にふると無表情で顔をあげた。 「……百足、きぃ、目的は達成した。すぐに」 壱也は己を見つめる相手に気がついた。 「真人」 「……壱也、やっぱり壱也だ! お前どこにいるんだよ。あかりと探したんだぞ!」 久遠が駆け寄ろうとするのに混乱した壱也の反応は遅れた。 ひゃああああ! 母親の腹から生まれたばかりの赤ん坊のように、歓喜の声をあげて壁から灰色の蟷螂のような蟲が飛び出し、久遠に襲いかかる。 「貴殿には小生たちが逃げる間の時間稼ぎの道具になってもらおうか」 「あぶねェ!」 ジャックのバリアーを蟲が突き破り、久遠に迫る。咄嗟にジャックは己の身を蟲と久遠の間にねじ込んで身構えた。 驚いたことにジャックの前に壁が現れて蟲の攻撃から守られた。 「アアン、こりゃナんだ? まぁ、いいぜ。隙が出来たってコトだぁナ」 「あら、それって素敵ね」 「アン? テメェは」 ジャックは振り返った。そこには 「さぁて、素敵な幸せはどこかしら?」 全身にまわる猛毒のような笑い声を零して、微笑むのは――魔女。 「黒埼殿、貴殿、何を考えている! 小生の邪魔をするとは……!」 百足の糾弾に黒埼は気まずい顔で首を横に振った。 「目的も果たした、撤退する」 「……断る。こいつらを小生の蟲の餌にしてくれる! きぃ、唄え」 黒埼と百足の間でどちらの命令を聞くべきかおろおろときぃは百足の言葉にのろのろと口を開こうとして、突然に全身に襲いかかる痛みに体を反らした。 「きゃあ!」 倒れたきぃの先にはにっとニヒルに笑うジャックがいた。水を伝い雷はどこまでも伸び、そして恐ろしい威力を発揮し、きぃの体を麻痺させた。 「あらあら不幸そうな顔ね。リスカットのお手伝いならしてあげるわよ?」 くすくす。 魔女はひらりと壁を飛び越えて百足の前に現れ――ざしゅ。 風を切った幸せの剣は百足の心臓を真っ直ぐに突き、壁に縫いつける。 「……っ!」 百足の口から血が溢れるその様を幸せの魔女はうっとりと見つめた。 「ふふ、不幸そうな顔。ああ、その顔がますます不幸に歪むのって素敵! おかげさまで少しだけ私の不機嫌が治ったわ。お礼はなにがいいかしら? その首を叩き落とすこと? 燃やしてあげることかしら?」 「……貴殿は、インヤンガイで小生の蟲を殺した」 「あら覚えていたの? 嬉しいわ」 剣を持つ手に力を、きりきりとこめて。 「あなたは私にしてはいけないことをしたのよ。むかでべーだったかしら? 私の幸せを奪い取ったこと……死んでお詫びしてちょうだいな」 二人は向かいあって睨みあう。と、空気を切り裂くような悲鳴があがった。 「いゃあああああ! 百足さま、百足さま、百足さまぁ! ゆるさない、ゆるさない、ゆるさない! 百足さまを傷つけるやつは許さない! あんたたちなんて! 嫌い、きらいよ。そうよ、ああ、そうだ。お前たちなんて」 ――シンデシマエ! 「……きぃちゃん! あなた」 幸せの魔女は完全に忘れていた伏兵に目を見開いた。 あああああああああああああああああああああああああああああああ! きぃの唄声は今までの優しいものから一転してドス黒い憎悪に染まり、激しい殺気をこめて放たれる。まるで巨人が降りおろすハンマーのように絶対的な力をもって幸せの魔女とジャックの精神を支配した。 「なっ……!」 「くそ、どうナってんだァ!」 幸せの魔女は己の意思に反して百足を突き刺した剣を抜き、一歩、また一歩と後ろへと下がる。そして剣を持つ手が己の首を狙って動いていた。 ジャックも鉈を己の首を切り落とそうとするのに、必死に抗っていた。 「やめなさい!」 リーリスが凛とした声で叫ぶ。今までワームを倒していた彼女は咄嗟に聴覚を遮断し、最大限の魅了の力を使ってきぃの力を牽制した。 「きぃちゃん、あなたの唄はそんなもののために使うものではないでしょう?」 「うるさい、黙れ! 百足さまの邪魔をするお前たちなんて……」 ふっときぃの唄声が止む。 「がはっ!」 きぃは突然、大量の血を吐きだして、その場に倒れる。元々持つ能力以上を怒りに任せて使用し続けたため、肉体が限界を迎えたのだ。 「が、は……あ、……百足さま、ごめん、なさい。ごめん、なさい」 血まみれになっても必死に這いずるきぃを百足は冷ややかに見つめた。 「役立たずめ」 「こいつらなんなんだ。一体、これはなんなんだよ……壱也!」 久遠が叫ぶのに壱也は答えない。かわりに応えたのはジャックだった。 「こいつらはナ、自分たちのために世界を壊すことを選んだヤツらだ……黒埼もナ」 「そんな、そんなぁ!」 久遠はひび割れた硝子のような声で叫ぶ。 「壱也! 嘘だろう、なぁ!」 それでも壱也は答えない。 「お兄さん、なにかを守るために別のものを壊すの? けど、それを守ることができてるの?」 「黙れ! ……っ!」 リーリスが憐れみをこめた目に壱也は反論すると、すぐさまに苦しげに胸を抑えて蹲った。 「壱也、お前、発作が!」 「馬鹿、前に出るんじャねぇヨ!」 必死に叫ぶ久遠をジャックの腕が止めた。 「っ……百足、撤退するぞ」 突然と生み出された無数の壁が迷宮を作り出し、残っていた蟲とワームの姿がぐちゃりと歪むと、この場にいるロストナンバーの姿に変化して襲いかかってきた。 久遠はジャックの腕から抜けだし、それでもなお追いかけようとする。 「壱也! 行くな!」 「ああ、もう、めんどくさい!」 久遠に説得は無理だと判断した幸せの魔女は手荒くもボディブローで気絶させた。ここでワームと蟲のなかに突っ込んでもらっては困る。 「さぁて、この不幸な集団を一掃しましょう? 大丈夫よ。こいつら倒すことが私の幸せだもの。どんな些細な幸せも見逃さない。ただ私は近づきたくないから動いてちょうだいよ」 「チッ、仕方ねーナァ」 嫣然と微笑む幸せの魔女にジャックは肩を竦めて前へと出た。 「マァ。とっととやるか」 足止めの蟲とワームを殲滅したあとには、何も残されてはいなかった。
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