埃の積もった細い路地。 電灯は破壊され、路地を照らすものは何もない。 そんな中、闇の中を蠢く何かが、びしゃっ、と粘性のあるものをひび割れたコンクリート床に振り落とす。 赤黒い血。 それも生きた人ではない、屍人の持つ血。 更にごきっ、という音が響く。 床に広がった血に何者かが踏み、血で彩られた足跡がついていく。 その上にあるはずの人の姿は無い。 あるのは、路地に残された屍体がひとつだけ。 血が啜り出され、2度目の死を迎えた屍体だけだった。 +++「インヤンガイへ向かってください」 そう切り出したリベル・セヴァンは集まった一同に向かい、説明を続ける。「インヤンガイの街区の一角に暴霊が現れたためです。詳しい話は、現地にいる探偵が説明しますが、大まかに言いますと、とある街区の一角に現れた屍人が住民に危害を加たために、探偵へと依頼が出されました。その後、屍人の居る場所では場が活性化したのか、不可視の暴霊も現れました。現在、その場所には2種の暴霊がいます」 暴霊はインヤンガイを満たし動かす霊力が、ふとした拍子に外れて、インヤンガイを漂い、制御されないままであると、やがてそれは死体や物体に取り憑き、危害を加える存在、暴霊と総称されるものへと変化する。 ダメージを与え、撃退すれば、暴霊は力を失い、再び動くことはない。「探偵は、屍人も多く、現れた不可視の暴霊のこともあるため、区域を封鎖して一挙に事態を収束したいと考えているようです。そのためには皆さんの協力が是非とも必要です」 よろしくお願いします、とリベルは頭を下げた。 +++ 隙間という隙間を埋め尽くすように立ち並ぶ薄汚れた建築物が満たす場所、それが霊力都市・インヤンガイ。 街に住まう人々も何処か希望を失った目をしてい、訪れる者に目を向けるも、興味を抱くでもなく、ただ茫洋とした日をすごす。 灰色の空を見上げれば、紐を通された洗濯物や電線が交差し、看板に灯った色が派手派手しく品のない景色に色を添えている。 インヤンガイの一角にある探偵事務所のソファに座り、探偵と一同は向かい合う。 探偵はリィン・マウといった。 ローテーブルにはジャスミン茶の入ったカップがあり、ほんのりと甘い香りを満たしている。「この区画だ」 リィンは一枚の地図を広げた。 赤い線で囲まれた場所が屍人と不可視の暴霊が潜むエリア。「屍人の数は18体、不可視の暴霊が1体。治安レベルは最悪。だが、そこに住まう住人もいる。一応な。居住者が、まぁ、正式な居住者達に一時的だが、退治のために避難してもらう手筈になっている。不法に住み着いている者にも一応、声は掛けてある。危険だと思えば、退去しているだろう。その時間は早朝から、深夜までのほぼ1日」 その間に仕留めろということだ。「3棟ある9階建ての建物に、その前にある広場まで封鎖する。3棟は横の繋がりは無い。地味に階段での上り下りするしかない……が、上層階は棟が傾き、無理矢理通路を繋げて行き来できるようになっている。出来るだけ建物の破壊はせずに済ませて欲しい。廃墟同然の建物だが、住んでいる者もいるからな」 依頼をされて幾らか話をする内に、住民ともそれなりに繋がりが出来たのだろう。「最初は屍人は20体居た。1体は俺が仕留め、もう1体は不可視の暴霊が血を吸いつくし、力を取り込んだ。その後は不可視の暴霊も屍人を取り込むことは無かったが、どうにも気味が悪い。そう思うのは、屍人の動きが変わったのがいるからだ」 明るい所を嫌って動いていた者が、明るい場所でも蠢いていたり、行動範囲を広げようと動き出したり。「不可視の暴霊だが、透明なだけで、何かを掛ければ、その存在を視覚に捉えられる筈だ。まぁ、見つけるのが一番の難関なんだが……それはともかく、頼む」 リィン1人ではなかなか手が回らないらしく、お手上げのようだった。 眉をハの字にして困り顔のリィンに、仕方がないなと溜息をつくと、一同は暴霊退治に取りかかることにしたのだった。
肌に吸い付くように霧が濃い。 だが、ロストレイルから降り立った時に感じた薄汚れた空気よりは、呼吸も楽だと思えた。 高層階は霧で埋もれ、先が見えない。 朝靄を掻き分けるように外へと出てくる人々の姿と、時々聞こえる眠そうな声が無ければ、薄汚れた壁面と下層階のひび割れた窓から、ゴーストタウンかと見間違ったかもしれない。 だが、今日は違う。 早朝と同時に人々が動き出す。 普段なら、まだ寝静まっている人々も、襲いかかる刃の恐怖には勝てず、どこか追い立てられるような様子で出てくる。 中にはぐっすりと眠ってしまい、着の身着のままという、なかなか剛胆な精神の持ち主もいるが、たいていはまだかまだかと退治の朝を待っていた人々だ。 住民は屋外へと避難し、今から狩りが始まる。 +++ 長い一日になるか、短い一日になるかは、呼ばれたメンバー次第。 リィンが、出てきた住民の顔を確認して、出遅れた者が居ないか確かめていく。 中には、リィンが接触したことのない者が紛れている可能性はある。 もし、そういった人間が確認できれば、出来れば助けてやって欲しいと頼む。 「もちろん、助けるでよ」 神ノ薗 紀一郎が人好きのする表情を浮かべ、筋肉質ながら猫背気味の細身の身体に、ぼさぼさの髪をぽりぽりと掻きつつ頷いた。 拵えの良い刀と脇差しが穏やかな印象とは違い、実践的な技量を持っていると感じさせた。右頬に横一筋ある刀傷も、これまで潜り抜けてきた過去の一部で紀一郎を形作るひとつなのだろう。 「こんな広いとこでお化け退治かぁ。見えない子も探すんだよねぇ、なんか隠れん坊みたい。それとも鬼ごっこかなぁ?」 ウーヴェ・ギルマンが、生気を余り感じさせない面に今は、口元に笑みを浮かべ、楽しそうに人気のない、今は生きている人間は居ないはずの三棟を見やった。 「見えない子には、これを持ってきたがよ」 紀一郎はウーヴェのそんな様子には慣れているのか、持参した品を懐から取り出す。 朱墨だ。 投げつければ、朱墨が目印になるだろう。 2人は年越し列車にて、時間を過ごした仲でもあった。 「良い物だね。これなら競争が出来そうだよ」 ゲームなら、誰が一番屍人を倒したか、競うのも悪くない。 「それなら、私も」 そういって、ディーナ・ティモネンが大きめの鞄から取り出したのは、リィンの分も含めた人数分の探索グッズ。 懐中電灯に遭難笛、小型トランシーバー(無線機)、スプレーペンキと至れり尽くせりだ。 「手分けするなら……必要かな、って」 ディーナ自身は暗視能力もあり、普段掛けている色の入った眼鏡を外せば、闇を見通すことができる。 でも他のメンバーはどうだろうと、もし闇の中で同士討ちとかになれば、大惨事だと考え、用意してきたものだった。 集まったメンバーを見渡して、ディーナが一つ一つ確かめるように、使用の仕方を説明していく。 様々な世界から集まったロストナンバーたちであるから、もしかして知らない、そういった物がない世界の人々の場合もあるかも、と考えたからだ。 「悲鳴より……笛の方が、遠くまで響くよ」 今は鳴らせば建物内にいる屍人や暴霊の注意を引いてしまうかも知れないからと、次ぎにうつる。 「人間は……目の光に、反応する。屍人は、違う。1番簡単な見分け方、だと思う」 ディーナが順番に皆の目に光を当てていくが、ココ・ロロと皇 無音は興味深げに覗いたのみだ。 「それはちょっと苦手かな」 ウーヴェが残念と懐中電灯を受け取りつつも、ベルトに差し込んだ。蛍光色のカラースプレー缶をウーヴェも用意していたが、色が増えて少し嬉しい。遊び道具が増えたような、そんな気持ちだ。 「どっちかというと、暗闇の方が慣れているんだよ」 「今回の探索には、とても向いているね。私と同じ」 「皆もか」 ジュリアン・H・コラルヴェントが、初めて言葉を発した。 生活習慣が夜行性であるため、朝、それも早朝はどうにも眠そうだ。 ときおり、欠伸をかみ殺していた。 とはいえ、各々の話を聞いていないというわけではない。 棟内へと足を踏み入れれば、緊張感という感覚がジュリアンを目覚めさせ、腰に下げられたレイピアで敵を突き刺すのだろう。 「ディーナさんとウーヴェさん、ジュリアンさんもなのね。私もよ」 赤燐が楽しそうに薄赤の布で隠された奥で笑う。 ゆったりとした狩衣を着ているために体型は分かり難いが、声でわかる。 布もひらひらとしているので、見せてといえば、気軽に捲って見せてくれた。 陽気なマダムだ。 「ええ」 赤燐の言葉にジュリアンは柔らかな声音で応える。 女性には反射的に優しくするという、作法が身についているのだ。 「楽しみ」 腰にある鞭が今日は存分に振るえそうだと、ウーヴェは軍帽の下にある隻眼をうっとりと細め、開始を今か今かと待っている。 「私も」 どこか共通する狩人の思考。 「変わった行動をとる、屍人の近くに。見えない暴霊がいる可能性、高いんじゃないかな? 捕食者である暴霊から逃げようとしてる、とか。そういう時、周囲にスプレーしてみると、いいと思う」 上手くすれば目印つけられるし、と。 建物内の壁についたのは、あとで水で流せる水性のもの。 「行動の変わらない屍人は……切り刻む。行動の変わった屍人の近くは……注意が要る。そういう時は連絡、取り合えないかな?」 小型トランシーバーで連絡を取り合い、どの棟内にいるのか分かれば、暴霊がいる場所を特定しやすい。 不意を突かれることも少ないのではないかと、ディーナは考える。 犬から進化した人型生命体であるココは、黒い鼻やピンと立った被毛に覆われた耳が犬の面影を残している。 愛らしい姿ながら、考え方はかなり理論的だ。 「ぼくは匂いに敏感だから、腐臭っていうのかな、辿っていこうと思う。この貰った品は屍人に追いついてから、役立たせて貰うよ。暗闇ばかりが好きなら、光は苦手かもしれないし」 明るい口調でココは言うと、続けて気になっていることを口にした。 「インヤンガイにとって霊力が必要不可欠ならば、暴霊は必要悪ということになるよね。だからと言って、暴霊の存在により、誰かが悲しんでいいという話じゃない。それならば、暴霊と上手く付き合っていく方法を探す必要があるんじゃないかな?」 インヤンガイを満たす霊力全ては、暴霊も含めてインヤンガイという世界を動かしている歯車だと考えれば、どうにか出来るのではないかとココは思うのだ。 けれど、インヤンガイに住まう人々は、そういった思考さえ日常化している世界の中では、なかなか生まれることのない考え方なのかもしれなかった。 「新しい考え方ね」 赤燐が、興味深げに頷いた。 「屍となった人も、本当はそんな物になりたくないはずよ。環の中に返してあげられれば、未練も消化できるかもしれないわね」 少し道を外れた存在となってしまったが、倒せばまた元に、インヤンガイを満たす霊力として戻るのかもしれないから。 それならば、救いはあると思えた。 「ぼくは、この事件を通じて、暴霊と上手く付き合う方法を、ひいては制御できる方法がないか探していきたいと思う」 「そうね」 「暴霊の基本的な行動や、性質等の基本情報を丹念に調べていこうと思う」 ココの姿勢は、研究者のような精緻さを感じさせる。 「研究熱心なのはいいけれど、怪我しないように気をつけて。それが一番大事」 ディーナの言葉に、ココは頷く。 「もちろんだよ」 「日中に退治するというのは合理的なのだろうな」 幾度かインヤンガイに降りたっているジュリアンは、この世界について理解してきている。 日が高い内は、屍人を襲うという暴霊の活動が鈍るのでは、という推測をしていた。 「映画で観た吸血鬼を思い出すな。姿を消したかどうかは思い出せないけど」 「一体だけなのに、いろいろと暗躍しているイメージを抱かせるわね。血を吸うところは、夜人にそっくりなのだけれど」 「夜人?」 紀一郎が聞き返す。 「ああ、夜人って、吸血鬼のこと。まあ、暴霊と一緒にしちゃ、夜人に失礼よね。夜人の方は礼節を保ってるんだし」 赤燐は、ボルツォーニ・アウグストの方を僅かに視線を向けると、薄赤の布がひらりと揺れた。 「屍人の血は口に合わん」 黒革のロングコート同様、黒革の手袋に包まれた指をボルツォーニは顎髭にあてた。 学者のような禁欲さを感じさせる姿形をしている。 銀に近い金髪に青い瞳は闇にあれば、映えるだろう。 屍人よりは生者の方が断然良いのだと、暗に告げる。 「生者と屍人では発する匂いが違う」 間違いなく違うのは発する熱。 「体温を持つものが闇に潜んでいれば、私の目には淡く光って見えるし、少し近づけば脈打つ心音や呼吸音、血の香りまで感じ取れる」 獲物を探す時の動作を、そのまま探索に適用すればいいだけなのだから、ボルツォーニにとっては、容易いことだった。 死者なら生気を失った古い血の臭いがし、それ以外の何かなら、纏う霊流の違いが肌を刺すのだ。 光に頼らずとも、物を認識する感覚に優れたボルツォーニにとって、不可視の相手と言え、普段と変わりなく狩りを行えるはずだ。 狩るのは食料である餌ではなく、殲滅するための狩りだったが。 「手下にした屍人を使って勢力拡大を、生存者を殺して数を増やそうと?」 ジュリアンの言葉にボルツォーニが答える。 「屍人の血程、まずいものはないのだがな」 味覚が無いのか、それとも手近な者で済ませているのかは分からないが、どちらにしろ、同族と括られやすい者たちの処分をするのだと思えば、ボルツォーニにとっては、依頼でもあり、同族の起こした後始末といった雰囲気ではあった。 「吸血鬼に近しい性質を持つならば、活動は日の入り後だろう。日の差し始める日中は、闇に潜んで時間が過ぎ去るのを待っているのなら、今が狩り時」 硬質な光沢を持つ髪を指で背にやり、無音が意見を求める。 一体の屍体は血を吸い尽くしはしたが、他の屍体の状況はどうか。 同様に吸い尽くしているのなら、食料としているのだろうが、それ以外では違う考察が出来た。 少しずつ血を集めてきていた暴霊が、獲物である屍体を見つけたため、一気に血を吸い尽くすに至っただけなら、そう問題ではない。 純粋に食料としての捕食だろう。 自分のようだと無音は思う。 棟内に潜む屍体たちは、見つけ次第、自らの食事として、取り込んでしまうつもりだった。 屍体一体の血を吸い尽くすだけの力を持つのなら、加減して支配下に置き、支配域を拡大していくという仮説も成り立つ。 徐々に力を大きくしていく中で、行動が変わる。 その性質に属するものとして、一段階あがり、行動変化するのは人にもあるものだ。 それが、暴霊に適用されないという法則はない。 成長幅といったもの。 あり得る可能性を破棄するのではなく、全ての可能性において考察するのが、無音の卓越した並列思考である。 「吸血された屍体は、暴霊の支配下にあるとみるのがいいだろう。屍体を支配したとて、そう攻撃の力が増すとは思えない」 数だけは棟内の住民を怯えさせるには十分なものだが、今から退治する者たちにとっては、棟内掃除といった趣なのかもしれなかった。 純粋に傷つけても動きを止めなければ、止める方法を口にしたのは、ディーナだ。 動くであろう器官を阻害して仕舞えばいいと。 「人を切り刻むのは……簡単、だよ? 軟骨の隙間、筋肉と骨の結合点。ちゃんと刃を当てれば、簡単に断ち切れる。バラバラにすれば……屍人は、終わる」 料理をするような気軽さでいうが、内容は血生臭いものだ。 生命活動を止めて尚、動いている者であるから。血は流れるのではなく、凝固しているのだから、そう血みどろにはならないが、美しい外見を持つディーナが、切り刻んでいる姿は少しギャップがあった。 これまで過ごしてきた環境も関係しているのだろう。 そういった者はロストナンバーにも多い。ディーナもそういった一員なのだ。 「1人最低、3人は受け持つ……多い人は、6人持ってもらう。そういうつもりでいれば、多分大丈夫」 少ない人数ではなく、全員が全部を狩り取る気持ちで挑めば、すぐに終わるはずだと。 +++ 「早めに終わりそうね」 「同属を相手にするのは慣れている。こういったことは、喜ばしいことではないが、元の居た世界では一族の『不文律』を逸脱した同族に粛正の罰を与える役割を私が担っていた」 だから、慣れているのだと。 赤燐は、頼もしい仲間ねと頷いた。 「問題なしだ。後は頼んだ」 リィンの声を合図に、狩りが始まった。 「見えん化け物でん、刀で斬れう相手ならなんとかでくぅがよ」 紀一郎はにこにこと足を踏み出す。 「……まあ相手が何であれ、倒せば良いんだろ」 ジュリアンが眠気から脱したのか、切れ味を感じさせる声音でいい、 「襲ってくるものは倒す。それだけだ」 ボルツォーニは淡々とした声で、リィンを視界に捉え、マントの裾を翻し、各々が定めている棟内へと足を踏み入れた。 +++ 棟内へはこの棟内へと定めて入る者や、気が向いた方に入る者、人数が分散した方が効率が良いと考えて入っていく者、様々だ。 中へと入った途端、気配を殺して棟内を巡り始めるのは誰に言われたものでもないのに、同じようにして歩を進めていく。 +++ 無音は棟内へと入ったと同時にソナーで探査開始。不可視の暴霊の位置を探るためだ。 嗅覚が鋭い犬の嗅覚を再現して探すのは屍体として動く屍人。死臭を放っているのを辿れば、何処にいるのかわかる。 それが、食料となるのなら、乗ってくるもの。 駆けるように走るも、足音は無い。 ピット器官を再現すると、生者の存在を探し出す。 生者には用はないが、食事の際には邪魔になる。 そう思った時、ひっかかったのは生者の反応。 面倒な、と無音は内心呟くと、生者を排除すべく、生者のもとへと向かう。 生者には関与するつもりは無かったが、接近してきている存在が二つあったからだ。 風の入らぬ窓一つ無い、扉があるだけの部屋と呼べない程の空間に、薄汚れた男が収まるように居た。 空間としての役割を果たしていた時には、物入れとしてでも使われていたのだろう。 「仕事の邪魔だ。さっさと外へと出て行くがいい」 「な……なんで」 追い出される理由が分からないと、反抗的な眼差しで見返すが、次ぎの言葉が降ってくることはなく、降っていったのは男自身だった。 男も一瞬何が何だか分からなかったに違いない。 あっという間に霧の中に自分がいたのだから。 叫びも出てこない。 静かになった空間には見向きもせず、獲物に取りかかるべく、嗅覚に引っかかった場所へと駆けた。 視界に入った途端、複数がいるのを確かめ、歓喜に満たされた。 普段は鉄面皮の無音も、自然と笑みが浮かぶ。 久しぶりの食事に、騎士のチェス駒から風の刃を発生させ、斜めに切り落とし、床に倒れ込む前に髪を細長く伸ばし、捕らえた。 床に落ちたのは、僅かな断面からこぼれ落ちた血の塊だけだった。 「少し腹が膨れたな」 これならば、発電してみるのも良いと思えた。 +++ 紀一郎は手渡された懐中電灯をつけ、先を照らす。 住居として使用している部屋は確りと戸締まりをしてある。 探索するのはそれ以外の場所。 ガラスが無く、扉も留め具がイカれてギッと嫌な音を立てている。 どこからか、風が入り込んでいるのだろう。 それは何処かと、すうっと紀一郎は辿っていく。 上層階は歪ながら棟同士は繋がっていると事前に聞いている。 棟自体に備え付けられている非常階段のような物はないのだろうか。 もしかしたら、入り込んでいる風は、そういった扉からの物なのかもと、足音たてずに進める。 その滑らかな動きは猫科の肉食獣を思わせた。 霧に沈む外の景色が視界に入り、自然、懐中電灯の明かりを自身の衣服に当て、光を消す。 電源を消さないのは、いざというときに、光を当てるため。 びゅんと風を切る音が上空からし、即座にその原因となっている物を見定めるべく、目に力を込める。 落ちてきたのは人。 薄汚れた衣服に身を纏って、露出した肌も汚れている。 表情は恐怖に凍り付き、距離を縮めてくるのを、紀一郎は腕を伸ばて掴み取ると、胸をを使い、棟内へと転げ落とした。 埃の積もったコンクリート床に男は転がって壁にぶつかり、呻いた。 「なんで空から振ってくるんじゃ」 紀一郎がもっともな疑問を口にする。 「な、投げ落とされたんだ……」 男は何が起こったのか分からない様子で、たどたどしく話す。 上層階に行った仲間の内の1人だろうと検討をつけ、紀一郎は僅かに溜息をついた。 「退治する者が入るからと言っておったろう。はよぅ、逃げんか」 これまで上がってきたところには、襲いかかる者もおらんかったと言い添えて、追い立てるように下層階へと促し、外へと向かうように言い含める。 慌ただしく、足音を響かせて降りていったのを背にして、階下へと向かおうと考えている者へ、牽制する。 同時に、一息に間合いを詰め、影に隠れていた者へと抜き打ちを行い、勢いのついた鬼薙の刃で切り伏せた。 屍人であるから、血が噴き出す事はないが、凝固した血がゆっくりと床へと広がっていく。 刃には速度が速すぎて、血糊や人脂もついてはいない。 鬼薙を鞘に収め、再び動き出す様子が無いのを確かめ、先へと歩を進めた。 +++ 「ふふふぅ」 楽しくて仕方がないという様子でウーヴェが笑う。 元々が職業柄、暗い場所でいることが多く、いつしか慣れていた。 逆に明るい場所になると、眩しすぎて慣れるまでに時間がかかってしまうが、今日は違う。 外は霧、中は薄暗い。 活動するには最適だった。 時間が経つにつれて、外は霧が晴れてくるかもしれないが、少なくとも狩り場である室内は、薄暗い場所が多い。 隠れん坊でも、暗い場所に潜むものを探し出し、いたぶることができるのだから、鞭の出番だ。 ちょっと元気に動くような屍人なら、電流を流してみても良い。 びくびくと反り返る身体の上から足で踏みつけてもいい。 どうやって痛めつけようかと、今まで試してきた拷問レパートリーを思い出しつつ、ウーヴェは砂を踏む音を耳に捕らえると、腰にある鞭のグリップに手袋を嵌めた手を掛けた。 囓られ、関節が砕かれた腕を垂らした屍人、首に噛み跡がある屍人の2体が、暗い部屋の隅から動き出し、ぎこちない動きをして接近してくる。 人が現れたから、動き出したという風に思えた。 それまで、ふらふらと不安定に見える歩みをしていたウーヴェも、獲物を見つけると、動作が即座に変わった。 反射的な素早い動作で鞭を操り、屍人の動きを鞭で封じ、残る一体を軍靴で蹴りつけ、壁にぶち当てる。 囓られても動いている屍人だから、それだけで動かなくなるとは思っていない。 これからがウーヴェの本領発揮だった。 鞭を解き、屍人を自由にすると、鉄の仕込まれた重い軍靴で、足の関節を砕き、床に転がす。 壁際にいた屍人を鞭で捕らえ引き寄せると、床に転がった屍人の上に落とした。 鞭はそのまま解かず、2体同時に電流を流したあと、鞭を戻す。 下の方が、まだ動きそうな気配だったのを察知し、一息に飛び乗り踏みつける。 電流が流れ、もろくなった骨が折れる音を聞いて、背筋がぞくぞくとするような、うっとりとというのが一番しっくりと来る笑みを浮かべた。 もう少し堪能しておきたかったが、どうもそうはさせて貰えないようで、ちょっぴり残念そうに思いながらも、ウーヴェは振り向き蛍光色のカラースプレーでハートマークを描いた。 +++ 薄暗い屋内へと入り、探索中のココは思う。 故郷に似たインヤンガイの深く淀んだ闇を払いたいと。 突発的に起こる現象で、住民も屍人や暴霊が現れれば、当然のように探偵に依頼する。 そのようにシステムがまわり、自分たちへ仕事がまわってきた。 インヤンガイに降り立つ自分たちも、インヤンガイの世界の一部なのだと考えれば、依頼を受けていけば、少しは解消されるし、頻度も変わってくるのかも知れない。 それが、いつかはわからないけれど。 匂いを辿り、些細な音も見逃さないように注意を向ける。 細長い棒を触覚の代用にして、先にいる者へ触れた時の把握に使っていた。 不可視の暴霊が、先に居た時に触れれば、そこに居ると把握できる。 うっかり接触して、そのまま相手に攻撃の先制を取られれば、少なからず傷を追うはめになるし、なにより出来うる対処をして、取りかかるのがココの性質でもあった。 トランシーバーからウーヴェの声が聞こえた。 不可視の暴霊が現れたと。 身体に蛍光スプレーでハートマークを描いたから、暗い場所ででも視認できるはずだと。 気をつけないと、と自分に言い聞かせ、さっきよりも慎重に進んだ。 ウーヴェはココと同じ棟内に居たから、遭遇する確率としては高かった。 いざとなれば、逃げて対処できる仲間の元に駆け出せば良い。 各自、戦う能力は持っていたから、大丈夫だ。 +++ 左手に懐中電灯、右手にトラベルギアのサバイバルナイフ。腰にはスプレー缶、遭難笛は首から下げ、無線機は胸ポケットに収めている。 無線連絡が入った頃、ディーナは3体目の屍人を切り刻んでいた。 人影を視認した途端、サバイバルナイフで斬りつけ、その刃で腕、足、首の順番で切り飛ばし、新鮮で部分単位で動く場合には容赦なく切り刻んで、肉の山をつくる。 今のところ、ディーナが出会った屍人は変な動きをしてはいなかったから、別棟の方にいるのだろうかと考え始めた所だった。 この棟には、自分以外にも2人いて、ウーヴェが居る棟は、ココと2人だけだったはずと思い出す。 そろそろ移動した方がいいかもしれないと。 +++ ディーナが素早く棟内の上層階へと駆け上がり、ジュリアンがその後を行き、赤燐を追い抜いていった。 赤燐は1棟を丹念に見回っていこうと決めていたから、探索速度の違うメンバーと同じだと、行動が上手くかみ合っているようで良かったと思う。 隣棟も、今探索している棟内と同様の構造をしているようだから、この棟内を探索した後は、速度を上げていけるだろう。 とはいえ、その頃には仲間が退治し終えているだろうけれど。 丹念に探索していたのも効いたのだろう、じっとしているだけの屍人を見つけると、細い銀色の腕輪をチャクラム型へと変形させ、切り離す。 動きを止めたのを確認した後、次の階へとあがった。 行き止まりの窓の下にある床が、丁度一枚外せそうになっているのを見つけ、床下収納でもあるのかと近づく。 静かに佇み、その床に注意を払う。 僅かに聞こえたのは呼吸の音。 生者だ。 床下の空洞内は暖かいから、そこで住んでいるのだ。 赤燐は、扉をノックするように床をこんこんと叩いた。 床板を持ち上げ、その隙間から覗き込む二つの目におびえがあるのを見て取り、薄赤の布を除けると、言葉を紡ぐ。 「一時的に逃げた方が良いわよ」 中ではいま、屍人が闊歩しているからその退治をしているからと。 人の気配がいつもと比べてないのに不審には思っていたのだろう、その言葉を聞くと、慌てて飛び出していった。 と思ったら、再び戻ってきた。ずれた床板を綺麗に嵌めて、再び外へとでていった。 棟内ではなく、非常階段を使ってだったが。 無事逃げたのを見送った時だった。 無線機に連絡が入ったのは。 +++ 丹念に探索する仲間がいるから、自分は殲滅に専念しようとジュリアンは、取りこぼしのないように中層階を探索していた。 上層階はディーナが向かっていたから、自分の範囲区分はこの辺りだろうという、無言の判断だ。 「おい」 動きを見るために声をかけ、判断基準から外れてはいないと判断すると、現れた屍人へ一瞬で間合いを詰め、その間にも鋭い風の刃で斬りつける。 さらに、レイピアは螺旋の刃を作り刺突で屍人の身体を突き刺した。 遠い距離に現れた場合には、所持している短剣を念動で動かし、飛ばして動きを封じた。 上層階へは隣棟への移動の為にあがるといった感じだが、他の仲間の様子も気に掛かっては居た。探索と退治がすめば、一緒に移動してもいい。 棟内ごとに屍人が徘徊する数も違うだろうし。 無線が入り、内容を聞くと、移動した方が良いと判断した。 上層階へと到達し、ディーナと合流する。 「終わった」 この棟内では屍人はもういないと話を聞き、 「では、次へ進もう」 ジュリアンは暴霊を退治したら終わりだと言った。 +++ 「次だ。まだ終わっていない」 ボルツォーニは同じ棟内で、食事に勤しんでいる無音のことは把握していたので、索敵範囲にあっても、彼が捕らえられる範囲にあると判断すれば、それらには取りかからず、近くにいる者へ攻撃の手を伸ばしていた。 棲み分けのような感覚ではあるが、食事形態はそれぞれなので、とやかく言うつもりはないのだ。 刃を大剣ほどに作りだしたそれは鉈のような形をもっている。 屍人の頭を粉砕するのに適したその形は、違うことなく頭部を粉砕し、プレッシャーでその身体を縮めるように潰していく。 狩りをした時の記憶を思い出し、猛禽のような獰猛な笑みが浮かんだ。 次の獲物をと感覚を広げた時だった、無線にて連絡が入ったのは。 +++ 無線機で連絡が入ったのなら、皆も時期にこの棟内には来るだろう。 大丈夫。 ココはそう言い聞かせていたが、緊張でじっとしていた時だった。 蛍光ピンクのハートマークを見たのは。 塗料の匂いがするなと思ったら、すぐ近くにいた。 皆の匂いが近づいてきているのがわかる。 逃げるのなら階下の方が逃げやすい。 追いかけるのも法則的にはそうだろう。 階下からも上がってくる仲間もいる。 このまま僕が逃げて囮になれば、皆も仕留めやすくなるし、何より逃げ出すのを防ぐ事が出来る。 挟み撃ちになる訳だし。 そう考えれば、ココの行動は早かった。 触覚代わりに使っていた細長い棒を投げつけ、その分距離を稼ぎ、追いかけてくるのを塗料の匂いで確かめながら、駆け下りていく。 新鮮な肉の匂い、血の匂いを捕らえ、追いかけてくる。 「みんな、僕はここにいるよ!」 十分に捕食出来ていたのだろう、動きは意外と速い。 ココの身体は子どもであったから、徐々に距離を詰めてくるのはわかっていた。 仲間が攻撃できる時間を稼げればいい。 赤燐がココを受け止め、素早く脇にのける。 そして、鋭く伸ばした爪で、下から斜め上へと切り裂く。 爪痕から血が溢れ、透明な身体に血で塗れていく。 動きは止まらず、追いついたディーナがサバイバルナイフで首に当たる部分を切り落とす。 足はウーヴェが捕らえ、それより先へと行かないようにしている。 それ以上、攻撃を仕掛けないのは、皆に任せようかなーという感じなのかもしれない。 ジュリアンが短剣を念動で動かし、足を床に縫いつけた。 鉈の形を解除していなかったボルツォーニが、暴霊を叩きつぶす。 嫌じゃのうといいつつも、紀一郎が飛ばされた首を踏んで、退治を終えた。 悠々と現れた無音は、その状況を見て頷いた。 +++ 「不可視の能力を持つ吸血の暴霊だったのだな」 吸血するにはなかなか便利なものだが、それに付随する能力はあまり万能とは言えない代物だった。 知性というものは無く、少しずつ澱が積もるように形作っていったのかもしれない。 被害といったものが無かったのではなく、不可視であるから、なかなか表に出なかっただけで、人が死ぬ確率が高いこの街では人一人が消えたとしても、身元がハッキリしない限りは重要ではないのだ。 人の生活密度が高い場所に移動してきて、初めてわかったのだろう。 欲張れば、それだけで自分が狩られる側に立つのだと。 理解する頃には、自身が狩られていたのだから、その機会は永遠に失われたのだが。 +++ リィンに退治を済ませたと話すと、漸く一段落したという気分になった。 「ああ、一仕事の一杯にジャスミン茶はどうだ?」 死臭から離れたい皆は、その言葉に頷いた。 華やかな芳香を放つ香茶を楽しみたいと。
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