イラスト/ピエール(isfv9134)
薔薇の香りが、テーブルの上を飾るお菓子の匂いと混ざり合う。甘い風となって頬を撫でる。暖かな紅茶の湯気が唇をくすぐる。見仰げば、温室の硝子窓に輝く陽の光と、光浴びて咲き誇るたくさんの薔薇が眼に入る。 「どんな旅をされましたか?」 零世界のチェンバーのひとつ、薔薇咲き乱れる温室喫茶店の店員が、給仕をしながら問いかける。 「ヴォロスに、行ってきたの」 エレナは紅茶の水面へ視線を落とす。 紅色煉瓦の道の両側には透き通った水の流れる浅い水路がある。道から水路へ零れ落ちた野の花に水が触れる。 煉瓦の道を桃色薔薇飾りの靴で歩く。困りごとを解決してくれたお礼にと、ヴォロスの小さな村の住人がくれた、薔薇の靴。レースの靴下に合わせて履けば、事件解決の嬉しさも相まって足取りは軽い。依頼をしてきた世界司書もきっと喜んでくれる。薔薇色の唇に頬に、花のような笑みが咲く。片手に抱えた桃色兎のぬいぐるみ、『びゃっくん』と呼ぶ相棒と一緒に、エレナはぴょんと跳ねる。 木漏れ日と共に風が青空から零れ落ちる。野薔薇を散りばめたサマードレスの裾が揺れる。腰までの蜂蜜色した緩く波打つ髪が舞う。華奢な顎の下で結わえたボンネットのリボンがなびく。帽子飾りの薔薇や蝶がさらさら鳴る。大事に提げた旅行鞄の中には、これもお礼にと貰った焼き菓子がたくさん入っている。 太陽の匂いを含んでふかふかのびゃっくんを抱きしめる。 見仰ぐ光溢れる空を、鮮やかな緑の梢が覆う。樹の幹を伝った野薔薇が空に飛び出し、白い色の花を咲かせる。いいお天気に嬉しくなって、もう一度、薔薇の靴で跳ねる。スカートの裾がふわり、翼のように風を抱いて広がる。 無邪気に笑んだ青空色の瞳が、ふと瞬く。 木漏れ日のさざめく道の先、おろおろと歩き回る婦人がいる。怖じるような顔で、森を覗き込む老爺がいる。困っている、誰かが居る。 エレナの足は早くなる。エレナに抱えられたびゃっくんの桃色の耳がぱたぱた揺れる。 「どうかしたの?」 近くに居た老爺の傍に立つ。可憐な色彩まとった繊細な人形のような少女に、白髭の老爺は眩しそうに眼をしょぼしょぼさせる。 「……孫がの」 呟いて、しわしわの顔をくしゃくしゃにする。木杖にすがって座り込む。 「孫が帰って来んのじゃあ」 めそめそと泣き出す老爺の後ろに、老爺とよく似た婦人が小走りに近寄る。背中を擦りながら、ごめんなさいね、とエレナに疲れた笑顔を向ける。 「お孫さんが行方不明なの?」 エレナのあどけない顔が大人びた色を帯びる。 「話を、聞かせて」 旅のこどもに聞かせる話ではない、と渋る婦人を、 「旅のこどもだから分かることもあると思うの」 真直ぐに見つめる。気圧されたように婦人は顔を伏せ、次いで藁にも縋るような必死な眼を上げる。 ――聞き出せた情報は、 昨日、村はずれの庭園の遺跡に遊びに行くと出て行ったきり、九つの子供が帰ってこないこと。 庭園遺跡への道で迷うはずもないということ。 もしかしたら道を外れてしまったのかもしれない、遺跡のどこかで迷子になっているのかもしれない、そう言ってめそめそ泣き崩れる泣き虫爺に、婦人はきっぱりと首を横に振る。 「道を外れるのは危険だと分かる子です、慣れ親しんだ遺跡で迷うはずもありません」 「しかし」 「夫や兄達が、きっと探し出してくれるはずです」 もう少し村付近の街道沿いに探してみると言う婦人と老爺に別れを告げて、エレナは街道脇の森の小路へ踏み込む。二人の言う通り、小路は白い砂利が敷かれ、歩きやすく整備されている。百歩ごとに樹の矢印看板が置かれている。道を外れない限り、迷いようはない。 矢印に沿って進めば、程なく石の小さな門の前に辿り着いた。野薔薇の意匠の彫り込まれた白い石門は、どれほど古い時代のものなのだろう、ところどころ風化し、触れればざらざらと細かな砂が指にまとわりつく。 触れた指先から、石門の持つ記憶が流れ込む。古い石の記憶はばらばらと砕け散った破片のよう。庭園を歩く古の時代の子ら、庭園を護ろうとする今現在の大人達の大きな掌、門の影でひっそりと泣く乙女、門柱に背中を預けて佇む老人、―― あまりに多い記憶を一度に頭や心に流し込まれそうになる。エレナは火に触れたように石門から指先を離す。小さく息を吐き、華やかな帽子の頭をもたげる。 石門を彩るのは、鮮やかな緑の葉と白い花の野生種の薔薇。石門の上部に刻まれた古代文字は古過ぎることもあり、読み取れない。 森の中にあって、空は大きく開けている。青空の眩しい光が緑の庭園に降り注ぐ。光を受けて、幾本もの巨大な柱が空に伸びる。巨人がでたらめに置いたような柱の群の下を、石造りの水路が縦横に走る。 水路を覗き込む。付近の村の住人の丹精のお陰か、透明な水が流れている。鱗を煌かせ、小魚の群が水路を駆ける。 (あの庭にも、水路があった) 穏かな木漏れ日の揺れる庭園には、大人の足が幾度も行き来した跡がある。子供を捜して回っている婦人の親類達の足跡だろうか。耳を澄ませば、庭園の迷路へと分け入りながら、子供を呼ぶ男達の声が聞こえる。ここに居るのだろう、何処に居る、出ておいで、そんな風な、必死の呼びかけが迷路中に響いている。野薔薇の這う樹に触れ、地面に踏み倒された草花に触れる。歩みを進める毎、指先で何かしらに触れる。 (五歳の時、探偵のライセンスを獲得したお祝いにもらった薔薇園) 触れる指先から、その物の抱く記憶が流れ込んでくる。 大きくて丈夫な動物革の靴が草を踏みつける。お陽さまと大地の力を貰って伸ばした蔦や新芽が、鋭い鎌や鉈で刈られる。人間が大きく見えるのは、樹を這い登る花蔦の記憶。人間が小さく見えるのは、空高く伸びた太い古樹の記憶。 (それから、オールドローズの髪留めも) 視界一面を覆う薔薇蔦の壁の一輪、薄紅を咲かせる薔薇の花弁に、そっと指先で触れる。陽の温もりと同じ暖かさが指先を伝う。 (髪留めを飾ってもらって、薔薇園でお茶をしたっけ) 次々に緑に触れては離れる小さな指先が、ふと止まる。ふかふかの芝生を踏む軽い足取りがぴたりと止まる。小さな広場の真ん中にすくりと立つ、小さな掌に納まるほどの細い若木に、指先だけでなく掌ぜんぶで、触れる。 (……この子) 柔らかな若木を掴む、小さな少年の手の記憶。幼い樹の持つ記憶は幾つもの断片に分かれている。小さな動物のような少年の熱い息。空を見上げて何かを追うような必死の瞳と、掌から伝わる体温と汗。広場から幾つも分かれて続く道のひとつを選び、迷路の奥へと真直ぐ進む足が若木の根を踏んで行く。少年の掌が、樹の肌から離れる。 (きっと、この子) 若木から得た記憶を逃すまいとするかのように、エレナは小さな掌を握り締める。少年が目指した迷路の奥へと、迷いの無い足取りを進める。 (あの髪留めも、薔薇園も、それをくれたお父さまもお母さまも、ぜんぶ) 全て、螺旋に続く世界群のどこかに見失ってしまった。 (みんなきっと、探してる) 薔薇たちの抱く記憶を読む。少年が通った通りの道を辿る。黄昏色の薔薇の隧道を潜り、星散りばめたような色とりどりの薔薇の通路を駆け抜ける。子供を捜す大人の傍をすり抜ける。 (あの世界の探偵さんたちは、あたしが消えた謎を解こうとしてるのかな) 深紅の薔薇を絡ませた垣根の下、子供の高さでなければ眼にとまり辛い位置に、小さな隙間がある。枝が絡み合い、細いトンネルのようになった緑の隙間へ、エレナはひょいと身体を屈めて潜りこむ。 (探偵のあたしが、謎になっちゃった) 木漏れ日がレース模様のように足元を飾る。 世界群の迷子とも言うべきロストナンバーになってしまった今も、エレナの瞳は力強さを失ってはいない。楽しいことを見つけたときのように、たくましく元気にきらきらと輝いている。 やけに長い緑のトンネルのその先、眩しい光が流れ込むトンネルの出口の先は、 「わっ?」 視界がふわり、柔らかな羽で塞がる。 「誰だ?!」 少年の声と共、少女のものらしい小さな掌が目の前に差し出される。疑うこともなくその手を取って、トンネルから引き出してもらう。 「……大丈夫か?」 「大丈夫よ」 少年に答えながら、エレナはスカートの裾を払う。エレナの手を引いた少女がそれを手伝ってくれる。ありがとう、と口にしようとして、エレナは眼を丸くする。 「誰にも言うなよ」 少年が少女を庇うようにエレナの前に立ち塞がる。 少女の背には、白い翼があった。トンネルを出る間際に視界を塞いだのはあの大きな翼なのだろう。 ヴォロスには様々の種族が住む、と異世界博物誌で読んだことがある。 「大人に知られたら、鳥人族なんか連れ去られちまう」 ただでさえ飛べないのに、と少年はエレナをまるで敵のように睨み据える。 「飛べないの?」 「飛ぶ力になる竜刻、この辺に落としたっぽいんだ」 少女が異国の言葉を口にする。 「あちこち、ふたりで探し回ったけど見つからなくて」 周辺の薔薇の茂みも、崩れたままの噴水も、空を高く覆うように絡んで伸びた樹の梢の間も、華奢な柱の東屋の屋根も。一昼夜かけて探しても、見つけられなかったのだと言う。 「あたしも、手伝う!」 無邪気に言うエレナに、少年はちょっと渋るような様子を見せる。それには構わず、エレナは少年の手を取る。少女から距離を開け、少年と向かい合い、 「好きな人を困らせちゃ、だめだよ」 小さな声で、凛と囁く。 「おまえ、何言って……」 少年は顔をしかめる。真直ぐに見詰めてくる青空色の瞳から、眼を逸らす。 「……何で、分かった」 苦しげに呻く少年に、エレナはにこり、どこか大人じみた笑みを向ける。 「直感」 それから、少しのハッタリ。 「これ」 少年は少女に、青空色の竜刻を手渡す。 「ごめんなさい」 謝る少年に首を振り、少女は銀色の細い鎖がつけられた竜刻を自らの手首に巻きつける。翼を広げる。空へ飛び立つために、大きく大きく。 少女を見詰める少年の瞳が寂しく曇る。一緒に居たかったんだ、小さく呟いて眼を伏せる。 エレナはちょっと首を傾げて瞬く。 「ティータイムに、しましょう!」 翼を広げ、今まさに飛び立とうとする鳥人族の少女に、エレナは呼びかける。放り出していた旅行鞄を広げれば、そこには頂き物のたっぷりのお菓子。 「ね?」 少女が不思議そうに瞬く。 少年の寂しげな瞳が僅かに和らぐ。 「準備する!」 元気に頷く。庭園の中を駆け回り、樹の影からテーブルを、薔薇の蔦の下から椅子を、 「こんなのもあった!」 東屋の影から丈夫な籠に入ったままの古い食器を、見つけ出す。古い布に包まれた食器を出して、水路を流れる清水で洗う。 「大事な相棒なの」 エレナが言えば、少年は椅子にびゃっくんを座らせる。反対側に置いた椅子にエレナを座らせ、 「おれとこいつ、給仕係な!」 少年は少女の手を取る。少女はどこかくすぐったげに笑みを零しながら、食器に焼き菓子を並べる。 カップに薔薇の花を入れて、お茶の代わりにする。 テーブルの傍で、少女はぐるりを示し、頭上で満開の薔薇を指差す。少年が難しい顔で首を捻る。少女は焦れたように薔薇を見仰ぐ。少女の持つ不思議の力か、テーブルの上にふわり、満開の薔薇が一輪、蕾が二輪、舞い降りる。何らかの意味を潜ませて落ちた花から、薔薇の甘い香りが広がる。 ふわり、薔薇の香りに紛れて、エレナの耳元を昔聞いた母親の朗らかな声が掠める。 (――薔薇の下で交わしたことは、秘密なのよ) 「ここで出会ったことは秘密、ね」 少女の意図を汲み、エレナは花咲くように笑う。唇に差し指を当てて見せると、少女はその通りとばかりにエレナの真似をする。 「うん、秘密」 「あたしに任せて」 大人たちには上手に説明する、と大きく頷くエレナを、少年は感嘆の眼で見る。 「秘密を守るのも探偵の役目なんだから」 ちょっと悪戯っぽくエレナが笑ってみせれば、少年は大きく頷き、笑う。言葉は分からないまでも、安心したように少女が笑う。 ティーカップの中で、紅茶がちいさな漣をたてる。揺れる紅茶の水面に映るエレナの青空色の瞳が、くすり、笑む。 「秘密」 「秘密、ですか」 エレナはきょとんとする店員に悪戯っぽい笑みを向ける。そうして、向かいに座るびゃっくんに笑いかける。 「ね、びゃっくん」 終
このライターへメールを送る