「これは、こっちに置いたほうがいいのか?」 鉢植えを丁重に両手で抱えた星川征秀はカウンター内にいるウィル・トゥレーンに尋ねた。ウィルは征秀の手にある鉢を見てすぐに首を横に振った。 「それは日を嫌うので、奥側にお願いします」 「花なのに日を嫌ったりするのか?」 驚きに目を見張る。 「人にも、個性があるでしょう? 広いところが嫌いな人、逆に好きな人、植物もそれと同じですよ。奥の棚が空いているのでそこに置いてあげてください。足元には気をつけてくださいね。うっかり触れると大変ですから」 「ああ。触ったら危ないのは身に沁みてる」 トゥレーンにある植物はすべて人の想いが花となったものだ。それに直接触れると、その花の持つ想いに心がのっとられてしまう。 征秀は何度か想いにのっとられかけてはウィルに助けられて心配をかけてしまった。 これじゃあ、手伝いになってないよな。 自分の迂闊さと頼りなさを再認知して憂鬱になる。落ち込んでいても手と足は動かす。でないと本当にここになにしにきたのかわからなくなる。 そっと棚にある他の植物たちに触れないように細心の注意を払い、鉢を陰に置いやってから眺めると咲いている花が少しだけ生き生きしているように思えるのだから不思議だ。 「お疲れ様です。さぁ、どうぞ。お茶にしましょう」 「いいのか?」 「あまり根詰めるとくたびれてしまいますよ。それに私が紅茶を飲みたいので、付き合ってください」 征秀が不愉快ではない程度のやんわりとした誘いに、蜂蜜の香りが鼻孔をくすぐった。そうなると自然と足が動いてしまう。 カウンター席に腰かけると、マスターが笑いながら黄金色のお茶をカップに注いでくれた。 蜂蜜と、何か葉のような匂いに心が和む。先ほどまでの鬱々とした深い底に沈んでいく気持ちがふわっと浮上する。 俺が手伝いしてるのは、これもあるからだよな。絶対に。 司書やトンガッシュといった人々からの復興の呼びかけに征秀はトゥレーンを心配した他のロストナンバーと訪れた。 店そのものは修復され、あとは花を店のなかに入れていくだけという状況だったので仲間たちと協力して片付けをした。そのあとも連日足を運んで、雑用でもなんでもいいからさせてくれと頼んだ。 「蜂蜜と菩提樹をあわせたものです。心が落ちつきますし、リフレッシュするのにも効果的なんですよ」 「ありがとう」 お礼を述べてひと口啜る。控えめの甘さとあたたかな紅茶に自分の心が包まれている気がした。 そっと差し出されたクマのクッキーに手を伸ばしてかじる。 「そういえば気になっていたんだけど、よくクッキーを出すけど、俺のときはいつもクマだよな?別の人には鳥だったよな気がするんだが、なにかあるのか?」 「食べてくださる方のイメージに合わせているんですよ」 ウィルの答えに思わず自分の手にあるクッキーを凝視する。そういえば、このクマ。眼鏡をかけて、片手には杖ぽいものを持って、しゅーんと項垂れている。 「可愛らしいでしょう?」 ウィルの笑顔に征秀は眉根を寄せた。 「あんた、絶対に意地が悪いよな」 「ふふっ。星川さま、いろいろとお手伝いしてくださるのは大変ありがたいことです。ただ、何か胸のうちに吐き出したいことがあるのではないですか? チェロはありませんが、よかったら……そうですね、暇つぶしに御話いただければと思います」 「俺の話が暇つぶしになるのか」 頭をかく征秀にウィルは頷いた。 「花たちも、人の声が聴きたいと申しています。……ここにあるのは思い出の花、どんな話でも人の声を聞くことに喜びを覚えるんです。星川さまの話を聞けば、ここにいる花たちはますます元気になりますよ。ですから、これも立派な、そうですね、花助けですよ」 「そう言われると……なんかものすごく乗せられている気がするんだが」 「まぁ。ただたんに猫のように好奇心いっぱいなのは否定しません。まだ店は開けてませんから、そうですね、友人として気になっている、というのではだめですか?」 「~~っ、あんたって、本当に口うまいよな」 「当たり前でしょう。征秀さんより、少しだけ長く生きてるんですよ、俺は」 トドメの笑顔に征秀はテーブルに突っ伏して額をぶつけた。痛みがじわっと広がるのに、のろのろと顔をあげてウィルを見つめた。突っ伏した拍子に眼鏡がとれて、鋭すぎる眼が露わになったがウィルは少しも怯まない。一瞬だけ酒が欲しいと思った。 「……もしかしたら、俺は約束を果たすときがきたのかもしれない」 「ほぉ、それは、それは」 やんわりとした相槌だが、征秀にとってはそれくらいのほうがありがたい。あまり強く言われれば臆する、何も言われなければないで言いたくなくなる。 「けど、確信がないんだ」 ロストレイルで助けたあの子……淡いピンク色の髪、大きな月色の眸、美醜でいえば、可愛らしい分類。もう少し成長すれば大抵の男はつい目を向けるような、そんな美人に育っただろう子だった。 その容貌は記憶のなかにいるどちらかといえば無表情で、平坦なしゃべり方をしたあの子の特徴に一つひとつが当てはまり胸がざわめいた。 気になって考えれば考えるほどに幼い少女の笑顔と、泣き顔が蘇る。 そうなると悪い癖でまた酒を探してしまう。それを未然に防ぐためにも、この店の片づけを申し出たのも理由の一つだ。 「相手の名前は?」 黙って首を横に振った。そんなこと驚きのせいでできなかった。なにより彼女は自分のことがわからない様子だったのにどう声をかければいいのか咄嗟に躊躇った。 「卑怯だな、俺は」 両手を組んで、そこに額を押し当ててため息をつく。 「ええ。まったく、卑怯者ですね」 思わず顔をあげる。ウィルは笑っていた。 「自分で言うのに否定されたら意固地になる。が、肯定されたらそれはそれでショックっていうのは征秀さんらしい」 絶句。俺、やっぱり弄ばれてるのか。 「けど、卑怯なのも含めて貴方でしょう? それが貴方のいいところでもある。後悔したなら、その後悔をどうすれば払拭出来るか、どうすれば先に進めるか考え、悩めるだけ悩んだ上で動けばいいんじゃないのかと俺は思うが」 「そうなると動き出せそうにない」 征秀は壮大なため息をついてテーブルに再び突っ伏した。 「だろうな」 「否定してくれよ。一つくらい!」 思わず顔をあけで抗議するとウィルは涼しげな顔で、ちらりと視線を窓際に向けた。それにつられて見たのは嵌め窓の前に置かれた、光を浴びて輝くネリネ。 沙葉さん、俺は。 「そういえば、戦争のとき、ここの救援者をネリネが守ったって言ったよな。それってどういう」 「以前も言ったように俺はわりとお節介な性分をしているんだ」 コンコン。 弱弱しくドアがノックされて、可愛らしい声がした。 「あのっ、すいません。なにか私に出来ることありますか?」 征秀の眼に飛び込んできたのは輝くピンクの花弁――ネリネのような少女だった。 何が自分に出来るだろう? 太陽の光を浴びて健気に咲く花のような真剣さを持つ舞原絵奈はターミナルを走り回って出来ることを探していた。そのなかでふっと戦争中に救出に向かったトゥレーンのことを思い出した。あの店もかなりの被害を受けていたので人手を必要としているかもしれない。なにより霧のなかでの出来事をマスターに聞きたい。 「あ」 先客に絵奈は目をぱちぱちさせる。 「あなたは」 「きみは」 カウンターの席にいた男は絵奈を見て瞠目すると、すぐに俯いた。 「この方は、星川征秀さま。私の友人で、店の片づけを手伝ってくれているんです」 「そうなんですか! ロストレイルで会いましたよね? 私、舞原絵奈です!」 ぺこんと絵奈は勢いよく頭をさげる。 「舞原絵奈」 「はい!」 名前を呼ばれたと思って顔をあげると、征秀は困ったように視線を彷徨わせる。 「絵奈さまは、私の店が旅団に襲われたとき、花と店を守ってくれたんですよ」 「そんな、私は、何も出来ませんでした」 絵奈は慌てて反論する。くすっとウィルは笑った。 「けれど、あのとき、自力で我を取り戻したようですが」 「いいえ。私は、あの窓辺にあるのはネリネですよね? あの花に助けてもらったんです」 絵奈は恐縮しながら窓辺に置かれて輝くネリネを見つめる。あのときと同じように、いいや、今はもっと生き生きとしている姿に喜びが芽生える。 お姉ちゃん。 ネリネの見せてくれた優しい姉の姿。そして自分を立たせてくれた男性の姿。 絵奈はなぜか困っているように俯いている征秀を失礼のないように盗み見て確信する。 この人だった。 霧の中で、光へと導いてくれた、会ったことはないのに、どうしてかあのときは懐かしくて、大丈夫だと無条件に信じられた男性は、征秀の姿をしていたのだと確信する。 視線に征秀が顔をあげた。眼鏡に隠された鋭い目と絵奈の眼があう。すると征秀の眼が眩しげに細められた。 「マスター。俺、このあと約束があるんだ。今日はもう帰るよ」 「征秀さま」 ウィルの声を振りはらう様に征秀は立ち上がると大股に進みだす。 せっかくのチャンスだが、どうしても前に進みだせない。そもそもなんて言えばいい? 君は絵奈なのかって? そんなことをしてどうする? 俺はどうすればいい? くそ。 「あ、あの、待ってください」 入り口に進もうとした征秀の服の裾を掴む力があった。振り返ると、絵奈の手がぎゅっと掴んでいる。 「ロストレイルのとき、助けてくださって、ありがとうございます。ちゃんとお礼ができてなかったので会えて嬉しいです」 絵奈が嬉しげに笑って、征秀を見上げる。 「いや」 「一つお聞きしてもいいんですか? 私たち、どこかで会ったことありますか?」 「どうしてそんなことを聞くんだ」 「私、その、記憶がないんです。だから、もしかしたら貴方と会ったことがあるんじゃないかって思って」 「悪いが、俺に君みたいな知り合いはいない」 「そう、ですか」 「マスター、また来るよ」 征秀が店を出ていく背を絵奈は悄然と見送った。だがすぐに拳を握りしめると、笑顔でカウンターのなかにいるウィルに振り返った。 「あのっ、お手伝いできることありませんか? 掃除とか以前よくしていたからすごく得意なんですよ!」 「わざわざありがとうございます。絵奈さま。では、そうですね。鉢のほとんどは征秀さまに動かしていただきましたから、掃除をお手伝いいただけますか?」 「はい! えっと、箒、お借りします」 「箒は隅のロッカーに、ちりとりと一緒に入っていますから、好きにお使いください」 「はい!」 絵奈は元気よく箒を取り出し、せっせっと掃き掃除を開始する。 頭を今、するべきことに切り替えようと考えれば考えるほど、どうしても征秀のことが気にかかる。 「あの、マスター」 「はい?」 カウンターにいるウィルが不思議そうに首を傾げる。 「私、星川さんに嫌われたんでしょうか?」 「きっと、お礼を言われて照れてしまってついああいう態度をとってしまったんでしょう。意外とシャイなんです」 「そうなんですか?」 「ええ。ですから、気にしなくていいんですよ」 絵奈は納得したように頷いて、再び掃除に集中しようとした。だが、その動きは上の空で鈍い。 「もし、きちんとした形でお礼をしたいのでしたら、ノートで御誘いしてみてはいかがですか?」 ウィルの突然の提案に絵奈は慌てた。私ったら、ぼーとしちゃって! 「えっ、あっ、その」 「名前も顔もわかっていればノートで連絡がとれるはずですよ」 「応じて、くれるでしょうか?」 恐る恐る絵奈は尋ねた。 「彼でないのでわかりませんが、絵奈さまみたいに可愛らしいお嬢さんからの御誘いでしたら、嬉しいと思いますよ?」 「ま、マスター!」 真っ赤になって絵奈は言い返す。そしてすぐに真剣な顔になった。 「あの、聞きたかったんです。ネリネの花はやっぱり誰かの花なんですか? その人について知りたいんです。興味とかでなくて、あのとき、私は、あの花に姉を見たんです。それで、助けてくれたのが、星川さんに似ていて」 言葉にしてきちんと説明出来ない己に対するもどかしさを覚えながら、真剣な気持ちをこめて頭をさげた。 「お願いします!」 「……私がお客様の個人情報を明かすことはできません。とくに、ここにある花はすべて作った方からお預かりした大切なものです。もし、私がここで質問にお答えすれば、私は信用をなくします」 「あ」 絵奈は自分の軽率さを恨んだ。ここにある花はただの花ではない。誰かの思い出の、感情を封じたものなのだ。信用した上でしゃべった過去、そして預けた花。ウィルがなにがあっても守らなくてはいけないものなのだ。 「ごめんなさい」 「いいえ。さて、掃除はそれくらいでいいですよ。よければ、ネリネの花を外の日にあててやってくれませんか?」 「はい!」 絵奈は箒をロッカーに戻したあと、ネリネの鉢を大切に抱えて店の外に出る。温かな日差しを浴びて、目を細める。両手に抱いた花の心地よい重みがのしかかる。 「お姉ちゃん、私」 ネリネの花びらがひらりと揺れる。 ――絵奈 ――自分に出来ることをしろ 優しく背中を押してくれる姉の声を聞いた気がした。 「マスター」 ドアをくぐってなかにはいるとウィルが微笑んで迎えてくれた。 「ありがとうございます」 ぺこんと絵奈は頭をさげた。 「おや、私はなにもしませんかよ?」 「いえ。元気をいただけました」 「それはよかった。さぁ、クッキーと紅茶を用意したので、食べて行ってください」 「ありがとうございます」 絵奈がネリネの鉢を持ったまま椅子に腰かける。見ると、柔らかな薄茶色の紅茶の横には可愛らしく笑っているうさぎがいた。 「かわいい! 食べるのがもったいないです!」 「食べてくれないと、うさぎさんがかわいそうですよ」 ウィルの言葉に絵奈は目をぱちぱちと瞬かせて、くすっと笑った。 「それじゃあ、今日は失礼します」 クッキーをいただいたあと絵奈は礼儀正しく頭をさげるとドアまで歩いて、一旦足を止めると振り返った。 「私、星川さんに連絡してみようと思います」 ウィルが目尻を緩めて笑うのに、背中を押されている気がして絵奈も安心して笑って頷き元気よく駆けだした。 自室に戻るとすぐにノートを開いて星川へのメッセージをしたためるが、これが意外と難しい。彼の好きなものも、苦手なものも知らないからどこに誘うのがいいだろう? そもそも応じてくれるだろうか? 不安な気持ちがからんからんと歯車のように絡んで回っていく。 「えっと、こんにちは? ううん。先ほどはきちんと御話できなかったので、よければ改めて助けていただいてお礼をさせてくださいって、えーと、どこのお店かって、ううん、やっぱり昼間のほうがいいからって、あー! やだ、送っちゃった! ど、どうしようぉ! 私ったら、また失敗して」 メッセージは書きかけのまま送られてしまったのに絵奈は項垂れた。 最低だ。 ふらふらと千鳥足の征秀は自分の部屋に戻るとため息をついた。 トゥレーンをあとにして、はじめに感じたのは自己嫌悪だった。絵奈にもっと優しくしてやりたいのに、出来なかった。絵奈の寂しげな眼を思い出して心がずきずきと痛む。それから逃れるために帰り道にあるバーに寄ってひたすら飲んだ。また前と同じことする己の成長していない現実に落ち込み、嫌気すら覚えた。もっと酒がほしいと冷蔵庫に向かおうとしてノートに連絡があるのを知って開くと、そこには走り書きのメッセージがあった。 「これは」 そのあと続いてメッセージがあった。 【いきなり変なメッセージを送ってごめんなさい。けど、私は、星川さんときちんと御話したいんです。よかったら御誘い受けてください 絵奈】 ふと幼い少女を思い出させた。そういえば、ちょっとそそっかしいことがあって散歩のときよく走って転んで、けどすぐに立ち上がって笑っていたっけ。 おっちょこちょいは相変わらずだな。 「絵奈らしい」 やはり、この子は俺の探していた子だ。 口の中に広がるほろにがい酒の残滓と甘く切ない記憶に征秀の唇は知らず、知らず微笑んでいた。 ねぇ、沙葉さん。人生で正せない過ちは少ないのかもしれない。本当に。こんな俺でもまだ望みはあるのかもしれません
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