木々は櫛のように密生し、昼間だというのに道に影を落としている。歩けども歩けども視界は開けない。 かつての自分ならひざまずいて導きを求めただろう。 「聖なるかな、聖なるかな……」 鼻梁の上に眼鏡を押し込む。ブリッジもフレームも歪んでいる。 「さて、どうしましょうか」 詰め襟をむしり、牧師は笑った。 「ハンプティ・ダンプティ……あ」 小さな手から真っ白な卵が滑り落ちた。一直線に地面に落下し、ぐしゃりと音を立てて停止する。ゼシカ・ホーエンハイムはくしゃりと泣き顔を作った。 「頑張って作ったのに……」 へこんだ殻は蜘蛛の巣状のひびで覆われている。 「ゆで卵だろう? 大丈夫だ」 ハクア・クロスフォードが卵を拾い上げた。 「空腹は分かるが、二個目は着いてからにしよう」 「う、うん」 ハクアに頭を撫でられ、ゼシカは頬を赤らめた。 二人がヴォロスに降り立ったのは半日前のことだ。 今朝のゼシカは依頼に備えてとびきり早起きした。バスケットには手作りのお弁当、小さな胸には期待と不安。レディとはいえ五歳のゼシカは冒険がちょっぴり怖かったのだ。だが、同行者の中にハクアを見出した途端に心が軽くなった。 「近くに良い場所があるそうだ。終わったら行ってみないか」 「うん!」 依頼は滞りなく完了し、二人は森へやって来たのだった。 「いい空気だな。緑が濃い」 ハクアは静かに目を細めた。櫛のように密生する木々は清涼な日陰を提供してくれる。星のような木漏れ日が地面を彩り、深緑のトンネルは幻想的なプロムナードと化していた。 「きらきら、きれいね」 木漏れ日を捕まえんとゼシカが駆け出す。しかし陽光は掌や頬の上でちらちらと微笑むばかりだ。ハクアは「転ばぬようにな」とだけ声をかけ、足を速めるでもなく後を追った。ゼシカの髪は淡い金色で、ともすれば陽光の中に溶けてしまいそうだ。もっとも、葡萄をかたどった髪飾りやぱんぱんのポシェットを見失うおそれはないのだが。 「さっきの唄は何だ」 ハクアはゆっくりと追いつきながら尋ねた。 「ハンプティ・ダンプティよ。マザーグースの」 「結末はどうなるんだ?」 「落っこちて、元に戻らないの」 ゼシカはちょっぴりおしゃまに胸を張る。ハクアは珍しく眉宇を曇らせた。 「不吉だな」 「卵のことなの」 「成程。生卵が割れたら大変だ」 どちらからともなく手を取り合う。 梢が囁き、小鳥が歌って、視界が開けた。 手つかずの深閑が横たわっていた。濃密な樹木と蔦の向こうに朽ちかけた木組みが見え隠れしている。ハクアの手が緑のヴェールを剥いだ。現れたのは飾り付きの窓と、色褪せてひび割れたステンドグラスだ。 「教会か」 「教会ね」 傾いた三角屋根には古い十字架が君臨していた。 訪う者もないのか、下草はゼシカの背丈ほどもある。小さなレディは一瞬たじろいだが、おずおずと草を掻き分けて進んだ。後ろからハクアが手伝ってやる。 教会の中は薄暗く、窺えない。埃と湿気のにおいが這い出してくる。 「お邪魔しま、す……」 バスケットを抱え直し、ゼシカはそっと教会に踏み入った。 ドアはなかった。窓もところどころ破れ、蔦や枝が侵入している。穴だらけの床にゼシカがまごついていると、ひょいと抱き上げられた。次の瞬間にはハクアの肩に座らされている。 「天井に気をつけろ」 素っ気ない言葉と裏腹にハクアの声は優しい。 壁の燭台には蜘蛛の巣が纏わりついていた。古い巣はあるじを失い、だらりと垂れるばかりだ。ゼシカはこほこほと咳込んだ。壁や屋根の穴から光の筋が差し込んで、埃がプランクトンのように浮遊している。ハクアは小さな既視感を覚えた。こんな風に舞うものをかつて幾度も見た気がする。あの頃、いつも隣に妹がいた。 彼女も神父もここにはいない。ハクアだけがいま教会にいる。 「“せいしょくしゃ”なの」 とゼシカが言った。ハクアは我に返り、ゆっくりと瞬きをした。 「ゼシのパパ、牧師さんなのよ」 小さな指が言葉を探すようにハクアの髪をいじっていた。 「そういえばそうだった」 ハクアは静かにゼシカを負い直す。小さな重みを両の肩に感じた。 「あの似顔絵の男か」 「うん。会ったことない?」 「どうだろうな」 五歳児のへたっぴな似顔絵から人相を判断するのは困難だ。 「ゼシね、色んな教会を回ったのよ。教会にいないかなって思って」 「ほう」 ハクアの足元で床板が軋む。進むごとに静寂が濃くなる。 「でも、見つからないんだ」 ゼシカの語尾が幼く、弱々しくなった。 「パパの写真を拾ったの。ダスティンクルのお祭りで。カササギさんが落としたんじゃないかなあって」 「カササギ? 名前か?」 「えっとね、カササギのお面を被ってたの」 みしり。床板が億劫そうに悲鳴を上げる。 「パパと知り合いなのかな。パパ、ヴォロスに来たことあるのかな?」 「ないとは言えないだろうさ」 ハクアは頭上に手を伸ばし、ゼシカの頭を撫でてやった。ゼシカは背中を曲げ、不安な子犬のようにハクアの掌に頭をすりつける。 「そろそろ食事にするか」 ハクアはわざと何気なく告げた。 「弁当を広げられるような部屋があればいいが」 「……うん」 ゼシカはようやく眉尻を下げて笑った。 「弁当の中身は何だ」 「秘密よ。ゼシ頑張ったの。ハムさんに卵さん、パンにもちゃんとバターを塗って……」 「サンドイッチか」 「あ、もう!」 傾きかけた扉が待っている。手をかけると、かすかに軋みながら動いた。そのまま一気に引き開けようとして、ハクアの手が止まった。 「どうしたの?」 頭の上からゼシカが問う。ハクアはゼシカを下ろした。 「誰か来たようだ」 扉の周囲の埃が剥ぎ取られている。ゼシカの視線は自ずと扉の隙間に向かう。次の瞬間、透けるような青い瞳がいっぱいに見開かれた。 「あ」 と声を上げたのはどちらだったか。ゼシカは飛び込むようにして扉を開けていた。ハクアが止める間もなく扉の向こう側に倒れ込む。もうもうと埃が舞い、視界が濁った。 そこは礼拝堂だった。さびれた祭壇の前に一人の男が立ち尽くしている。 癖のない黒い髪。牧師服に包まれた痩身。振り向いた顔は――。 「……パパ?」 ゼシカの頬に薔薇色が咲いた。ハクアが何か言った気がする。しかしゼシカの耳には届かない、関係ない。ただ会いたくて、会いたくて。目の前にいるのだ、探し続けていた父親が。 「パパ。パパ」 あの、初めまして。おかしい? だって初めてでしょ。ゼシはゼシカっていうの。えっと、あの、抱っこして下さい。ママみたいに頭を撫でて……。 「パパ!」 手を伸ばす。目の前に光が溢れる。 次の瞬間、ゼシカは襟首を掴まれて引き倒されていた。 「パパ?」 三日月灰人はかくりと首を傾げ、掠れた声で笑った。 「パパ。この私がパパですか。何と皮肉な。何と滑稽な!」 胸元のロザリオから矢のような光が放たれる。十字架の色は、銀。悪魔を祓う神聖な鉱物だ。寸前でゼシカを抱きすくめたハクアは床の上を転がりながら指先を噛みちぎる。ゼシカのバスケットの蓋が開き、手作りのお弁当がぼろぼろと飛び出した。 「私に娘などおりません」 灰人はロザリオを握り締め、色の悪い唇を三日月形に吊り上げる。 「貴女は一体どちら様ですか? 私の子は妻と共に死にました」 他人行儀な慇懃さに、ゼシカの体が決定的に震えた。 「去りなさい。不愉快です。さあ!」 白光の矢が次々と放たれる。ハクアは舌打ちして手を振るった。指先から糸を引く血が魔法陣を描き、盾となって顕現する。ロザリオの光は難なく跳ね返された。しかし守られたのはハクアとゼシカだけだ。地べたに転がったサンドイッチやタコさんウインナーは次々と焼かれて消し炭と化す。 「見えているのか」 ハクアが凛と問うた。灰人の眼鏡には蜘蛛の巣状のひびが入っている。 「確かめなくても分かることです」 灰人は眼鏡の傾きを直した。 「死者が甦る道理などありません。たとえ神であろうと……」 しゃっくりでもするように声が引き攣れる。 「失礼、単なる喩えですよ。ともかく死者は生き返りません」 ハクアは慎重に眉根を寄せた。灰人のことは世界図書館の官報号外などで見聞きしている。 「おまえは聖職者だろう」 ハクアは銃弾のように言葉を撃ち出した。 「何があった?」 「さあ」 灰人の手が再びロザリオ――彼にとっては単に手頃な武器なのだ――へ伸びる。 「私が訊きたいですね」 光が放たれる。古い壁を、床を焼く。ハクアの腕の中でゼシカが悲鳴を上げた。幼いレディは泣いていた。灰人に拒絶され、ハクアに縋りつくことしかできずに泣いていた。 ハクアの胸がゼシカの涙で濡れていく。着衣を通してさえ、熱い。 「やめろ」 ハクアは次々と魔法陣を描き上げた。それは防壁であったり、風の刃であったりした。刃は灰人の頬をすり抜け、祭壇に佇む聖人の像を切り刻む。像は地響きを立てて崩れた。 「ほら、ご覧なさい」 灰人は頬の血も拭わず、地べたの聖人を踏みにじる。 「こんな物、ただの偶像じゃありませんか」 「やめて!」 叫んだのはゼシカだった。ゼシカの顔はぐしゃぐしゃのぼろぼろだった。 「パパ。パパなんでしょ?」 見間違える筈がない。 だが、父親はこんな人だったのか。あんなに柔らかく笑っていたのに? 「どうして……?」 震える手を恐る恐る伸ばす。小さな手は埃まみれだった。それでもゼシカは手を引っ込めようとしないのだ。 沈黙。 やがて、灰人がふっと笑んだ気がした。 「鬱陶しい人ですね」 眼鏡とロザリオが冷たく光る。 「そうだ。貴女も死にますか?」 歪んだレンズの向こうで陰気な目が笑っている。 「私の娘だと言うのなら妻子と同じように死んだらどうですか?」 「――やめろと言った筈だ」 ハクアの双眸が静謐に燃え上がった。 四本の指を一息に噛みちぎる。ぼとぼとと溢れる血が不可思議な図形を描いた。すかさず灰人の光の矢が突き刺さる。ハクアはゼシカを抱えて跳びすさる。糸を引く血。聖なるロザリオの光が執拗に二人を追い立てる。 「無駄ですよ」 ロザリオの矛先は床の魔法陣へと向いた。ぢっ。血が焦げる。胸の悪くなるような臭い。ハクアは壁を伝い走りながら高く手を振るう。ロザリオの光がハクアの手を貫く。手の甲に穴が開き、血の噴水が天井まで届いた。ハクアは眉ひとつ動かさない。 「おあつらえ向きだ」 勢い良く手を振り上げる。 轟音! 灰人の目の前にいかずちが降り注いだ。本物の魔法陣は天井に描かれていたのだ。青い稲妻がロザリオを打ち据え、壮絶な火花を散らす。天井がまだらに崩落した。さっと陽光が差し込み、灰人の足がぐらつく。 “天使の階段”。雲間から差し込む太陽光はそう呼ばれるという。天と地を結ぶきざはしのようだ、と。 「おのれ……」 清冽な光の中で灰人が呻く。目がくらんだのだろう。地上に出たもぐら、あるいは日光に焼かれる魔物のよう。 「殺す気などない」 ハクアは手を緩めなかった。次なる魔法陣を作り上げ、不可視の槍で灰人の足元を崩していく。 「こっちに来てくれ。この子を見てくれ」 「黙りなさい!」 ロザリオの光が爆ぜた。 光の矢がやみくもに撃ち出された。うち一本がゼシカに迫る。ハクアは身を盾にして庇った。ゼシカの悲鳴。不快な焦げ臭さ。臭いはどんどん濃くなり、ゼシカは火がついたように泣き出してしまう。光が床板を焼き、火の手が上がったのだ。 古い木造はあっという間に炎に舐められていく。 「はは。おあつらえ向きじゃありませんか」 紅蓮のただ中で灰人は笑った。 「ねえ、――……」 ある少年の名を呼ぶ。ハクアにもゼシカにも聞き覚えのない名前を。 「貴方もこの光景を見たのですか。全て貴方の言った通りでしたよ」 天井の穴から風が吹き込んだ。渦を巻く黒煙が灰人を塗り潰す。煉獄は新鮮な空気を喰らい、火柱となって空を衝き上げる。灰人の眼鏡が熱で歪み、滑り落ちた。灰人はそれすら気にかけず、亡霊のようにふらふらと去っていく。 「何も見えませんね。ああ、同じことですよ、全て奪われたのですから」 彼岸と此岸を隔てるように梁が崩れ落ちる。 「焼け落ちよ。全て呪われればいい」 「パパ!」 ゼシカが叫ぶ。ハクアはゼシカを抱えて窓を破った。二人が地面に転がるのと礼拝堂が崩れるのとはほぼ同時。 教会は成す術なく炎上する。 赤い炎と黒い煙に銀色の円盤が見え隠れした。騒ぎを聞きつけたのだろうか。教会の屋根から十字架が落下し、楔のように地面に突き刺さった。それもすぐに炎に巻かれた。 「パパ。パパ」 ゼシカは空のバスケットを抱き締めて泣きじゃくった。彼女の手元に残ったのはそれだけだったのだ。 森の中を走り出す頃にはハクアの傷は塞がり始めていた。彼の血には魔力が宿っている。ゼシカの方は切り傷とすり傷程度で、大事はなかった。 「悲観するな。きっと、おまえのことがよく見えなかっただけだ」 ハクアはあやすようにゼシカの背中を撫でた。かつて妹にしてやったように。ゼシカはもはや泣き疲れたのか、しゃくり上げることすらしない。こんな時でも木漏れ日は優しかった。ハクアの焦げた髪の上に、埃と涙でぐちゃぐちゃのゼシカに、きらきらと等しく降り注いでくれる。 灰人もこの森を通ったのだろうか。ハクアは内心で唇を噛んだ。 「大丈夫だ」 ゼシカを抱き締め、今はただひた走る。 「必ずおまえの父親を取り戻す」 ハクアの鼓動を聞きながらゼシカは肯いた。 ゼシカのバスケットにはゆで卵が一つだけ残っていた。教会に着く前にひびを入れてしまった、あの卵だった。 「ほら。中身は無事だ」 帰りの列車の中で、二人は卵を分け合って食べた。卵に塩を振ったのはハクアだけだ。ゼシカの卵は涙を受け、すぐに塩辛くなってしまった。 「美味しいね」 塩加減が絶妙で、ゼシカはまた泣いた。 (了)
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