桜が咲き乱れるチェンバーで花見が行われていた頃のこと。 華やかで艶やかで所によっては阿鼻叫喚、そんな宴を遠くに聞きながら、別のチェンバーでは静かに楽器が奏でられていたという。 風が吹き荒れるチェンバー、そこに佇む桜の下で彼女はヴィオラを奏でていた。 きりりと結い上げた黒髪が強風に攫われている。気に食わないことでもあるのだろうか、ヴィオラの音色は途切れ途切れで、時々手を止めては眉を寄せているのだった。「ああ……ようこそ。今日は風が強いな。花嵐、だそうだ」 来訪者に気付き、彼女は弓を握る手を止めた。「桜が咲く頃を狙い澄ましたかのように強風が吹くことがあるらしい。月に叢雲、花に風。――ままならぬ浮世の喩えだと」 火照(ホデリ)。彼女はそう名乗った。それが日本の男神の別名だと知っていた者は居ただろうか。「このチェンバーは我ら姉妹が練習場として借り受けている。奥に行けば妹が二人……いつかは館長公邸で楽を披露したいと願っているが、まあ、なかなかうまくはいかぬな」 気の強さを感じさせる双眸をふっと細め、火照は小さく苦笑する。三姉妹で楽団でも結成しているらしい。 火照の上にあるのは小ぶりの桜だ。ちらちらひらひら、無粋な風に弄ばれて、桜はひたすら花びらを散らす。 雪のようだと来訪者は思った。だが、散る花は雪よりも哀しい。雪ならばすぐに溶ける。花は地べたに叩きつけられ、土に還るまでは無様な姿を晒さねばならぬ。「じきに散るだろうさ」 嵐のように散り往く花を仰ぎ、火照は軽く肩を揺すった。「それまでに曲ができれば良いのだが。……そうだ。おまえは旅人だな?」 その後ですっと弓を構え、「何か物語を聞かせてくれ。我らロストメモリーは永劫にこの街から出られぬ。これでは曲のモチーフも枯渇してしまうというもの」 吟遊詩人の如く、旅人の冒険譚を元に曲を奏でてみたいのだと。 そう告げて、勝ち気に笑った。
降り注ぐ花の下、銀の鳳凰が悠然と回る。黒い番傘に描かれたそれは絵と呼ぶには細密に過ぎ、本物と呼ぶには美し過ぎた。 「無粋な風じゃのォ」 という言葉とは裏腹に、傘の下の男はどこか陶然と目を細めた。 「桜には抗う術もなかろうに。……白待歌(ハクタカ)」 応じるように、白銀の焔が噴き上がる。焔はやがて美しい鳥の形を成した。 「俺ァ桜のほうがええ。花は最期の時まで愛でてやるもんじゃ」 『御意』 風が吹く。花が舞う。 ゆるゆると番傘を回し、気紛れな刀匠は花吹雪の中を歩み去る。その背中を訝しげに見送った火照は、次の瞬間小さく目をみはった。 焔の鳥はいつの間にか消え、桜の下に和装の人物が佇んでいた。長く滑らかな白髪、冷たい青の瞳。男とも女ともつかぬその姿はどこか先程の鳥を連想させた。 「我が君は貴殿よりも花見をご所望。この白待歌がお相手をいたしましょう」 滅多に口を開かぬ筈の焔は自らの名を誇るように告げた。 「こちらの桜はまるで粉雪の様……」 風が吹く。花が舞う。 陶磁器のような手を桜に差し伸べ、美しき焔は火照にすいと視線を送った。 「では、焔の桜を御覧になった事は?」 故郷によく似た異世界で、彼らはその桜と出逢った。 嘘かまことか、夢かうつつか。 その桜は狂気に犯され、近付く者を鎌鼬で切り裂くのだという。 どういう経緯でこの世界を訪れたのか、もはや大した問題ではなかった。 甘い夜風が、清酒の上にさざなみを立てる。雅な杯(さかずき)を手にし、しかし刀匠はそれを傾けようとしない。酒に写る月すら愛でるように、望月の色をした目を細めている。 はらりと、杯の中に桜の欠片が舞い降りる。濡れた月が乱れ、震えた。 「……ええ色じゃ」 酒に浮かぶ花弁は、白銀。――鋭利な刃の色。 ついと杯を干し、刀匠はふらりと立ち上がる。 『灰燕様』 制しかけて、白待歌は言葉を呑み込んだ。 肩越しに振り返った主君の目が、刀剣を前にした時のそれと似ていたから。 びょうと風が、花が啼く。 ――花? それは、鋼だ。 狂気の桜は、近付く者を拒むように刃の花弁を纏わせている。これこそが鎌鼬の正体か。 それでも、宵闇に浮かぶ白銀は胸が震えるほどに美しい。 「ええ色じゃ」 刀匠は桜に引き寄せられるように、魅入られたようにして歩み寄る。見守る民らが恐怖とも嘆息ともつかぬ声を上げる。白待歌の脳裏に、昼間彼らが聞かせてくれた逸話が甦った。 ――あの桜の根元にはね、刀と死体が埋まってるんでさあ。ひと振りの刀と、女の死体がね……。だからあんな色の花を付けるんじゃないですか? 刀と女の関係はだァれも知らない。刀の持ち主が誰か、もね。女が刀に斬られたのか……それとも、女がそれを望んだのか。だァれも、なァんにも知らないんですよ――。 桜は黙して、語らない。刀匠も、また。 きん、と沈黙が張り詰める。それはまるで鋼線のよう。触れれば指が切れてしまいそうな。 『灰燕様!』 白待歌の声は花弁の唸り――悲鳴、あるいは慟哭であったのかも知れない――に呆気なく掻き消される。もっとも、聞こえていたとて刀匠は聞き入れなかっただろうが。 ぱっ、と色彩が閃く。漆黒と白銀の世界に、真っ赤な血の花が開く。 鋼の花吹雪の中、刀匠は朱に彩られて行く。花弁を愛でるように伸ばされる指が、夜気の甘さを味わうように開かれる唇が、瞬く間に、静謐に切り裂かれて行く。 寒気が白待歌を貫いた。それは悪寒にも、恍惚にも似ていた。 刃に苛まれているというのに、刀匠はうっとりと微笑んでいるのではないか。 否、刃であるからなのか。美しい桜であるからなのか。だから彼は陶然と瞳を濡らしているのか? 刀匠は動かない。白待歌もまた、動けない。 刃を甘受し、桜の美しさを愛でる刀匠。朱に染まったその姿は戦慄するほどに美しい。彼にまとわりつくように舞う桜も、また。 「ええ色じゃァ……」 ちらちらと。きらきらと。刃の花弁が舞い狂う。 鈍く煌めくその花は、刀匠を拒んでいるのか、抱擁しているのか。 旅人は任務を果たせば帰還する。そしてまた次の地へと赴く。川の流れのように、決してひとつところに留まることはない。 その夜、別れを惜しむ民らが旅人を送るささやかな宴を開いてくれた。しかし気ままな刀匠はどこぞへと姿を消した。一方、人型を取った白待歌はひとり白銀の桜の元へ赴いた。 ちらちらと。きらきらと。刃の花弁が散り、舞う。 鈍く煌めくその花は、あの時よりも静謐だった。 歩み寄る白待歌を迎えるように、桜の下にいつの間にか人影が佇んでいた。滲むようにして現れたそれは亡霊のようにぼんやりとしていた。事実、青白い顔をした彼女は霊であるのだろう。長く滑らかな黒髪、冷たい黒の瞳。和装に身を包み、鈍く輝く刀を抱擁していた。 刃の花が舞い、散り、落ちる。花はもはや近付く者を斬り裂かぬ。女は胸に刀を抱き、ただ白待歌を見つめている。青白い顔はどこか茫としていたが、うっとりと微笑んでいるようにも見える。漆黒の瞳はどこか倒錯じみた光を浮かべていたが、奇妙に凪いでいた。 白待歌は凛と背筋を伸ばして女と対峙した。 「桜。答えよ」 応じるように、女が目を上げた。よすがのように刀を抱いたまま。 黒い瞳に白銀が写り込む。それは花弁の色でもあったし、白待歌が纏う色彩でもあった。桜だけを見つめていた女の目に、今、白待歌が写っている。 白待歌はかすかに唇を歪めた。笑ったつもりだった。白待歌には、女の心が手に取るように分かった。 女は、桜に――刀に、他者を近付けたくなかった。刀を、あるいはその持ち主を愛していたから。愛するがゆえに激しく憎悪していたから。二人だけの領域に他者が踏み入ることを拒み、近付く者を切り裂いた。それを独占欲と呼ばずに何と呼ぼう。狂気的な愛情と呼ばずに何と呼ぼう? だが、あの刀匠だけが不可侵の“聖域”に踏み入った。刀匠だけが痛みに臆せず、桜の美しさを愛でた。彼の情深い視線に女の寄る辺無き激情は薄れ、浄化されて行ったのだろう……。 女は黙して、語らない。彼女を見つめる白待歌も、また。 女の瞳は倒錯していた。女の微笑は透徹していた、静かに狂ったが故に。 「桜。――彼の御方は美しいか」 女はかくりと首を傾け、肯いた。よすがのように刀を抱いたまま。 「桜。彼の御方と共に在りたいか」 女はかくりと首を傾け、肯いた。よすがのように刀を抱いたまま。 白待歌は唇の端を持ち上げた。満足げに、誇り高く、女を認めたかのように笑った。 これ以上の言葉など要らぬ。賢しく共感を交わす必要などあろうか。 「ならば」 桜の下に、手を差し伸べる。 「私と共においでなさい。鋼の桜よ」 女がかくりと肯いた、その瞬間。 音もなく、白銀が噴き上がる。女を、桜を包み込むようにして。 慈悲深き白焔は、宵闇を衝く火柱となって静謐に咆哮した。 「それ以来」 花嵐のチェンバーの中に白銀の花が散る。 ――花? それは、焔だ。 「我が屋敷には焔の花弁を散らす、鋼色の桜が咲いているのですよ」 掌から焔を花弁の様に散らし、白待歌という名の焔妖は笑った。 風が吹く。花が舞う。 舞う花は淡く、柔らかい。陶磁器のような指でつまんだ花弁は薄い蝋のようにしっとりとしていた。 息を吹きかけて花弁を飛ばし、白待歌は火照に視線を移した。 「桜と刀の間にいかなる経緯があったのかは存じませぬ。なれど私は確信しております。生前も死後も、桜はきっと幸せであったと」 「なぜ分かる」 「愚問にございます。相手を縛り、己もまた縛られ……それこそが無上の歓び」 怪訝そうな火照の問いを白待歌は一蹴した。 余人には分かるまい。あの刀匠こそ白待歌のすべてで、絶対。刀匠さえいれば白待歌の世界は完結する。たとえそれが閉塞と同義だとしても、光明など要らぬ。引き上げる他者の手など望まぬ、干渉など許さぬ。――あの桜が、かつてそうであったように。 「余人には分からぬな」 火照は軽く肩を揺すり、ヴィオラを構えた。 「だが、感情とはそもそもそういうものかも知れん。不可解だからこそ人を惹きつける」 「知ったような口を叩きなさるな」 白待歌は不敵に口角を吊り上げた。「この白待歌は余人の解釈など望みませぬ」 立ち入ってはならぬ場所を聖域と呼ぶ。余人の介入を許さぬ、手つかずの世界を聖域と呼ぶ。 火照は「悪かった」と肩をすくめて弓を手に取った。 「ならば、浅慮はほどほどにしておく。代わりにこの曲を捧げよう。少し、聴いて欲しい」 弦が、震える。旋律が弾ける。 びょうと啼く風に乗り、小刻みな旋律は感情的に空へと駆け上がる。ごうと舞い上がる花弁を見送り、白待歌はうっすらと笑った。 鋼の桜は今も屋敷に咲き誇っている。白待歌が、刀匠の傍に在ることを許したから。枯れる様子も見せぬその花は燃え上がる焔のようで、火の粉を散らすようにひたすら花弁を舞わせるのだ。風や雨ごときで散ることはない。 「では、そろそろおいとまを。我が君と……桜が待っておりますれば」 ほろほろと。はらはらと。 花弁と共に焔を舞わせ、鋼を呑み込む焔妖は笑った。 風雅に転がる下駄の音。花吹雪の中、ゆったりと近付く黒い番傘――。 <焔桜抄・了>
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