「ヴォロスにね、とってもおっきな美術館があるの」 集まった三人を見回して、ゼシカ・ホーエンハイムは唐突にそう切り出した。 昼下がり、様々のロストナンバーが行き来するターミナルの駅構内で、トラベラーズ・カフェのその一角だけがどこか和やかな空気に包まれている。愛くるしい幼子が喋る姿は何とも微笑ましく、同席者たちは静かに、ゼシカの次の言葉を待った。「世界司書さんから聞いたんだけど、その美術館でね、ふしぎな事が起きてるらしいの」 しかし、そこで横槍が入った。 ゼシカの頼んでいたケーキ――ふわふわのいちごショートが到着したのだ。 ケーキに目を輝かせ、説明を中断させてしまったゼシカの話を引き継いで、鹿毛ヒナタが軽く手を挙げた。「見学者が『消える』んだとさ」「……消える?」「そう。何でもその美術館は、竜刻を使った絵や彫刻を幾つも展示しているらしいんだけど――」『その竜刻が暴走しているのかな?』「や、正確には暴走寸前の状態だって」 頬杖を付きながら語るヒナタの隣で、ゼシカは無心にケーキを崩している。自分が行くと強く言い張る彼女を心配し、ヒナタが司書から詳しく話を訊き出したのだ。「その美術館は立地が独特でさ、大きな湖の真ん中に建ってるとか」「それはまた……不便な場所に造ったんだね」 博物館であれ、美術館であれ、それは繊細な芸術品や歴史的価値の高い物品を頻繁に搬入搬出することの多い建物だ。配置替えの度に水の上を行き来させているのかと、ブルゾンを着込んだ穏和な見目の青年――物好き屋が訝しげに首を傾げる。「ま、そうなんだけど。風情があるとかそういう理由じゃね? オマケに美術館と陸地とを繋ぐ橋は陽が沈むと共に使えなくなるんだってさ」『文字通りの孤島になるわけだね!』 美術館の建つ島をぐるりと囲むように、四方向に掛けられた橋はいずれも跳ね橋だ。陽が沈むと自動的に橋は上がり、美術館の関係者ですら降ろす事は出来なくなるのだと言う。「何の理由でそんな仕組みにしたのかは今じゃ職員にすら判らないらしい。――で、その美術館では伝統的に陽が沈むと全ての職員も建物のある島から退避して、夜は完全に無人になっていたらしいんだけど、最近それを逆に利用してあるイベントが立ち上がったとか」「ガレリア・ノッテ」 ヒナタの説明を受けて、ゼシカがぽつんと言葉を挟んだ。お行儀よくフォークを置いて、若干背の足りていないテーブルの上に身を乗り出す。「夜の美術館をあるいて回るツアーみたいなの」 先日就任したばかりの館長が考案したイベントであり、跳ね橋の上がった孤島の美術館と夜明かりの中の美術品を楽しむツアーは中々盛況だったと言う。「でも、そのツアーはすぐに中止になっちゃったって」「……ツアーの参加者に、行方不明者が続出したらしい」 まとまって歩いていたはずなのに、いつの間にか一人、また一人と姿を消していく。まるで怪談のような話だが、実際に職員がツアー中、参加者を数える度に人数は減る一方だったのだと。 旧き時代の聖堂を美術館に造り変えたその建物は、元の用途のとおり、部屋数も少なく、初めて訪れたものでも道に迷えるほど入り組んだ造りをしていない。――だからこそ、そんな館内ではぐれたり、行方不明になることはまず有り得ないらしい。「司書さんが言うには、美術品のどれかに使われている竜刻が暴走しかけていて、美術館の内部を侵蝕し始めているとか」 竜刻が活性化するのは夜。 陽が沈み、跳ね橋による出入りもなくなった閉鎖された館内を己の領域に造り変えて、竜刻は迷い込んだ人々を取り込もうと虚ろな口を開いている。「で、朝になって、美術館を捜索してみたら幾つか異変が見つかった、と」 曰く、海面に無数の灯が燈った幻想的な絵画の、灯りがひとつ増えていた。 曰く、回廊の端、昨日までは何もなかったはずの場所に、泣き叫ぶ女性の塑像がひとつ増えていた。 ――それらが真実、行方不明になった客のものかどうかはわからない。 しかし、行方不明者は未だ、一人として発見されていない。「ゼシはね、帰ってこられなくなった人たちを迎えにいきたいの」 だから、一緒にいってくれませんか、と。 ぴょこん、とひとつお辞儀をして、ゼシカの透き通るような蒼い瞳が集まってくれた三人を見上げている。『うん、ぼくとエレニアも同じ気持ちだよ』「彼らがまだ無事なのなら、助けにいきたいね」 エレニア・アンデルセンの左手でぱくぱくと喋るパペットのエレクと、猫とサボテンを掛けあわせたようなぐったりしたぬいぐるみに顔を隠した物好き屋とが、向き合って頷きを交わす。 そんな微笑ましい光景をサングラスの奥から眺めながら、ヒナタもまた異世界の建築と、命を取り込んだ芸術品について思いを馳せる。 芸術に対する情熱を人並み以上に抱く彼だからこそ、この現象を止めたいという思いも強い。(図書館の経費で美術館に行ける……って、思ってる場合じゃねぇよな) そこに少しだけ、自分の願望が混ざっていた事は否定しきれないけれど。 ◇ 広大なヴォロスの辺境、緑の山と青い湖に囲まれた宗教都市の端に、その美術館は在った。 空は雲一つない青に染まり、しかし重く垂れ込めるような昏さを纏っている。屈折した光が凪いだ湖面に映り込んで、目を射るほどの目映さを放つ。 精緻な彫刻の施された、それ自体が芸術品とでも呼べるような石造りの跳ね橋を渡り切って、四人はその小さな島へと降り立った。 元はこの都市で唯一の大聖堂だったのだと言う話のとおり、荘厳さと神聖さを兼ね備えた巨大な建物が、彼らを待ち受けている。白亜の古城とも見紛う美しい様式の建築に、ヒナタが小さく感嘆の息を吐いた。 中央に聳える本館を囲み、四方に配置された四つの分館を円状の長い回廊が繋いでいる。分館は一つ一つが独自のテーマを持ち、統一された美術品が飾られているらしい。それらをつなぐ回廊にもまた絵や彫刻が飾られており、一周するだけでも有に一日はかかってしまうほどの規模だった。 本館の両脇に有する一際高い尖塔は鐘楼になっており、開館と閉館の時間を正確に、荘厳な音色で告げる。その音を合図に跳ね橋は上がり、下がるのだと言う。 白一色で統一されたホールに足を踏み入れて、四人の旅人たちは物珍しげに異世界の美術館を検分する。渡ってきた跳ね橋によって東西南北どの分館からも入場できるようになっていて、彼らは西の舘に居た。この舘のテーマはホールを見てわかるとおり、『白』のようだった。 ホールには、正面に本館へと続く大きな扉がひとつ、両脇に回廊へと続く小さな扉がふたつ、合わせて三つの、重々しい彫刻を施された扉が口を開けている。「夜まで未だ時間はあるみたい」『じゃあ、先に館内を見て回れるんだね』 館内の案内図を眺めながら物好き屋が呟けば、どこか嬉しそうに――エレニアが美術館に興味あるんだ、と語った――エレクが応えた。当のエレニアの右手はゼシカがぎゅっと握りしめている。「んじゃ、陽が落ちるまでは自由行動。夜、鐘が鳴る前にこの場所に集合。ってことでいい?」 ヒナタが軽やかに提案し、三人は異議を唱える事なく頷いた。 ――そして、長い長い美術館での一夜が始まる。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>ゼシカ・ホーエンハイム(cahu8675)エレニア・アンデルセン(chmr3870)物好き屋(ccrm8385)鹿毛 ヒナタ(chuw8442)=========
淡い青色で統一された廊下を歩いて、エレニアは物珍しげに天井を、壁を、美術館を堪能する。 時間が止まったような感覚。 この場所だけ、世界から切り離されたかのような錯覚さえも抱く。 東の分館は、青や空、昼や光に纏わる物を展示しているようだった。淡い青は空を覆う光の色であり、足許までも塗り潰された館内はまるで中空に浮遊しているようだ。 思いの籠った作品は、強い存在感を放っている。それはどの世界でも共通の事なのだと、眺めているだけで判る。それこそが芸術の力だと。 美術館独特の、澄んだ空気を肺に取り込みながら、微笑みと共に歩いていた彼女はふと足を止めた。 廊下の隅にひっそりと置かれた、女性の彫刻に気がついて。 「……」 大理石の白が冷え冷えと目に映る。悲痛な表情は今にも高らかな絶叫を上げそうなほどの気迫を伴い、伸ばされた両手は何者かの救いを求めているようだ。 柔らかな空気を湛える美術館には、相応しくない。 そっと、その頬に手を添えれば、冷たい宝石の瞳から涙が零れたような気がした。 物好き屋はゼシカの手を引いて、西の尖塔を訪れていた。 人の気配がないかどうかを探る青年の隣で、ゼシカはどこか鷹揚な仕種で塔の中を見渡す。 「きれいなのね」 「うん。一般人は中々来られない場所だし、新鮮だね」 内側から見上げる鐘楼は、高く狭い空間にいっぱいのからくりと幾つもの鐘が立ち並んでいる。 「あそこ」 そう言って少女が指を伸ばして示したのは、最も高い場所に位置する小さな鐘。音階順に並ぶ鐘の中で最高音を担当しているらしい。 「光が入るとね、きらって光るの」 「あ、確かに」 片手で庇を作り、青年もまたゼシカの指し示すものを見上げ頷く。真鍮の胴体の上の方で、白い色が反射して光っている。 「あれが竜刻だと思う?」 「わかんない。でもね、この鐘を合図にガレリア・ノッテは魔法にかかるの」 まじないめいた言葉は、恐らく鐘と共に人の気配が去り、夜の異変が始まる事を指していっているのだろう。微笑ましさに頬を緩め、物好き屋はもう一度鐘楼を見上げた。 螺旋を描く鐘の並びは、何処か蛇龍を思い起こさせた。 「この大聖堂が建築されたのは約五百年前だと言われています」 潔癖なまでに白い色彩で統一された回廊を歩きながら、ヒナタの斜め前を歩く穏和な青年、グイドはそう語る。まさに美術家の卵と言った風情で、どこか親近感を覚える相手。この美術館で絵画の修復技術士をしているらしい。 「……残念ながら、建築当時の資料は戦火で喪われ、今ではほとんど残っていません」 大聖堂自体も戦火で大きく損壊したようだった。それをつい数十年前、三代前の館長が美術館兼資料館として改築したと。 資料室の利用は快く許可された。戦火で殆ど焼失したようだが、それでもそこには都市に関する数多の文献が納められていた。 焦点を絞って調べた結果、都市が戦乱に巻き込まれたのは一度だけ、そして鐘楼と跳ね橋はその時に作られたものらしい。 修復士の青年は、ヒナタを東の回廊へと導く。 そこには、見覚えのある先客が居た。 「あ、ども」 ひょいと頭を下げたヒナタを振り返り、エレニアは無言のまま首を傾げて微笑んだ。ふわりと耳の下に飾る羽根が揺れ、左手のパペットが歓迎に腕を広げる。 『やあ』 「エレニアさん――エレク? もここの歴史が気になったんだ?」 『うん、僕じゃなくてエレニアがね』 どちらに声をかけるべきか逡巡したらしいヒナタの言葉を受け、快活な少年の声で兎のパペットが応える。主であるエレニアはじっと、目の前の絵画に目を向けていた。 『夜には完全な孤島になって誰もいなくなる……それって、なんだかこの美術館から何かが出て来れないようにしているみたいじゃない?』 「あ、そうそう。それは俺も気になってさ。まるで夜間に危険を及ぼすものがあるって判ってたみたいだよな」 二人の推測はほぼ一致しているようだった。 客のみならず、職員たちまでも夜の間は島に留まる事を許されない。御丁寧に跳ね橋も上がり、往来もできなくなる仕組みはまるで、夜にのみ現れる何者かを警戒しているようだった。 『だから、当時の事が判る何かがあるのかなって、探してたんだ』 そうしたら、この場所に辿り着いたのだと言う。 『あの絵』 パペットの片手が、びしっとエレニアの見つめる絵を指し示した。修復士も小さく頷く。 「戦火で大聖堂が焼け落ちる前から、あの絵だけはここにありました」 “LA FAMIGLIA” そんな、簡素なタイトルを課され、二人の少女は油絵の中で息衝いていた。少女たちの傍には無人の椅子とイーゼルが描かれている。 柔らかで明るい色彩を使用し、光と風と、質感を損なわぬように細かな色調にも気を配られているのが判る。光溢れる筆致で描かれた姉妹は今にも笑い声を上げ、微笑んで立ち上がりそうな躍動感を孕みながらも、浮ついた軽薄さはない。確かに二人が生きていたという、その証だ。 のびのびとした筆遣いと、繊細な色の取り方に、ヒナタは一目で心を奪われた。食い入るように、己の持たぬ才能の結露を見つめる。嫉妬や憧憬を飛び越えて、ただただ美しいものに出逢った感嘆だけが心を揺さぶった。 案内板に目を通せば、夭逝した天才画家がこの絵を描くに至った経緯が簡潔に綴られていた。パトロンと、彼の二人の娘が遊んでいる様を描いたのだと言う。 名はG・オルランディ、とだけ記されている。 「……ん?」 ふと、サングラスの奥の瞳が、焦点を合わせるように細められる。 不思議そうに見上げるエレニアに肩を竦めて返し、ヒナタは持っていたデジカメを絵画へと向けてシャッターを切った。閃光も音もなく、ただ赤いランプが点灯して映像を切り取った事を報せる。 ――後で個人の楽しみにしようなどと、決して考えてはいない。 ◇ 厳かな音が、湖上の孤島に響き渡る。 端的だが耳に残る旋律が、数十秒の間をおいて何度か繰り返し流された後、湖は再びの静寂を取り戻した。 鐘楼の下に佇んでいたゼシカは、すぐ近くでそれを見つめていた。原理の判らない異世界の機構が、きりきりと小さな音を立てて回り、螺旋に連なる鐘をひとつひとつ打ち鳴らしていく。それはまるで、巨大なからくり時計、或いはパイプオルガンを内側から眺めているようで、少女はその青い瞳を零れ落ちそうなほどに開いたまま魅入られていた。 「そろそろですね」 鐘の余韻に耳を傾けたまま、修復士はそう呟いた。柔和な眼差しが何処か不安な色を湛えて、周囲へと向けられている。 『今の鐘は?』 「美術館の閉館と、跳ね橋の上がる予告を報せる鐘です。次の鐘が鳴るまでに、僕らもここを離れなければなりません」 そう言って、絵画修復士は雑務の為に大聖堂の奥へと向かう。 立ち去る直前、青年は絵画の前から離れないふたりを振り返った。 「あなたたちは――」 ヒナタはひらひらと片手を振り、エレニアは美しい笑みを浮かべて、青年の無言の訴えに応える。 「これが俺たちのお仕事」 『心配しないで!』 その言葉に、それ以上踏み込んではならぬと察したのか、苦笑した青年も彼らに合わせて手を振り返した。 ◇ そして、二度目の鐘が湖上に鳴り響いて、 “ガレリア・ノッテ”は魔法に掛けられた。 ◇ 西分館のホールに集合した四人は、長い回廊の奥を揃って見つめる。 白い壁は闇の中にあって尚淡く光り、しかしそれも長い長い道の先までを照らす事はない。 この闇の中で、何が彼らを待ち構えているのだろうか。 「あ、待った」 ひとり先に出ようとした物好き屋を、ヒナタが制止する。 「あんまり離れないで動いた方がいんじゃね?」 闇の中でも掛けるサングラスが灯りを跳ね返して光り、次いで彼の背後の影が緩やかに立ち上がった。それは細い細い糸へと変わり、四人の手首をゆるく繋ぐ。 「ほら、目を離した隙に誰かが――ってのも充分にありそうだし」 エレニアとゼシカはその言葉に頷いて、空いた片手を繋ぎ合う。兎のパペットと少女が微笑みあう光景はとても微笑ましいものだった。 「てわけで舟、頼んだ」 ぴっ!とホイッスルを短く鳴らし、オウルフォームのセクタンは誇らしげに飼い主の頼みに応えた。短い羽を忙しなく動かしながら、笛を咥えたまま深い闇の中へと姿を消す。 「ゼシも!」 次いでゼシカが、ひよこ色のポシェットを開く。 「ブリキの兵隊さん持ってきたの」 取り出した小さなブリキの兵隊を、白い床の上に整列させる。トラベルギアである淡緑のじょうろを取り出し、水を兵隊たちに掛ければ、小さな金属音と共に人形たちは命を得て動き出した。 「何か変なことが起きたら教えてね」 ゼシカのお願いを聞き届け、小さな兵士は敬礼と共に散開する。 「じゃ、行こうか」 ヒナタの声に応じ、四人は共に歩き始めた。 北分館を超え、東の回廊に差し掛かろうと言う頃だった。 「ん」 一人遅れて歩き、携帯電話のモニターを眺めていた物好き屋が、ふと声を上げた。 「どした?」 柔和な顔立ちが携帯電話の光源に照らされて、どこかミステリアスに闇の中に浮かび上がっている。常に眠たげな表情を浮かべる貌が、初めてはっきりと眉を寄せた。まるで、何か興味を惹かれるものがモニターの中に写っているかのように。 「ゴメン」 軽やかにそうわらって、物好き屋は三人へ背を向けた。 ヒナタが制止する間もなく、その姿は闇に溶ける。 「ちょ、何処へ――ってもういないし」 物好き屋が消えた闇の奥を目を凝らして見つめながら、ヒナタは大きく息を吐く。ゼシカと言い彼と言い、ロストナンバーは行動力の旺盛な人間ばかりで、一般人の象徴たる自分にはとても追いつけない事ばかりだ。 『ヒナタ君』 「……今度は何?」 肩を下げたまま振り返った彼へ、エレニアは空になった片手を振って見せた。申し訳ないような、困ったような表情で眉を下げている。 『ゼシカちゃん、見失っちゃった』 ◇ 闇から闇へと一瞬にして転移した物好き屋は、すぐに目的の物を見つけた。 鐘楼の隅でうずくまる人影。 小柄で若い女性のようだ、と見当をつけ、しかし拳銃の引き金から指を離さぬまま物好き屋はその背中に忍び寄った。 「――動くな」 押し殺した声で、その頭部目掛けて銃口を突きつける。 ひ、と息を呑む声が聴こえた。思わず振り返ったその額に更に拳銃を寄せて、再び彼らは動きを止める。 物好き屋は、違和感に眉を顰めた。 抵抗の意思がないことを示す、高く上げられた両手。 悪意のない、驚きと恐怖とで構成された表情。 「……貴女は?」 問いかければ、女性は暫しの逡巡の後、恐る恐ると言った様子で口を開いた。 ――それは、予測していたはずの答えだった。 「この美術館の、館長です」 ◇ 長い、長い回廊をひたすら進む。 まっすぐな道が、ゆっくりと角度を変えてねじれていく、不思議な光景だった。虹色に淡く輝く地面は奇妙に美しく、不穏な気配は感じられない。 腕に抱く仔犬のセクタンが反応しない所を見ても、危険はないと判る。ゼシカは好奇心に満ちた青い瞳を彷徨わせながら、落ち着いた心持で進んでいた。 (誰かがよんでいるの) ヒナタとも、物好き屋とも、恐らくはエレニアとも違う誰かが。 虹色の奥から彼女をいざなう声。それは決して怖いものではなく、むしろとても暖かで優しいものを感じる。 だから、ゼシカの足取りに恐れはなかった。 ◇ 「夜、ここで何が起きているか、知りたかったの」 物好き屋のぬいぐるみを抱き締め、何処か気恥かしげに館長はそう語る。凛とした印象を与える切れ長な目が、赤く腫れているように見えるのは気のせいだろうか。 「私は就任が決まってから此処に越して来たから、この島が夜間立ち入り禁止と言う事さえ知らなかった」 だから、軽い気持ちで“ガレリア・ノッテ”を企画した。 長く務める職員たちからは反対の声も多く挙がった。しかし就任したばかりで浮かれていた彼女はそれを跳ね退け、半ば強引にツアーを断行したのだ。 「……いえ、知ろうとしなかったのよ」 彼女は自らの企画したツアーで行方不明者が出た事を気に病んでいたようだった。ロストナンバーに事件の解決を依頼しながら、同時に自身も何か行動を起こさなければ気が済まないほどに。 真相を知り、物好き屋は大きく呆れの溜息を吐き出した。 「……僕の物好きにも限度があるよ」 彼は、ツアーの話を切りだした館長にこそ何か秘密があるのではと勘ぐっていたのだ。夜に何かが動き出すことを知っていたからこそ、禁忌に皆をいざなったのではと。 しかし、真実はその逆だった。 何も知らぬが故の過ち。知ろうとするが故の愚。 批難の言葉も思い付かなくて、物好き屋は再度嘆息を零す。何故自分たちにすべて任せておかなかったのか。 「僕らに依頼したのは貴女でしょう?」 「依頼? 何のこと?」 きょとん、と言う擬音が相応しいほどに目を瞬かせる女に、物好き屋はまったく同じ表情を返してしまった。 ◇ マッピングした地図を見ながらヒナタが先導し、エレニアはその後を追った。トラベラーズノートには物好き屋からの連絡も入り、ゼシカを除いた三人は状況を共有する。 (鐘楼は?) (まだ動きはありませんね) トラベルギアであるにゃぼてん――サボテンと猫を組み合わせたような妙なぬいぐるみを鐘楼内に設置し、彼はそこにカメラを仕込んだらしい。孤島内の距離ならば携帯電話で受け取れる仕組みのその映像には、館長以外に怪しい人影は映っていなかった。 それを聞いて、二人はひとまずゼシカの捜索に戻る事に決めた。これ以上異変が起きる前に、彼女を見つけださなければいけない。 迷いなく歩くヒナタには、ひとつ心当たりがあるようだった。 「ずっと気になってた」 そう言って、ヒナタが立ち止まったのは、昼間彼らが顔を合わせた東分館近くの回廊。白い壁に掛けられた、美しい姉妹の画。 「構成がさ、おかしいんだよ。この絵」 『構成?』 光の軌道をそのままなぞったかのような筆致に焦がれるまま沿わせていた指が、動きを止めた。 姉妹の背後、奥の部屋の壁に置かれた大きな鏡。そこに映り込む男女の姿と、姉妹の隣のイーゼルを指し示す。 「ラス・メニーナスだ」 ヒナタは壱番世界に、よく似た構成の絵画が存在することを知っていた。 通常、肖像画は画家の視点で描かれる。 それを覆し、この絵は画家に描かれるパトロン――鏡に映る男性の見る風景を切り取っているのだ。 「この絵が誰の視点かはっきりしている以上、画家が絵の外側に居るのはおかしい」 それでは、ギミックが成り立たないのだ。 イーゼルの前に座る、画家の姿がなければ。 「聴こえるか?」 そして、呼び掛ける。 油彩画に溢れる光の向こうへ。奥の壁に小さく描かれた、扉の外側へ。 「出て来いよ」 声に応えて、絵画の中の光が動いた。 廊下に二つの人影が映り込み、それはゆっくりと動いた後、人の足に変わった。華奢な青年と、彼に手を引かれた金髪の少女が、開いた扉の向こうに現れる。 『ゼシカちゃん!』 「……やっぱり」 無邪気に手を振る少女の隣。 こちらへまっすぐに向けられる青年の顔に、ヒナタもエレニアも、見覚えがあった。 昼間見たものと同じ、くすんだ灰色の瞳が、悪戯な笑みを含んで彼らを見上げている。油絵のゼシカが手を振るのに合わせて、彼もまたひらひらと片手を振る。まるで別れ際にヒナタがそうしたように。 ふたりはもう一度、案内板へと目を向けた。 夭逝の天才画家。“G・オルランディ”。 ――グイドのGだ。 ◇ この大聖堂には、夜にだけ力を得て暴れ廻る竜刻の魔物がいるのだと、絵画の中でグイドは語る。 《元は戦争から大聖堂を護る為造られた防衛機構だったようです。それが竜刻の暴走により、敵味方の区別なく襲う魔物に変わってしまった》 だから、大聖堂は跳ね橋で封じられた。 魔物が外へ出て行かぬように。 むやみな犠牲者が現れないように。 そして、強すぎる竜刻の魔力の影響か、ただの絵であった天才画家は長い年月の末に意思を得た。魔物の力の及ばない昼には、自由に絵画の外へ出る事もできるのだと言う。 『でも、キミは、そこで何を――?』 《護っていたの》 絵画の中で、青い瞳を輝かせる少女が言う。青年は困ったように笑い、少女を連れて絵画の端へと歩み始めた。二人が額にぶつかる気配はなく、そのまま隣の絵画へと移動する。 《この美術館の絵は全てひとつの世界で繋がっているんです。僕の意志で外に干渉できる》 例えばこんなふうに、と絵画の向こうから伸ばされた青年の手が、平面を突き破って二人の前に立体を伴い現れた。画家の指先が悪戯に泳いだ後、ふっと戻される。 グイドは竜刻の魔物に襲われた客たちをその世界へ招き入れる事で、彼らを匿っていた。朝早くに外に出したり、恐怖で口の聞けない者は落ち着くまで絵画の中に留まらせたりもしていたらしい。 『じゃ、彫刻の彼らは?』 エレニアは悲痛な顔で固まる大理石の人々を指して問う。グイドの話と彼らの表情とに、大きな乖離があるように思えた。 《竜刻の魔物に呑み込まれた姿です。きっと、竜刻を封印出来れば助けられると思いますが……》 「で、その、竜刻の魔物って――」 ヒナタの声を遮って、絵画が動く。 絵画の奥から、青年は穏和に笑って指先を肩の高さに持ち上げた。平面の奥から投げられる軌道は覗き込む彼らを超え、その向こうに伸びる回廊へと続いている。 二人が振り返る、その先には白い闇だけが広がっていて。 「……?」 《来ますよ》 預言の言葉に呼応して、虚空が蠢いた。 初めに響いたのは、美しい羅紗。 高く透明な、天から降る光を思わせる音色。 彼らはそれに聴き覚えがあった。 ヒナタがエレニアを窺うように視線を送れば、耳の良い彼女は小さくだがしっかりと頷いて応える。ノートに目を滑らせれば、そこにも仲間からの伝言が遺されていた。 ――西の鐘楼に異変有。原因不明の地震が起きている。 仲間へと向けてメッセージを送り、物好き屋は周囲を見渡す。 「グイド」 淡々とした声で、物好き屋は《何処か》に居る筈の青年の名を呼んだ。 「彼女を任せた」 そして、一際大きな絵画の前で館長の背を押す。突き飛ばされた彼女は絵へと倒れ込み、しかしそれに触れるか触れないかの刹那、歪んだ空間がその身体を受け容れた。 《任されました》 おどけるように言って、絵画は波紋を沈め、沈黙する。不思議に思った物好き屋がそっと手を伸ばしても、油絵の凹凸だけが指先に触れる。空間が撓む事もない。 「……じゃ、僕らは僕らにできる事をしますよ」 《任せましたよ》 ◇ 羅紗の音色が、回廊に命を吹き込む。 廊下に展示されていた甲冑が、彫刻が、塑像が、次々と動き出す。動きを留めたまま、悲痛な表情で叫び続ける像を残して。 竜刻の魔物が操る先兵が、二人へと襲いかかる。 ヒナタの影が二人の前に壁を作る。小さなブリキの兵隊が彫刻の足をつついて横転させる。 「――来ないで!」 エレニアのハミングボイスに怯む塑像を後目に、耳を持たぬ甲冑は生き物らしからぬ動きで迫っていた。 「ねえ、こっちからでもお手伝いできる?」 「大丈夫」 油彩の鷹揚な筆致で描かれた青年は、色を重ねて塗られた頬を持ち上げてゼシカに微笑みかけた。白で跳ね返る光を表現した、大きな鏡を指差す。 「あそこから自由に出入りできるんだ」 画家が描画の入り口にした場所だ。 難しい事を脇に於いて理解したゼシカがそっと触れれば、鏡面は水面のように波打った。ポシェットから取り出したビー玉を、その中に放った。 《ふたりとも、ちゃんとよけてね》 絵画の奥から、ゼシカの声がした。 と思ったと同時、彼らの足許に色とりどりのビー玉が顕れる。ころころと転がって行くそれらは、二人を追い越して、迫り来る甲冑の足許に潜り込んだ。 銀の踵が丸い硝子を踏む。 バランスを取れなくなった幾つもの甲冑が、派手に転倒した。自らの重みで地面に叩きつけられた鎧はばらばらに崩れ落ち、そのまま動きを止める。 『すごいね、ゼシカちゃん!』 エレクが無邪気に感嘆する。絵画の中から少女が胸を張っていた。 しかし、それも束の間の事。 淡くも果てしない暗闇が、深淵で胎動する。 高く、美しい羅紗のような音色が響く。 それは咆哮。侵入者を許さぬ番人の、示威の声だ。 サングラスをずらし、ヒナタは大きく目を見開いた。 「ちょ、何アレ」 『大きいねー』 驚くエレニアとは対照的に、エレクが能天気な声を上げる。どうやら兎のパペットは非常時まで役割に徹しているようだった。 白い回廊の奥、彼らの目の前で、淡い闇の中を泳ぐ――そう、長い身をよじらせて虚空を泳ぐもの。 龍だ。 塔の中で螺旋状に連なっていた、全ての鐘が形を変え――ひとつの巨大な龍の容を取っている。真鍮と色とりどりの煌石で飾られた身を輝かせ、一際大きな真紅の宝石で出来た双眸が立ち尽くす二人を見た。 無機物の龍は咆哮に身を震わせ、大気を震わせて、緩やかに躍るようだった動きを変える。きぃん、と一際高く鳴り響いた音は、短い脚が空を蹴る兆しだ。 ――来る。 何ができるかも判らないまま、ふたりは絵画を庇うように身構える。 ◇ 「みんな」 現実世界の異変を前に、少女は鏡を潜る決心を決めた。 「行くのかい?」 心配そうに、優しい絵画世界の主は問いかける。 ゼシカは振り返って頷いた。金の髪がさらさらと揺れる。 「ゼシね、絵が大好き」 見上げる青い瞳が、月光の雫のように明るい色を燈す。真っ直ぐに向けられる眼差しに青年は僅か目を丸くした。 「もちろん、美術館も好きよ」 この美術館に足を踏み入れた時、胸がわくわくと鳴ったのを覚えている。沢山の絵が歴史のある建物の中に飾られている、まさしく夢のような場所だ。 「けど、危険な場所だってうわさが広まったら、誰もこなくなっちゃうわ」 今のまま、竜刻の暴走を放置していては直にそうなるのだろう。 「そんなの淋しいもん。美術館の信頼をカイフクしたいの」 だから、そのためなら頑張れるのだと。 心配はいらないと、幼い少女はしっかりとした言葉で告げる。 高く天を貫くような、鐘の音が響く。 低く宙を滑った巨龍が、回廊を走る二人へと迫る。 人の足よりも龍の滑空は早く、見る間に追い付かれてしまう――その、寸前だった。 空間が撓み、虚空からブルゾンを着た青年が吐き出される。 二人と龍の間に躍り出た物好き屋は、表情ひとつ変えないまま手の中のぬいぐるみを目の前に翳した。ぐったりとしたボディに、あぎとを開いた龍の牙が突き刺さる。 次の瞬間、にゃぼてんの口が鋭角に尖り、全身から鋭い針が飛び出した。 前面へ射られた針は龍の身体――真鍮で出来ているはずの硬い身を貫いて、至る所を罅割れさせる。衝撃に口を離した龍は、身悶えながら白い闇へと後退した。 「竜刻は!?」 「一番高い音を鳴らす鐘――だと、思うんだけど」 整然と並んでいた鐘がばらばらになり、再構成された後の龍の身体を前に、物好き屋は困惑の声を上げた。 少ない光を跳ね返し、鐘の龍は身に飾られた数多の煌石を輝かせる。 傍目には鐘の大きさの違いなど区別がつかず、これでは何処にその鐘があるのかわからない。 惑う物好き屋の肩を、パペットの小さな手が叩く。 『音が判ってるなら大丈夫』 エレクの口を通して、告げられる言葉。エレニアが柔らかで確かな笑みを浮かべて頷いた。空いた右手が、羽根飾りの揺れる耳を指差している。 『エレニアにはちゃんと聴こえているから』 それを聞いたヒナタが、サングラスに手をかける。 長い紐の形を取っていた影が、瞬時に彼の足許へ戻り、次いで逆三角に広がりながら立ち上がった。 それは巨大な鳥。 広い翼をいっぱいに広げて、黒鳥によく似た影は優雅だが鋭い動きで飛び上がった。 「鳥さん、待って!」 「ゼシちゃん!?」 叫びと共に、絵画から飛び出してきたゼシカがその首に縋り付く。驚いたヒナタが鳥を戻そうとするも、少女の小さな手にタグが握られている事に気がついて、諦めた。 「危なくなったらすぐ降ろすからなー!」 「うん、ありがとうサングラスさん!」 鐘の音が高く天を渡るように響き、低く地を這うように轟いて、四人の声の阻害を狙う。至近距離で大きな音を鳴らされて、耳を塞がねば鼓膜を破られそうだ。 滅茶苦茶に、全ての鐘が鳴り響く。 「――右です! 頭の下、あごの部分!」 しかし、その声だけは、はっきりと彼らの耳に届いた。 鼓膜を超えて、脳裏へと焼きつくように。歌うように伸びやかで美しいエレニアの声を頼りに、ヒナタは影の鳥を操縦する。隼のように鋭く、身を屈めた大鳥は少女を乗せたまま龍に追従した。 《後で返してくださいよ? 彼女は恥ずかしがり屋なんだ》 「もちろん」 冗談交じりに言い募る画家に苦笑を返し、物好き屋は広いベッドに裸婦が横たわる絵画に背を向け、手を後ろへと回した。直後、その掌に何かが触れ――確認するまでもなく、青年はそれを転移させる。 暗闇に、薄絹の白が広がった。 唐突に顕れたシーツに視界を塞がれた龍が、勢いを喪って暴れまわる。短い四肢で纏わりついた布を剥がそうともがいても、広い面を覆ってしまったそれを剥がすのは難しい。 白いシーツの下、剥き出しになった口許に影の鳥が急接近する。 ゼシカは大鳥から立ち上がって、その小さな腕をいっぱいに伸ばした。触れた竜刻にタグを貼り付ければ、鮮やかな輝きが一瞬だけ怯むように収まった。 高い鐘の音で泣き叫ぶ龍を、顎の下からそっと抱き締める。 「魔法は終わりなの。怖いことはもう何もないのよ」 優しい少女の言葉に、鐘楼の龍が身を震わせて啼いた。 白い竜刻が鮮烈な光を放ち、大聖堂を、孤島を、湖上を包み込んでいく。焼き尽くすような苛烈さを持ちながら、それは柔らかで、他者を傷付ける意志を持たない色だった。天才画家の用いる筆が孕む光にも似て、美術館を包み込む魔法を洗い流していく。 やがて、光が収まり、深い闇の代わりにほのかな朝陽が顔を見せ始めた頃。 鐘楼は何事もなかったように、大聖堂の東に鎮座していた。 ヒナタの影鳥が、ゼシカをその背に乗せたまま地面へと降り立つ。宿主の足許へ戻る大鳥に手を振って、その役割を労う少女の手の中には、封印のタグを貼られた白い竜刻が収まっていた。 《皆さん、ありがとうございました》 油絵の向こう側で、光と色彩の画家は頭を下げる。匿っていた人々を本館の絵画から逃がしている事を告げ、四人に向けて手を振った。 《僕が実体化できていたのは、その竜刻のおこぼれですから。もうそちらにはいけません》 「もうお別れなの?」 淋しそうに問うゼシカに、彼は首を横に振ってこたえた。 《僕はずっとここにいるよ》 現実と切り離されてしまうだけで、絵画の世界はずっと続いている。 定位置であったイーゼルの前の椅子に腰かけ、筆を手にとって、そして“ガレリア・ノッテ”の主は動きを止めた。 優しい絵画に相応しい、穏やかな微笑みを残したまま。 鐘の音が鳴り響く。 夜の終わりを、優しい魔法の終わりを告げるように。
このライターへメールを送る