ブルーインブルーでしばらく過ごすと、潮の匂いや海鳥の声にはすぐに慣れてしまう。意識の表層にはとどまらなくなったそれらに再び気づくのは、ふと気持ちをゆるめた瞬間だ。 希望の階(きざはし)・ジャンクヘヴン――。ブルーインブルーの海上都市群の盟主であるこの都市を、旅人が訪れるのはたいていなんらかの冒険依頼にもとづいてのことだ。だから意外と、落ち着いてこの街を歩いてみたものは少ないのかもしれない。 だから帰還の列車を待つまでの間、あるいは護衛する船の支度が整うまでの間、すこしだけジャンクヘヴンを歩いて見よう。 明るい日差しの下、密集した建物のあいだには洗濯物が翻り、活気ある人々の生活を見ることができる。 市場では新鮮な海産物が取引され、ふと路地を曲がれば、荒くれ船乗り御用達の酒場や賭場もある。 ブルーインブルーに、人間が生活できる土地は少ない。だからこそ、海上都市には実に濃密な人生が凝縮している。ジャンクヘヴンの街を歩けば、それに気づくことができるだろう。●ご案内このソロシナリオでは「ジャンクヘヴンを観光する場面」が描写されます。あなたは冒険旅行の合間などにすこしだけ時間を見つけてジャンクヘヴンを歩いてみることにしました。一体、どんなものに出会えるでしょうか?このソロシナリオに参加する方は、プレイングで、・あなたが見つけたいもの(「美味しい魚が食べられるお店」など)・それを見つけるための方法・目的のものを見つけた場合の反応や行動などを書くようにして下さい。「見つけたいものが存在しない」か、「見つけるための方法が不適切」と判断されると、残念ながら目的を果たせないこともありますが、あらかじめご了承下さい。また、もしかすると、目的のものとは別に思わぬものに出くわすこともあるかもしれません。
人で賑わう市場の隅で、エレナは背丈よりもずっと高い看板を見上げる。潮風に晒され、半ば錆びた看板には、周辺の地図が書き込まれている。 看板の前を離れて、ふと気紛れに細い路地へと入り込む。高い建物の壁に挟まれた路地裏は、明るい通りとは違い、人通りも陽光も少ない。 帽子を小さな指で押さえて、屋根の高さで風に踊る色とりどりの洗濯物を見仰ぐ。蜂蜜色の長い髪が背中でふわり、波打つ。光揺れる青空と同じ色した眼を細めて、 「……?」 視界の端に写った不思議な景色に、エレナは首を傾げた。 家の壁と壁の隙間、猫一匹入りこめるかこめないかのほんの隙間に、人が入り込んでいる。身体は横向き、進行方向はこちらではなく反対側なのだろうか、顔はあちらを向いている。首を傾げたエレナに見えるのは、だから帽子を被った後頭部だ。身体の大きさから見て、九歳のエレナより五つ六つは年上の少年だろうか。 エレナは壁と壁の隙間を覗き込む。傍にしゃがみこむ。腕に抱く桃色兎のぬいぐるみの『白(びゃく)』、愛称びゃっくんの手を伸ばさせる。 「きまっちゃ」 「ぅひゃあう」 ぬいぐるみの柔らかな手で足を突かれ、壁の隙間に身体を埋めたまま、少年は妙な声を上げた。 「何だよ、放っとけよ」 精一杯の低い声で言い放って、隙間の奥へと進もうとするものの、細くなる隙間のせいで、それ以上は進めずにいる。もじもじと動く少年の背中を、エレナはしゃがみこんだまま見上げる。 「困ってるなら困ってるって言っていいと思うの」 幼い声でスパッと言い切られ、少年は小さく呻く。 「言葉にするってイイコトだよ」 ぬいぐるみの手で少年の足を突きながら、エレナは花のような笑顔を浮かべる。 「そうしないと分かんないことがいっぱいあるもん」 たとえばどうしてこんなところで挟まってるのかとか。 うーん、とエレナは金の髪を揺らして首を傾げる。 「きまっちゃ、誰かに追われてる?」 「なんで分かるんだ?!」 「だってこんなところに隠れてるもん」 あと、とエレナは頭を路地へと巡らせる。 「怖い顔した人がこっちに来るよ」 少年は息を飲んだ。慌てた仕種で、壁の隙間の奥へともじもじ進もうとする。 「うおお、進めねえ!」 小さく潜めた声で少年は叫ぶ。エレナはその足をもう一度びゃっくんの手で突いて、跳ねるように立ち上がる。華奢な腕を伸ばし、少年の腕を取る。 「離せよ」 「困ってる?」 壁と壁に挟まれ、振り返ることも出来ず、少年は情けない声で呻く。 「……困ってる」 うん、とエレナは頷く。ぐーい、と少年を引っ張り、隙間から出て来させる。 「居やがったな坊主! それ寄越せ!」 途端、野太い声が路地に響き渡る。振り向けば、筋骨隆々、陽に焼けた男が必死の形相で駆けて来ている。腰に大振りのナイフ、額にバンダナ、剥き出しの腕には一角鮫の刺青。 青鮫海賊一家だ、と少年は呟いた。 「逃げるぞ!」 強引に手を引かれ、エレナは駆け出す。罵声を上げ、海賊が追ってくる! ゴミ箱を蹴り倒し、 「どうして追われてるの?」 低い壁を飛び越える。 「知らねえ! ばあちゃんへのプレゼント受け取りに行った店の帰りに急に襲われた!」 日向ぼっこの猫に威嚇され、塀向こうの犬に吠えられる。 走りながら、エレナはちょっと考える。 「そのお店に戻ろう?」 「迷子だ!」 少年は悲鳴を上げる。 「じゃあ、店から見えた景色」 走りながら、問われるままに少年は答え、 「もうやだ、これあいつに渡す」 最後に弱音を吐いた。 どれだけ逃げても、海賊の足音は遠退かない。このままでは追いつかれてぼこぼこにされて贈り物を奪われるだけだ。 「うんとね」 びゃっくんを片手に、エレナは少年を見上げる。 「大事なのは“やるかやらないか”じゃなくて、“どうやり遂げるか”じゃないかなって思うよ?」 こっち、とエレナが示した路地を抜ける。噴水広場に辿り着く。 「先に行って」 くるり、スカートの裾を翻し、エレナは優雅なターンをする。 「でも」 「プレゼント、ほんとにあなたのものか確かめて来て」 鮮やかな海色の眼が一瞬、少年を捉え、離す。身長の半分ほどもある桃色兎のぬいぐるみ、びゃっくんを地面に立たせる。どういう仕組みか、びゃっくんは支えもなしにすくりとその場に立った。立ち上がった途端、むくむくと膨れ上がる。 「う、えぇええッ?!」 「でっけえうさぎー?!」 少年の悲鳴と、追手の悲鳴が広場に響き渡る。ぬいぐるみ兎は見る間に噴水よりも大きくなる。 「行って」 にっこり、エレナは笑う。小さな指を、路地の向こうへと伸ばす。 「この向こうに、探してる店があるはずだよ」 「何で分かるんだ」 少年が教えてくれた景色と、この街に来た時に見、記憶していた街の地図とを重ね合わせて導き出した答えではあるけれど、それは言わずに、 「行って」 それだけ、繰り返す。 駆け出す少年の耳に、 「びゃっくん、ロケットパーンチ!」 そんなエレナの声と、海賊の悲鳴と、派手な爆発音が聞こえた気がするけれど、爆風と煙に背中を押された気がするけれど、今は見えない聞こえない。 リボンで飾られた小箱を二つ掲げて、少年が息せき切って戻って来る。 「う、わー……」 噴水広場の真ん中、黒焦げになって倒れる海賊を見た途端、少年は足を止めた。 噴水の縁にちょこんと腰掛たエレナが片手を上げる。びゃっくんは元の大きさに戻ってエレナの隣だ。 「大丈夫だよ」 でも爆発してたよな、この人煤だらけだけど建物とかは全然壊れてないよな、と思いながら、少年は恐る恐る近寄る。 「ひィ! おおお助け!」 海賊は勢いよく起き上がった。ダメージは見た目ほどでは無いらしい。力いっぱい逃げ出そうとして、尻餅をついた。頭を抱えて震えだす。 「うん、分かるけどな」 ぬいぐるみが巨大化して襲われたら怖いよな、と思いつつ、少年は小箱の一つを差し出す。 「あんたの、こっち」 店員が間違えましたごめんなさい、って言ってた、と困ったような顔で笑う。 差し出されたプレゼントを受け取る。呆然と少年を見る海賊に、 「襲ってごめんなさい、って言わなきゃ」 エレナは小首を傾げて可愛く言う。勘違いしたのだから、ごめんなさいは当然だ。エレナの言葉に、海賊はがたがたと震える。石畳にがつんと額をぶつけて頭を下げる。詫びの言葉を口にして、何とか立ち上がる。 「世話んなってる船長に渡したかっただけなんだー!」 喚きながら、振り向きもせずに全速力で逃げ出す。 少年は安堵の溜息を吐き出す。助かった。何だかものすごい目にあったけれど、ともかくも助かった。 あとは、このプレゼントをばあちゃんに届ければいいだけ。 「ありがとうな」 駆け足で去っていく海賊の背中を見送りながら、少年は照れたような顔で呟いた。その言葉が嬉しくて、エレナは笑う。びゃっくんを抱きしめる。 「……なあ」 少年がエレナを見下ろす。 「きまっちゃ、て何だ?」 おれのことそう呼んでたよな、と不思議な顔をする。 「はじめましての時、隙間にいたからだよ」 その姿を見た瞬間、咄嗟の呼び名を思いついたのだ。すきまちゃん、略して、 「きまっちゃ」 大真面目な顔で、エレナは頷く。 「でも、もう急がなくていいから」 小さな腕に桃色兎のぬいぐるみを抱き、可憐な笑みを浮かべる。 「ほんとの名前を、教えて?」 終
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