『お前は此処に在るべきではない』 そう告げられた瞬間、世界が崩落したような気がした。 はらり、はらり。降り注ぐ感触はひどく懐かしい。 ――懐かしい? 「!」 呉藍はがばと跳ね起きた。 はらり、はらり。舞い落ちるのは、桜。――焔。 鋼色の桜が、焔の花弁を降らせている。視線を巡らせてようやく、見知らぬ屋敷の庭であることに気付いた。 (何が起こった) あの時、世界が崩落した気がした。次の瞬間には鉛のような疲労感と共に別の場所に立っていた。彷徨ううちにこの場所に迷い込み、気を失って……目を覚ませばこの有様だ。 「夢、なのか」 そう呟いてしまう程度には現実離れした光景だった。焔の花を咲かせる鋼の桜など、これほどまでに美しい桜などあるわけがない。 だが、冷静な直感がそれを否定する。夢ではないと、目の前の光景を見据えよとひどく冷ややかに囁きかけてくる。 ならばすべてが現実なのか。――お前は此処に在るべきではないという主の言葉も。 「……何が起こった」 はらり、はらり。静謐に落ちる焔の中、蒼の髪が雛鳥のように震える。 だが、不可解な気配を感じてわずかに正気を取り戻した。 音もなく、女が現れる。桜の化身のようにして。長い黒髪に、しっとりとした和装。青の瞳は湖のように冷たく、揺らがない。 「勝手に入り込んで済まん。あんた、ここの住人か? ここはどこだ? いや、俺はどこから……」 途方に暮れて呉藍は問う。女はかくりと首を傾げた。どこか虚ろなその面(おもて)は呉藍を見ているようで見ていない。 「教えてくれ」 呉藍は迷子の子供のような泣き顔を作った。 「俺は……俺は――」 いらえの代わりに白い手が伸びてくる。 引き寄せられるように指先を伸ばせば、女の姿が焔へと溶けた。 焔が呉藍を抱擁する。燃やすことなく、包み込む。 だが、真に焔であるのか。それは刀のような白銀。降り注ぐ花弁と同じしろがね。自らが操る火とはあまりに異なり、呉藍はしばし唖然とする。 はらり、はらり。焔の桜が舞い落ちる。 途方に暮れて空を仰げば、その眩しさに眩暈がした。 (ああ) だからこそ、これほどまでに焦がれるのか。 「ああ――」 白銀の中、蒼い髪が燃え上がる。次の瞬間、呉藍の姿は堂々たる獣――狼に似ているだろうか――へと変じた。 はらり、はらり。羽毛のように花弁が注ぐ。獣は地を蹴り、跳び上がる。焔を足場に、翔け上がる。遥かなる空へ。その向こうの天へ。 (高く。もっと高く) 歓喜するように焔が揺れる。戯れるように花弁が纏い付く。耳に、鼻に、尾に触れては落ちて舞う。火の粉のような花吹雪の中を、蒼い獣が無心に駆け抜ける。 美しく、あまりに現実離れした光景に口元を緩める者があった。 「ほォ」 このチェンバーの主である灰燕だ。気まぐれに散策に出て、気まぐれに戻って来たものらしい。 「先客か。……よォも心を許したもんじゃ」 独りごちるような感嘆が届いたのかどうか、鋼の桜が静かに揺れた。 「白待歌」 『此処に。我が君』 灰燕の傍らに白銀の焔が噴き上げ、美しい鳥の姿を取った。 「どうじゃ? あれァ」 促されるまま、白待歌は桜と獣に目をやった。桜の花弁は白待歌が纏うしろがねと同じだ。白待歌の目には、蒼い獣を抱擁する黒髪の女の姿がくっきりと見えていた。 『佳き色かと』 「っはは」 明快ないらえに灰燕は笑った。 「そうじゃの。ええ色じゃ」 いつしか獣の四肢に焔が燈っていた。伝承か何かを見ているようだ。焔を宿し、焔に包まれ、蒼き獣は夢中で駆ける。遥かなる空へ。ここではないどこかへ。獣の心はひたすらに天へと向けられている。 どれだけ宙を駆けようと、地に生きる獣は天へは届かないというのに。 (危ういのぉ) だからこそ、これほどまでに美しいのか。 「……ええ舞じゃ」 有り体に言えば、灰燕は目の前の光景に見惚れていたのだった。 焔が燃える。焔が散る。花弁を蹴り、花弁と踊り、呉藍は徐々に高みへと翔け上がる。 花吹雪の中、美しい空が見え隠れする。やみくもに手を伸ばす。届かない。ああ、もっと、もっと高く飛ばねば。 強靭な後脚で焔を蹴れば、花弁越しに主の姿が覗いた気がした。絶対的なその姿。揺らぐことのない思慕と敬意。 手を伸ばす。あと少し。 風が花弁を吹き散らし、主の姿が露わになったその時だった。 『お前は此処に在るべきではない』 それは拒絶。それは否定。――呉藍の存在を根底から覆さんとするほどの。 「!」 足許が割れる。 世界が崩れる。 (何故) 手を伸ばす。溺れる者のように。花吹雪に蔽われた主は無情に遠ざかっていく。否、遠ざかっているのは呉藍の方であった。焔の足場を踏み外し、蒼い体が地へと落ちていくのだった。 (何故……!) 世界が崩れていく。真っ逆さまに落ちていく。地べたに叩きつけられるかと思ったその瞬間、投網のように広がった白銀の焔が蒼い巨躯を受け止めた。 『歓迎します、鋼と焔の御使いよ』 女の声が頭の中に響き、呉藍は静かに地面に下ろされていた。 ぱち、ぱち、ぱち、ぱち。 灰燕が静かに手を打つと、呉藍がはっと振り返った。 「ええ物を見た」 簡素な、しかし明快な賛辞の言葉。獣のままの呉藍は唖然とし、しかし瞳を激しく瞬かせながら焔桜を指した。 「迎えてくれたんだ。この姐さんが」 示す先では、焔桜の化身の女がうっすらと微笑を浮かべている。 「あんたもこの屋敷の住人か? 勝手に入り込んで済まない、外を歩くうちに迷い込んでしまった。ここはどこなんだ?」 咳込むように重ねられる言葉に灰燕は目を細めた。覚醒したばかりのロストナンバーか。ならば、灰燕が持つトラベラーズノートの効果で言葉が通じているにすぎないのだろう。 「ターミナルに飛ばされてくるたぁ珍しいの」 「たー……み?」 「あんたの故郷じゃァないっちゅうことじゃ」 呉藍の瞳、灰燕と同じ金色のそれがこぼれ落ちそうなほど大きく見開かれた。 はらり、はらり。火の粉のように花弁が落ちる。 「故郷では……ない?」 降る焔の中、呉藍の姿はいつしか人へと戻っていた。堂々たる獣から細身の青年の姿へと。若者らしい好奇心に満ちた目許は頼りなく揺れ動き、視線の行き場を求めるように宙を彷徨い続けている。 はらり、はらり。桜は黙して語らない。 灰燕もまた何も言わない。灰燕の興味は呉藍の舞にのみ向けられている。放逐されたロストナンバーの反応ならとうに見飽きた。 やがて呉藍の目がゆっくりと灰燕を捉えた。 「どうしたら帰れる?」 「さあの」 灰燕は軽く肩を揺すってみせた。簡素な、しかし明快な回答に呉藍は絶句した。 はらり、はらり。花弁と共に、沈黙が降る。 「……帰れないということか」 呉藍はきつく拳を握り締め、呻いた。だが、言葉ほどの悲壮感はない。再度向けられた眼差しに灰燕は愉快そうに唇を歪めた。 研ぎすぎた刃のようだ。眩しくて、鋭くて、頑なで――危うい。 「ならば、帰る方法を探すまでだ。必ず見つけてみせる」 「好きにすりゃあええ」 鋼のような視線をいなして番傘を開く。下駄の音を転がして踵を返せば、呉藍の声が追いかけて来た。 「しばらくここに置かせてくれないか?」 足を止めた灰燕は斜めに顔を振り向けた。 「そうじゃの。またあの舞が見られるなら」 「舞」 呉藍はまたぽかんとした。黒い傘の下で灰燕は低く笑う。舞っているつもりなどなかったということか。 「さっきのあれじゃ。ほれ、焔と一緒に宙を駆けとったろうが」 「ああ、あれは……」 「そん桜は気難しい、灼かれても文句は言えん。よォも迎えられたもんじゃ。……似とるとでも思うたんかの」 気が付けば、黒髪の桜の精が呉藍の傍に佇んでいた。 導かれるまま手を取れば、再び銀の焔が噴き上がる。刀の色をした焔が呉藍をいざなうように舞う。呉藍もいつしか獣へと姿を変えた。焔を纏い、花弁を蹴って、しろがねのきざはしを無心に翔け上がる。 「ほォ」 ゆるりと傘を傾け、灰燕は素直に感嘆した。煌く鋼と、まばゆい蒼。獣がしなやかに跳躍する度、銀の焔がはらはらと散る。 賢しく言葉を飾る必要があろうか。この光景はひたすらに美しい。 「ええ舞じゃァ」 それは簡素で明快な賛辞だった。 ――呉藍の故郷が今どうなっているか、此処に居る誰もが知らないけれど。 (了)
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