空は青く晴れ上がり、薄雲が緩やかに流れていく。この時期、雨は少なく、昼日中は濃い影を地面に作り出す。照りつける陽の光を遮る物がなければ、1時間もしない内に身体が火照って気分が悪くなるだろう。 癖のない黒髪に縁取られた気弱そうな細面は、ノンフレームの眼鏡をかけており、その奥を見れば理知的な光が灯っている。 緑の多い地方、畑の広がる片田舎では、牧師服の黒は目立つ。 漸く辿り着き、町長の下へと案内して貰おうと声を掛けようとするが、目線を合わせまいと町人は目を逸らして足早に離れて行く。 町外れのバス停を降りて、畑で作業する人々からの視線を受け続け、それが好意的でない事を決定的に理解したのはこの時だった。 ――これは、一筋縄ではいきそうにありませんね。 灰人は、これから教会を運営していく事が出来るのだろうかと不安に駆られながらも、、心を振り絞り、顔の面には微笑を浮かべ、町人に町長の家へと案内を願った。 話し掛けようと幾度か試して、漸く応じてくれたのは、少し突っ張った感じを受ける少年だった。 不躾な視線を投げかけてくるけれど、言葉を交わしていく内に幾分和らいだのは嬉しかった。 話をすれば分かってくれると、少しの自信を灰人に与えてくれたから。 気弱すぎる灰人に、大人の様な力強さと傲慢さを感じなかったからかもしれない。 礼を言い、町長の家の前で別れると、胃に重い物を抱えた様な気分になりつつも石造りの屋敷の扉を潜った。 ■ +++ ■ 町長との会見はすんなりと終えたものの、不安を感じたのは話に出てきた言葉。 町人は灰人とは違い、明るい髪色に瞳の色を持つ者ばかりで、黒髪黒瞳の灰人は珍しいというより、最初は忌避されるだろうと。 その点、前任者は町人と良く似た色合いを持ち、数代の間、教会を任されて町人からの信頼を得ていた。灰人がこの町で町人からの信頼を得るためには時間が必要だろうと思われた。 神に祈りを捧げる者は全て平等だと思いつつも、人の心は脆く、弱い。 不安がひとつ生まれれば、小さな町では広がるのも早い。不安を安心に変えられる様、つとめなければと思う。 牧師服に包んだ薄い身体を折り、十字架を掲げられ、マリア像のある足元に跪き祈る。 この町で牧師として無事につとめられるよう。 ■ +++ ■ 海外での活躍が多かった両親は飛行機事故で他界し、灰人は取り残された。 元々両親に近い血縁と呼べる者はおらず、その為か両親は家族という繋がりを大事にしていた。勿論、灰人も仲の良い両親が大好きだったし、この幸せはずっと続いていくものと思っていた。 パートナー同伴のパーティという事で、灰人はベビーシッターに預けられ、美しく化粧を施した母親と、いつもより少し浮き足立った様子の父親をきらきらとした目で見たのを今も覚えている。 ドレスは目的地に着いてから着替えるからスーツ姿だけれど、ふんわりとした雰囲気を持っている母親が、華やかな花へと変身した様子は驚きと共に、嬉しかった。 「灰人、いいこにしているのですよ」 ルイーザを困らせないでね。 母親からは、いつも付けない花の香水の香りがした。 「灰人、ホテルに着いたら連絡するから、お土産は何が良いか考えておきなさい」 大きな手が灰人の頭を撫でる。 「いってらっしゃいー! うん、考えておくね。何がいいかなぁ……」 両親に心配を掛けないように、一番の笑顔を見せる。 母親は父親の腕に手を添えて、寄り添って家をでていく。ルイーザの腕の中で、灰人は出かけていく両親の後ろ姿を寂しいと思いながらも、すぐにお土産の事で一杯になってしまった。 寂しくない様に、両親の事よりもお土産の方に思考が向かう様に、寂しさでルイーザを困らせない様に配慮したのだろう。 けれど、両親は帰っては来ず、灰人は1人になってしまった。 雇われていただけのルイーザは、面倒をみていた灰人の行く先が気になっていたのか、時間が許す限り、傍に居てくれた。 灰人は幼く、ルイーザの手を離れて何処に連れて行かれるのかも分からなかったけれど、別れる時にルイーザが涙を流しているのは気に掛かった。 「泣かないで」 「灰人坊ちゃん、お元気で」 両親の生まれ故郷では遠い親戚しかおらず、金銭的環境と見た事もない親戚に愛情も無かった為に、引き取り手は居なかった。外国で住居を構えていたのと、家族が礼拝に訪れていた牧師が両親の不幸を聞き、孤児院を紹介してくれた。 牧師館に併設された孤児院で、灰人と同じように両親を失った子ども達が幾人かおり、新しい家族だと紹介された。灰人は一気に増えた兄妹に驚きつつも、大勢で遊ぶ遊びを楽しんだ。家族のように温かい空間を作るその場所は灰人に寂しさを忘れさせた。 成長すると、飛行機事故の記事も読めるようになり、両親は事故で他界した事を理解した。 上の兄たちが成人後、派遣されて行くのを見送り、自分も同じように派遣されていくのだと思って居た頃、育ての親である牧師と修道女から話を持ちかけられた。選択の余地はあったけれど、自分が受けなければ、兄妹の誰かが派遣されるのだろうということは予想できた。 順番でいえば、自分の番。 最初から断るつもりはなかった。 ■ +++ ■ 町に派遣されてから、灰人は教会に保存されている資料に全て目を通した。 町の歴史に、住民の名前。 生まれ落ちれば、教会の名簿に記録され、結婚をすれば婚姻証明書に記録され、亡くなれば墓碑に存在の在処を残される。 教会は町に無くてはならない存在であり、町の住民の営みに添うようにあった。 黒髪黒瞳の灰人を怖がらなくなったのは子ども達だったが、母親に注意されるとすぐに足が遠のいていった。 片田舎では母親や父親、目上の者の言葉は絶対だ。 必要な時だけ訪れるといった風情で、なかなか馴染んで貰えないまま月日は過ぎ、教会に訪れる者も少なく、寂れて行くのかと思われた。 前職者と同じようにもり立てていくのは難しいと挫けそうになっていたころ、1人の娘が教会を訪れた。 教会に続く石畳を掃き清めていた灰人を目指して歩いてきたのは、農家の娘アンジェリカ。 町人からアンジェと愛称で呼ばれる女性。教会で礼拝を捧げる姿を幾度か見たことがあった。両親ともに信仰心が厚い家庭だ。 「これ、うちの果樹園でとれた葡萄。お裾分け」 そういって籐の籠に盛られた葡萄を灰人に差しだす。瑞々しい葡萄の粒は食べ頃で、摘んで間もないものだと分かる。 「ありがとうございます、アンジェリカさん」 「凄いのですね。私、名前を牧師様にお教えしていませんのに」 「町の方々の名前は教会の記録に載っておりますから」 「もしかして、全員覚えていらっしゃるの?」 アンジェリカは細い首を僅かに傾げ、灰人を見上げる。 「ええ」 もう一度凄いと口にして、尊敬の念を視線に乗せた。 「牧師様、町の人も分かってくれると思いますの」 アンジェリカが何を言いたいのか、灰人は分かった。時間が必要である事。今はまだ訪れる町人は少ないけれど、いずれは町人が教会に戻ってくる事。 話し掛ける勇気を持つ者が灰人の人格を理解して、色が違うだけで、信仰を抱く心を持つ同じ者だというこ事。 「はい。分かっております」 優しい心根を持ったアンジェリカに十二分に気持ちは伝わっていますと、灰人は微笑を浮かべた。 「牧師様、私の事はアンジェとお呼び下さい。町の皆はそう呼んでいますから」 「アンジェさん」 「アンジェ、ですわ、牧師様」 大事な事の様に、アンジェリカは灰人に言い直させる。 「アンジェ」 「はい」 「照れますね」 灰人は微かに頬に色を灯らせた。 それが、灰人の未来の妻、アンジェリカとの出会いだった。 ■ +++ ■ アンジェリカと出会ってから、灰人の生活は変わった。 牧師としての仕事は勿論、信仰心厚いアンジェリカが教会に通うようになってから、町人もぽつぽつと戻り初め、前任者が築いてきた信頼までとは言わないまでも、少しずつ教会に人が集まるようになって灰人の表情も明るくなった。 黒髪黒瞳だからという偏見も信頼を積み重ねていく事で薄れていく。 アンジェリカが持ち前の朗らかな性格と人柄が町人に愛されており、アンジェリカが灰人に懐くのだからと、少しずつ歩み寄っていく内に、灰人の人柄も理解され、周囲に溶け込み始めたころ、自然と2人は付き合い始めた。 初々しい2人の様子に町人は祝福を送り、愛を育み、教会で質素ながらも愛の籠もった式を挙げ、結ばれた。 ■ +++ ■ 片田舎の教会で珍しい黒髪黒瞳の牧師は生涯の伴侶を迎え、幸せを実感していた。 穏やかな時間が過ぎていく。季節の催し物を協力して営み、少しずつ町に馴染んで、分からない事は一日の仕事を終えて、アンジェリカに聞いた。 町人の手をかり、牧師館の一角を綺麗に掃除をし、改装し、本来果たしてきた役割を復活させた。 孤児院。 灰人の育った環境をアンジェリカは理解を示してくれ、喜んで協力してくれた。 自分達で出来ない事は、町人にお願いして。協力を願えるのは、これまで培ってきた信頼のおかげ。 教会にも孤児の受け入れ可能だと申請し、準備を整えた。 自分が救われて今ここにいるのは、孤児院と受け入れてくれた牧師や修道女がいるからだ。 自分も同じように恩返しがしたかった。 ■ +++ ■ 子ども達を数人受け入れ、賑やかな日常を営んで数年後、2人の間に子宝が授かった。 「アンジェ、ありがとう。今日は何て素晴らしい日なのだろう」 灰人は嬉しさのあまり、目の際に涙を微かに浮かべ、アンジェリカを優しく抱いた。 「喜んでくれて嬉しいわ、ハイド」 アンジェリカは灰人の腕の中で、全身で喜びを示してくれるのを嬉しく感じながらも、言い出せないで居る秘密に心を痛めた。 愛しているからこそ言い出せないで居る自分を灰人はどう思うのだろう。 止めるのだろうか、それとも……。 どちらにしろ、灰人を悲しませる事になるのだけは、したくなかった。 けれど、いつ切り出そうかと考えている内に日は過ぎ、お腹の子を諦める事の出来るぎりぎりの日にちにまで進んでいた。 「ハイド、聞いて欲しい事があるの」 自分の心臓に疾患を抱えている事。大人になって克服したと思った病が再発の兆しを見せ書けている事。 お腹に子が宿ってから、心臓に負担が掛かっている事。 この頃のアンジェリカの顔色の悪さを心配していた灰人は、事実を知って凍り付いた。 「どうして……」 今まで言ってくれなかったのか。 アンジェリカは灰人の手を取った。 「どうしても産みたいの。お願い、ハイド」 「アンジェにもしもの事があれば、私は……!」 震える灰人の手。 「だって、新しい家族が増えるのよ」 両親を失った灰人に新しい家族を作ってあげたかった。 例え、自分が居なくなったとしても、子どもは残る。 アンジェリカの意志は固いのを見て取ると、灰人はもう祈る事だけしか出来なかった。 ■ +++ ■ 雨の降る日だった。 灰人は待合室で2人が無事に出てくる事を祈った。毎日毎日祈った。けれど、不安は拭いきれなかった。日に日に顔色を悪くしていくアンジェリカを見ていたからだろう。 灯っていた明かりは消え、手術室を出てきた医師は重い口を開き、灰人に絶望をもたらした。 最後まで聞く事など出来なかった。 嘘だ。 神よ、何故。 何故ですか。 何故、何故、何故……! 雨が降りしきる中、灰人は教会へとひた走り、濡れた牧師服のまま、マリア像の足元で頭を抱え込んだ。 認めたくない真実を消し去ってくれと祈った。 こんな事は事実ではないと。 「神よ!」 同時に雷が鳴り響いた。 ■ +++ ■ どれくらいそうしていただろう、灰人は命を与えられた人形のように、ゆっくりと動いた。 アンジェリカも生まれてくる子も幸せに私を待ってくれている。 帰らなければ。 赤ちゃんの服やゆりかごを用意しなければ。 アンジェリカは男の子でも女の子でも使えそうな水色が良いと言っていた。 店員に聞くのも良いだろう。 いつか、帰って君に迎え入れて欲しい。 アンジェ、帰ったよ、と。 fin
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