「今度はヴォロスです」 いきなり忍び寄ってきて背後から声をかけてきた世界司書は、導きの書に視線を固定したまま反応など気にも留めずにぼそぼそと続ける。「ある街にある竜刻が、暴走すると予言されました。それの封印、回収をお願いしたいんですが」 面倒臭いことになってるんですよねぇとぼそりと呟いた世界司書は、指先で眉をかいて僅かに口許を歪めた。「その街がある国の首都だった頃、そこを治めていた女王の亡骸と共に竜刻が埋葬されていたようなんですが。何故かその女王が起き出し、竜刻を持って移動したようです」 しかも困ったことにとページを何度か叩いた世界司書は、溜め息混じりに続ける。「女王は、その街の領主を浚ったようなのです。街に眠りを撒いて、大半の人を眠らせて」 夢のと冠される所以ですねと、あまり興味もなさそうに言ってまたページを捲った。「生き残、失礼。起きているのは二人、領主の屋敷に勤める執事と、占い師。その執事の証言により、領主が浚われたと判明しました」 面倒臭いことになってるでしょうと他人事のように繰り返した世界司書は、こめかみをかいて続ける。「女王の目的は、さて。王国の復興か自分を崇める存在か、はたまた単なる横恋慕かは分かりませんが。一先ず領主を手に入れるのが目的だったようで、取り返そうとしない限りは眠りも広がりません」 とはいえ竜刻を封印するには近寄らなくてはならないでしょうね、と肩を竦めた世界司書は導きの書を閉じた。暴走すれば眠ったままその街は滅びるんでしょうと、とどうでもよさそうに付け加えられる。「とりあえず、夢の女王の居場所は判明しています。女王が持つ竜刻が暴走する前にタグをつけて封印、回収してください」 ついでに領主も救出してもらえると助かります、と世界司書は本気でついでのように言う。「その場所に近づくと、否応なく眠りに引き摺り込まれるようです。夢を介して女王を倒すか、説得するか、若しくは自力で覚めて現実で相対するか。その辺は、あなた方の裁量にお任せします」 何をして覚めるかも分かりませんが頑張ってくださいとやる気のないエールを送り、他は何かありましたかねと顎に手を当てた。「ああ、領主を起こすのも手かもしれません。かつて女王に仕えた神官の血筋だそうですから、女王に関して何か知っているかもしれません」 役に立つ保証はないですがと熱意のない様子で肩を竦めた世界司書は、導きの書を抱え直して少し遠い目をした。「ずっと眠り続ける、というのはどんな気分なんでしょうねぇ。取り残されるほうがいいのか、同じく眠ったほうがいいのか……。どちらが幸せでしょう」 誰にともなくぽつりと呟き、世界司書は顔を顰めるように口を噤むと頭を下げて歩いて行った。「おや。あんたも眠れなかったのかい」 可哀想にと続けそうな口調で声をかけられ、クスフラはちらりと視線だけを向けた。「領主様の屋敷に勝手に入ってくるな、占い師風情が」「ひぇっひぇ、その領主がいない館じゃあないか」 何が問題あるんだいと聞き返されて、思わず額が引き攣りそうになる。それでも無視して自分の勤めに集中し出すと、占い師は勝手に椅子に座って声をかけてくる。「起きてるなら、どうしてあんたが助けに行かないんだい?」「私の勤めは、領主様のお戻りを待つことだ。人手が足りない今、私が全てを保たねばならない」 忙しくて手が回らないと吐き捨てるように答えると、ふぅんと馬鹿にしたように語尾を上げられた。つい睨むように振り返ると、占い師の老婆は皺の深い顔の奥に鋭い眼光を覗かせて見据えてくる。「本当は怖いんじゃないのかえ? 迎えに行って、拒絶されるのがさ」 あんたは領主のためだけに生きてるのにねぇと悪意の棘を潜めて笑われ、ぐっと歯を噛み締めて勤めに戻る。「皆、夢を見てるよ。あんたが眠ってないことも知らずに、あんたのいる現実から逃げちまった」「黙れ、占い師。お前こそ何故起きている」「ひぇっひぇ、婆は夢に厭いてるのさ。今があればいいと知っちまった……、夢を見る資格もない」 哀れな年寄りさあと枯れ木のような腕を振り回した占い師は、光を失わない目でクスフラの背を射る。「あんたは現実に満足しちまってる、だから夢を見られない。あんたの大事な領主さえ、今を変えようとしてるから夢から覚められないんだろうに」「っ、黙れと言ったはずだ!」 拳を叩きつけようにも、繊細なガラスのグラスが並んだテーブルは揺らせない。だからといって老婆を殴るほどには理性も失えず、作った拳を必死に押さえつけて怒鳴ると占い師はひぇっひぇと耳に障る声で笑った。「おう、怖い怖い。夢も見られない男が八つ当たるよ」 こんな哀れな年寄りにさぁと揶揄するように語尾を上げて、占い師は椅子から飛び降りた。「夢の女王は、自分の神官を手放す気はないよ? 例えずーっと夢を見させたままでも、自分の手許に置いておきたいのさ。人違いだとも知らずにね」 どっちのほうが可哀想なんだろうねぇと、占い師はざらついた声で続ける。「愛しい男が死んだとも知らずに浚う女王か。あんたが待ち侘びているとも知らずに昏々と眠るお姫さんか」「……黙れ……」「あんたはここで、夢も見ないで何をしてるんだろうねぇ? 助けにも行かず、待ち惚け。行ってみりゃあ何かが変わるかも知れないのに、他人任せにしちまう情けない坊だ」「黙れと言っている! 私は私の領分を弁えているだけだ!」「ひぇっひぇ。弁えるときたもんだ、人の心も弁えない坊が、立場を弁えたと!」 ひぇっひぇ、と繰り返し笑う枯れ木のような老婆は、まるで木が踊るような格好で部屋を出て行く。クスフラが睨みつけたまま罵倒を堪えていると、占い師は耳に障る笑い方をしながら振り返った。「これじゃあ、領主も起きれまいて。全ては夢の女王が掌中、眠る者が見る夢はさぞやいい悪夢だろうよ?」 一人だけ起きてる可哀想な坊、と歌うようにからかった占い師は、彼が物を投げつける前に笑いながら屋敷を出て行った。「私は……、私はこの屋敷を保たねばならない。あの方が寛いでくださるよう、ずっと笑顔でいてくださるよう。私にできることなど、それしかないではないか……っ」 現状に満足して、何が悪いのか。叶わぬ恋に身を焦がし、彼も領主と同じく眠ればよかったのか? 夢でしか叶わぬ想いを、僅かの時間だけ成就させろとでも言うのか。「……くだらない」 彼が執事を勤めている間、この屋敷の中だけでも彼女が笑顔になれるなら。それを生涯の勤めと心得たのだ、眠る暇も夢に浸る暇もないに決まっていた。
ふと気がつくと、セルヒ・フィルテイラーは扉の前に立っていた。さて、ここはどこだっただろうと周りを確かめ、そんな自分に苦笑する。 通い慣れた大学の研究室前にいて、どこも何もあったものではない。この扉を開ければ、懐かしいゼミの仲間が集っているはずだ。 (懐かしい?) パーティを組んで一緒に冒険しているメンバーだ、確かに同じプロジェクトに参加しなければしばらく顔を見ないこともあるが懐かしがるほど大層な話ではない。何だか調子が狂うわねと自分に苦笑して扉を開けると、予想通りの面々が騒がしくそこにいる。 「……何事?」 思わず瞬きを繰り返しながら誰にともなく尋ねると、一人が振り返ってきてセルヒ! と興奮した声を上げた。 「聞いて、今度の調査は『天嶺』よ!」 あそこに行くのよと嬉しそうに話されたそれに、羨望の声を上げながらすうと心が冷えたような感覚に陥った。 私は別の発掘プロジェクトよ羨ましいわ皆で行くのに置いてけぼりなの等々、自分の口から零れる言葉にその部屋にいる全員が心なし自慢げに笑う。 タイミング悪いよなお前もこっちに来ればいいのにいつでも歓迎するぞと口々に言ってくれる、それを聞いてかなり揺れていたはずなのにどうしてこんなに指先が冷たくなるのか。 “喜んでやればよい” どこかから、甘く優しい声が耳を打った。友人たちと話を続ける一方で、セルヒは駄目よとその声に反論した。 「だってあそこに行っては、」 “何も起きぬよ。望む成果が得られるだけ、そなたの案じることは何も起こらぬ” 大丈夫だと力強く請け負われる、それはきっと本当なのだろう。 期待に胸を弾ませた皆が、セルヒを交えて天嶺の話をしている。楽しそうで、誇らしげで、誰もがつられそうなほどいい笑顔をしていた。 彼らを悲しませてはいけない。がっかりさせてはいけない。声が言うように何も起こらないのだから、笑って見送らなくては──、 「違う」 セルヒはぽつりと呟くと、僅かに眉根を寄せて違うわとはっきり発音して頭を振った。 「懐かしいはずだわ、私は彼らがどうなったかもう知ってるの。こんな優しい光景、……もう見られないのよ」 続けばいいと思った。望むだけ長く続くはずだと、ぼんやり信じていた。天嶺に向かったゼミの仲間たちが壊滅したと聞かされた、あの日までは。 「私は彼らを、止めるべきだったのかしら? 何が起きるか分からないから気をつけてと、警告すべきだった?」 そんなこと、彼らはとっくに知っていた。危険が伴うと分かっていても向かったのだ、壊滅するとは知らなかっただろうが、それを告げて止まるような人たちだっただろうか? セルヒは? もしあのパーティに入っていて、誰かに絶対に危ないと止められて躊躇しただろうか。 「多分、無理ね。自分を過信していたのではなく……、あの頃はただ知りたかったのよ。自分が知らない何もかも、そこに眠る何かも世界も、知ることができると思っていた。止められてやめたと投げられるほど、……賢くなければ馬鹿でもなかったわ」 誰かのせいでは止まらない。誰かのためには止まらない。彼らの性質ならよく知っている──伊達に長く、パーティを組んでいたのではない。 “それではそなた、彼らを見捨てるのか” そなたが望めば何も起きないものをと咎めるように声に囁かれ、胸がちくんと痛い。痛いけれど、それを知ってまだ笑える。 「セルヒ」 呼ばれ、仲間に意識を戻す。懐かしい顔触れを前に、名前を紡がれると泣きたくなるけれど大丈夫。 一緒に行くかと出される手に頭を振って、微笑んだ。 「行ってらっしゃい、気をつけて。私が驚くような成果を持って帰るのよ」 私を置いていくのだからと、いくらかの羨望と、僅かな恨み言を交えて。多分あの時そうしたままに告げると、仲間たちは何故か褒めるように笑ってこちらに手を振った。 「私は、私の現実を受け入れるわ。優しい夢に浸ってはいられない……、時を戻しても同じ選択しかできないもの」 助けられるものならば助けたい。けれどこれはただの夢で、現実ではない。懐かしい彼らは、もういない。懐かしいと思うほど遠くにいると、理解している。 「ごめんなさい、私にも夢を見る資格はないみたい」 アナタの夢には浸れないわと肩を竦めるように微笑んだセルヒの言葉で、ぱちんと何かが弾けた。 ジュリアン・H・コラルヴェントは、眩暈を感じたように軽く額に手を当てた。揺らぎが過ぎるのを待って目を開けると、辺りは何だかぼんやりしていた。 (ここは……) どこかと思い出すまでもなく、覚えているままの風景が広がる。主の趣味のまま丁寧に作られた、擬似太陽まで擁する完璧な箱庭。黄昏が好きだと言ってはよく夕暮れ時に設定していた主を思い出して視線を巡らせると、傲然と座る主を見つけた。 早く持っておいでと視線で示され、手にしているグラスを見つけて安堵した。 安堵。何にと疑問に思う暇もなくそちらに足を向け、恭しく主に差し出す。主は黙ってそのグラスを受け取り、何故かジュリアンに視線を合わせると優雅に微笑んだ。 奇妙な、違和感。指摘できるほどではなく、眉を顰めながら失礼に当たらない動作で少し離れる。何が気にかかるのかと自問していると、主が口を開いた。 “そなたは夢を見るか” 唐突な問いかけは、何故か声が二重に聞こえる。主の声で別の誰かが話しているような、──誰かの声に主の声と口調を被せたような? “聞いておるのか” 少し苛々したように聞き返されてはっとし、さあ、と素っ気無く答える。 「夢と言われても漠然としすぎていて」 “そなたにも望みはあろう? 叶えたいこと、変えたいこと……、夢でもいいと望むこと” 変化を望むかと視線を合わせないまま問われるそれに口を開きかけた時、刺青に激痛が走って気づく。 ああ、これは主ではない。終わりを選んでしまった主がジュリアンの前にいるはずはない、こんな問いかけを放つはずがない。 落ち着いて見直せば、主の姿は知らない女性に変わる。彼の主は、こんなに優しい傲岸さを纏ってはいない。 (僕は何をしているんだ) 自嘲気味に呟き、ジュリアンは優雅な動作で見知らぬ女性に一礼した。 「今の僕には夢を見る資格もあるようだ、陛下。貴女が見せようとしたこの頃の僕では、きっと叶わなかったけれど」 あの頃は、ただ従属していればよかった。何も考えずとも許される居場所があった。全てに目を背け、最大の愚を犯してしまうまでの間。ジュリアンはただそこにいればよかったのだ、夢を見る余地もない。 見知らぬ女性──夢の女王は、ジュリアンを一瞥して哀れむように眉根を寄せた。 “何故、覚めようとする。そなたは夢を見られるのに、どうして覚めようと足掻く?” ここにおればよいと、女王が囁いて袖を振る。途端に風景がぼやけ出し、再び夢を紡ぎ出そうとするが偽りの主の姿を見る前に顔を上げてにこやかに笑った。 「申し訳ないが、貴女は違う。違うと知って従えないほど、僕は夢を見る資格を得てしまった」 受け入れ難い現実を知っていると目を伏せて心中に吐き捨て、目を開けると真っ向から女王を見据えた。 「貴女は、わからないのか? 貴女が死の眠りに就いてから、長い年月が経っているはずだ。貴女の望む相手はもうないと……、本当はもう知っているのでは?」 貴女こそ覚めたほうがいいと警告も込めて真摯に勧めると、女王はそっと吐息をついた。 “わたくしが、何を間違えたと言う” 逃げるように顔を逸らした女王は、間違っておらぬと小さく呟いて立ち上がった。 “もうよい、下がれ。ただ一人の主を求めて、夢に彷徨うがよい” 二度は助けてやらぬと冷たく吐き捨てて歩き出す女王を追おうとしたが、裾を払うような仕草だけで何かに阻まれて追えなくなる。思わず舌打ちしたが、覚めずに夢の世界にあるのは好都合だった。 「このまま領主を捜すか」 彼の感応力があれば、夢の繋ぎ目を辿って捜すのは容易いだろう。領主が女王を説得してくれればいいと思いながら、知らず女王が去った方角へと目を向けた。 主はもういないと分かっているのに、覚められない。夢を見る資格はあったけれど、起きる条件は揃っていないらしい。 拳を作って何かを堪えるように目を伏せたジュリアンは、緩く頭を振って顔を上げた。 「竜刻の暴走を止めるのが目的だ」 引き摺られている場合ではないと呟いた、それは誰に言い聞かせた言葉だろう。 どうしてこのくらいのこともできないのと、ヒステリックな声とともにコレット・ネロは頬を打たれた。 「ごめんなさい……!」 謝りながら頭を抱え、蹲る。その後ろから髪を引っ張られ、腰を蹴られた。痛くて蹲るとその背を何度も蹴られ、悪い子だと叩かれて叱られた。 「ごめんなさい、ごめんなさい、いい子にするから怒らないで……!」 必死に謝っても、許されない。どれだけ悪いかを並べながらお仕置きを続けられ、泣くな叫ぶなとまた怒られる。謝罪は心中に繰り返して涙も堪えながら丸くなり、両親の怒りが収まるのを待つのが常だった。 (どうやったらいい子になれるんだろう、どうやったら笑ってくれるんだろう……っ) いい子になりたいと唇を噛んで考えていると、誰かに頭を撫でられた気がした。身体を竦めて起き上がれずにいたが、優しく撫でてくれる手はずっと優しいままだった。 だれ、とようやく顔を上げると、見たことのない女性が撫でてくれているのを見つける。 “可哀想に。痛かったろう” もう大丈夫と微笑む女性にほっとする前に、両親はどこへ行ったのかと視線で捜す。気づいたのか女性は柔らかく微笑んで、気にするでないと頷いた。 “両親は、向こうで反省しておる。そなたを怒った後は、いつもそうであったろう?” よく耐えたのと撫でてくれる手に絆されそうになったが、両親が気になって振り返るとおよしと手が伸びてきて抱き寄せられた。優しい香りのする胸に頭を寄せる形で抱き締められ、色んなことが思考から抜けそうになる。 “もう痛い思いはせんでよい。わたくしが、そなたを守ってやろう” 優しい夢にお眠りと甘く囁かれ、そうしようかなと心が揺れる。ただ大きな疑問に気がついて、抱き締めてくれている女性を見上げた。 「あなたは誰ですか?」 “そのようなこと、気にせずともよい。……もう誰も、わたくしを呼ばないのだから” 寂しそうに微笑む女性に胸が締め付けられるような気がして、つい最近もこんな思いをしたと思い出す。あれはいつだったかと記憶を辿り、はっとする。 「ひょっとして、女王さまですか?」 領主を浚った夢の女王。そうだ、コレットは女王を起こしてあげたくてここに来たのだと思い出して身体を起こした。 「どうして領主さまを浚ったか、教えてください。一人で、寂しかったんですか?」 “……わたくしは誰も浚っておらぬ” 無礼を申すなと柳眉を潜めて声を尖らせられ、咄嗟にごめんなさいと謝る。けれど寂しげな女王を見かねて、言葉を続ける。 「誰も呼ばないと言うことは、あなたの……連れてきた。領主さまもあなたの知っている人ではない、ということですよね?」 “──何が言いたい” 不愉快そうに聞き返されるが、コレットは胸の前で手を組んで訴えるように続ける。 「領主さまがあなたの神官さんだと思っているなら、それは違うんです。本当は、分かっているんじゃないですか?」 あの人はあなたの好きな人ではないんですと告げると、女王は冷たく目を細めた。 「領主さまを、帰してあげませんか。あなたを待っている人は、もっと別の場所にいると思います」 この女王を目覚めさせてあげたい。悲しい思いに囚われたままでは、辛すぎる。だからとさっき女王がしてくれたように、今度はコレットが手を伸ばした。 「悲しいけれど、神官さんはここにはいません。でもきっと、あなたを待っているはずです。ここで眠り続けないで、行ってあげてください」 きっと待ち草臥れていますよと力づけるように微笑むと、女王が顔を歪めた。簡単に納得はしてくれないだろうが、彼女を待つ人のためにも説得しなくてはと言葉を重ねようとすると突然足場が揺らいだ。 “わたくしを待つ者などいない……、誰もいない。あやつが、わたくしを待っているはずがない……!” 悲痛な叫びは、胸に突き刺さるように痛かった。震えるほど切なく、痛いほど狂おしく、嘆いた女王は夢の空間ごと揺らいでそこから消えた。 遠く鳴き交わす鳥の声を聞いた気がして、イーアン・ラファルは目を開けた。視線だけで辺りを見回しながら立ち上がり、四本ある腕の内、下の腕を組んで残る片手を目の上に翳しながら側に立つ大木を仰いだ。 「でっかい木だなぁ」 悠にイーアンの五倍はありそうな大木は雄々しく根を張り、枝を広げ、木漏れ日のきらきらした輝きだけを伝える。優しくそよぐ風に撫でられて心地よい葉擦れの音に耳を傾けながら深呼吸すれば、深い緑と太陽の匂いがする。 知らず口許を緩めるほど優しい風景だが、普段であればそこここに姿を見るはずの精霊がどこにもいなかった。こんな優しく和やかな風景に精霊のないはずはなく、ひょっとしたらと一抹の不安が過ぎる。 「見えなくなった、のか?」 まさかなと思いながらの呟きに答えるように、風が柔らかく髪を撫でた。やはり精霊はいるらしいと実感し、見えなくなった事実が圧し掛かってくる。 「そうか……、見えないか」 繰り返し呟いて空を見上げたイーアンは、しばらくの間の後に仕方ないかと笑った。 「見えないところで、いるのは知ってるんだ。話ができないのは残念だが……、そんなこともあるよな」 さっぱりした様子で受け入れたイーアンに、世界のほうが不確かに揺らいだ。見回す間もなく強制的に目を瞑らされ、再び開けた時には目前に岩壁が広がっていた。 「洞窟、……ああ、女王の居場所か」 今のは夢だったのかと首を傾げ、視線で確かめるとちゃんと精霊が見える。やっぱりこのほうが落ち着くと口許を緩めかけた時、起きたのかと声をかけられて振り返った。面白くなさそうな顔でそこにいるのは、先ほど屋敷から強制連行してきた執事。 「俺もあんたと同じく、眠れないらしい」 「……あなたと私では、見ている方向は違うようですが」 結果は同じですかと視線を逸らした執事の他に誰の姿もなく、辺りを見回すが見当たらない。気づいたらしい執事が、ここに入った時点で逸れましたと淡々と答えた。 「霧状の眠りの粉が晴れた時には、何方もいらっしゃいませんでした。私がここにいるのは、あなたに捕まえられていて動けなかったせいです」 いくらか恨めしそうに説明されるのは、屋敷からここまでがっちりと捕まえて正に引き摺ってきたからだろう。 無理強いをする気はなかったのだが、一緒に屋敷を訪れたジュリアンは執事の煮え切らなさに苛立って途中で踵を返してしまった。一人で行かせるわけにもいかないが、説得も半ばで執事を置いていくのはどうかと迷うと、強制連行決定ねとセルヒが笑顔で断言し。成る程、埒が明いていいと連れてきたのだったか。 「ここまで来たんだ、領主を助けて一緒に帰ればいいじゃないか」 「気楽に言ってくれる……」 どこにおいでかも分からないのにと呟きながら執事が少し離れると、表情が窺えないほど辺りが暗すぎることに気づいて光の精霊に呼びかける。 「悪い、ちょっと力を貸してくれるか」 呼びかけると光の精霊はすぐに察し、周りをほうと明るく照らしてくれた。驚いたように辺りを見回した執事は、目が合うと案外素直に頭を下げてきた。 もし叶うならと、強制連行する道すがらセルヒが目を細めながら言ったのを思い出す。 「あなたが想いを打ち明けると嬉しい。あなたの恋が叶うと、すごく嬉しい」 少なくとも私は応援してるわよとセルヒが言うのを聞いて、見るのも嫌だとばかりに憤然と足を進めていたジュリアンは肩越しにちらりと振り返って、投げるように言った。 「役割だ何だと、結局は行動を恐れているだけだ。……そのままだと全てを失うぞ」 耳に痛い警告に執事は苦痛そうに顔を歪めたが、抵抗が少なくなったのを覚えている。案外素直だと、あの時も思ったのだったか。 「とりあえず、領主を捜そうか」 イーアンが覚めるまでに逃げなかったのだから助ける気はあると判じて声をかけると、執事は苦痛そうな顔はしたがすぐに頷いた。思わず褒めるように笑顔になって背を叩くと痛いとぼやかれたが、気にしないで奥に向かって足を進めると唐突に目の前が開けた。 それはかなり広い鍾乳洞で、最奥の岩天井が崩れているのか陽光が差し込んでいる。その下に広がる水溜りが青く煌いていて、状況が違えば見惚れるに足る風景なのだろうが、しんと静まり返った今は寒々しさが勝っている。 とりあえず誰かいないか調べようと促しかけた時、悲鳴めいた声が耳を劈いた。 「今のは、」 「あの方ではない」 尋ねる前に否定した執事は、それでも心配そうに辺りを探る。わんわんと反響している声がどこから届いたか、判然としない。ただ不安を煽られたのは確かで、イーアンは光の精霊を呼んだ。 “あやつが、わたくしを待っているはずがない……!” 夢から覚めるなり聞こえた悲鳴じみた声を辿ってセルヒが鍾乳洞に辿り着くと、青白く透けた女性の側でコレットが座り込んでいるのを見つけた。 「コレット、大丈夫?」 「っ、ごめんなさい、女王さまが、」 どうしようと振り返ってくるコレットに手を貸して立ち上がらせながら嘆き続けている女性の他に誰も見つけられず、セルヒは眉根を寄せた。 「他の面子は揃ってないのね……、まだ夢の中かしら」 執事さんもいないなんてと少しばかり恨みに思っていると、ぼんやりとした光が瞬いた。思わずそちらに目を向けると、イーアンと執事が駆け寄ってくるところだった。 「遅くなって悪い」 夢の中ではなかったんだがと口の端を持ち上げて付け加えたイーアンに、聞こえてたのねと苦笑して女王だろう女性を見据える。 「とにかく落ち着かせないと、危険よね」 「そうだな。コレットさんと一緒に下がっててくれるか」 「彼女に下がってもらうのは賛成、でも私は平気よ」 できるだけ傷つけたくないけど戦えるわと断言すると、イーアンは軽く目を瞠ってから嫌味のない様子で笑った。 「助かる。俺の手でも、二人以上は守り辛い」 「それで、この状態の女王を鎮める名案はある?」 「……泣いた子供と女性には勝てないって、誰かが言ってたな」 お手上げとばかりに器用に肩を竦めたイーアンに、同感と苦笑しながらも宥めるべく言葉を探しながら声をかける。 「何をそんなに嘆くのか、教えてくれない?」 「力になれるなら、手を貸そう。だから泣き止んでくれないか」 困ったように眉を下げて告げるイーアンに、女王は眠れと掠れたような声で返す。 “眠ってしまえ、何もかも。眠れぬわたくしに、せめて優しい夢を見せて……!” 顔を覆って崩れ落ちる女王の言葉に、思わずイーアンと目を見交わした。 「アナタが、眠れないの?」 夢を見られないのは今をそのまま受け止めているから、若しくは変えることを恐れて停滞しているから。まさか夢を齎す本人にも適応されるとは思わなかったが、この様子では変わることを恐れているのだろう。 (でも、何を恐れるの? 領主を取り戻されること?) 疑問に思ったのはセルヒだけではなかったようで、イーアンが首を傾げて問いかける。 「人を無理やり眠らせてまで、あんたは何を知りたくないんだ?」 問われるなり透けた肩が震えたが、応えはない。対処に困った様子で女王の前にしゃがみ込んだイーアンが子供を宥めるように話しかけているのを聞きながら、セルヒはコレットに心当たりはないか尋ねようとして振り返り、そこに現れたジュリアンを見つけた。 コレットはセルヒたちに庇われて女王から離れ、手を貸してくれていた執事の様子に気づいてどうかしましたかと声をかけた。咄嗟にいいえと答えた執事は、視線を揺らしたまま歯切れ悪く続ける。 「近くに……、あの方がおいでの気がして」 それだけですと答えながら辺りを窺う執事に、迎えに行ってあげなくちゃ! と思わず急かした。しかしと口篭る執事の背を押して、どの辺り? と尋ねると躊躇いがちに歩き出し、鍾乳洞の奥に溜まる青に向かったが少し手前で足を止めた。そのまま突っ立っているのに焦れていると、ここまで来たなら早くしろ! と、どこからともなく怒鳴る声が聞こえた。 「このままだとずっと戻れなくなる可能性もある……っ、早くしろ! 僕みたいになりたいのか!」 ジュリアンの声ではないかと気づいてコレットは辺りを見回したが、姿は見えなかった。 執事は青を見据えたままでいたが、やがて意を決したように、 「早く起きて頂かねば困ります、領主様」 起こすにはそぐわない小さな声で、囁くような呼びかけは誰かに伝わっただろうか。届かなかった証拠のように何の反応もなかったが、執事は一度大きく息を吸うと目を伏せて、もう一度呼びかける。 「起きてください、──リァイリノア様」 小さくはあっても意思の乗る声に、ちりちりと水溜りが震える。先に姿を見せたのはジュリアンで、空間を裂くようにして現れた彼はこちらに背を向けたまま誰かに向けて手を差し伸べた。 執事が、息を飲んだのが分かる。そろりと隣を窺ったコレットは、執事が微かに笑った口許を隠すように膝を突いて頭を垂れるのを見た。 「もうよせ、女王」 凛とした声が後ろから届き、イーアンが振り返ると見慣れない人物がいた。捜していた領主だろうが疑問符をつけたくなるのは、夢に閉じ込められてずっと眠っていた領主、という言葉から受ける弱々しさを一切兼ね備えないから。現にその人は、側に控えた執事の頭を容赦なく殴っている。 「貴様も来るのが遅い、何をしていた」 「申し訳ありません、ですが、」 「言い訳は聞かん」 顔も見ないまま吐き捨てた領主は、自分を見て狼狽えている女王に顔を顰めた。 「望む夢など、誰の側にもなかっただろう? もう皆を解放しろ」 女王よりも慣れた様子で命じる領主に、女王は蹲ったままどこか懐かしく遣り切れなさそうに目を細めた。 “リルファト……” 「それは曾祖父さんの名だ。私は占い師ラァルの子の裔、……死んだ男の名を呼ぶな」 姿も重ねてくれるなと切り捨てた領主は、溜め息をついて続ける。 「ここは神官が儀式に使っていた場所か。私がここに来たせいで迷い出させたなら、私が終わらせてやろう。リルファトはお前が死んだずっと後、幸せの内に死んだ。迷うこともなく旅立ったはずだ」 “よせ!” 聞きたくないと悲鳴を上げる女王を気遣ってコレットが声をかけそうになったが、それを手で制した領主がますます顔を顰めた。 「お前が見せたのは、もっとひどい悪夢だった。お前だけ受け入れられないとは言わさん」 “分かっている、あやつはわたくしを選ばなかった。あやつがわたくしを待っているはずなどない……っ” だがまたも二人の姿を見るのは我慢できぬと嘆く女王を気遣わしげに見ていたセルヒは、ひょっとしてと領主に目を向けた。 「占い師って、執事さんと一緒に眠れなかったあの占い師?」 「客人も会ったか」 それだと鷹揚に頷いた領主に、セルヒはそれならと女王の側に同じくしゃがんだ。 「二人が揃った姿は、見ないですむんじゃないかしら? 占い師はまだ存命よ」 まさかと顔を上げた女王に、領主はしぶとく生きているぞと請け負って苦く笑った。 「あれはあれで、お前を待つ亭主など見たくはないと言って聞かん」 呆れた婆さんだろうとようやく柔らかい印象で笑った領主を見て、イーアンも女王に笑いかけた。 「あんたが言うように待っている保証はなくても、占い師が言うように待ってない保証もないんじゃないか?」 「ここに留まって事実から目を背けているより、あなたも確かめるために踏み出しては如何か」 執事に対する時よりは丁寧な態度でジュリアンが言い添えると、女王は惑ったように視線を揺らした。 「ぐずぐずしていると、またラァルに先を越されるぞ」 脅すように領主が語尾を上げると、女王は思わずといった様子で立ち上がる。それを見て目を細めた領主は、そこに広がる静謐を閉じ込めたような青い髪飾りを指した。 「迷惑料に、それは置いていけ。客人がお望みだ」 “っ、これは、” ならぬと女王が断る前に、構わんだろうと領主が片眉を上げた。 「そんな物があろうとなかろうと、誰も見間違わんよ」 相手が待っていればなと意地悪く付け足した領主に、女王は呆気に取られたような間の後で苦笑するように笑った。 “あやつの裔らしい……、わたくしにかける容赦もないか” 「悪夢の礼だ。クスフラ」 彼女が姿を見せてからずっと傍らに膝を突いていた執事は、小さく頭を下げて女王に歩み寄ると恭しく髪飾りを受け取った。 「外からの客人よ、迷惑ついでに女王を見送ってくれるか」 迷わず旅立てるようにと領主が頼んだそれに、はらはらと遣り取りを見守っていたコレットも笑顔を浮かべた。 「竜刻を取り上げてごめんなさい、女王さま」 「迷わず辿り着けるように、祈ってるよ」 「あの夢、私は嬉しかったわ。もう会えないはずの皆に会えたもの。……ありがとう」 セルヒたちの優しい言の葉に迷惑をかけたと謝罪している女王を遠く眺めているジュリアンに、隣に立っている領主は視線を女王に据えたまま声をかけてきた。 「迷惑をかけたな、客人」 「こちらも竜刻を回収したかっただけです、お気になさらず」 「そうか。だが、感謝している。……あの馬鹿を連れてきてくれたこともな」 うっかり永眠するところだったと肩を竦めた領主は、三人に送られて昇華しそうな女王に軽く手を上げながら続けた。 「優しすぎる夢はただの悪夢だが……、現実ほどではない」 ようやく解放されるんだなとどこか羨ましげな領主の言葉は、どこか痛く届いた。 ジュリアンが夢を辿って見つけた領主は、何の変哲もない日常を過ごしていた。変えたいと強く望んだはずの風景は彼の目には特別を含まなかったのに、執事の呼びかけで覚めるほど領主はそれを夢と知っていた──。 「さて、眠っていた間の執務を片付けなくてはな」 そろそろ街の者も起き出すだろうと笑った領主に問いかけそうになった口を噤み、ジュリアンはそっと頭を振った。
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