彼は慎重に用心深く行動していた。何故なら自分の置かれている状況が普通じゃないのを察することが出来るくらいには賢かったからだ。 昨晩まではいつもどおりの毎日だった。それなのに、朝起きて気づいたら、見知らぬ場所にいた。 それは、迷子になったとかそういうレベルじゃない事がわかった。 空気が、何かが、違っていた。 だから彼は慎重に慎重に動いた。幸いな事に辺りは木々の茂る斜面だった。山だ。山での行動は慣れていた。 ……たとえ、そこにある植物が自分の知る物とまったく違っていても。 彼は大きく息を吸い込むとその身体を変化させた。小さく、そして素早く動けるその姿へと。 辺りに気配のないことを確認すると、斜面を駆け下りた。 その先に何か白い煙が上がって見えた。(火事?) しかし、それにしては煙の臭いがしない。だが、何か変な匂いがした。 それは硫黄臭。つまりは温泉だった。 彼にはその臭いには覚えがなかったが、その先に気配を感じて立ち止まる。ゆっくりとゆっくりと距離を縮めていく。そっと様子を伺う。 そこには人がいた。見たところ、生き物に関しては自分の知る世界とそう姿の違いはないようだ。人がいる。 この高い声、女だ。(女の人!しかもこの温かい空気は風呂!なんで外で風呂入ってるんだか知らないけど、風呂といえば……)裸!! 彼は見たかった。すごくその先を進みたかった。しかし、何をされるかわからない。彼の世界でものぞきに対する女性の反応は恐ろしいものだった。 彼は躊躇した。しかし、「!!!」 気持ちが前のめりになっていたのだろうか。雪に足を滑らせ斜面を転がり落ちる。 目の前にはもくもくと立ち上る湯気。そしてたくさんの女性。万事休す、彼は死を覚悟した。「かわいーーー!!」「あ、本当だぁ! おいでおいでー」(へっ?) 笑顔で集まってくる女性達。何を言っているのかはさっぱりわからないが、少なくとも殺気は感じられなかった。 笑顔は少なくとも彼の世界でも好意的なものだったはずだ。彼は混乱した。 彼女らの目に映る彼の姿は、一匹の子犬に過ぎなかった事を彼は知りようがなかった。●「最悪だっ!!」 バシッと本をたたきつけて叫ぶ少女にドアを開けてちょうど入ってきた旅人達が目を丸くする。 世界司書の少女に呼ばれてきたはずなのに間違えただろうかと不安になる一同。 それに気づいた少女は慌てて取り繕うように笑った。「すみません、失礼しました。お集まりいただきありがとうございます。みなさんにまたお願いがあるんです」 行ってきたばかりの人も多いかと思いますが、と少女は続ける。「壱番世界で他の世界から跳ばされたロストナンバーが彷徨っているみたいなんです」 小声で彷徨っているというか血迷っているかというか……と彼女は呟く。その表情は険しい。「詳しくはわかってないのですが、そのロストナンバーさんは姿は基本的に壱番世界の人たちと変わりません。ただ、変身能力があるそうなんです。いわゆる人狼というところでしょうか?あ、大丈夫です。人を襲ったりはしません。というよりも襲ってもたいした被害はないでしょう」 それは可愛らしい子犬のような姿であり、その姿をうまく利用して潜伏しているようだと彼女は説明する。 そして、少女の表情は更に険しさを増す。たいした被害は出ないと言ったばかりだというのに、何があるというのかと聞いている旅人は気が気じゃない。「ただ、その愛くるしい姿を利用して迷い犬として少々話題になっています……露天風呂に現れる迷い犬として。微笑ましい話です。ですが、ただですね、女湯ばかりに出るんですっ!!」 幸い、予約の少ない日を狙い、その話題になっている温泉のある宿をほぼ貸切状態にできたという。 長期滞在の湯治客の入浴時間と掃除の時間さえ避ければ人目を気にする必要はないだろう。 したがって、男性あるいは女性ではない者も女湯に潜入しても咎められる心配はない。「だからって、変な考えをしちゃいけませんよ。別に女湯に入らなくても出来ることはありますし」 ロストナンバーと接触して説得するなり強引に力任せなり、とにかく確保してつれて帰ってきてくれれば任務は完了だ。 周囲への影響を多少なりとも気にするなら、飼い主でも装えば温泉宿の人々への説明は問題ないだろう。 少し余裕があれば、ちょっぴり温泉を楽しんできてもかまいませんよと少女は笑った。「首に縄をつけて引きずり……保護してきてください」 にっこりと笑顔で少女は皆を送り出した。今度はその瞳が笑っていなかった事は言うまでもなかった。
●温泉へようこそ 山奥の小さな温泉街。 交通の便がイマイチの為、観光客は多いとは言えないがアットホームな雰囲気にリピーターも多い。 そんな温泉街で最近話題となっているのが、オフロ犬である。 「とってもめんこいわんこでねぇ。露天風呂に現れては気持ちよさそうにしてるのよ」 「寒いから温泉は気持ちいいんだろうねぇ」 「でも入ってはこないんだよね。水嫌いかな?おいでって言ったらしっぽは振ってるんだけど」 寒いから温泉が気持ちいいのは確かにあるが、決してそれだけでなく、水嫌いというわけでもない。 女の人がいっぱいで幸せだけれど、それ以上近づくのは流石に彼の良心が咎めるから遠慮しているだけである。 タオルを巻いた姿や湯気でピンボケ気味の裸体で十分なのだ。そんな事は誰も知るよしもないことだが。 温泉宿の人たちの話をうなずいて聞くのは青梅 要。彼女は一足先に温泉宿に短期バイトとして潜り込んでいた。 職場体験のようなノリで学生さんをバイトとして取ってくれる宿だったので一日だけでも問題ない。 それどころか、見事な仕事っぷりに宿の人達は感心してお菓子をくれたりあれこれかまってくれている。 「それじゃ要ちゃん、女湯の点検してきてくれるかい?」 「はい、わかりました」 「お願いね」 貰った黒飴を口の中で転がしながら要が女湯に向かう。女という文字が白抜きされている赤い暖簾をくぐり、脱衣所をちらりと見回す。使用中の籠はないようだ。 これなら特に気にしないでいいわね。と湯気で曇るガラスの引き戸にてをかける。 「犬捕獲中?」 そこには張り紙が貼られていた。既に進入していたのは自分だけじゃなかったようだ。 誰だろうと疑問に思いながらも浴場へと踏み込む。 そこまで大きな宿ではなかったが、中にはジャグジーやら檜風呂やらいくつかの種類がある。 それぞれの温度などをチェックしながら仲間を捜す。だが、浴場内には人影がない。そのまま露天風呂へと続く引き戸を開ける。 「ちょっと寒いわね……」 温泉にゆっくりと浸かった後なら裸で外に出てもどうっていうことはないのだが、流石に今は寒い。 要が思わずくしゃみをすると、つられたように岩風呂の陰からくしゅんっと聞こえてきた。 「……何やってるんですか」 岩陰に隠れていたのは日向 蘇鉄だった。温泉の熱気で多少は暖かいとはいえ、外は相当冷え込んでいる。 ひとまず中に入りなさいと要は脱衣所まで蘇鉄を引きずっていく。 「いやさ、不届きなロストナンバーを確保するべく女湯で張り込みをしようと思ったんだけど」 「その心意気は買いますけど、流石に寒くて仕方ないでしょう?」 「しかし、全然女の人が入ってこないね……じゃなくて犬の野郎! 現れやしない!」 普段ならそれなりにお客さんもいるが、今日はほぼ貸し切り状態であるので仕方ない。 「君はバイトとして入り込んだの? あ、仕事終わったら一緒に食事でもどう?」 「やーねぇ、カナメちゃんはアナタとは食事なんていかないわよぉ?」 「そうね……!!?」 ふと気づくと声の主が一人増えている。 バッと要が振り返るとそこには見覚えのある人物が――どちらかというとあんまり見たくなかった感じの人物が笑顔で立っていた。 ラミール・フランクールだ。ほぼ初対面のメンバー達の中、この二人だけは知り合いだった。 「なんで、あんたがいるのよー!?一番、この事件に居ちゃだめな人物じゃないの!?」 「あら、お客さまにひどいわ。アタシだけじゃないわよ?セシルちゃん達も一緒に来たわよ」 ほらと示された方を見ると既に温泉の浴衣姿のセシル・シンボリーと幸せの魔女の二人がいた。 「あ、君たちももう来てたんだね! ねー卓球する人この指とーまれ!」 「うふふふふ……人が最も幸せを感じる瞬間。そう、それは入浴よ。楽しませてもらうわ」 「それよりここ、女湯の脱衣所だから! そこのお綺麗な魔女さんはいいけど、綺麗な顔してたってそこの兄さん達はいちゃ駄目だろ!」 「あんたも言えた事じゃないわよ!」 「えー? だってぇー二人がいるみたいだったから。とりあえず一度は集合しとかないとと思ってー」 「ラミールさんについてきたらここにいたよー。ところで卓球台どこ?」 「脱衣所に卓球台があるか!」 「え?脱衣卓球?」 「いやーん」 「どうしてそうなんのよ!」 ギャーギャーと大騒ぎな一同を幸せの魔女だけはその微笑みを崩さずに一歩離れて見つめていた。 「まったく……幸せな人たちね。私の幸せではないみたいだけれど」 そんな彼女の呟きをよそに、一同の大騒ぎは止まらない。 やがて、様子を見に来た宿のおばさんに知り合いだったのなら仲良くなさいなと仲介されようやく騒ぎは落ち着いた。 ●囮大作戦 その後、みんなで少し遊んでもいいわよと親切なおばさんに言われるも断り、要は真面目に仕事をこなしてから休憩を貰うと急いで遊戯室に向かう。 セシルの待望の卓球台もそこにはあり、蘇鉄達も彼につきあって試合をしてあげていた。 「えい!殺人サーブ!」 「死んでたまるか!」 カコーン!コーン! 要がたどり着いたのは、小気味よい音が響き渡ったところだった。 「返されちゃった。流石若いねー」 「男として勝負には負けられないんで」 「あ、要ちゃーん! 待っていたわよーん」 「ちょっ! くっついてこないで!」 どさくさで抱きつこうとしたラミールを要は払いのける。照れちゃってとからかいながらも、そこは素直に引いた。 一同はそれぞれ卓球台の隅やらマッサージチェア等に腰掛けると今後の方針を話し合う。 「それでだ、俺はまた張り込みを続けようと思う。でも、ただ待つだけというのもな」 「そのロストナンバーの駄犬、女の子に寄ってくるのでしょう?」 「やっぱりここは囮作戦でしょぉ?カナメちゃん、セシルちゃん一緒に囮やりましょーん!」 「わーいみんなで温泉だー!」 「え、ちょっと待って……」 「要ちゃんってば照れないの!」 「照れるというか恥じらいとかそういうもんはあんたにはないの!」 嫌な顔をする要にラミールは満足そうだが、ふと思う。自分以外の者もいるのにお気に入りの彼女の肌を晒すのも面白くないなと。 そこでころりと態度を変えるとセシルににじり寄っていく。 「そうねぇー。乙女の柔肌は簡単に見せちゃいけないわね! いいわ、カナメちゃんは待機ね。セシルちゃん頑張りましょう」 数分後。 再び浴場に一同は集まっていた。 気づかれないようにと岩陰に身を寄せ合う蘇鉄、要、幸せの魔女。 そして、湯船には…… 温泉の熱でほんのりと桃色に染まった白い肌にさらりと流れる銀髪と金髪。 対照的な色彩の二人の美青年が並ぶ。二人が動くと、水滴は肌の上を弾けてころころと転がっていく。 「あら、綺麗な肌ねーセシルちゃん。うらやましーぃ!」 「ラミールさんも色白ですよねー」 楽しみに待っていたドッキドキの入浴シーンである。入浴シーンのはずである。 サービスシーンといえばサービスシーンなのだが、対象が限定的すぎた。 (なんか違う!あぁ、この会話が女の子同士なら!女の子なら!) 「あれで大丈夫なのかしら?」 「ラミールさんもセシルさんも見た目だけならいいんだけど……」 「相手は犬っぽいんだろ? 見た目が良かろうとこんな野郎臭いとこに来ないんじゃないか?」 「鼻がいいのかはわからないけれどね」 「生物的な本能が避けるに違いない!」 「本能って……でもどうしよう。フジサンも全然子犬の気配を感じてないわ。このまま待っていても駄目かしら?」 「仕方が無いわね。ここは私が一肌脱ぎましょうか。あっ、温泉だから一肌以上脱がなきゃいけないのね。うふふふふ。あはははは!」 幸せの魔女は自分の台詞に笑い出すが、そろそろ笑ってばかりもいられないわねと囮の変更を申し出る。 その申し出を蘇鉄と要はホッとした様子で受ける。 「ちょっとあなた達戻って!交代よ!」 「あの、よければ水着をどうぞ」 蘇鉄は紳士的にも水着の着用を勧める。彼に微笑むと幸せの魔女は水着を着用しにいく。 その間に囮の二人を呼び戻すと、作戦変更を告げる。 「あら、お役ご免なのね」 「うーん、仕方ないね。でも、魔女さんが囮の方が目の保養だよね」 でもカナメちゃんじゃないのねぇー残念などというやり取りをしている間に魔女は白い水着姿で戻ってくる。 「それじゃあ、はじめましょうか?」 ●仕切りなおして 「今度は来てくれるかしらねぇー? その、のぞきくん?」 「ったく、堂々と覗きとは、不届きな人だわ! ……いや、犬だわ!」 今度こそはと意気込む要。それには蘇鉄も強く賛同する。 「なっ、なんてうらやま……じゃねぇ、ふてぇ野郎だ! 男として、女性の敵には天誅を下さねぇとな。絶対後悔させてやるぜっ」 「とにかく、覗きは女の敵よ! 銭湯で鍛えた覗き撃退を思い知るがいいわ!」 何か気になる言葉が聞こえた気もしたが、深く追求はせずに岩陰に再び身を隠した。 そして、幸せの魔女は湯船にそっと足をつける。冷えた身体には少々熱く感じられたが、そのまま全身を沈める。 「心身ともに冷え切った時に、ほんわり温かいお湯にその身を浸した時の快楽。幸せ、ね」 囮としてとはいえ、その温もりは変わらない。純粋に温泉を楽しむ彼女の元に、ターゲットは近づいてきていた。 (なんか五月蠅かったけど、静かになったっぽい?) 彼はしっかりと大騒ぎの気配を感じとっていた。 厄介事に巻き込まれても大変だと様子をうかがっていたが、ようやく落ち着いた空気を感じて山から下りてきていた。 (今日は人が少ないなぁ…一人だけ?) でも、綺麗だ! 彼女の姿を確認すると彼の耳はぴんっとたった。尻尾は自然と揺れている。 早速、可愛いわんこモード全開で飛び出していく。 (((きたっ!!))) 隠れている四人はぐっと拳を握ると、飛び出したい気持ちを抑えてチャンスをうかがう。 「あら?可愛いわね…、貴方」 待ち伏せていた様子など微塵も見せずに魔女は彼に声をかけながら、湯船から上がる。 「わんっ(可愛いだなんてそんなのもう貴女様に比べましたら)」 「姿の話では無いわ。貴方のその心中の話」 「わ、わぉん?(え?心中ってまさかなんか感づかれている?)」 「可愛い程に醜い欲望に溺れた憐れな迷子さん、女性の肉体はそこまで魂を汚してまで見る価値はあるの?」 そこに貴方の幸せはあるの?と問いかける。だが答えを聞く前に彼女はある訳が無いと断じる。 常に誰よりも幸せである事を貫く彼女は、その雰囲気に気圧されて耳や尻尾が垂れ下がった不幸な子犬を見下す。 「莫迦ね。貴方は。……口惜しかったら、元の姿にでも戻って私の肉体を抱きしめてみては如何?」 冷たい微笑を湛えたまま誘いの言葉をかける。だが、彼の心は動揺し身体は震えている。 「無理よねぇ、幸せを眺める事しか出来ない弱虫な貴方には」 じりじりと後退していく子犬。トラベルギアであるデッキブラシを構えていた要も何だか可愛そうになってくる。 今にも逃げ出しそうな子犬の前にそっと歩み寄ると優しく声をかけた。 「大丈夫よ。心配しないで」 しゃがみ込んで目線を合わせて語りかける。 その優しい瞳に、子犬の震えは徐々に収まっていき、やがて、すりと鼻面を要にこすりつけた。 その仕草に思わず微笑むと子犬を抱きしめた。きゅうんっと可愛らしく鳴くと、子犬はするりと要の腕をすり抜ける。 逃げるか?と蘇鉄達は身構えたが、そうではなかった。 子犬が地面に着地すると同時に、その姿がゆらめく。 一同が目を擦る間もなく、子犬はその姿を大きく変化させた。 「おねーさんありがと!」 そこにいたのは一人の裸の少年と青年の狭間くらいの若者だった。 満面の笑みで要の手を取る。緑の瞳はキラキラとそれこそ子犬のように輝いていた。 「え……きゃあああっ! へんたいっ! へんたいっ!」 驚きに目を見開いたまま手を取られた要だったが、ふとある事実に気づくと大きく叫んだ。 無理もない。彼は変身の時に衣服を山に置いてきていたのである。 「セクハラだぞそれ! 服はどうした服は!!」 蘇鉄がセコンドばりに彼にタオルを投げ込む一方。ラミールは要を抱えるようにして彼から引き離す。 引き離すが、彼の容姿を確認して身を翻す。 「カナメちゃんに何をするのっ! あら? けっこう可愛いじゃなーい」 「え? ぎゃあ! なんかこの人、近いっ近いー!」 ぎゅうっと抱きつかれて、本能的に何か身の危険を感じたらしい。大慌てで逃げる。 逃げられると追いたくなるのが人情というわけで、ラミールは彼を追い回す。 「あははははは、ラミールさん積極的ー……くしゅんっ!」 身体が冷え切っていたらしいセシルが思わずくしゃみをする。と同時に彼の顔が馬のそれへと変わる。 「うわぁ!人が馬になったぁ!」 「うーん。犬になる君がそこまで驚くのもどうかと思うよ?仲間仲間ー」 「そうよねぇーそんなの些細なことよね。うふふふ」 「ぎゃっ! やっぱ近いー!」 「ちょ、ちょっと温泉で走り回るのはやめなさいよ!!」 少し気を取り直した要が叫ぶが、それくらいでは止まらない。 温泉をぐるぐる周り続ける二人。しまいには彼は再び子犬の姿になって、そして転んだ。 「だから言わんこっちゃない!」 「子犬ちゃんに戻っちゃったーつまんなぁい」 「よかった。俺がターゲットにならなくて」 目を回す子犬を介抱してやろうと近づきつつ、そっと胸をなで下ろす蘇鉄であった。 「……これで、後はなんとかできるわよね」 大騒ぎの一同を横目に、仕事は終わったとでもいうように幸せの魔女は再び温泉を楽しもうと湯船に戻る。 そこには既に、セクタン達がのんびりぷかぷかと気持ちよさそうにお湯に浮かんでいた。 ●騒ぎの後で 「……というわけで、貴方はつまり迷子なのよ」 「……」 その後、意識を取り戻し、ロストナンバーについての説明を神妙に彼は聞いていた。 「俺たちと一緒にロストレイルに乗り込もうぜ?」 「でも……」 急な話についていけず、困惑する彼に、セシルがすすっと近寄ると耳打ちする。 「綺麗なお姉さん、可愛い女の子たーくさんいるよ? チェンバーなんて混浴も出来ちゃう楽しい場所だっていっぱいだよ?」 たぶん、と心の中でだけセシルは呟く。しかし、彼の言葉は効果的だったようだ。 「……俺、ついてくよ。ううん、連れていってくれ!」 「よっし! それじゃ……えーっと?」 「あ、俺はメル。よろしくな!」 「そうと決まれば……メルさん……まずは掃除よ」 「え……?」 要は笑顔でデッキブラシを掲げた。罰掃除。とその瞳は語っていた。 こうして目的を果たした旅人達は、まだ残っている時間を有意義に過ごす事にした。 バイトとして来た要と、彼女に罰掃除を命じられたメルはデッキブラシを手に浴場に来ていた。 他のメンバーはそれぞれそこで入浴を楽しんでいる。混浴だがみんな水着を着ていた。 「お酒飲もうよ。日本酒、温泉に浮かべてさぁ。ねね、ちょっとだけ!」 「うちは温泉に飲食物持ち込むの禁止されてるんです」 「えー残念」 「カナメちゃんは真面目だものね。温泉を楽しみましょぉー。ほら、カナメちゃんもお掃除ばっかじゃなくて一緒にはいりましょうよー」 「お断りします」 セシル達が温泉に浸かりながら要に声をかけるも、軽くあしらわれている。 「ほら、貴方はよそ見しないで! しっかり力入れて擦る!」 「はいっ!」 「大変だねぇー」 「ん、でも、ここの人達には食べ物もらったりしてたし。俺もなんかしたいとは思ってたから」 「うんうん、いい心がけだねぇー」 「そうね」 「あ、ありがとうございます!」 幸せの魔女に声をかけると背筋をぴっと伸ばす。美人さんの迫力は怖いとメルは小さく呟く。 「あの、ところで、俺も最後に温泉に入ってもい……」 恐る恐るメルが問いかけるが、いいからキリキリ働けと叱りとばされる。叱咤とともに盥も飛ばされて来たので慌ててモップで打ち返す。 綺麗に飛んだ盥にセシルがぱちぱちと拍手をする。 「うまいうまーい!」 「備品で何すんのよ!」 「え、だって! そっちが投げてくるからっ」 「黙れ」 「はい……」 「もぉーカナメちゃんおっかなぁぁい。迷子の子猫ちゃんには優しくしてあげないとっ!」 「この人、犬じゃない」 「あ、それもそうねぇ」 「うぅ……誰も味方してくれない」 「犬のフリして痴漢行為するのが悪いだろ」 「痴漢じゃない! だって見てないもん! 最後の一線は越えてないから俺!」 「覗きの最後の一線ってどこだ!」 「うんうん、そこは気になるとこだよね!」 いやそれはとメルは言い淀むと蘇鉄とセシルににこそこそと耳打ちする。 「ちょっと何こそこそしてるのよ!」 「わーお。そこが一線なんだ!」 「……やっぱりうらやま……じゃなく! ふてぇ野郎だ!」 「え、そんな、それだけでそんな怒らなくても!」 「どこまで見たかしらないけど、覗きは覗きよっ馬鹿!」 カコーンと今度はメルの頭部に盥がクリーンヒットした。 「ぐはっ!」 「いい気味だ!」 「あはははーいい音したよー大丈夫ー?」 ふらふらとよろめくメルの姿に、一人静かに見ていた幸せの魔女はふっと微笑む。 「……本当に幸せな人達ね」 そう呟くと、彼女は彼女の幸せを追い求める。入浴を存分に楽しむと、一人湯船から上がる。 残された時間はあとわずか。 「……オジサン元気にしてるかしら」 会いに行きたかったなぁとデッキブラシを片手に要はため息をつく。 「元気に決まってるわよ」 「ラミールさん……」 「元気な内にご挨拶に行かないとね!」 「来ないでください」 照れない照れないーと絡むラミールを振り切るように要が浴場を出ていく。 「あ、世界司書ちゃんに、お土産買ってかないとー」 「あぁ、売店になんか売ってた気が……」 「湯の花とお饅頭を買ってこー。日向くんも行こうよ」 「温泉まんじゅうくらい買ってもいいかな……」 セシルの誘いに蘇鉄もうなずくとついていく。 「まんじゅうって何?」 「え、知らないの!?」 首を傾げるメルに饅頭についてレクチャーする二人。だが、彼の世界には似たような食品がなかったらしく、説明に四苦八苦する。 「だから丸くて中にあんこが」 「あんこ?」 「そこからか!」 説明が終わる頃には、一同を迎えに来たロストレイルの灯りと共に空には一番星が輝き始めていた。
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