――0世界。 このどこかに、桜の咲き誇る園があった。そこはただ長閑な風のなか、桜が咲き誇り続ける、それだけの場所である。 一歩踏み出せば、そこはもう春の世界。蝶が舞い、時折風にのって花びらが踊る。そして、気がつけば鳥の声が聞こえてくる。 今、ここには貴方しかいない。貴方は薄桃色の世界で1人、何を思うだろうか。 故郷の事でもいい。 旅を振り返るのもいい。 物思いに耽るのもいいだろう。 貴方には、少し時間がある。その時間を大いに活用し、この世界を楽しんでもらいたい。
「うっわぁ……」 咲き誇る沢山の桜に、コンダクターの吉備 サクラは歓声を上げた。噂には聞いていたが、これほどまでに艶やかで、美しい桜の園を見た事はなかった。思わず感嘆の息を漏らし、ゆっくりとあたりを見渡す。と、ほんのりと優しい香りが小さな鼻をかすめていく。 深呼吸をしていると、傍らで相棒であるジェリーフィッシュタンのゆりりんが、彼女の肩の上で楽しそうに跳ねていた。その様子に笑みを浮かべながら、 「ちょっと遠かったですけど、来た甲斐がありましたっ! ね、ゆりりん?」 と問いかければ相棒は同意するようにふわふわ。それにくすくす笑いながら、あたりを見渡せば薄紅色の天井。ひらひらと舞い散る花弁に瞳を細め、うっとりとなる。日焼けも気にせずのんびりできそうだ、と心を弾ませながらサクラは早速ビニールシートを広げ、お弁当を食べる事にした。 バスケットを開ければ、色々なおにぎりが顔をみせる。梅とじゃこを混ぜ、おぼろ昆布を巻いた物や中身に焼肉を入れた物、炒飯をおにぎりにした物……など、どれもこれも美味しそうだ。 (……でも、少し作りすぎちゃいましたか?) 準備している時もうきうきしていたからだろうか? けれども、おにぎりを見ているときゅう、と愛らしい音がお腹から聞こえる。それに頬をほんのり赤く染めながら、サクラはゆりりんと一緒におにぎりを食べ始めた。 「こんな時は、緑茶が一番ですよね~♪」 ステンレス製の水筒からお茶を注いで、シンプルな雑穀米のおにぎりを口にすれば、それだけでちょっと心が休まる気がする。そして、「あ、やっぱり自分は日本人なんだなぁ」なんて妙な実感が湧いてくる。 そうしながらも、脳裏を掠めたのは個性豊かな友人達の顔だった。もし、今ここにいたならばきっと大騒ぎしながら一緒にこのおにぎりを食べていただろうな、と。 (下宿で食べるより、こういう場所で食べる方が断然美味しいですっ! でも、もっと大勢居た方がピクニックらしくて楽しかったかなぁ……?) 確かに、自分の傍には相棒がいる。だから寂しくはない、と傍らでおにぎりに巻かれたおぼろ昆布から食べているゆりりんの姿を見ながら頷くサクラ。けれども、やっぱり1人と1匹だけではこの空間は、いささか広すぎる。 「その方が、このおにぎりももっと美味しかったかも」 一人呟いて1つ目を食べ終えると、2つ目のおにぎりに手を伸ばした。今度は焼肉入りを選んでかぶりつき……思わず咳き込む。どうやら胡椒をすこし肉にかけすぎたらしい。どうにかお茶で流し込んで一息。その様子をゆりりんが心配そうに見ていた。 ぼんやりとおにぎりを食べながら花を愛でていたサクラは、お茶を飲みながらふと、こんな事を考えた。 「桜は散り始めが一番きれいだと思いますけど、普通はそうなったらすぐ終わりの時期ですよね……」 ひらひらと舞う花弁を手に取りつつ、あたりを見渡す。葉桜になっているものは無く、花弁が落ちる傍らで、硬く結んでいたつぼみが綻び始める。どこか不思議な空間ではあるが……。 「うーん、なんでしょう。なんかこう……1年中咲いてると来年またって思う楽しみがなくなっちゃったような……?」 綺麗なのは綺麗なんですけど……、と首を傾げながらえび天むすにぱくつくサクラ。しばらくもそもそと咀嚼しながら考え込んでいたが、ふと、顔を上げる。 「! そうです! そうですよ~っ!! 逆の事を言えば1年中この時期のコスプレ出来るんですよね?! それはそれでお得です!」 なんか、テンションが上がってきたサクラはぐっ、と拳を握る。 「と、いう事は桜乱れて、とか卒業式とか……いつでも着放題やり放題じゃないですかぁ~♪」 ぽぽぽぽ~ん、という具合に脳内では妄想が浮かび上がる。その中で一番ぴん、と来たのは最近気になっていた番組。 「今期はサクラ・ダブルの『待ってて、追いつくから』『追いつくまで待ってる』のユニゾンが1番名言かも! 今作るならこっちかもです~っ!」 漲ってきました~っ! とばかりに思わず拳をぶんぶん振ってしまうサクラ。彼女はお茶をぐっ、と飲み干すとスケッチブックと筆記用具を取り出し、服のスケッチを始めた。 その時、ゆりりんが 何かに気づきサクラの肩を叩く。しかし、サクラは夢中になっていてそれに気づかない。もし、ゆりりんに会話する力があったのならば、こう、言っていただろう。 ――口元に、ご飯粒、ついていますよ、と。 いいたい。でも言えない。そんなじれったさを抱えながらゆりりんはサクラを見つめる。彼女は「あのユニゾンの切なさがいいですよね~っ!」とか「はっ?! あの逢瀬シーンだって再現できちゃいますっ」とか聞こえてくるが……ゆりりんはため息をつくようにゆれた。まぁ、いつもの事だ、と。 一通りスケッチを終えたサクラは、今度はデジカメを片手に一番立派な花を探していた。もちろん、参考にする為だ。 (小物とか、エプロンに桜の意匠を入れても面白いかな……) 自分の名前と同じ名前を持つこの花に、優しい眼差しを向けて、小さく呟く。そうしているうちに「これは」と思うような花を見つける。それをデジカメで写真に収めると、再びおにぎりを食べる事にした。 「これはこれで、心が満たされました……♪」 気がつけば、沢山あったおにぎりもゆりりんと2人で殆ど食べてしまっていた。残っている1個を相棒と半分こして食べよう。そう思い、おにぎりを手にする。 「ゆりりん、半分こしま……」 そういいかけた途端、ゆりりんはその最後の一個をぺろり、と平らげてしまった。 「……ゆ~り~り~ん?」 サクラがジト目でみれば、ゆりりんは「私はしらないよ」と言うようにふわんふわんと漂って逃げる。そんな相棒の姿に苦笑しながら、サクラは天を仰いだ。 「明日から、また頑張ろうっと!」 (終)
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