小暗い悪意うずまくインヤンガイ。しかしそんな世界にも、活気ある人々の暮らしは存在する。生きている以上、人は食事をする。実は、インヤンガイは豊かな食文化の花咲く世界であることを、旅人たちは知っていただろうか――? インヤンガイのどの街区にも、貧富を問わず美食を求める人々が多くいる。そこには多種多様な食材と、料理人たちとが集まり、香ばしい油の匂いが街中を覆っているのだ。いつしか、インヤンガイを冒険旅行で訪れた旅人たちも、帰りの列車までの時間にインヤンガイで食事をしていくことが多くなっていた。 今日もまた、ひとりの旅人がインヤンガイの美味を求めて街区を歩いている。 厄介な事件を終えて、すっかり空腹だ。 通りの両側には屋台が立ち並び、蒸し物の湯気と、焼き物の煙がもうもうと立ち上っている。 インヤンガイの住人たちでごったがえしているのは安い食堂。建物の上階には、瀟洒な茶店。路地の奥にはいささかあやしげな珍味を扱う店。さらに上層、街区を見下ろす階層には贅を尽くした高級店が営業している。 さて、何を食べようか。●ご案内このソロシナリオでは「インヤンガイで食事をする場面」が描写されます。あなたは冒険旅行の合間などにすこしだけ時間を見つけて好味路で食事をすることにしました。このソロシナリオに参加する方は、プレイングで、・あなたが食べたいもの・食べてみた反応や感想を必ず書いて下さい。!注意!インヤンガイではさまざまな危険がありますが、このシナリオでは特に危険な事件などは起こらないものとします。
ふらりと、まるで気ままな風のように幸せの魔女は小さな店のドアを押しあけた。その優雅な仕草に対して彼女の息は荒く、白いドレスは花弁をまき散らしたように血に汚れ、体にはいくつもの怪我が見受けられたが、その目は星をはじめた見た子供のように輝き、頬は薔薇色に染められていた。 男ならばため息混じりに魅了される姿は、しかし、店にいたのは棺桶に片足をつっこんだような老人のマスターが一人。商売けもない一瞥をカウンターからちらりと向けただけで、すぐに逸らされた。 すたすたと、軽やかな足取りでカウンターに近づくと右腕に大切に抱いた茶色の袋を造作にマスターに差し出した。 「この豆を使って最高のコーヒーを淹れて頂戴。お代金は払うわ。あぁそれと、お腹が空いたから美味しいサンドイッチが食べたいわね。すぐに用意して下さる? 中身はあなたに任せてあげるから幸せをちょうだいね?」 幸せの魔女は毅然と、それでいてどこか投げやりに命令を下した。多少とはいえ疲れていたのだ。 マスターは袋を受け取ると、中身を確認して眉根を寄せた。ほぉとため息をついたのは香りだけで価値を見抜いたらしい。頷くと今までの怠惰さはどこかに吹っ飛んだように手を動かし始めた。 幸せの魔女は満足して、カウンターの席にけだるげに腰かけた。 甘酸っぱい芳醇な香りが狭い店内を満たしていくのに幸せの魔女はテーブルに肘をついて、うっとりと目を細めた。 苦労が苦労にならないほどの幸せが今、胸の中を満たしていくのがわかる。 幸せはそれを前に手に入れるために苦しみを乗り越え、奪い取るからこそ飴玉のように甘く、魅惑に満ちているのだ。 魔女の横の椅子を無造作にひいて誰かが腰かけた。 「そのコーヒーをくれ。この女が俺の分も支払う」 険のある声に幸せの魔女は顔を向けて、瞠目し、すぐに表情を引き締めた。 「あら、魔女から幸せを掠めとろうなんて度胸があるわね」 「当然の支払いだ。外の連中を始末してやったんだぞ」 「そんなこと誰も頼んでないわよ」 幸せの魔女は背筋をぴんっと伸ばして、前を睨みつける。カウンターの棚の硝子越しに男を見ていた。 黒で統一された軍服に似た衣服、片目には札を張っている。――無名は小さく欠伸を噛み殺した。 丸く白いカップに照りのある黒色の液体が満たされて、差し出される。それを幸せの魔女が手を伸ばすよりも早く無名は受け取り、当然のように啜る。唖然とした魔女は自分のカップ、さらには柔らかなパンにトマト、キュウリ、レタスを甘酸っぱいドレッシングをかけて仕上げられたサンドイッチの皿を縄張りを主張する猫のように手元に引き寄せて猛然と食した。 ひと口すすると、甘い香りが、次には爽やかな酸味がカラカラに乾いた喉を潤した。 サンドイッチのしゃきしゃき感は歯ごたえが楽しく、ふんわりとしたパンの感触とよく合う。 「こんなものに大金を払うのか。金持ちの娯楽は理解出来ないもんだ」 「価値のわからない男はそれこそ価値がないのよ。知っていて?」 「ここのサンドイッチはまぁまぁだな」 当然のようにサンドイッチを横からかすめ取られて、幸せの魔女の顔がどんどん険しくなっていく。しかし、それをぐっと甘い香りの味わいとともに飲みこみ、にっこりと笑顔を作って、横に向けた。 「取り返すわよ?」 「腹に収まったものをか?」 「あなたの幸せを」 すっと人差し指が伸びて、額をつんっと突かれたのは完全な不意打ちだったからだ。 「眉間に皺が寄ってるぞ。それくらいなら不機嫌な顔すればいいだろう、あんたも」 「私、あなたの前では笑顔でいようと決めたのよ。あなたが私の不機嫌な顔を見て幸せなんて不公平じゃない?」 ささやかないやがらせの宣言に無名が吹きだし、腹を抱えて笑う様子に幸せの魔女の笑顔は真冬よりも冷たくなった。 「いますぐに表に出る? 私はいいわよ」 「おい、今、出るなよ? まだうるさい追っ手が……まぁ、いいか。これ、テイクアウトで。ホラ、行くぞ」 「私が行く方向をあなたが決め――」 手早くコーヒーとサンドイッチが袋に包まれたのを、無名が受け取って店の裏口に向かって歩き出す。 「来ないのか?」 投げ寄こされた誘いに幸せの魔女は憤然と胸を張った。 「行くわ。私は幸せの魔女よ。幸せがあると感じるところへと行くの。あなたが行く方向がたまたま私の幸せがあるところなのよ?」 ドアを開けて出迎えた黒服の男たちに幸せの魔女の顔がぴきっと音をたてて引き攣った。 「幸せか、コレ」 「黙らないとこの不幸な人たちと一緒に刺すわよ? 焼いても煮ても不味そうだけど」 幸せの魔女が腰にある剣を手に伸ばしたとき、いきなり手に袋が押しつけられた。 咄嗟に両手で袋を握りしめると、無名の腕の中に抱きあげられた。 たん! 地面を蹴って高く飛ぶ。 「しっかりとコーヒーを持ってろよ」 「わかってるわよ!」 強い風を顔に受けて、魔女は叫び返した。 塀の上、さらに屋根へと道なき道を進んで着いたのはこの地区で一番高い建物の屋上。強い風と青い、青い、雲一つない空。 視界を遮るものはなく、すべてが自分の眼窩の下。 屋上の端、落ちるか、落ちないかの場所に二人は腰かけていた。その間にはコーヒーと大量のサンドイッチ。 「私にこそ相応しい光景ね。すべてが私の下にあるなんて! こんなときはシャンペンだけど、コーヒーで乾杯してあげる!」 明るい声で幸せの魔女はコーヒーを掲げ、ゆっくりと濃厚な幸せを飲み下す。 「機嫌が直ったか? お姫様」 「この顔はね、あなたへの嫌がらせよ? それに私、まだ、あなたの幸せをもらってないわ。求めた幸せはどんな手を使っても必ず手にいれるのよ。だからあなたはどれだけ逃げても、私のところに来てしまうのよ」 「ぷ、ははは……俺の運命の女ってことか? こんな別嬪が相手とはな! 悪くない」 幸せの魔女は憮然な顔をした。 「なによ、今更ごますりなんてしても」 「……わがままで、強欲な女に魅力を感じるのは、めんどくさいもんだ」 ひらりと、ひと束だけ掴まれた髪の毛を祈るように握りしめ、太陽を背にした無名は目を眇めて無邪気で、優しく、幸せそうに笑った。 金色の目は瞬きせずに、じっと見つめる。 「今の俺の幸せをあんたにやるよ」 「無名、まだよ、まだ足りないわ。そんなものじゃ……私は満足しない。満たされないわ」 風が吹く。芳醇な甘い香りを乗せて。 「貪欲な魔女め」 「あら、それって褒め言葉だわ」 いつかのとき繰り返した言葉を、二人は繰り返す。飽きもせず。 「どうする? あんたの幸せを俺が奪ったら? すべてを奪い尽くしたら?」 「それも幸せかもしれないわ。けど、私から奪えるのかしら? 奪ったところで奪い返すわよ?」 「……なら、奪いにこい。奪えるだけ。そのときは観念して、全部あんたにやるから。俺の全部を」 「もちろんよ。私があなたのすべてを奪い尽くしてあげる。何人もそれは邪魔ができないのよ。なぜって、それは私が幸せの魔女だから。私はあなたの幸せを手に入れる運命なのよ!」 見つめ合い、近づいていく。 見つめ合い、離れていく。 風にのって芳醇な香りがする。 雲一つない青い、青い、眩暈を呼ぶ空が笑っている。 魔女は一人でコーヒーの甘酸っぱい味わいを楽しんだ。世界のすべてを見下ろして。
このライターへメールを送る