――インヤンガイが一角、哭鳴街と呼ばれる区画が存在する。 野放図に建て増しを続けた家屋が複雑怪奇な迷宮をつくり、何処からか上がる暴と惨の悲鳴が絶え間なく反響し街が哭く。 金と暴力の支配するインヤンガイにおいても一際深い闇。そこに存在するのは、行き場を失い闇に沈むしかなかったもの、疵痕を闇に隠すことを望むもの、そして闇よりもなお忌まわしき汚濁。 酸素を求め喘ぐ声。袋を小脇に抱える男が一人、必死の形相で街路を駆けていた。 足の筋肉が極限まで引き連れ、主人に限界を訴えている……だが彼が止まることはない。 その形相を作っている顔面に沸々と湧き上がる汗、鼻腔と眼窩から止めどもなく溢れる液体が歪みを一層強調した。 駆り立てる男の感情は『恐怖』――。 分不相応の光を望んだものが破滅へ向けて疾駆する、哭鳴街においては日常茶飯事の光景。 他人の命など一束の価値もないこの場において、男に感心をもつものはいない。 精々明日、彼の死体が幾らで売られているかを茶飲み話にする程度、直ぐに忘れ去られる。 男の意識は朦朧とし視界は徐々に絶望に蝕まれ闇に落ちる。 反射のようにあがき続ける足が、視界を失った男の体を廃屋に突き入れる。 柱が瓦解し煙が上がる。廃屋を支えていた柱が男を打ち、床を強かに叩く。 ――崩落の轟音 老朽化が進んだ床は抜け落ち、男の体は瓦礫に巻き込まれて落ちた。 ‡ 崩れ落ちた廃屋の床下、空洞の中に男の体はあった。 男の目蓋は閉じられ光はみえない、呼気に揺られて舞う埃が幽界に旅立っていないことを告げていた。 男の周囲には、突然の衝撃と光に逃げ惑う甲虫の類。 多節の節足動物が気絶した男の顔を這いまわる。それは破れた天蓋から漏れる光から逃れるように手近の穴――男の口腔に逃げ込んだ。 甲殻の脚が喉を掻く、男の眼窩が見開いた。 猛烈な痛みと嘔吐感、口腔から半身が覗いた百足を鷲掴みにすると投げ捨てる。 壁面にたたきつけられた百足は迷惑そうに壁の隙間に消える。 男は四つん這いで胃の内容物をぶち撒けた。 吐瀉は一頻りの落ち着き男に与えていた。 ――『あれ』の気配はもうしない。 しかし『あれ』はなんだったのか……組織の派遣した掃除屋……? ――それは怪異であった。 ‡ ‡ 数時間前 男は所属していた組織を裏切り機密データを持ち逃げ、哭鳴街にある隠れ家に潜んでいた。 裏切りの理由はごく単純、大金と安全な身分。なけなしの忠誠心を売り払うには十分すぎる。 一人では手に余る計画ではあったが、大金と極わずかの友情で結ばれた仲間とともにデータの奪取に成功した。 取引先の連中と合流するまでにはまだ時間がある。 瓶酒を飲みちょっとした前祝い、正直浮かれていたと言わざるをえなかった。 隠れ家の扉が揺れる。そこには哭鳴街には余りにも場違いな清楚な少女。 男と仲間の表情が緊張、侵入者の姿を確認するとそれは好色なものに変わる。 「お嬢ちゃん? 迷子かなァ……」 仲間の一人が扉を塞ぎ少女を囲む。男たちの顔に浮かぶ嗜虐の愉悦。 おかしいと気付くべきであった、この街をただの少女が五分と歩けるはずがないのだ……。 「……見つけた」 少女は怯え一つ見せず呟く。 ――違和感 光の薄い隠れ家に浮かび上がる少女の輪郭、果たしてそれは背後の仲間を覆い隠すような大きさであっただろうか? 少女の顔は見上げなければならない場所にあったであろうか? いつの頃からだろうか、滑りを帯びたものが床を這いまわる音が聞こえはじめたのは。 ――恐怖が認識を拒絶する 鱗に覆われた幾本もの触手が、少女の体を宙に押し上げている。肉が押し潰され、骨が砕ける鈍い音が室内に響いた。触手の隙間から何かが吐き捨てられる。 全身の骨が砕かれ痙攣する肉塊……男の仲間であった物体。臓腑が破裂し汚物と血が混ぜ合わされた匂いが充満する。 ――決壊 少女の体は既に原型を失い、『それ』は鱗に覆われた触手の塊であった。ただ唯一残した少女の名残は、胴を為す一際太い触手に張り付く逆さの顔面。 弛緩した男の体は、アルコールと共に液体を垂れ流していた。 『それ』は音を立てて地面をのたうち棒立ちとなった仲間の一人を飲み込む。 絶望に歪む仲間の顔が、男の網膜に焼きつく。 絶叫が喉を震わせ、弛緩した体を揺らす。最後に一厘残った生存本能が男の体を突き動かした。 隠れ家の壁を蹴破り、男は脱出口に体を踊らせる。 幾人かの仲間がそして蛇のような姿に変体を遂げた『それ』が男を追いすがる。 男は道々に仕掛けた罠のスイッチを全て入れる、仲間が罠の犠牲になるやもしれないが知ったことではない。 逃げ続ける男の背後からは、鉄格子の落ちる音、絶叫と悲鳴が折り重なり聞こえた。 「助けてくれ!!!」 無視した。 自らの命以上に大切なものなどありはしない……男はただの一度も振り返ることなく闇の中を逃げ続けた。 ‡ 恐怖が再び男の脳髄を撹拌する。 固形物のない吐瀉が、暗闇を濡らした。 荒い息が徐々に落ち着き、男の頬には薄ら笑いが張り付く。 (へへ……、へ……。お、俺はついている……『あれ』のお陰であいつらはいなくなった。……報酬は一人占めだ) 無理やり自身を納得させるプロセスは、恐怖を打ち消すための曲解であるが、この男の悟性の現れそのものでもある。 幾ばくかの時間が流れ、床下の空間に差す光が細くなる。 合流時間が近い、男が立ち上がり天井を仰ぎ見た。 少しばかり遠いな……、登るには難渋しそうだ。 ――床の軋む音が聞こえた、パラパラと大鋸屑が男の顔に降り注ぐ。隙間から降り注いでいた光が何者かに遮られ床下は完全な闇となる。 男は戦慄した。 膝が震え、力が入らない。口からは声にならない絶望が漏れていた。 暗闇が隠し『それ』の姿を確認することはできない。 だが『それ』が睨めつけるように、こちらを見ているのはありありと分かった。 「おい、そこにいるのか?」 男は心底安堵した。聞いたことのある声、共に組織を裏切った仲間だ。 「……ああ、お前も無事だったのか。すまん少し手を貸してくれ、暗くて足場が悪いんだ」 わかったという返事と共に伸ばされる腕に掴まり男は床下の空洞から這い上がる。 空洞から抜ける瞬間、日の光が仲間の顔を浮かび上がらせる。 引攣れように本能が恐怖を感じた。だが、その顔は男のよく知るもの『あれ』のハズがない……。 「他の奴らは?」 「わからん……無事とは思えないが」 「そうか」 ‡ ‡ 男が腕時計を確認した――刻限。結局、合流地点には男と仲間の二人だけ。 取引相手の指定した場所は、重厚な扉で封された密室。 分厚い壁と厚いカーペットは、中の出来事を外部から完全に隠蔽する。 扉を背に立つのは屈強な男、言うまでもない取引を成立させるための暴力。 男の座るテーブルに、マスクで顔を隠した人物が近づいた。 「はじめまして、早速ですが取引をいたしましょう。データを確認させてください」 ……マシンボイス。正体を知られてゆすられるのはゴメンと言ったところか。 男はデータスティックを端末につなぐと内容を表示させた。 「確かに……、データは正当であると認めます。報酬の偽造身分と現金を受取ください」 四枚の身分証と四ケースのトランク一杯の現金を前に男は自らが運命を勝ち抜けたと感じた。 「さっき一人になってたときよぉ、これで報酬は独り占め、仲間には悪いが、これはこれで美味しい状況だ、そう思ってたよな、お前?」 興奮する男に冷水がかかる。 図星……だが、仲間だって予定の倍の金が手に入るんだ。 ――悪い話じゃない、お前だって……。 言い訳の言葉は、男の口から音となって出ることはなかった。 ――絶望 仲間の容貌は、この場にいないはずの別の仲間のものに変わっていた。 ニヤニヤと笑いを浮かべる『それ』が男の肩を馴れ馴れしく叩く、男の腰は砕け厚いカーペットに尻餅をついた。 厚い毛糸はじわりと濡れ、アンモニアの臭気が部屋を汚す。 「仲間を見捨てるなんて最低だね、何でこんな奴と逃げたんだか、ほんとお間抜け……『俺も』」 ――『こいつらも』 『それ』の顔が目の前の取引相手、仮面の人物に変わる。 ――『きみも』 『それ』の顔は……男のものとなる。 異常を察知した仮面の人物が手振る。 それを合図として、屈強な男たちの手から銃火が走る。 硬質な音が断続的に響く、銃弾は『それ』の表面に弾かれ部屋を跳ねた。 男から呻き声が上がる。自動小銃から放たれた銃弾は跳弾し、部屋の中の人間を無力化する。 唯一その体を鋼鉄の彫像と変えていた『それ』のみ、全くの無傷であった。 男の顔に手が触れる。人肌程の温度を感じるそれは断じて常識の中に住まうものではない。 恐怖に開ききった男の瞳孔に映るのは、艶やかな黒髪の美しい女性。 「ま、見抜かれちゃあ、ばかしやの看板も下ろさなきゃあならないとこだけども……まぁ長い話もなんだしさ、一個だけいっとくと……」 ―――どんな集団でも、裏切りという行為は万死に値する――― 言葉と共に『それ』は再び変じる。男の精神は現実を拒否し暗闇に沈む。 「なーんて、ね」 冗談めかした声は、男の脳には届かなかった。 ‡ ‡ ――何処かの執務室 アストゥルーゾは執務机をはさみ座る依頼主にデータスティックを放り投げる。 依頼主は鷹揚に頷くと中身を改めることもなく、データスティックを専用シュレッダーにかけた。 「そうそう、あの連中と取引してた連中は持って帰ってきたから、好きにしといてよ、じゃ、気が向いたらまた食事でもしようよ、なんてね♪」 アストは初老の秘書から報酬を受け取ると軽快な足取りで執務室を後にする。 依頼主は秘書に何事か言付ける。 退出する秘書と入れ替わりに、厳しい武装の男が室内にあらわれた それは、暴霊狩りのスペシャリストで知られる男であった。 ――『あれ』は少々都合の悪いことまで知りすぎている……切り捨て時だ。 依頼主の傍らに近づく男、彼は一言耳打ちした。 「長い付き合いだからね、一回だけは見逃してあげるよ……なーんて、ね」 -了-
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