桜色のさらさらとした髪を揺らし、淡い月色の瞳を限界まで見開いた舞原 絵奈はどぎまぎと不審者一歩手前の落ち着かない状態でカフェ前に立っていた。 本当に来てくれるでしょうか? 意味もなくノートを取り出して何度も同じページを見ては周囲をきょろきょろと見回す。 大丈夫、大丈夫です……! ノートにはちゃんと返事があった。時間も、場所も合っているから絶対に来てくれるはずだと自分自身に言い聞かせて不安を払拭すると今度は期待しすぎて胸がドキドキと高鳴って呼吸が苦しくなってきた。 すーすーはーはー。両手を広げて深呼吸をしていると 「なにしてるんだ」 背後からの声に絵奈はびくぅ! 水を被った猫のように飛び上がって振り返った 「ふあ、あ、こ、こんにちはぁ! ……いたぁ」 緊張に声が裏返り、舌を噛んでしまった絵奈は唇を押さえて俯いた。 一人百面相を繰り広げる絵奈を見下ろすのは落ち着いた紺色のスーツ姿に眼鏡をかけた星川 征秀だ。 さらさらとした茶色の髪に活発な青年から落ち着いた男性へとたくましく成長したと想像できる整った顔立ちをしている征秀は、きょとんとしていたが、すぐにふっと口元に笑みを浮かべた。 「落ち着いて。それでウィルと絵奈企画のミステリーツアーなんて言っていたが、今日誘ってきた内容ってなんなんだ。あいつが絡むってことはあんまりろくなものじゃないだろう」 「そ、そんなことないですよ!」 見え見えの挑発に絵奈はいともあっさりとひっかかった。 「へぇ、どんなのなんだ?」 「以前、お掃除した御縁でお願いされたんです。とっても不思議な花で、このチャンスに調べてほしいって! 場所は雪山ですから獣とかの危険はないそうです。ただ私だけじゃ危ないので星川さんにお願いしたらいいって……あ、私、現地につくまで内緒だってウィルさんに言われたのに!」 「あいつ……また勝手に」 あわあわする絵奈を尻目に征秀は苦い顔で呟く。それに絵奈は不安になった。 「あの、だめですか?」 両手を胸の前で組んで絵奈は頭一つ分高い征秀を上目使いに見上げる。すると征秀の眼鏡の奥にある瞳が僅かに見開き、すぐにふっと肩から力を抜いた。 「いや、君にじゃなくて、ウィルのやつに。今のところ依頼はないし、全然かまわないよ」 「本当ですか! 嬉しいです!」 絵奈は本当に嬉しそうに笑う。その笑みに征秀は口元をゆるゆると緩めて微笑み返した。 「……変わらないな」 「え? なにか言いました?」 「いや、なんでもない。それでチケットはもうウィルのやつが手配してるんだろう? 雪山ならそれ相当の装備もいるだろうし、現地で調達するにしてもこっちで用意できるものはしておくにこしたことがない」 「は、はい! あの、ご指南お願いします!」 「ご、ごしなん……?」 ぺこりと頭をさげる絵奈に征秀は眼を瞬かせて、続いて噴出した。 カーッと絵奈は頬を赤らめる。 「ち、ちがうんです。いえ、ちがわないんですけど、私、覚醒前はいろんな人に稽古をつけていただいていて、けど、年上の人に失礼があっちゃいけないと思って、あの、ですから」 「わかった。わかったよ」 征秀は必死に言い訳する絵奈にからからと笑って手を伸ばし、すぐに彼女の頭を撫でるのはおかしいことに気が付いた。 もう絵奈は幼くはない。あのときは伸ばして撫でていたが、今ではあっさりと届くところに頭はある。 「?」 不思議そうな絵奈に気がつかれないようにさりげなくその手はターミナルの雑貨屋を指差した。 「はやく用意しないとな。あそこの店は品揃えがいいはずだ」 「は、はい!」 ぱっと笑う絵奈の顔は、本当に咲き始めたたんぽぽの花のように明るく、朗らかで、驚くほどに美しく成長していた。 「いきましょう、あ、と、とと!」 勢いこんで駆けだす絵奈が思いっきり前のりにこけた。慌ててバランスをとろうと両手をぶんぶんと振って、なんとかふんばることに成功すると一人ダンスを踊ったことが恥ずかしかったらしくまた真っ赤になって誤魔化すように照れ笑う。 「気を付けないといけませんね!」 「それは、君だろう」 「えへへ」 恥ずかしげに笑って歩き出す絵奈の後ろ姿は、征秀の封じたはずの痛みの記憶を優しく包んで、懐かしさだけをすくいあげた。 やっぱり絵奈は絵奈だな。 征秀は苦笑いして、あとにつづいた。 ターミナルで最低限の装備を購入後、手配されたチケットを握ってヴォロスに二人は赴いた。 目的の花は雪山の頂上、しかも夜でないと花は咲かないという事前情報から山下にある村に立ち寄った。 小さな家がぽつぽつと数軒ある小さく、のどかな村だが、幸いにも雑貨店や宿、それに食料店などは存在していた。 二人はここで仕事を分担することにした。 征秀が花についての情報収集、買い物は絵奈の担当だ。 干し肉と餅、それに寒さをしのぐための油紙、熊の毛皮……征秀が慣れた様子で必要な物をあげていくのにメモをとる絵奈は感心した顔をした。 「すごいですね。購入するものがそんなにもぱっと思い浮かぶなんて! 私じゃあ、とても」 「なんだって経験したら慣れるさ」 「? ウィルさんにいろんなところに行くようにお願いされているんですか」 征秀は噴出した。 「ち、ちがいましたか」 「いや、まぁ、違わないが……経験っていうのは、そうだな、とくに俺たちみたいな旅人はいろんなところに行って、目の前にあるトラブルに対応していかなくちゃいけないだろう?」 絵奈はきょとんとした顔で頷く。 「もっとわかりやすくいえば……たとえば、絵奈は洗濯ものとかするか?」 「はい! 掃除も得意です!」 「じゃあ、いきなり一人で汚い、広い屋敷を掃除しろっていわれたらどうする?」 「え」 絵奈は眼を瞬かせたあと真剣に考え始める。征秀は彼女が答えを出すまで沈黙を守った。 「まずは、汚れた床を掃きます。あ、けど、天井も汚いと思うから、上から少しづつやっていきます。何日かかわるかわかりませんが」 「そういうことだ」 「そういうこと?」 「絵奈は掃除が得意だから、どうするか考えたらわかるだろう? それと同じさ。俺は経験をしたことがあるから、どうするべきかわかる。つまりはなんでも経験すれば、たとえでかい屋敷の掃除をしろって無茶を言われても答えが出せる。いきなりなんでもかんでもやろうなんて本当にでかい屋敷を一人で掃除するようなものだから、こうやって少しづつ考える癖をつけて、掃除と一緒で目の前のものを片づけていけばいいんだ」 「あ……はい!」 「だから絵奈も、ちょっとづつ経験していけばいいんだ」 「ありがとうございます!」 ぺこりと絵奈が頭をさげて、嬉しそうな笑顔を向けてくるのを征秀は眩しげに眼を細めた。 雪山といっても、登ろうと思えば大人の足であれば一日で往復できる、とあれこれと購入する絵奈に興味を持った村人がどこに行くのか尋ねてくるのに素直に答えると親切にもいろいろと話してくれた。 「雪花を見にくる人なんて久しぶりだよ」 「そうなんですか?」 「花が咲くのは決まって、冬だからね。ここは田舎だし、花しか見るものがないとなると……その肝心の花は数年前からぱったりと咲かなくなったって聞くしね」 「いま、花は」 「さぁね。咲いてるといいけど、もともと、見れることも稀なものだし。この村に伝わる歌でね、星が歌い、月が踊る、そして祈りのとき、花は咲くだろうって言われてるんだよ。私たちもこの意味はさっぱりわからないんだけどね」 「教えてくださり、ありがとうございます」 「ほら、がんばってね。お茶の葉、サービスだよ」 紙袋を差し出されて絵奈は嬉しげに受け取ると、もう一度頭をさげ、店の外で待っていた征秀と合流した。 絵奈は先ほど聞いた話をすぐに話すと征秀は神妙な顔で頷いた。 「俺のところも似たような収穫結果だ」 「はい。今回、咲いているといいんですけど」 「ミステリーツアーって、俺は現地を知らされてなかったが……絵奈はどれくらい聞いたんだ?」 「花については私も知りませんでした。ウィルさんにはミステリーツアーっだから私も楽しめるはずだって」 「つまり絵奈には謎解きをしろってことか? まぁそんなこと言うなら俺たちが失敗しても文句は言わないだろう。そろそろ山に登らないと夜に移動するのは危険だからな」 「はい! じゃあ、行きましょう」 勢い込む絵奈に征秀は手を差し出した。絵奈は素直にその手に手を重ねた。 「え」 「え?」 絵奈が首を傾げる。 「……俺は荷物を」 「あ、ああああ! すいません。すいません! 私、よく迷子になるからその対策かと思って!」 真っ赤になった絵奈は荷物をおずおずと征秀に差し出した。征秀は苦笑いしてそれらを受け取ると、一度手を出した。 「はじめのうちはかなり入り組んだ坂道らしいから、手は握ったほうがいいだろう?」 「……はい!」 差し出された手を絵奈は嬉しそうにとった。 怯えていた幼い少女は征秀が笑いかけ、手を差し出したら嬉しそうに微笑んでくれた。 今、征秀はあのころと同じように少女の手をとって歩く。ささやかな迷宮と化した坂道は白く、足を進めるたびにきゅきゅと積もった雪が音をたてる。 肺に痛いくらい澄んだ空気を吸いながら、征秀は過去と現在が重なり合うのを感じていた。 「あれ、なんの木でしょうかね! 実がついてる!」 「そうだな」 白化粧が施された静寂の世界に佇む木々のなかでは二人の声がよく響いた。 一見、ただの真っ白な風景でも絵奈はいろんなものを観察して、発見し、興味を持つ天才だ。 幼いときから変わらないところをひとつひとつ発見するたびに、それが征秀を優しく、あたためていくことを絵奈は気が付いているだろうか。 ――あの木、なんだろう ――あの赤い実は? ――征秀さん 自分で捨ててしまった過去を懐かしみ、愛しむのは身勝手だと思うけれど、いま、ここにいる絵奈が己を許していると思えてしまう。これもやはり身勝手な思い込だろうか? 「あの、私のことについて聞いてもらってもいいですか?」 ひとしきりはしゃいだ絵奈の声が静かに問うてきたのにぎくりと征秀の心は高鳴った。それを悟られまいとただ前を見る。 静寂を絵奈は肯定と受け取り、口を開いた。 「私には十三歳以降の記憶がないんです……お姉ちゃん、姉は厳しくて、けどとても優しい人でした。いろんなことを教えてもらいましたが、私の過去についてはあまり話してくれませんでした。私はあのころ、姉や仲間たちと一緒に生活していくのに精いっぱいで、そのことを不審に思わなかった……いいえ、気になっていたけど、聞けなかったんです」 絵奈は白い息を吐いて、征秀の背中を見つめる。 真っ白なキャンバスのような過去。不安がないと言えば、恐怖がないと言えば嘘になる。 思い出したいと思うが、そうすることを無意識に拒んでいた。何か、とても悲しいことがあったから。 けれど捨ててしまっていい過去なんてこの世にはないと覚醒して仲間たちが出来たからこそ絵奈は思う事が出来るようになった。 「私は、どこかで逃げていたんです。過去から」 「逃げても、いいじゃないか。思い出さなくてもいいことだってあるかもしれない」 「だめです」 「どうして」 「……私は、私だからです」 絵奈は包むように微笑む。 「それを覚醒して理解できたんです。……話を戻しますね。私は半人前の戦士で、いつも掃除なんかをしてましたが、戦い方もちゃんと教えられました。ただその戦い方は仲間の誰のものとも違っていたんです。教えてくれたのは姉でしたけど、姉も普段は剣で戦っていて、気になって尋ねたら、これは私の友人のとある戦士の戦法に近いって教えてくれました。それが私に合っていると思ったって、彼は非常に腕の立つ戦士だ。いつか絵奈と肩を並べて戦う日も来るかもしれないって言ってました」 だから 「私はその人のことを何も知らないけど、もう一人の師匠って憧れていたんです。出来ればその人に直接教えてほしいって思ってました」 征秀の背中を見て絵奈は淡々と告げる。 「だから、逃げたくないんです。傷ついても」 幼かった少女は誰かを信じるひたむきさと傷ついてもそれを自分で癒せる力を得るほどに強くなっていた。 征秀はただただ前に進み続ける。 握りしめた手は冷たい風のせいでかじかむが、不思議と寒いとは思わなかった。 見渡す限りの白銀の広がる山の頂上で、征秀と絵奈は協力してテントを張った。すでに太陽は暮れ、冷え切った身体をあたためるためのたき火でスープと干し肉を焼いての夕食となった。 心身ともに震えるほどに寒いなか二人は油紙を巻いて、熊皮で寒さをしのいでいた。 紺碧に子供が無造作に銀砂を撒いたような空は驚くほどに明るい。 銀の月は大きく地上を照らしている。 「花が咲く条件はなんだったんだろうな」 「……条件」 「雪花っていうから雪が条件ではあるんだろうが、温度なんかだと過去の記録がないとわからないし、絵奈の聞いた星が歌い、月が踊り、祈りが必要だっていうけど、その謎が解けてないからな」 「そうですね」 「まぁ待つしかないだろう。退屈だし……話を聞かせてくれないか」 「姉のですか?」 「ああ」 「……姉は強くて、かっこよくて、私の憧れでした。剣を使えば右に出る人はいませんでした。美人なのに、すごくぶっきらぼうに話すんですよ」 わざと、姉の名はあげない。絵奈のささやかなひっかけ。幼い罠。その瞳に宿る切実な祈りを孕んだ視線に、前だけ見る征秀は気が付いているだろうか? ロストレイルで出会ったときその戦い方を見て気になっていた。この人は、もしかしたら…… 「星川さん」 「その星川さんってやめてくれないか。くすぐったいし、そんな御大層な身分じゃない」 「あ、はい。じゃあ、征秀さん……もしかして、姉が言っていた、私の戦い方の元となった戦士は征秀さんなんじゃないんですか? もし外れてなかったら、師匠になっていただけませんか? 私は、まだ未熟だから、強くなりたいんです。もし、私が話した人で心当たりがある人はいませんか?」 恐れながらも絵奈は手を伸ばす。永遠にも等しい沈黙のあとぽつりと征秀は口を開いた。 「……沙葉さんなら知ってる」 「征秀さん……!」 絵奈は焦がれるように声をあげた。やはり、彼は姉を知っていた! 「俺が知る剣使いで、美人だけど、かっこいい人の名前だ」 前だけをじっと見て、征秀は告げる。幼い罠も理解していて。あえて。 わかったのだ。過去はやり直せない。けど、沙葉は信じてくれていた。いつかの未来を。過ちを正すことができることを。 「やっぱり、やっぱり征秀さんが姉の、沙葉お姉ちゃんの言ってた人だったんですね!」 「それは、どうかな」 「私には、わかります! 絶対に征秀さんだって! ……じゃあ師匠に」 「それはなしだ」 「え」 征秀は絵奈を見て苦笑いした。 「俺は、そんな立派な戦士じゃない。だから師匠にはなれない」 しゅんと絵奈が俯くのに征秀は続けた。 「けど、仲間としてなら力を貸せる」 「!」 絵奈がぱっと顔をあげて笑う。征秀も微笑み返した。 「約束ですよ!」 「ほら」 差し出した小指に絵奈は微笑んで小指を絡めた。もう一度、今度こそ、――祈るような願いをこめて。 「あ! 見てください」 絵奈が驚いて空を見る。 空で姿を光に姿を変えて星が中央に君臨する月を包むようにして流れ、どこからともなく竪琴のような歌声が空に響く。 「流星群……すごいな……それにこの音は……あ!」 二人の視線の前で銀の光を受けた白い地上からすっと茎が伸びて、ものすごいスピードで花を咲かせる。 雪のように白く、月のように銀色をした茎、葉――そして花。 「これが、花?」 「みたい、だな。そうか、星の歌って、これのことか? 空気が澄んでるから空の動きの音がするのか? ……それで月の光……けど、祈りって」 怪訝な顔をする征秀の横から飛び出した絵奈が微笑む。 「すごいですよ! 征秀さん! ウィルさんのためにも、ちゃんと調査しないといけませんね!」 絵奈の興奮に紅葉した顔に征秀は微笑む。 星は歌う。 月は踊る。 そして人は儚く祈る。 沙葉が見せてくれたのだ。彼女の残してくれたささやかな祈りと許しが、征秀をもう一度前に進めと背中を押している。 だから 祈るように約束を交わす。今度こそ、もう失敗はしたくない。いいや、間違えても、それを正すのだ。 絵奈は笑う。星の歌のなか、月が踊るなか、征秀の祈りのなか。それらが形作った真っ白い花、絵奈の強さが生み出した花の前で。 「ばか。風邪、ひくぞ」 征秀は絵奈に歩みも寄った。
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